神聖なエコノミーと神聖な分与

真理

神聖な啓示の中心路線は神から始まります。聖書の最初と最後に啓示されているのは神であり、聖書はほとんどすべてのページにおいて神を啓示しています。神聖な啓示の中では、神が主要な要素です。それから、聖書はわたしたちに神のエコノミーと神の分与を見せています。

神ご自身、神のエコノミー、神の分与は、聖書全体の三つの主要な項目です。この三つの項目は、聖書の中の神聖な啓示の中心路線を構成しています。

神のエコノミー

神のみこころ、定められた御旨、大いなる喜び、熟慮の結果
聖書の中で述べられている最初のことは、神の創造の記録です。創世記第一章一節は、「初めに、神は天と地を創造された」と言います。しかし、実際には、最初のことは、神の創造ではありませんでした。創世記の初めは、時間の初めです。時間には初めがあります。しかし、永遠にはありません。永遠には、初めも終わりもありません。神だけが真に、永遠が何であるかを知っておられます。彼は永遠の神であるからです。ヨハネによる福音書も、「初めに」という言葉を使っています。第一章一節は、「初めに言があった」と言います。ヨハネによる福音書第一章一節の「初めに」は、過去の永遠を指しています。時間の初めに、神は創造しました。しかし、過去の永遠において、言は神と共にあり、言は神でした。

わたしたちは、神が過去の永遠に何をしておられたかを考える必要があります。エペソ人への手紙の第一章と第三章は、時間が始まる前に神が何をしておられたかを見せています。第一章九節から十一節は言います、「みこころの奥義をわたしたちに知らせてくださいました.これは、神がご自身の中で計画された彼の大いなる喜びによるもので、時代の満了時のエコノミー[経綸]へ至るためです.すなわち、キリストの中で、天にあるもの地にあるもの、すべてのものを、彼の中でかしらにつり上げようとされたのです.その方の中で、わたしたちも嗣業として定められ、みこころの熟慮にしたがってすべての事柄を行なう方の定められた御旨により、あらかじめ定められていたのです」。第三章九節から十一節はこう言っています、「それはまた、万物を創造された神の中に、各時代にわたって隠されてきた奥義のエコノミー[経綸]が何であるかを、すべての人を照らして明らかにするためであり、今、天上にある支配たちや権威たちに、神の多種多様な知恵を、召会を通して知らせるためであり、神がわたしたちの主キリスト・イエスの中で立てられた、永遠の定められた御旨にしたがっているものです」。これらの節において、神のみこころ、神の定められた御旨、神の大いなる喜び、神の熟慮、神のエコノミーなど、数多くの非常に重要な言葉が、パウロによって使われています。

神のみこころ
神のみこころは、神の願い、神の渇望、彼が行ないたいことです。神の大いなる喜びは、神のみこころです。第一章五節は、「みこころの大いなる喜び」について語ります。神の大いなる喜びは、彼のみこころに具体化されています。神のみこころは、神の中に奥義として隠されていました。ですから、九節は、「みこころの奥義」について語っています。

神の定められた御旨
神の定められた御旨は、前もって決められた神の意図です。神の大いなる喜びは、神ご自身の中で計画されました(九節後半)。これは、神の大いなる喜びが、神のみこころだけではなく、神の定められた御旨においても具体化されていることを示します。神の定められた御旨は永遠です。それは、時間の始まる前の永遠の過去になされた神の永遠のご計画です。わたしたちは、神の永遠の定められた御旨である、各時代の神の定められた御旨によって、あらかじめ定められていました(一・十一前半三・十一)。

神の大いなる喜び
神の大いなる喜びは、神を喜ばせるもの、神が愛するもの、神を歓喜させるものです。神は、みこころの大いなる喜びにしたがって、わたしたちを子たる身分へと、あらかじめ定めました(一・五)。これは、神が多くの子を持ちたいということです。神がわたしたちを神の子とすることは、ご自身の大いなる喜びです。

神の熟慮
神の熟慮は、神聖な三一の会議において決定した神の決断です。会議には、複数の人が必要です。もし神が一人だけであるなら、どうして彼は会議をすることができたでしょうか? どうして彼は集会で議論し、決断をすることができたでしょうか? これは、神が一であるだけでなく三でもあることを示します。彼は神聖な三一です。

使徒行伝第二章二三節は、キリストが神の定められた決議と予知によって引き渡され、十字架に釘づけられたと言っています。これは、過去の永遠において、三一の神が集会をしたことを示しています。神格の三の間で、会議がありました。定められた計画は、この世の基が置かれる前から、三一によって開かれた会議において決定されました(Ⅰペテロ一・二〇啓十三・八)。それは、主の十字架が人類の歴史の中で偶然に起こったことではなく、三一の神によって決定された神聖な会議の意図的な成就であったことを示します。わたしたちは、キリストが単にピラトの裁きによってのみ十字架につけられ、殺され、断たれたと思ってはなりません。彼が断たれることは、永遠において、三一によって開かれた会議において決定されました。

神は、ご自身の大いなる喜びにしたがって、みこころと定められた御旨を持ちました。それから、神聖な三一ご自身は、一つの会議、集会を行なって、ある決定、決議を下しました。この決議が三一の神の熟慮です。創世記第一章二六節で、神は「われわれのかたちに、われわれの姿にしたがって、人を造ろう」と言いました。この事は、主イエスが十字架につけられたことだけではなく、人が神のかたちにしたがって創造されたことも、神聖な神格の三者の間で開かれた会議によって決定されたことを示しています。

神のエコノミーは、神の家庭の行政、神のご計画と案配である
神のみこころ、定められた御旨、大いなる喜び、熟慮の後に、神のエコノミーがあります。「エコノミー」(エペソ一・十)の原文は、家庭の律法、家庭の行政です。神のエコノミーは、神の家庭の行政です。行政には計画が必要です。計画には案配が必要です。神のみこころに基づいて、神は定められた御旨を定めました。神のみこころと定められた御旨の中には、彼の大いなる喜びがあります。それから、神聖な三一はある決定をするために会議をしました。それは神聖な熟慮です。その熟慮に基づいて、神は案配のあるご計画を立てました。この案配のある計画は、彼の家庭の行政、彼のエコノミーです。

神のエコノミーの目的
神のエコノミーの目的は、ご自身を選びの民の中に分与し、ご自身を彼らと一にすることです。聖書は、神が選びの民の内側に住むこと、そして神ご自身が完全に彼らと一になることを願っておられることを啓示しています。

神のエコノミーの目的は、手順を経た三一の神を表現するキリストのからだ、召会を構成するために、神によって選ばれた信者たちに、キリストと彼の豊富を分与することです(エペソ三・八―十)。

最後に、神のエコノミーの目的は、キリストの中ですべてのものをかしらにつり上げることです(一・十)。この事は、将来キリストの中で宇宙のすべてのものをかしらにつり上げるということです。今日、宇宙全体は混乱しています。しかし、新天新地が来る時、すべてはキリストの中で、彼の頭首権の下で、かしらにつり上げられます。召会の中で、キリストはわたしたちをかしらにつり上げています。それは、最終的には、すべてのものが、新天新地において、キリストの中でかしらにつり上げられるようになるためです。

神の分与
聖書全体において、エペソ人への手紙のように神の分与を啓示している書はほかにありません。エペソ人への手紙には、「分与」という言葉は使われていませんが、分与の事実がそこにあります。

「分与」とは単なる分配ではありません。「分与」というこの言葉は、食べ物を食べ、消化して、わたしたちの存在に同化されるという意味です。分与という意味は、わたしたちが取り入れるものが同化され、わたしたちになるということです。もしわたしたちが食べた物の要素がわたしたちに吸収されるなら、それはわたしたちになります。

神のエコノミーの究極的完成
神聖な分与は、神聖なエコノミーの究極的完成です。言い換えると、神のエコノミーは、分与を通して完成します。エペソ人への手紙第三章八節から九節で、パウロは言いました、「すべての聖徒のうちで最も小さい者よりも小さいわたしに、この恵みが与えられたのは、キリストの計り知れない豊富を、異邦人に福音として宣べ伝えるためであり、それはまた、万物を創造された神の中に、各時代にわたって隠されてきた奥義のエコノミー[経綸]が何であるかを、すべての人を照らして明らかにするためであり」。この二つの節は、神の分与を啓示します。パウロは、キリストの計り知れない豊富を福音として宣べ伝えるように恵みを受けました。「宣べ伝える」という言葉は、分配することを意味します。パウロは、神のエコノミーにしたがって信者にキリストの豊富を分配しました。これは、神のエコノミーを完成するパウロの使徒職です。

神聖な三一を通して究極的に完成される
神聖なエコノミーの神聖な分与は、神聖な三一を通して究極的に完成されます。わたしたちは神聖な三一を単なる神学上の教理として考えてはなりません。神聖な三一は、教理のためではなく、わたしたちの享受のためです。コリント人への第二の手紙第十三章十四節が、このことの説明です。「主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、あなたがた一同と共にありますように」。神とキリストと聖霊の神聖な三一が、ここで愛と恵みと交わりと共に啓示されています。この啓示は、わたしたちが三一の神を経験し享受するためです。

神聖な三一はわたしたちの経験のためです。しかし、もし神聖な三一がわたしたちに分与されることができなければ、どうしてわたしたちは彼を経験することができるでしょうか? 食べ物はわたしたちの享受のためです。しかし、もしわたしたちが、食べ物を食べることができず、消化して、体の中で同化することができないなら、どうしてわたしたちはそれを享受することができるでしょうか? 食べ物は、わたしたちがそれを享受することができるように、体に分与されなければなりません。十四節は、一種の分与を示します。愛としての父なる神は、恵みとしての子なる神に具体化されています。恵みは、その霊の交わりを通してわたしたちの中に分与されます。聖霊の交わりは、まさに三一の神の存在と、その持っているものの流れ、分与です。三一の神は愛と恵みです。そして、恵みと愛は流れになります。この流れは交わりです。交わりは、経験と享受のために、わたしたちの存在の中に三一の神が分与されることです。

父なる神の選びと
あらかじめ定めることを通しての分与
神聖な性質は、父なる神の選びを通してキリストを信じる者に分与されます。そして、神聖な命は、父なる神のあらかじめ定めることを通して分与されます(エペソ一・四―五)。エペソ人への手紙第一章四節は、父なる神が「御前に聖く傷のない者になるようにと……キリストの中でわたしたちを選び」と言っています。彼は、聖別するためにわたしたちを選びました。聖い者となることは、分与の事柄です。わたしたちの存在に神の神聖な性質が分与されなければ、わたしたちには聖別されるための要素がありません。本来、わたしたちは泥のかたまりのようなものです。金の要素がわたしたちと混ぜ合わされない限り、どうしてわたしたちは金になることができるでしょうか? 全宇宙で神ご自身以外に聖いものはありません。神の神聖な聖い要素がわたしたち土くれの人の中に分与されるとき、わたしたちは聖くなります。聖くなるためには、聖別する要素をわたしたちの存在に分与してもらう必要があります。

五節で、神は「わたしたちを子たる身分へと、彼ご自身へあらかじめ定められました」と言っています。あらかじめ定めるとは、前もって選んでおくことです。それは、あなたがスーパーに桃を買いに行くとき、欲しい桃をあらかじめ選んで定めておくようなものです。わたしたちは、子たる身分を受けるように、神によって選ばれ、選抜されました。子たる身分は分与の問題です。神聖な要素としての神の命がわたしたちの中に分与されなければ、どうしてわたしたちは神の子となることができるでしょうか? 神の子として誕生するためには、神の神聖な要素が命としてわたしたちの中に分与されなければなりません。四節と五節は、わたしたちが聖なる者とされ、神の真の子となるために、神の聖なる性質と命がわたしたちの存在に分与されなければならないことを強く示しています。

子なる神の贖いを通しての分与
神聖な要素は、キリストを信じる者を神の卓越した嗣業にします。その要素は子なる神の贖いを通して信者の中に分与され、時代の満了時の神のエコノミー、すなわち、キリストの中ですべてのものをかしらにつり上げるに至ります(一・七―十)。子なる神であるキリストは、わたしたちを贖いました。それは、わたしたちは以前失われていたことを意味します。救われる前、わたしたちは少なくとも四種類のもの、すなわち罪、自己、サタンとこの世に落ち込んでいました。キリストは、これらの消極的なものから、贖いの死を通して、わたしたちを彼ご自身に贖いました。わたしたちは、罪、自己、サタンとこの世の中にいました。しかし今、わたしたちはキリストの中にいます!

「キリストの中で」という言葉は、範囲、領域と要素を意味します。わたしたちはアダムの中にいました。アダムはわたしたちの領域でした。アダムの中で、わたしたちは堕落しました。しかし今、わたしたちはキリストの中に贖われました。キリストは、わたしたちの範囲と領域になりました。キリストは、また要素でもあります。彼の要素は、神聖な要素、神聖な実質です。キリストの中にあることは、神聖な要素の中にあるということです。毎日、わたしたちの要素になることができるように、キリストご自身がわたしたちの中に造り込まれつつあります。わたしたちに要素としてのキリストがなければ、どうしてわたしたちはクリスチャンと呼ばれることができるでしょうか? わたしたちに要素としてのキリストがあるからこそ、わたしたちはクリスチャンなのです。杯が金であるのは、それが金の要素を持っているからです。杯が金の要素を持っていなければ、それは金の杯と呼ばれることはできません。

今日、わたしたちはキリストの中にいます。彼はわたしたちの要素です。この要素は、わたしたちを卓越した宝にして、神の嗣業としました(十一節)。わたしたちは、自分自身の中では土くれであって、神が受け継ぐに値しないものです。神が受け継ぎたいものは、卓越したものです。キリストがわたしたちの要素になったので、この要素はわたしたちを卓越させます。したがって、わたしたちは神の嗣業として、神に受け継がれます。そのような嗣業であるためには、キリストご自身である神聖な要素が、わたしたちの中に分与されなければなりません。

霊なる神が証印を押し、担保を入れることを通しての分与
十三節から十四節は言います、「あなたがたは……彼の中で信じ、彼の中であなたがたはまた約束の聖霊で証印を押されました.この聖霊は、わたしたちの嗣業の担保であって、獲得された所有の民の贖いをもたらし」。御父の性質が、わたしたちの中に分与されました。キリストの要素も、わたしたちの中に注入されました。神聖な本質は、キリストを信じる者に手順を経た三一の神を享受させますが、その本質は霊なる神が証印を押し、担保を入れることを通して信者の中に分与されつつあります。この証印を押すことと担保を入れることは、とても主観的です。

証印としてのその霊は、三一の神の究極的完成です。この証印は、神聖なインクで満ちた証印です。証印としてのその霊は、また証印を押す本質としてのインク、神聖なインクです。証印には、御父の性質、御子の要素、その霊の本質があります。性質は要素の中にあります。要素は本質の中にあります。そして、わたしたちはこの本質の証印を押されました。

わたしたちがその霊で最初に証印を押された時から、この証印はわたしたちを浸透しています。証印が紙に押される時、証印のインクは紙に広がって、紙を浸透します。その浸透は、一種の分与です。同じように、わたしたちは聖霊で証印を押されました。わたしたちは聖霊の証印の分与を受けました。その分与は、御父の性質、御子の要素、その霊の本質を含んでいます。

有機的なキリストのからだを構成する
エペソ人への手紙第一章は、神の分与の真理で満ちています。四節から五節では、神の性質は、神の命と共にわたしたちの中に分与されます。七節から十一節では、キリストの要素が、神の贖いを通してわたしたちの中に分与されました。十三節から十四節では、その霊の本質が、わたしたちの存在の中に押されました。十五節から十八節で、パウロは啓示に関して召会のために祈っています。それから、十九節からこの章の終わりまで、パウロは、キリストの中で働いた力は、今、信者に対して働いていると語ります。この力は、三一の神(その霊としての御子にある父なる神)のエキスです。神聖な三一は、そのような力になりました。ちょうど電気が家に設置された電力であるように、三一の神はわたしたちの存在に設置された力です。

この力は、キリストを死人の中から復活させ、彼を天上でご自身の右に座らせ、万物を彼の足の下に服従させ、そして彼を万物の上にかしらとして召会に与えました(二〇―二二節)。「召会に」という言葉は、伝達を意味します。キリストの上で、キリストと共に、キリストの中で起こったすべてのことは、召会に伝達されるためです。したがって、召会は神聖な三一の注入の大いなる結果です。キリストのからだである召会は、三一の神の注入の結果です。わたしたちは、キリストのからだは神聖な三一のエキスであるとさえ言います。

この事がエペソ人への手紙第一章で啓示されている、神聖なエコノミーの神聖な分与です。この神聖な分与の結果は、手順を経た三一の神の存在、彼の持っているもの、達成したものすべてによって、キリストの有機的なからだ、手順を経た三一の神の流れ出である召会を構成します。そして、それは神に栄光を得させて、神を完全に表現するようになります。この表現は神聖なエコノミーの究極的完成である新エルサレムにおいて究極的に完成します。(十九―二三十二十四啓二一・一―三十―十一)。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第6期第4巻より引用

タイトルとURLをコピーしました