権威の重要性を知る

真理

宇宙では、神はあらゆる権威の根源です。権威は宇宙で最も重要なことであり、神の権威にまさるものはありません。わたしたちは神の子として再生されたので、権威を認識しなければなりません。さらに、わたしたちが神に仕えようとするなら、権威を認識しないわけにはいきません。

神の御座は権威の上に建てられる
神の働きは神の御座から出ます。神の御座は権威の上に据えられています。啓示録第四章は言います、「すると見よ、御座が天に据えられていて、その御座に座している方がおられた。……わたしたちの主また神よ、あなたは、栄光と尊貴と力とを受けるにふさわしいです。あなたは万物を創造され、あなたのみこころのゆえに、万物は存在し、創造されたからです」(十一節)。ここで言う御座は神の御座であり、神の御座は神の行政の中心です。神は天の御座に座り、彼の権威を行使し、全宇宙と万物は、この御座の管理の下にあります。 一見して、この御座は目には見えませんし、人に認識もされませんが、実際は背後で、すべての人、すべての事、すべての物を支配しています。神はこの宇宙のすべての権威の根源です。

ヘブル人への手紙第一章三節は、キリストについて語っています、「彼の力ある言葉によって、万物を維持し担っておられます」。ここの「彼の力」は、「彼の権威」とも訳すことができます。万物は神の権威によって創造され、地上のすべての法則は彼の権威を通して保たれていることを示しています。彼の権威は、彼の力を伴い、そして彼の言葉を通して実行されます。神の権威は、神ご自身を表します。全宇宙において、神だけが権威です。他のすべての権威は、神によって立てられています。宇宙において権威以上に大いなるものはありません。何ものもそれを踏み超えることはできません。神の権威に逆らう罪が赦されるのは容易ではありません。それは、神の権威に逆らう罪が神ご自身に逆らう罪であるからです。このため、もしわたしたちが神に仕えようとするなら、わたしたちは神の権威を知らなければなりません。

サタンは神の権威を踏み超えた
サタンは、神の権威を踏み超えたためにサタンとなりました。サタンは神と競い、神に対抗したかったので、神の敵となりました。反逆がサタンの堕落の原因です。イザヤ書第十四章とエゼキエル書第二八章は、サタンの違反と堕落について語ります。イザヤ書第十四章十二節から十五節は言います、「暁の星、夜明けの子よ、おまえは天から落ちてしまった! 諸国民を打ち倒した者よ、おまえは地に切り倒されてしまった! おまえは心の中で言った、『わたしは天に昇ろう.わたしは神の星の上に、わたしの座を高く上げよう。わたしは北の果てにある集会の山に座ろう。わたしは雲の高い所の上に昇ろう.わたしはいと高き方のようになろう』。しかし、おまえはシェオール[陰府]に、穴の奥底に落とされる」。ここの明けの明星とはサタンを指しています。サタンはもともと、神が宇宙の初めの時期に創造された最初の天使の一人でした(神の子たち―ヨブ三八・七、参照、一・六)。彼は神から天使長に任命されましたが(エゼキエル二八・十四、ユダ九)、彼の心は傲り高ぶり、自分の座を神の御座の上に据えようとして、神に反逆し、神の権威を侵害しました。そして、神の敵サタンとなり、神の裁きを受けたのです。それゆえ、サタンの原則は自己を高く上げる原則です。罪が入って来たことがサタンの堕落の原因ではありません。もっと正確に言うなら、サタンが神の権威に反逆したため、サタンは神によって罪定めされ、その結果として、罪が生じたのです。それゆえ、神の権威を踏みにじることは、サタンの原則です。もしわたしたちが神に仕えたいなら、わたしたちは決してサタンの原則に従って仕えてはなりません。わたしたちはサタンの原則を、しみがなくなるまで洗い清めて、取り除かなければなりません。

マタイによる福音書第六章九節から十三節の間の主の祈りの中に、次の言葉があります、「わたしたちを試みに遭わせないで……ください」(十三節前)。試みとは、サタンの働きのことです。また別の言葉があります、「あの邪悪な者から救い出してください」(十三節中)。これはサタン自身を指しています。それに続いて、主は言われました、「それは、王国と力と栄光とが、永遠にあなたのものであるからです。アーメン」(十三節後)。これは最も重要な宣言です。王国は神のものです。権威と栄光も神のものです。あらゆるものは神のものです。わたしたちをサタンの力から完全に自由にするものは、この最も貴重なことを見ることです。すなわち、王国は神のものであることを見ることです。全宇宙の行政は神の下にあります。こういうわけで、わたしたちは神の権威の下に服することを学ばなければなりません。神の栄光を盗むことができる人はいません。

主イエスがこの世にいたとき、サタンは主イエスを試みるため、主を非常に高い山に連れて行き、彼にこの世のすべての王国とその栄華を見せました。そしてサタンは主に言いました、「もし、あなたがひれ伏してわたしを拝むなら、これらすべてをあなたに差し上げます」(マタイ四・八―九)。しかし主イエスは言われました、「サタンよ、退け!『主なるあなたの神を礼拝し、ただ彼にのみ仕えよ』」(十節)。これは、この世の王国のすべては、神のものであることを示しています。わたしたちは、権威が究極的には神に属していることを見る必要があります。福音を宣べ伝える時、わたしたちは人々を神の権威の下にもたらしているのです。もしわたしたちが、地上に神の権威を打ち立てたいなら、わたしたち自身が先に権威に出会わなければなりません。そして神の権威の下に服することを学ばなければなりません。

宇宙におけるすべての争いは
権威の問題である
全宇宙における争いの中心は、だれが権威を持っているかに関連しています。わたしたちは、権威が神と共にあることを断言することによって、サタンに対抗しなければなりません。神は召会において一つの目的を持っておられます。それは召会が、宇宙の中に神の権威を現すことです。神はご自分の権威を保持するために、ご自分の力を極限まで働かせます。彼の権威は他の何ものよりも強力です。わたしたちは少なくとも一度は、神の権威に出会わなければなりません。直面し砕かれてはじめて、わたしたちは服従することができるのです。そのとき、神の権威とは何であるかを学び始めるでしょう。

パウロは権威を認識する前、召会を地上から消し去りたいと思っていました。しかしダマスコヘの途上で主に出会った後、たちまち彼は倒れ、イエスを主と認めました。そしてダマスコでアナニヤという小さな兄弟の指示に従いました(使徒九・三―十九)。パウロは神の権威に出会ったのです。パウロは回心の時に、神の救いの認識だけでなく、また神の権威の認識も持ちました。人は神の権威に出会って始めて、神の立てている代理権威に服従することができます。

全聖書における最大の要求は
神のみこころに服従することである
神が人に対して持っておられる最大の要求は、十字架を負うこと、ささげ物、献身、自己犠牲ではありません。人に対する神の最大の要求は、服従です。サムエル記上第十五章で、神はサウルにアマレク人を討ち、彼らが持っているすべてのものを徹底的に滅ぼすように命じました(一―三節)。しかし、サウルはアマレク人を征服した後、アマレク人の王アガグの命を助けました。肥えた羊と牛の最も良いものを高く評価し、それらを惜しみました。そしてそれらを滅ぼすことを拒み、その代わりにそれらを神にいけにえとしてささげようとしました(七―九節)。

しかし、神はサウルを嫌悪しました。なぜなら、サウルが彼の言葉に聞き従わなかったからです。神はサムエルに言いました、「わたしはサウルを王としたことで思いを変える.彼は背を向けてわたしに従うことをせず、わたしの言葉を行なわなかったからである」(十一節)。そしてサムエルはサウルを叱責し言いました、「エホバは、エホバの御声に従うことほどに、全焼のささげ物や犠牲を喜ばれるだろうか?見よ、従うことは犠牲にまさり、聞くことは雄羊の脂肪にまさる。反逆は占いの罪に等しく、不従順は偶像礼拝とテラピムに等しいからである。あなたがエホバの言葉を拒絶したので、エホバもあなたを王であることから拒絶された」(二二―二三節)。

サウルはいけにえをささげることで、神がそれを受け入れ、満足すると思っていました。しかし、サムエルは聞き従うことは、いけにえにまさると言いました。それはなぜでしょうか? その理由は、そのようないけにえの中にさえ、自己の意志が混入する可能性があるからです。ただ聞いて従うことが神を絶対的にあがめることであり、神の権威に服従することであり、神のみこころを中心とすることです。それに対して、サウルは神の命令に従わず、自分の意志によって神にいけにえをささげました。このような行為は、占いの罪と同じです。彼は反逆的で、神に背く者と見なされ、神の敵になりました。わたしたちは、従順の反対側は権威であることを見なければなりません。従順を持つために、人はまずその状況から自己を締め出さなければなりません。それゆえ、従順は神のみこころへの応答の最高の表現です。

ゲッセマネの園での主の祈り
ルカによる福音書第二二章四四節は、死の苦しみを受ける主の祈りを記載しています、「イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた.汗は血のしずくのようになって、地にしたたり落ちた」。ある人はゲッセマネの園での主の祈りを(そこでは彼の汗が血のようにしたたり落ちました)、肉における主の弱さと、十字架の杯についての主の恐れのしるしであると考えました。しかしそれは違います。ゲッセマネの祈りは、原則において、サムエル記上第十五章二二節に記録されていることと同じです。ゲッセマネにおける主の祈りは、神の権威に対する服従の最高の表現です。神の権威に対する主の服従は、十字架上での主の犠牲よりも、はるかにまさっています。主は熱心に神のみこころを知ろうと求めました。主は、「わたしは十字架を受けます」とも、「わたしは杯を飲まなければなりません」とも言いませんでした。主は、ただ耳を傾け、聞き従いました。ですから、主は言われました、「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください.しかし、わたしの意のままにではなく、あなたの意のままになさってください」(マタイ二六・三九)。ここに、主ご自身の意見や主張の選択は見られません。反対に、彼は神のみこころの達成を望まれています。神のみこころは絶対ですが、杯(すなわち十字架)は違います。もし主が十字架につけられることが、神のみこころでないとしたら、主イエスは十字架につけられる必要がありません。主が、神のみこころについてはっきりするまでは、「杯」と「神のみこころ」は二つの別なものでした。しかし、はっきりした後、「杯」は、父が主に与えた「杯」となりました。そして、杯とみこころは、一つになりました。神のみこころは権威の代表です。ですから、主が神のみこころを知り服従したとき、それこそが権威に対する服従です。

再び主は言われました、「父がわたしに与えられた杯を、わたしは飲まないはずがあろうか?」(ヨハネ十八・十一)。ここで、主は神の権威を擁護していました。主は彼自身の十字架を保持していたのではありません。同時に、主は杯を飲むこと(つまり、わたしたちを贖うために、十字架につけられること)が神のみこころであることを理解すると、直ちに「起きよ、さあ行こう」(マタイ二六・四六)と言われました。主は即座に従われました。十字架は神のみこころの達成を表すので、主の死は権威に対する服従の最高の表現です。十字架は全宇宙の中心であるとはいえ、それは神のみこころより、高くはありません。主は彼自身の十字架(犠牲)を保持される以上に、神の権威(みこころ)を保持されます。

神に対するわたしたちの奉仕は、わたしたちの自発的犠牲や自己否定の問題ではありません。それは神のみこころの達成の問題です。それは十字架を担う問題ではありません。もっと正確に言うなら、それは神のみこころへの服従です。これは基本的な原則です。もし反逆の原則があるとしたら、犠牲でさえサタンにとっては、享受であり栄光となります。サウルは羊と雄牛をささげることができました。しかし、神はそのいけにえを受け入れませんでした。なぜなら、サタンの原則があったからです。神の権威を覆すことは、神を覆すことです。ですから聖書は、反逆は占いの罪に等しく、不従順は偽物の神である偶像やテラピム(家の中で礼拝されていた偶像)を礼拝するのと等しいと言っています(サムエル上十五・二三)。

わたしたち主の働きに携わる者は、神のしもべたちです。そのような者として、わたしたちが触れる最初のことは、権威の問題です。権威に触れることは、救いに触れることと同じくらい実際的な問題です。わたしたちにとって、これはさらに深い学課です。わたしたちは少なくとも一度は、権威によって触れられ、打たれなければなりません。その時になってはじめて、わたしたちは神の働きを行なうことができます。神との関係において、権威に触れること以上に重要なことはありません。わたしたちがいったんそれに触れると、わたしたちはどこへ向かってもそれを見るでしょう。その時はじめて、わたしたちは神によって制限されることができ、またその時はじめて、神に用いられ始めることができるのです。

主が受けた裁きとパウロが受けた裁き
マタイによる福音書第二六章と第二七章の中で、主が捕らえられた時、二種類の裁きを受けられました。すなわち大祭司の前での宗教からの裁き(二六・五七―六六)とピラトの前での政治の裁き(二七・十一―十四)です。ピラトに尋問された時、主は答えたくなければ答えなくてもよかったのです。なぜなら、主はこの地上の規定によって拘束されていなかったからです。しかし、大祭司に生ける神の名によって誓って告げよと強要された時、主は答えなければなりませんでした。これは権威に対する服従の問題です。さらに使徒行伝第二三章でパウロが裁かれた時、彼は彼を裁いていた人たちが神の律法に反していると指摘しましたが、アナニヤが神の大祭司であることを知った後、パウロは直ちに服従しました(一―五節)。主の働き人であるわたしたちは、この権威の問題と直面しなければなりません。そうしなければ、わたしたちの働きは、神のみこころの原則の中にはないでしょう。その原則とは、権威に対する服従の原則です。その反対に、この権威の問題と直面しなければ、わたしたちはサタンの反逆の原則の中にあるようになるでしょう。もしわたしたちが神のみこころを必要とせずに働くなら、それは反逆の原則の中にあるでしょう。これは、実に大きな啓示を要する問題です。

マタイによる福音書第七章二一節から二三節で、主は、主の御名によって宣べ伝え、悪鬼を追い出し、多くの驚くべき働きを行なった者たちを叱責されました。主の名によって人が働きを行なうのは、なぜ正しくないのでしょう? それは、これらすべての働きは、人が源であったからです。彼らは、主の御名の中で、自分自身が源になって働いていました。これは肉の活動です。こういうわけで、主はそれを不法であると見なされました。それらは、働きであるとは考えられません。主はまた言われました、「天におられるわたしの父のみこころを行なう者が入るのである(天の王国に入ることができる)」(二一節)。これは、すべての働きは、神のみこころへの服従に基づくべきであることを示します。神がその源でなければなりません。すべての働きは神からやって来るものであって、人が探しだすものではありません。神がその人を遣わされたみこころを、その人が理解したときにはじめて、天の王国の権威の実際を経験することができます。

権威を認識することは
一つの大きな啓示である
宇宙には二つの大きな事があります。信じて救いに至ることと、権威に服従することです。すなわち、信じて服従することです。聖書は、罪の定義は不法であることを見せています(Ⅰヨハネ三・四)。不法とは神の権威を無視することです。そして神の権威を無視することは罪です。違反は行為の問題ですが、不法は態度と心の問題です。現在の時代は不法の時代です。世界は不法の罪で満ちています。不法の者さえ、現れようとしています。同時に、権威はこの世でますます失われていきます。最後には、すべての権威は覆されるでしょう。最後に残るものは、不法の支配となるでしょう。

こういうわけで、宇宙には二つの原則があります。すなわち、神の権威の原則とサタンの反逆の原則です。わたしたちは、一方で反逆の霊で反逆の道を歩きながら、他方で神に仕えることはできません。奉仕は常に権威に付随します。神に奉仕する人は、この基本的な理解を一度は認識しなければなりません。そうすれば、権威に服従することの重要性を理解するでしょう。それは電気に触れるようなものです。いったんそれに触れると、人はそれについて、今後は決して不注意ではなくなります。同じように、いったん人が神の権威に触れ、それによって打たれると、彼の目は明らかにされます。彼は自分自身だけでなく、他の人をも識別できるようになります。彼はだれが不法で、だれが不法でないかを、知るようになります。どうか神がわたしたちをあわれんでくださり、わたしたちを反逆の道から救い出してくださいますように。わたしたちは神の権威を知り、服従の学課を学んではじめて、神の子たちを正当な道に導くことができるのです。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第4期第2巻より引用

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