キリストの愛が兄弟姉妹の愛を通して表現され、救われた兄弟の証し

証し

主人が召されて1年が経ちました。もっと長生きして教会生活を送りたかったと言った主人の最期の時間を、友人の方々、兄弟姉妹たちと分かち合いたいと思います。主人の唯一の証しです。

「聖書の話は科学的ではない」
結婚して50年、私が回復に出会って40年になります。結婚した当時、宇宙に関心を持っていた主人の「宇宙の大きさや、それがどんどん拡張していくこと、永遠ということを考えると、人間の考えの及ばない大きさや広がりに圧倒されて、自分は気が狂いそうになる」という言葉を聞いて、私はこの人はきっと救われるに違いないと思ったものです。

ところが、どうでしょう。科学者でもあった主人は、教会生活をしている私や友人の勧めに対して話を聞いてはくれますし、集会への誘いも参加してくれはしたのですが、「聖書の話は科学的ではない」となかなか受け入れてはくれませんでした。同じ会社の同期の親友や、ゴルフ仲間とは、それぞれの奥さんたちが姉妹だったのに関わらず、「絶対に教会には行かないよね」という約束をしていたようです。しかしそんな仲間たちが次々と救われていく中、主人だけは、やはり教会生活を送ることはありませんでした。私は、それが残念で、主が主人を救ってくださるという信仰が揺れ動きもしました。主人は主人で私に対して「1に教会、2に教会、3、4がなくて、俺は5か6か」とぶつぶつボヤいていました。

定年を迎えてすぐのころ、職場の同期だった親友の兄弟が急逝され、主人はとても落ち込み悲しんでいました。その時、私が祈りましょうと言うと主人も「私はあなたを信じます。受け入れます。おお主イエスよ」と私と一緒に祈りました。でもその時もバプテスマは今ではないと拒んだのです。主人は長男であり、自分の立場のことも考えていたと思います。とはいえ「うちに孫がいないのは主だよ。あなたはカラダが弱いんだから」などと、主人の口からは、よく「主」という言葉が出てきました。それなのに、なぜ受け入れないのだろう、早く救われてほしいと、私はいつも主に祈っていました。

兄弟姉妹たちとの交流の中で
一方で主人はいつも教会の兄弟姉妹には、とてもフレンドリーでした。教会のお泊り会で、我が家に可愛い小学生たちが夕食にやってきたときのこと。食事の前、子供たちと私がそれぞれに主の御名を呼んで1〜2句ずつ祈りました。次は主人の番だと待つ子どもたち、黙っている主人、沈黙の時間…すると沈黙に気づいた主人が「アーメン! おお主イエスよ!」と呼び、子どもたちも安心して「いただきま〜す」と一件落着、楽しい夕食の時間となりました。

定年後、料理教室に通い始めたのですが、我が家には料理を作らないのに、兄弟姉妹の家で愛宴があると、腕を奮って一品差し入れるのを、いつも喜んでいました。 交流を大切にする人でしたから、そうやって兄弟姉妹との関わりを楽しんでいたようです。今日は誰々姉妹に会ったよと、よく兄弟姉妹の話をしていました。

まだ会社勤めをしていたころ、私の祈りのパートナーである姉妹が突然「お宅のダンちゃん(旦那さまからきた主人の愛称)を会社訪問しましょう」と言いだしました。そんなことは思いもよらなかったので、とても驚きました。まさか仕事中に突然、行ったりして怒るのではないかと、内心おっかなびっくりで、その姉妹について高層ビルにある職場に出向き、主人を呼び出したのです。すると意外にも主人はにこやかに迎えてくれました。紺のスーツ姿で颯爽と現れた主人は、最上階のラウンジに私たちを案内しコーヒーをごちそうしてくれ、仕事に戻っていきました。職場で働く主人の姿を初めて見ることができて嬉しく思いました。その姉妹がいなければ、あんな経験はできなかったでしょう。姉妹の福音への強い思いを感じて、主に感謝しました。

思えば主人と私は、ずっと兄弟姉妹たちとの交流の中で暮らし、支えられてきました。土砂降りの大雨の中でも、がんセンターまで車を出し、遅くまで待ってくださった姉妹たち。読書家だった主人が、何十年も通った図書館に最後の1冊は自分で返しに行きたいと言った時も、ある姉妹が車で送ってくださいました。車の中でじーっと静かに車窓を見つめでいた主人は、きっと最後の景色を心に刻んでいたのでしょう。あの姿を思いだすと今でも胸がいっぱいになります。その時間もその姉妹がいたからこそ、持つことができたのです。

科学者だった主人は救われたいと願いながらも・・・
何十年も毎朝私が電話で姉妹たちと聖書を読んでいると、隣で新聞を読みながら聞いていた主人。毎晩夜には、姉妹たちと家族の救いを祈っていました。毎日、それを聞きながら、主の言葉は分与されていたのでしょうか。あるとき、私が電話で姉妹たちと祈っていると、熱が続いてふらふらしている主人はその横をステテコ姿で「私を救ってください」と言いながら、よろよろと通り過ぎていきました。きっと科学者だった主人は救われたいと願いながらも、一生懸命、頭で理解をしようとしていたのでしょう。

亡くなる1か月ほど前、主人は私に、神のことを教えてもらいたい、自分は聖書を読んで余計にわからなくなってしまったと言いました。私は、創世記から始めて、神の願いは人を愛して、堕落してしまった人を取り戻し、救うために神が人となり、十字架で(罪、死、この世、サタン、自己…を)終わらせ、復活し、昇天し、キリストは今や命を与える霊となって、信じる者の中へと入って、私たちの命、またすべてとなって下さっていることを祈りながら話したのですが、主人は納得がいかなかったようでした。

「教会の人たち…」「教会の人たちは…」
でもある時、主人がよく「教会の人たち…」「教会の人たちは…」とつぶやくように言っていることに気づきました。「教会の人たち…」、主人には感動があるのでは?と思った時、ハッとしました。そうだ、これだと思い、主人のベッドに走って行き、言いました。「あなた、神はね、命を与える霊となったと言ったでしょう。あなたは神がわかるように現れたり、了解させるようになると思っているかもしれないけど、そうじゃないのよ。主は今、教会の人たち、兄弟姉妹の中に命を与える霊となって入って下さって、愛となって、あなたに現れておられるのよ。だから神は、あの兄弟この姉妹の愛の中で、こんなに豊かに私たちに現れてくださっているじゃない」。主人は遠くを見つめながら、黙って静かに聞きいっていました。

入院していた亡くなる一週間ほど前、主人は院長先生に、自分はやり残したことがあるので、何とか金曜日に1日帰宅させてもらいたいと頼んでいました。しかし体調が悪化し、帰宅は叶いませんでした。

「今まで、こんなに福音を多く聞いてきたのに、かたくなに拒んできた、頑固だった、本当にすまない。どうか許してもらいたい」
そのころでした。ある日、病室に私が入ると、主人が手を伸ばしてきました。そして苦しい息の中、声を絞りだして言うのです。「今まで、こんなに福音を多く聞いてきたのに、かたくなに拒んできた、頑固だった、本当にすまない。どうか許してもらいたい」と。「ええ… !!!」と驚くとともに、思わず二人で「おお、主イエスよ〜!」と主の名を呼びました。声を出すことも難しくなっていた主人も大きな声で「おお〜主イエスよ〜!」と叫んだのです。何という感動! 何という栄光! 言葉では言い表せません。

するとまさに次の瞬間、病室のドアが開き、そこに医者でもある、闘病を支えてくださったゴルフ仲間だった兄弟と姉妹が立っておられたのです。長い間、主人のバプテスマを祈って下さった兄弟姉妹です。主人はすぐさま手を差し出して、私に言ったように「こんなに長く伝えてくださっているのに、拒んできたこと本当にすまないことをしました、どうか許してください」と繰り返して言いました。

兄弟姉妹たちも、「エ〜っ」と驚き、歓喜し、神をほめたたえ、私たちは手を取り合って祈りました。命の川が流れるように、誰からともなく詩歌アメージンググレース(驚くべき恵、我をも救う、失われた我を尋ね、目開き見せる)を歌いはじめ、賛美しました。

按手される
その翌日、主人は急変し家族が呼ばれました。何とか持ち直しましたが、私は教会の長老にも来て頂きたいと思い、ふたりの長老の兄弟たちに病室を訪問して頂きました。バプテスマを勧められ、声を出すことも難しくなっていた主人は筆談で長老兄弟に「自分は聖書を読み通したが、全然判りません。それでもいいですか?」と尋ねました。長老兄弟は「大丈夫ですよ」とおっしゃって下さり、主人は按手されました。実は、後でわかったことなのですが、主人が院長先生に頼んでいたやり残したこととは、小組の日に帰宅してバプテスマされることだったのです。按手された主人は、筆談で「短い(時間が)、短い…もっと長生きして教会生活を楽しみたかった。あとの3人をよろしくお願いします」と長老兄弟に伝えていました。

たくさんの兄弟姉妹に見送られ主のもとに召される
そのおよそ一週間後、主人は家族三人に見守られながら主のもとに召され、葬儀は教会式で行なってほしいという遺言通り、たくさんの兄弟姉妹に見送られ主のもとに召されました。告別集会のあと、ある兄弟に「ご主人はもう(前から)救われていましたね。」と言われて私は気づきました。私はずっと主人に、救われてバプテスマしてほしい、教会生活を送ってほしいと願っていました。しかし私が願う形ではなく、主はすでに主人に現れてくださっていました。

「教会の人たち…教会の人たちは…」。主人は兄弟姉妹の愛の中に主の存在を感じていました。その兄弟は「教会生活は集会生活ではないんですよ」とおっしゃいましたが、きっと主人は兄弟姉妹の愛を通して救われ、兄弟姉妹との交流を通して、ずっと教会の交わりをエンジョイしてきたのだと思います。主人に現れてくださった栄光の主に感謝します。主人に主の愛を現わしてくださった兄弟姉妹たちに心から感謝します。主人の最期のとき、キリストの愛が、兄弟姉妹の中で愛として表現され拡張していると感じました。教会の人たち…、主人が何度も何度も口にした兄弟姉妹たちの愛を通しで現れてくださった主に栄光と賛美を捧げます。
習志野に在る教会 K.I.

詩歌 驚くべき恵み
1.おどろくべきめぐみ!     われをもすくう
  うしなわれたわれをたずね、  目ひらき見せる!

2.めぐみにておそれは      取りのぞかれた;
  信じたときの、あのめぐみは、 なんととうとい。

3.めぐみをあたえると、     主は保しょうした;
  主はーわれのたて、とわの分、 全生がい過ごす。

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