背信を拒絶し、信仰の上に自らを建て上げる

真理

申命記第十三章で、モーセは背信の事柄において厳格でした。モーセはこれらの事柄に来たとき、もはや一般的ではなく、とても確定的でした。新約の使徒たちのように、わたしたちはこの二つの極めて重要な事柄について、モーセから学ぶ必要があります。わたしたちはまた分裂と背信について、とても厳格でなければなりません。これが意味するのは、キリストのパースンと贖いの働きにおける唯一の信仰を守らなければならないということです。

モーセは背信の事柄に対して
イスラエルの民に命じる
申命記第十三章には、背信に関する明確な言葉があります。旧約の中で、背信は神を捨て、神から離れ去り、偶像に向きを変えることを意味します。新約で、背信はキリストの神性を否定することを示し、キリストが肉体と成り、人に成られた神であるのを信じないことを指しています。背信に対する新約の用語は「異端」です。

言葉でエホバなる神に逆らう者
申命記第十三章一節と二節でモーセは、預言者あるいは夢見る者が起こって、しるしや不思議を与え、彼が語ったそのしるしや不思議が実現して、「あなたが知らなかった他の神々に従って行き、これに仕えよう」と言うことについて語りました。モーセが続けて民に告げたのは、その預言者や夢見る者の言葉に聞き従わないように、「エホバ・あなたがたの神は、あなたがたを試みておられるからである.それは、あなたがたが心を尽くし、魂を尽くして、エホバ・あなたがたの神を愛するかどうかを知るためである」(三節)。四節でモーセは続けました、「あなたがたは、エホバ・あなたがたの神に従い、彼を畏れ、彼の戒めを守り、彼の御声に聞き従い、彼に仕え、彼にしっかり結びつかなければならない」。

ひそかに人をそそのかして、
他の神々に仕えさせる
六節から十一節でモーセは、兄弟、息子、娘、妻、友人が、ひそかにイスラエルの子たちをそそのかして、彼らも、彼らの父祖たちも知らなかった他の神々に仕えさせることに対して、何を行なうかについて語りました。彼らはそのような者に屈服したり、聞き従ったりしてはならず、彼らの目は彼をあわれんではならず、彼に寛容であったり、彼をかくまったりしてはなりませんでした(八節)。そうではなく、モーセは言いました、「彼を殺さなければならない.彼を死に渡すには、まずあなたが手を下し、その後すべての民が手を下さなければならない。あなたは彼を石で石打ちにして死なせなければならない.あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出されたエホバ・あなたの神から、彼はあなたを強いて離れさせようとしたからである」(九―十節)。

人を強要し、他の神々に仕えさせる者たち
十二節から十八節でモーセは民に言いました。もし彼らの町の一つで、「下劣な者たちが」彼らの中から出て来て、「彼らの町の住民に強要し、『行って他の神々に仕えよう』と言う……(それは、あなたがたが知らなかったものである)」のを聞くなら、何を行なうかを告げました。そのような場合、イスラエルの子たちは調べ、注意深く探り、徹底的に問いたださなければなりませんでした。もしそのことが本当で確かであり、その忌むべきことが彼らの中で行なわれたなら、彼らは必ずその町の住民を剣の刃で殺し、その町と、そこにいるすべての者と、その家畜を、徹底的に滅ぼさなければなりませんでした。このように彼らがエホバ・彼らの神の目に正しいことを行なうとき、彼は燃える怒りを収め、彼らに優しさを示し、彼らに対してあわれみ深くあり、彼らの父祖たちに誓われたように、彼らを増し加えてくださいます。

ここで見ることができますが、神は、イスラエルの子たちに、兄弟、息子、娘、妻のようなとても近い者たちにおいてさえ、反逆(あるいは背信)を容認することは許されませんでした(十三・六―九)。彼らは背信者を愛してはならず、彼らを厳しく対処しなければなりませんでした。神が背信を容認されないように、彼らも同じようにそれを容認すべきではありませんでした。旧約で背信者は、神から離れて偶像に従いました。それは神に対する冒とくであり、神はそれを容認することができませんでした。新約で異端者は、イエス・キリストが肉体と成って人に成られた神であることを否定しました。そのような否定は異端であり、新約の背信です。この異端はキリストのパースンを破壊します。旧約と新約の両方で、神は背信や異端を容認されません

新約は厳しく異端を対処し、
また信者を遠ざける
神の存在は奥義であり、神が肉体と成ってイエスという名の人に成られることはさらに大きな奥義でさえあります。こういうわけで、神が人に成られたことを人々が信じることは、神がおられることを信じることよりも難しいのです。いわゆる近代主義者と呼ばれるクリスチャンは、イエス・キリストが神であることを信じません。そうではなく、彼らは、主イエスは単に人にすぎず、教師であり、殉教者として死んだのは、贖いを完成するためではなかったと信じます。彼らは、イエス・キリストが肉体において来られたことを認めません(Ⅰヨハネ四・二―三)。キリストに関する彼らの信仰は異端です。彼らはイエス・キリストが神全体と完全な人の両方であることを否定し、また彼の死によって贖いを成し遂げられたことも否定し、背信の道を取りました。

新約は、分裂と、キリストが肉体と成って人に成られた神であるという教えを否定することを、とても厳しく対処しています。ですからヨハネの第二の手紙では忠信な聖徒たちに警告しています、「もしあなたがたの所に来る人が、この教えを持って来ないなら、彼を家に迎え入れてはいけません.彼に『喜びなさい!』と言ってもいけません。彼に『喜びなさい』と言う者は、彼の邪悪な働きに加わることになるからです」(十―十一節)。使徒ヨハネがここで言及している教えは、神が肉体と成ることを通して人に成られたという教えです。彼は彼の福音書ではっきりと言っています、「初めに言があった.言は神と共にあった.言は神であった。……そして言は肉体と成って、わたしたちの間に幕屋を張られた.それは恵みと実際に満ちていた」(ヨハネ一・一十四)。

ヨハネの書いた福音書や、手紙は、キリストのパースンが強調されています。すなわちキリストが神であり、また人であること、神格と人格を持ち、神性と人性の両方を持っておられることです。それは人の生活の中で神を表現するためであり、また人の肉体の中で、神聖な力を用いて、堕落した人類の贖いを成し遂げるためであり、キリストが神聖な命を彼らの中へと分与し、彼らを神との有機的な結合へともたらすことができるためです。肉体となる過程を通して、神は御子の中で、御父と共に(Ⅰヨハネ二・二三)、わたしたちの中へと分与され、わたしたちの享受と実際となられます(ヨハネ一・十四)。わたしたちは肉体と成られた神の中で、彼の贖いの中の御子を持ち、また彼の命の中の御父を持ちます。わたしたちは贖われ、再生され、有機的に神と一となり、わたしたちは救いと命の中で神と神を享受することにあずかります。

ですから神が肉体と成ったことを否定することは、このような神聖な享受を捨て去ることです。神が肉体と成ったという真理にとどまることは、永遠の救いと神聖な命の中において、わたしたちの受けるべき祝福である、その父でもあり、また子でもある神を持つということです。ヨハネはわたしたちに、イエス・キリストが肉体と成って人に成られた神であるという教えを持って来ない者たちを、わたしたちは受け入れないだけでなく、あいさつさえするべきでないと告げています。わたしたちはこの教えを持って来ない者たちと話をするのではなく、彼らから遠ざかるべきです。

信者は信仰のために戦う必要がある
新約は、わたしたちが異端から遠ざかるだけでなく、信者は信仰のために戦い、信仰の上で自らを建て上げる必要があると言います(ユダ三二〇)。ユダの手紙三節は言います、「愛する者たちよ、わたしは勤勉の限りを尽くして、わたしたちの共通の救いについて、あなたがたに手紙を書き送ろうとしていた時、聖徒たちに一度限り伝えられたその信仰のために力を尽くして戦うようにと、手紙を書いて勧める必要を感じました」。あるクリスチャンは、その信仰のための戦いについてのユダの言葉を誤用しています。その信仰のために戦うとは、バプテスマや足洗いのような事柄のために戦うことを意味すると彼らは思っています。ある人たちは頭のおおいに関して、あるいは主の食卓に用いられるパンの種類について議論します。しかしながら、三節のその信仰とは、そのような事柄を指しているのではありません。その信仰は、わたしたちの信仰としての新約の内容を指しています(使徒六・七Ⅰテモテ一・十九三・九四・一五・八六・十二一Ⅱテモテ二・十八三・八四・七テトス一・十三)。この信仰(どんな教理でもない)は、聖徒たちに一度限り伝えられました。この信仰のために、わたしたちは戦うべきです(Ⅰテモテ六・十二)。

ユダの手紙三節が言っている信仰とは、神の新約の中でわたしたちに与えられた遺言の内容と等しいです。信仰のために戦うとは、神の新しい遺言の基本的で重要な事柄のために戦うことです。これらの基本的な事柄の一つは、わたしたちの贖いのためのキリストの死です。仮に、ある近代主義者が、イエスは贖いのために十字架上で死なれたのではなく、彼は殉教者で、彼の教えのために自分を犠牲にしたと告げるとします。キリストの死に対するこの理解は異端であり。それは神の新しい遺言の主要な項目の一つに反します。

わたしたちはユダの手紙から、神を畏れること、また主のパースンと彼の贖いの働きに関してとても注意深くあることを学ぶ必要があります。それはわたしたちが曲がっている時代に生きているからです。わたしたちはみな神の御言の基本的な理解を持たなければなりません。これはわたしたちを保護するでしょう。ペテロが言うように、御言はわたしたちの内側で輝くともし火です(Ⅱペテロ一・十九)。そしてもしわたしたちが背信の者や異端の者と接触するなら、キリストのパースンと彼の贖いの働きに関する彼らの教えが虚偽で冒とく的であることを知り、わたしたちはまた彼らに聞き従いません。今日わたしたちはみな、聖徒たちに一度限りで永遠に伝えられた(あるいは、渡された)その信仰のために忠信に戦う必要があります。

最も聖い信仰の上に自らを建て上げる
ユダの手紙二〇節は言います、「しかし、愛する者たちよ、あなたがたは最も聖い信仰の上に自らを建て上げ、聖霊の中で祈りなさい」。ここの最も聖い信仰とは、わたしたちが信じ、わたしたちをキリストの中で救った、新約の中の尊い事柄を指しています。この聖い信仰の土台の上で、またその領域の中で、聖霊の中の祈りを通して、わたしたちは自らを建て上げます。わたしたちが把握している信仰の真理と、わたしたちの祈りを通しての聖霊は、わたしたちが建て上げられるために必要です。その信仰とその霊はいずれも聖いのです。

わたしたちは、この客観的な信仰が主観的な信仰を生み出すことを認識する必要があります。信仰はまず神の御言の中に含まれ、御言によって伝達された真理を指しています。聖書における神の書かれた言葉と、真実で、正当な宣べ伝えと教えの中で語られた言葉は、真理を含み、真理をわたしたちに伝達します。わたしたちが言っている真理とは、神が何であるかの実際、神が経過した手順の実際、彼が完成し、到達し、獲得したものの実際のことです。ですから、真理とは実際であり、神であるもの、神が経過したもの、神が完成したもの、神が到達し獲得したものに関するすべての事実を含みます。これはすべて新約聖書の中に啓示されています。わたしたちは聖書の中でこれについて読むかもしれませんし、あるいはある人の宣べ伝えと教えを通してそれを聞くかもしれません。しかしいずれにしても、この実際は聖なる御言の中に含まれており、御言によってわたしたちに伝達されます。わたしたちが真理を内容とする言葉に聞き入るとき、キリストの霊はわたしたちの内側で働きます。キリストの霊は常に御言にしたがって、また御言と共に働きます。霊と御言のこの協力の結果として、最終的にわたしたちの経験の中で、御言の中に含まれている「光景」がわたしたちの霊に焼き付けられ、わたしたちの信仰となります。

この信仰は客観的で主観的です。わたしたちの最も聖い信仰の上に自らを建て上げるとき、わたしたちは客観的だけでなく、特に主観的な信仰の上に自らを建て上げます。主観的な信仰は客観的な信仰から出て来ます。言い換えれば、信仰はわたしたちが信じるものと、わたしたちの信じることの両方を暗示します。これが最も聖い信仰です。この信仰はわたしたち自身のものではありません。わたしたちは自分自身の中にそのような信仰を持っていません。

最も聖い信仰は神から、神に属する、神を伴いさえしてわたしたちに与えられた大きな祝福です。この信仰はわたしたちの中へと入って来るとき、神と共に、神であるすべてと共に、神が経過したすべてと共に、神がキリストの中でその霊を通して完成したすべてと共に、神が獲得し到達したすべてと共に来ます。わたしたちはこの信仰を持っている限り、手順を経た神、贖い、再生、神聖な命、命と敬虔に関するすべてのものを持ちます。

わたしたちはまた、神聖な性質にあずかりそれを享受するように地位づけられ、特権が与えられます。ですから、わたしたちはいったんこの信仰を持つなら、すべてを持つのです。今やわたしたちは、この聖い信仰の上に自らを建て上げる必要があります。この信仰はわたしたちが建てる材料であるだけでなく、またその上に建てる基礎あるいは土台であるということです。もしわたしたちに信仰がないなら、わたしたちには上に建てるものがなく、それをもって建てるものがないことを意味します。わたしたちは信者として、わたしたちの最も聖い信仰の内容をもって自らを建て上げ、この信仰を土台としてその上に自らを建て上げます。主を賛美します、わたしたちはそのような信仰を持っています!

中国語訳の聖書は、二〇節の信仰というギリシャ語の言葉を「真の言葉」を意味する言葉で訳しています。この節の信仰は確かに真の言葉を暗示します。なぜなら信仰は真の言葉、すなわち神の啓示の内容から生み出されるからです。神の啓示の言葉は、神の存在、手順、贖いの働き、完成、到達の神聖な実際を内容とし、この言葉はこの神聖な実際のすべてをわたしたちの中へと伝達します。わたしたちがこの実際に関する言葉を聞くとき、聖霊はこれらの言葉と一致する方法でわたしたちの内側で働きます。その結果は信仰です。新約によれば、信仰はすべてを含みます。わたしたちは信仰を持つ限り、すべての神聖な事柄を持ちます。ですから、わたしたちはこれらの神聖な事柄を材料また土台として、わたしたちの最も聖い信仰の上に自らを建て上げることができます。信仰の上に自らを建て上げることは、神学的な教理や聖書的な知識をもって自らを建て上げることを意味するのではありません。単なる教理や知識は、あまりに客観的でありむなしいのです。しかし、聖なる御言の実際としての真理はむなしくありません。この真理は最も聖い信仰の内容です。ですから、わたしたちはこの内容と共に、それをもって、またその上に建てる実際で堅固なものを持つのです。

最も聖い信仰の上に建て上げることは個人的ではありません。そうではなく、この建てることは団体的な事柄です。ユダは信者たちに、最も聖い信仰の上に自らを建て上げるように命じるとき、団体的に語っているのです。わたしたちは信仰の上に自らを建て上げようとするなら、それを団体的な方法で行なわなければなりません。すなわち、わたしたちはそれをからだの中で、召会生活の中で行なわなければなりません。わたしたちは召会生活から離れて、信仰の上に自らを建て上げることはできません。ただ召会生活の中だけに、そのような建造があります。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第4期第5巻より引用

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