多くのクリスチャンの観念によれば、神の恵みはおもに物質的な祝福の事柄です。しかし、新約がわたしたちに示しているのは、恵みが手順を経た三一の神であって、彼はわたしたちの中へと入り、わたしたちの命、わたしたちのすべて、わたしたちの享受となっているということです。新約の意義において、この恵みは、神が肉体と成ることをもって開始しました。こういうわけで、新約は、主イエスがマリアの胎の中へと入ったこと、すなわち、神がマリアに臨まれたことが、恵みの祝福であったと言っています(ルカ一・二八、三〇)。新約全体は、恵み(神)が信者たちの中で、また信者たちの間で行動し生きることの歴史です。わたしたちは、新約における恵みの内在的な意義を正しく理解する必要があります。そうすれば、わたしたちは神の恵みを十分に享受して、神のエコノミーを完成することができます。
恵みは神の御子キリストを通して来た
ヨハネによる福音書第一章一節と十四節によれば、初めに神と共にあり、神であった言が肉体と成って、わたしたちの間に幕屋を張られ、恵みと実際に満ちていました。十六節は言います、「わたしたちはみな、彼の豊満から、恵みの上にさらに恵みを受けた」。十七節は、恵みがイエス・キリストを通して来たとわたしたちに告げています。神の御子イエス・キリストが肉体と成る前、恵みは来ていませんでした。恵みは主イエスを通して来たのですから、恵みは旧約ではまだ存在しませんでした。その時に先だって、律法がモーセを通して与えられました。恵みの約束は、アブラハムになされました。まず、神は恵みの約束をアブラハムに与えられました。それから、四百三十年後に、律法がモーセを通してシナイ山で与えられました。およそ千五百年を経過して、恵みがイエス・キリストを通して、肉体と成った神の御子を通して来ました。
恵みはわたしたちの中で生きている神の御子である
多くのクリスチャンの観念によれば、神の恵みはおもに物質的な祝福の事柄です。一年の終わりに、何人かのクリスチャンが共に集まって、その年に神が与えられた祝福を数え、これらの祝福を与えてくださった彼の偉大な恵みに対して感謝します。次に彼らは進んで、大きな家や新しい衣服などのために、主に感謝します。そのような恵みの観念はあまりに貧弱です! 使徒パウロは、そのようなものは恵みとしてではなく、ちりあくたと勘定したでしょう。
ヨハネによる福音書第一章十七節によれば、恵みは律法よりも偉大です。確かに神ご自身は律法よりも高いです。しかしながら、もし神がわたしたちにとって客観的なままであるなら、わたしたちの経験において、彼は律法より偉大ではないでしょう。わたしたちにとって律法よりも偉大であるために、三一の神は主観的でなければなりません。ですから、新約において、恵みは、手順を経て、わたしたちのすべてとなり、わたしたちの中で生きられる三一の神を意味します。何ものも、手順を経た、すべてを含む、命を与える霊が、わたしたちの中で生きてくださることにまさることはできません。
ガラテヤ人への手紙第二章二〇節でパウロは、キリストと共に十字架につけられたこと、キリストは彼の中に生きておられることについて言っています。次に二一節で彼は続けて、「わたしは神の恵みを無にしません」と言っています。これは、神の恵みが、わたしたちの中に生きておられる神の御子であることを示しています。確かに、これは律法よりはるかに偉大です。神の御子が肉体と成ったのは、地上で生き、十字架につけられ、復活させられ、天に昇るためだけではありません。彼はまた、わたしたちの中で生きるために来られたのです。これが恵みです。神の恵みを無にすることは、わたしたちの経験の中でキリストを生きさせないようにすることです。律法に戻ることは、この恵みを拒絶することです。それは、今わたしたちの中に生きておられる神の御子ご自身を拒絶することです。これが神の恵みを無にすることです。しかしながら、キリストの中にとどまって、彼をわたしたちのすべてとして享受しているなら、わたしたちは神の恵みを無にしていないのです。
パウロのすべての書簡は、恵みという言葉で始まり、終わります。これは啓示録についてもそうです。啓示録第一章四節から五節でヨハネはアジアにある七つの召会に対して、「恵み……があなたがたにあるように」と書いています。また第二二章二一節で、彼は、「主イエスの恵みが、すべての聖徒たちと共にあるように」という言葉で結んでいます。パウロはガラテヤ人への手紙を、「兄弟たちよ、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にありますように」と言って結んでいます(六・十八)。もし恵みが物質的な祝福の事柄であるなら、どうして恵みがわたしたちの霊と共にあることができるでしょう? 恵みは物理的、あるいは物質的ではありません。それは神聖で霊的です。実は、恵みは、神ご自身が主観的に、わたしたちの享受のためにすべてのものとなられることです。
わたしたちは恵みについてのこの定義を知る必要があります。恵みは、肉体と成ること、人の生活、十字架、復活、昇天を経過して、わたしたちのすべてとなった三一にある神です。そのような長い手順を経過した後、三一の神はわたしたちのすべてとなられました。彼はわたしたちの贖い、救い、命、聖別です。手順を経てすべてを含む、命を与える霊と成られた三一の神ご自身が、わたしたちの恵みです。わたしたちはこの恵みの定義についてはっきりとしている必要があります。
恵みがわたしたちのために行なうこと
新約聖書にしたがって、この恵みがわたしたちのために何をされたか、また何をしようとしているのかを考えましょう。人は神を表現し、神を代行するようにと、神のかたちと姿に創造されましたが、人は堕落してしまいました。堕落において、人は外側で間違ったことを行なっただけでなく、罪の性質が人の中に注入されました。ですから、わたしたちは外側で罪深く、内側では邪悪です。義なる神の御前で、わたしたちの行為は罪深く、また聖なる神の目に、わたしたちの性質は邪悪です。さらに、わたしたちの状態について、わたしたちは何も行なうことはできません。堕落した人が律法に行って、それを守ろうと努力するのは全く愚かなことです。たとえ、律法を守ることができたとしても、わたしたちの邪悪な性質についてはどうするのでしょう?
第一に、三一の神は肉体と成って地上で生き、神の義なる、また聖なる律法の要求を満たされました。彼は律法の要求を満たして、十字架に行き、わたしたちの身代わりとして、わたしたちの罪のために死なれました。キリストは彼の死を通して、わたしたちを贖われました。ですから、贖いは、神の恵みがわたしたちのために達成したことの第一の項目です。
それから、キリストは彼の死を通して贖いを達成した後、死人の中から復活させられて、彼の内側から神聖な命を解き放たれました。彼は復活の中で命を与える霊と成って、彼を評価し、愛し、信じ、呼び求め、悔い改める人たちに受け入れられました。罪人がこのようにして彼に応答するとすぐ、彼は命を与える霊としてその人の中に入られ、再生を通して彼の中で生まれます。この事は、神の恵みがわたしたちのために成し遂げたことの第二の項目です。
第三に、わたしたちの再生の時から、キリストはわたしたちの霊の中に住んで、わたしたちの中で、わたしたちと共に生きてこられました。わたしたちの中で生きることによって、キリストは神を満足させる生活をわたしたちに持たせられます。キリストは彼の恵みの中で、わたしたちの中で、わたしたちと共に生きられます。
第四に、キリストはわたしたちの内側で生きる時、彼のすべての豊富をわたしたちの中に供給して、わたしたちを聖別し、造り変え、実際と実行において神の子たちとならせます。このようにして、わたしたちは全き子たる身分を享受します。
第五に、定められた時に、キリストは再来して、わたしたちの物質の体を彼の要素で浸透されます。これは、わたしたちの体を栄光の体、キリストの復活の体と同じにします。確かにこれは神の恵みの別の面です。わたしたちに浸透することによって、キリストはわたしたちを栄光化され、またわたしたちの中で栄光を現されるでしょう。彼はわたしたちすべてを彼の栄光の中にもたらし、その中でわたしたちは霊、魂、体において、彼と全く同じになるでしょう。最後に、永遠において、また永遠にわたって、わたしたちはキリストを生ける水として、また命の木として享受するでしょう。
神の恵みがわたしたちにとって何であるかの記述は、マタイによる福音書の初めから啓示録の終わりまでの、新約聖書全体を包括しています。三一の神(父、子、霊)は、肉体と成ること、人の生活、十字架、復活、昇天の手順を経て、わたしたちの中に入り、わたしたちと一になり、わたしたちのすべてとなられました。今や彼はわたしたちの贖い、救い、命、生活、聖別、造り変えです。そして彼はわたしたちの同形化、栄光化、わたしたちの永遠のすべての享受となられるでしょう。これが光の中の聖徒たちの分け前です(コロサイ一・十二)。わたしたちは、神の恵みと、その恵みがわたしたちに対して行なったことについて、たしかに神を賛美すべきです!
新約の中の恵みを享受する
わたしたちはこの事を見ることができれば、この恵みをどれほど享受することができるかがはっきりとします。わたしたちは神の恵みを完全に、一日で、あるいは一生かかってさえ、享受することはできません。わたしたちがこの恵みの全き享受を得るには永遠を要します。これは主イエスが来られた時に来た恵みであり、これはわたしたちが日ごとに必要とする恵みです。これは、わたしたちが日ごとに恵みの御座に近づくことによって見いだす恵みであり、時機にかなったわたしたちの必要に応じます。毎朝、わたしたちは主を仰ぎ見て祈るべきです、「主よ、あなたの恵みを今日も与えてください。あなたの恵みの今日の分を必要とします。恵みがわたしと共に、わたしのすべての兄弟姉妹と共にありますように」。ああ、わたしたちはみな、このように祈る必要があります! そうすれば、わたしたちは恵みを経験するでしょう。その恵みは、わたしたちの享受のために、手順を経て、すべてを含む、命を与える霊と成られた三一の神です。
ガラテヤ人への手紙第二章二一節でパウロは言います、「もし義が律法を通して得られるのであれば、キリストは無駄に死んだことになるからです」。無駄に死んだとは、理由もなく死ぬことです。キリストがわたしたちのために死なれたのは、わたしたちが彼の中で義を持つためであり、その義を通して、わたしたちは神聖な命を受けます(ローマ五・十八、二一)。この義は律法を通してあるのではなく、キリストの死を通してあります。もし義が律法を通してあるとすれば、キリストは理由もなく、無駄に死んだことになります。しかし義はキリストの死を通してあります。そしてキリストの死は、わたしたちを律法から分離しました。今や、わたしたちは、「あふれるばかりの恵みとあふれるばかりの義の賜物を受ける者たちは、さらにいっそう一人の方、イエス・キリストを通して、命の中で王として支配します」(十七節)。恵みは、わたしたちが命の中で王として支配することができるようにします。
キリストが命を与える霊を通して、神聖な命をわたしたちの中に分け与えられたことは、神の恵みです。この霊によって生きないのは、神の恵みを無にすることです。神の恵みを無にするとは、すべてを含む、命を与える霊と成った、手順を経た三一の神を拒絶することです。ユダヤ教宣教者たちはガラテヤの信者たちを、律法に戻らせたかったのです。律法に戻ることは、神の恵みを無にすることです。それは、手順を経た三一の神を否定し、拒絶することです。さらに、それは、そのような手順を経た神を経験し享受し損なうことです。律法に戻ることによって神の恵みを無にするとは、極めて重大なことであるのを見ることができます。
新約の恵みの中に立つ
ユダヤ教宣教者たちは、盲目のゆえに愚かでした。もし神の恵みが何であるかを見ていたなら、彼らはユダヤ教宣教者ではなかったでしょう。しかし彼らは盲目であったので、民をねたんでキリストからそらせようとしたのです。彼らは、神の選びの民が律法を守ることは神のエコノミーではないことを、認識していませんでした。神のエコノミーは、彼の民が、手順を経て、肉体と成ること、人の生活、十字架、復活、昇天を通して命を与える霊と成られた三一の神を享受することです。神は彼のエコノミーの中で、彼の民がそのような三一の神としての彼ご自身を享受し、彼と一となることを意図しておられます。その時、神の民は神聖な命の中で一となって、神を団体的に表現するでしょう。三一の神のこの団体的な表現は召会生活です。この究極的な結果は新エルサレム、永遠における三一の神の団体的な表現であるでしょう。神のエコノミーのこのビジョンを見るなら、どうしてわたしたちは律法に戻ることができるでしょう? どうしてわたしたちは、手順を経てわたしたちの恵みとなられた三一の神から離れ去ることができるでしょうか? パウロが、ガラテヤ人は愚かであると言ったのも不思議ではありません。彼らは愚かさによって、神の恵みを無にしていました。
わたしたちが神の恵みを無にしない者であろうとするなら、キリストの中に住む必要があります(ヨハネ十五・四―五)。キリストの中に住むとは、手順を経た三一の神の中にとどまることです。さらに、わたしたちはキリストを、特に彼を食べることによって享受する必要があります(六・五七後半)。次にわたしたちは、さらに進んでキリストと一つ霊であり(Ⅰコリント六・十七)、その霊によって歩き(ガラテヤ五・十六、二五)、天然の「わたし」を否み(二・二〇)、肉を放棄すべきです(五・二四)。わたしたちは、律法、割礼、安息日、食事の規定のようなものによって、そらされてはなりません。むしろ、わたしたちは一つ霊の中でキリストを享受し、彼と共に生きるべきです。霊によって歩き、天然の「わたし」を否み、肉を放棄するなら、わたしたちは神の恵みを無にしない者となるでしょう。ローマ人への手紙第五章二節でパウロは、わたしたちが「いま立っているこの恵みの中へ信仰によって入る」と言っています。わたしたちは、新約の中の神の恵みをはっきりと認識して、それを見るだけではなく、神の恵みを絶えず享受し、経験することによって、この恵みの中へ信仰によって入って、その中でしっかりと立つことができるのです。
新約の中の恵みの究極的な完成
ローマ人への手紙第五章二一節は、恵みは王として支配し、この恵みは神であると言います。今、この恵みはわたしたちにとってすべてである神ご自身です。すべての天的で、霊的で、神聖な深い事柄は、神ご自身です。恵みは人格化された神です。新約はそのような人格化されたパースンの歴史です。このパースンは三一の神であり、手順を経て究極的に完成された三一の神です。今日、彼は「生の」神でなく、「調理された」神です。「手順を経て究極的に完成された」とは、料理されたことを意味します。もし神が「生の」神として元来の状態にとどまっておられたなら、どうして神がわたしたちにとってすべてであり得るでしょうか? しかし新約において、神はわたしたちにとって何百という項目です。なぜなら彼は手順を経られたからです。もし神が肉体と成らず、人の生活、すべてを含む死、すべてに卓越した復活を経過していないなら、神は決してわたしたちのために何もすることができず、わたしたちに何も与えることができず、わたしたちの何かであることができませんでした。しかし今日、神は手順を経て究極的に完成されたので、彼はわたしたちのためにすべての事を行ない、わたしたちにすべてのものを与え、わたしたちにとってすべてとなることができます。今や神は恵みとなって王として支配しています。この恵みが王として支配することは、人が永遠の命を得るためです。コリント人への第二の手紙第十三章十四節は言います、「主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、あなたがた一同と共にありますように」。これは手順を経て究極的に完成された三一の神が信者の中に構成されて、神性と人性の構成となることです。この構成の究極的完成が新エルサレムです。神としての恵みは新エルサレムで王として支配するので、新エルサレムは、恵みとしての神が王として支配することの究極的完成です。
記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第6期第4巻より引用