サタンに勝利するキリストの働き

真理

旧約の歴史の中のイスラエル人とカナン人の戦いは、良き地を所有し享受するためのものでした。これは目に見える絵であり、今日の召会が地上で従事する目に見えない霊的な戦いを予表しています。わたしたちは、主イエスがすでに十字架上で勝利を得られ、召会はキリストの勝利の上に立っていて、サタンに勝利する彼の働きを継続しています。

主が勝利を得る地位と働き
神の永遠のご計画は、キリストが栄光を受け、すべてのものの上にかしらとされることです。サタンが反逆して、人が堕落した時、神はやって来て、これら二つの問題を解決しなければなりませんでした。そうしてはじめて神は、ご自身の永遠のご計画を達成することができたのです。主の一生におけるすべての出来事は、神のご計画と結び付いており、またサタンを対処することと関係がありました。彼は人の身分で、アダムの最初の立場に立ち、人の立場で敵を対処しました。彼は人の意思でサタンに反対し、サタンに抵抗し、サタンを撃ち破り、サタンから統治権を奪い返しました。これ以外にも、主は十字架において罪を解決し、わたしたちを贖われ、彼の勝利によって、人における神のみこころが成し遂げられました。

ベツレヘムに生まれる
まず、主は聖霊から身ごもり、処女マリアの胎の中へと生まれました。彼が肉の体、すなわち人性を着ることを通して、肉の体を取り、ベツレヘムに生まれました。ヘブル人への手紙第二章十四節は言います、「こういうわけで、子供たちが血と肉にあずかっているので、同様に彼ご自身も同じものにあずかられたのです.それは、彼が死を通して、死の権能を持つ者、すなわち悪魔を滅ぼすためであり」。主が肉体と成られたことは、単に血を持ち、血を流して、わたしたちの罪を赦すためだけではなく、サタンを対処するためでもありました。主は十字架において、肉体を死に渡すことで、人の中の悪魔を取り除き、サタンを捨て去り、彼を無いものとしました。

荒野で試みられる
主は人の身分で、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けられました。その後に彼が水の中から立ち上がると、天から声があって言いました、「これはわたしの子、愛する者」(マタイ三・十六―十七)。その後、主は聖霊によって荒野へと導かれて、悪魔に試みられました(四・一―十一)。第一の試みにおいて悪魔は主に言いました、「もしあなたが神の子であるなら」(三節)。サタンは主を、人にではなく神の子にならせようとしました。サタンは、主が人としての地位を離れて、神の子の地位を取ることを、すなわち神になることを望みました。これはサタンの策略でした。いったん主が神の地位を取るなら、主はサタンを対処する地位を失うことを、サタンは知っていました。しかし、主はサタンの策略を見抜き、「人は……」(四節)と答えて言われました。主は次のように言っているかのようでした、「わたしはここに、神の子としてではなく、人としています。わたしは神の子ですが、人の地位を取っています」。第一のアダムは人でしたが、神になろうとして失敗しました。第二のアダムは神ですが、進んで人の地位に立ち、勝利を得ました。「人」だけが神の永遠のご計画を達成することができ、「人」だけがサタンを対処することができます。

その後に、悪魔は彼を聖なる都へ連れて行き、宮の翼の上に立たせて彼に、もしあなたが神の子であるなら飛び降りてみなさいと言いました(六節)。主は彼に言いました、「主なるあなたの神を試みてはならない」(七節)。主は神を試みませんでした。主は神を疑いませんでした。このゆえに主は、宮から飛び降りて神を試みるというサタンの提案を受け入れませんでした。最後に悪魔は言いました、「もしあなたがひれ伏してわたしを拝むなら」(九節)。サタンの目的は、礼拝を得ることです。主はすべての人を代表していますから、もし主がサタンを礼拝したなら、すべての人が失敗していたことになるでしょう。しかし、主は神の側に立ちました。主はただ神だけを礼拝し、神だけに仕えました。主はサタンの試みに勝利を得ました。

エデンの園では、第一の人、アダムの意志はサタンの側につき、徹底的な失敗をもたらしました。荒野では、第二の人、イエスの意志は神の側につき、神と一でした。その結果、人は完全に勝利を得ました。最初の人であるアダムは神の立場に立とうとして失敗しましたが、第二の神であるアダムは、人の立場に立ち勝利しました。

ゴルゴタで十字架につけられる
ヘブル人への手紙第九章二七節は言います、「そして、人が一度死ぬことと、その後、裁きが定められているように」。主は人と成られた時、すべての人の代表となり、すべての人を包括されました。ですからキリストは一度死なれたことで、人の罪を担われ、人の身代わりに裁かれました。コリント人への第二の手紙第五章十四節は言います、「なぜなら、キリスト……がすべての人のために死なれたからには、すべての人が死んだのです」。主が十字架につけられて血を流された時、わたしたちすべての人のために死の裁きを受けられました。わたしたちすべての人は神の目にはみな死んだのです。ですからわたしたちは定めにしたがって死ぬ必要はありません。

復活の中で勝利を得る
主は死を通して、死の権能を持つ悪魔を滅ぼし、死の奴隷状態から人を解放しました(ヘブル二・十四―十五)。主は復活です(ヨハネ十一・二五)。復活は死に勝利し、死に打ち倒されません。ですから、死は主を捕らえることができず、ハデスも彼をとどめておくことができませんでした。死の力を持っていた者は、主に対する自分の権威を失ってしまいました。コロサイ人への手紙第二章十五節は言います、「神は支配たちや権威たちをはぎ取り、彼らを公然とさらしものにして、そこにおいて彼らに凱旋の中で勝ち誇られました」。「はぎ取り」という言葉は、サタンが復活の主に対しては何も捕らえておくことができず、死の権能もとどめておくことができなかったことを意味します。

昇天において引き上げられる
エペソ人への手紙第一章二〇節から二三節は言います、「神は、その力強い大能をキリストの内に働かせて、彼を死人の中から復活させ、彼を天上でご自身の右に座らせ、すべての支配、権威、力、主権、そしてこの時代ばかりではなく、来たるべき時代においても唱えられるあらゆる名を超えて、はるかに高くされました。また神は、万物をキリストの足の下に服従させ、そして彼を万物の上にかしらとして召会に与えられました.この召会は、キリストのからだであり、すべての中ですべてを満たしている方の豊満です」。これら四つの節は主の復活と昇天、万物の服従、召会に与えられた万物のかしらを述べています。神のキリストの中で働いている力は、まず彼を死人の中から復活させました。この力は、すでに死、墓と死人を拘束している場所、ハデスに勝利しています。

昇天と復活は同様に重要です。神のみこころが天にあり、人のこころが地上にあり、敵サタンは空中にいます。主の昇天は敵のすべてを超越し、主の現在の地位は最高に高く、敵は彼に全く触れることができません。昇天とは勝利した地位のことです。昇天は一つの新しい地位を得るためです。天は敵の境界の中にはなく、サタンは全く触れることができません。主は昇天した人です。このことは一人の人が神の御前へと昇ったということです。主は栄光の人であり、最初の勝利者であり、神の御前で最初の人であり、彼はすべてを超越した人です。キリストに働いている力は、彼を死人の中から復活させ、昇天させただけでなく、主が昇天において、すべての敵の権能をも超越し、万物がみな彼の足の下に服従させられました。主は天の権威を受け、今や彼は天を地上にもたらされます。

召会はキリストの地位と働きを継続する
キリストは昇天され、「万物の上にかしらとして召会に与え」られました。神の永遠のみこころの願いは、団体の人、キリストと召会を得ることです。召会はキリストのからだとして、キリストの継続です。キリストに属するすべては、召会に属します。キリストが獲得した地位は、召会が獲得した地位です。キリストが完成した働きは、召会が継続し、維持します。

エペソ人への手紙第二章六節は言います、「キリスト・イエスの中で、わたしたちを彼と共に復活させ、彼と共に天上で座らせてくださいました」。キリストの復活の力は昇天の力です。キリストが昇天し、復活しただけではなく、彼は天の地位に立ち、すべてのものを超越しました。わたしたちは今や、キリストの中で、天の地位にあるので、サタンもわたしたちに触れることができません。

第一章二三節はさらにわたしたちに、召会とキリストは分けられないことを見せています。召会はキリストで満たされています。召会はキリストの豊満であり、キリストのあふれ出たものです。彼の復活を通して、召会は命を受けました。彼の昇天を通して、召会は権威の地位を持ちました。ですから神の目には、召会はとても重要な地位を占めています。その地位は、キリストと関連しており、その責任は、キリストが地上で戦った戦いを継続することです。かしらであるキリストはすでに昇天されました。しかし、彼のからだ、召会は依然として地上にあります。キリストのからだである召会は、彼の拡増であり、キリストの地位と働きを継続し、神の敵に対して戦います。このようにして、彼は天を地にもたらし、神のみこころは天と同じように地でも行なわれることができるのです。

召会は地上でのキリストの戦いを継続する
ヨハネによる福音書第十二章から第十六章で、サタンがこの世の君であると三回語られています(十二・三一十四・三〇十六・十一)。現在は、彼はこの世の支配者であり、この世の各国は彼の支配下にあります。千年王国の時は、彼は縛られて、アビスへと投げ込まれ、そのときサタンは制限を受けます。しかしその時より前は、召会が地上でキリストのサタンに対する勝利の地位を継続して現します。召会の祈りが、サタンを制限することができます。今日、召会の地上での責任は、サタンの意思を通させないことです。召会がある所では、サタンの権威は退けられます。すべて神の権威を現すことのできる場所、それが王国のある場所です。ですから召会は小規模な王国です(マタイ十二・二八)。

召会は地上で神のみこころを遂行する
支配者たちや権威者たちを征服する――召会は今日、地上で大きな責任を担っています。消極面では、召会は暗やみの力を征服し、キリストがサタンに対して行なっている戦いを継続しなければなりません。積極面では、召会は神のみこころを地上にもたらします。わたしたちは世界情勢を見、またわたしたちがいる場所で起こっていることを見る必要があります。そうして敵の働きが何であるかを知り、反対する祈りを持たなければなりません。コリント人への第二の手紙第十章四節は言います、「わたしたちの戦いの武器は、肉のものではなく、神の御前に力があって、要塞をも破壊し」。エペソ人への手紙第六章十二節は言います、「というのは、わたしたちの格闘は血肉に敵対するものではなく、支配者たちに、権威者たちに、この暗やみの世の主権者たちに、天上にいるあの悪の霊の勢力に、敵対するものだからです」。わたしたちの祈りは、神の御前で力強くなければなりません。そうしてはじめて、暗やみの力に反対することができます。今日わたしたちはすべてのものを支配することを学ばなければなりません。そうしてはじめて将来、統治することができます。わたしたちは天の御座によって、地上の御座を支配します。信者たちが失敗するのは、自分の権威を行使していないからです。彼らは、祈って政治的な事柄を支配することをしていないのです。わたしたちは悪魔の力や働きを見るや否や、権威を用いて祈るべきです。今日、地上にクリスチャンがいなければ、この世は完全にサタンの王国となってしまいます。わたしたちはキリストの勝利の権威を用いて、暗やみの力を支配することを学ぶべきです。

福音を宣べ伝える――この世のすべての人はサタンのとりことされています。しかし、神はわたしたちクリスチャンによって、とりこにされていた者たちを、福音を通して奪い返し、彼らを神の側へと戻したいのです。神が一人を得る時、サタンは一人を失うのです。テモテへの第一の手紙第二章四節は、「神はすべての人が救われて」と言います。これは、福音が神のみこころの一部分であることを示しています。神が人を救い出す目的は、人が救われて、神の権威がその人に多くあるようになることです。神は、わたしたちが口を開き、神のために証しし、福音を宣べ伝え、神のみこころを維持し、神のみこころが遂行されることを願っておられます。

悪鬼を追い出す――マタイによる福音書第十二章二八節で主は言われました、「わたしが神の霊によって悪鬼どもを追い出しているのであれば、神の王国はあなたがたに臨んでいるのである」。神の霊は神の王国の力です。神の霊が権威を持っているところが神の王国であり、そこでは悪鬼には地位はありません。すべての信者は主のようであるべきです、「まずその強い人を……縛ってはじめて、彼の家を徹底的に略奪するのである」(二九節)。わたしたちはサタンの支配の下にある人たちを救い出し、その人たちの悪鬼を追い出し、神のみこころをも遂行します。

天にないものを追い払う――召会の今の責任は、天においてあるものを地上においてもあるようにし、天においてないものを地上においてもないようにすることです。何が天においてないものでしょうか? 天には、強盗や病や弱さや飢えはありません。なぜなら、神のみこころが天で行なわれているからです。もしこれらの事柄が神の許しを経てわたしたちに臨んでいるとしても、しばらくすればなくなり、わたしたちを損なうことはないでしょう(マタイ十・二九、ヨブ三八・八―十一、エレミヤ五・二二)。しかし、もしそれらがサタンからのものであれば、数か月、数年たっても、それらはなくならないでしょう。わたしたちは、神がわたしたちに臨むのを許した事柄と、サタンがわたしたちをわなにかけるために設けた事柄とを、識別しなければなりません。わたしたちは、神が許されていないものはすべて拒絶しなければなりません。天にないものは、地にあってはいけません。

神のみこころに絶対的に服従する――召会は神のみこころに絶対的に服従しなければなりません。神のみこころは、人において行なわれてはじめて、地上でも行なわれることができます。何一つとして神のみこころに置き換わることはできません。犠牲や熱心や働きもそうです。それは良いか悪いかの問題ではなく、神のみこころであるかどうかの問題です。もしある働きが、神のみこころと結び付いておらず、ハデスの門に損失を与えることができないのであれば、それは役に立ちません。神がわたしたちに多くの試みを経過させるのは、神が残酷であるからではありません。神は人(召会)を何度も試みて、人(召会)が絶対的に神のために生き、神以外の事柄のために生きることがないようにさせます。あるいは、他に目的を持つことがないようにし、神のみこころが遂行されるようにします。

個人的なかかわりを持たない――使徒行伝第十九章十三節から十六節では、イエスの御名を唱えて悪鬼を追い出そうとし、邪悪な霊に打ち倒される何人かのユダヤ人について言っています。彼らはベルゼブルによって悪鬼どもを追い出し、悪鬼と個人的なかかわりを持っている者たちです。このことは、敵の恐れていることは、彼と個人的なかかわりを持たない者たちであることをわたしたちに見せています。サタンの国の中で、パウロのように名がよく知られ、神のために絶対的であり、個人的なかかわりを持たない人は、サタンに知られていて(使徒十九・十五)、また恐れられています。もしあるクリスチャンが、ひそかに悪魔と個人的なかかわりを持とうとするなら、悪魔はそれを笑うだけです。なぜなら、彼らは神のみこころのために絶対的でないからです。彼らは決してハデスの門を揺り動かすことができません。絶対的であり、悪魔と個人的なかかわりを持たない人だけが、神のみこころを地上にもたらすことができるのです。

祈る――真の祈りは、神と同労することです。主イエスは言われました、「あなたがたは、このように祈りなさい.天におられるわたしたちの父よ、あなたの御名が聖とされますように.あなたの王国が来ますように.あなたのみこころが天で行なわれているように、地でも行なわれますように」(マタイ六・九―十)。エペソ人への手紙第六章十七節から十八節では、すべての祈りと願い求めによって、救いのかぶとを、その霊の剣を受け取りなさいと言っています。祈りは霊的な戦いをすることであり、暗やみの権威を追い払い、神のみこころが地上で遂行される道を整えます。

この世に属さない――主はヨハネによる福音書第十七章十六節で言われました、「わたしが世のものでないように、彼ら(信者)も世のものではありません」。わたしたちはこの世を超越しており、この世に属さない人です。十字架を通して、神はわたしたちをこの世から救い出し、神にもたらし、神のみこころにもたらされました(ガラテヤ六・十四)。わたしたちは、この世に属するべきではありません。「だれでも世を愛するなら、御父への愛は彼の中にありません」(Ⅰヨハネ二・十五)。少しでも世を愛すると、邪悪な者にわたしたちを攻撃し占有する立場を与えてしまいます。わたしたちがこの世に属さなくなれば、サタンはわたしたちの中に何の立場も持たなくなります。わたしたちがこの世に属さなくなれば、わたしたちはサタンの権威から自由にされます。そしてわたしたちはサタンの統治と王国から救い出されます。このようにして、神のみこころが地上で遂行される道を持つことができます。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第4期第2巻より引用

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