奥義の時代

真理

アダムからモーセまでの時代と、モーセからキリストまでの時代では、あらゆることは明らかに示され、奥義はありませんでした。それは、千年王国の時代でも、新しい天と新しい地でも、同じです。あらゆることは明らかに示され、もはや奥義はありません。キリストから千年王国までの時代では、あらゆることは奥義です。この奥義の時代はキリストが肉体に成ることから始まり、そしてキリストご自身、召会、天の王国、福音、キリストの内住、そして最後は聖徒たちの来たるべき復活とへんぼうにおいて終結します。これらすべては世々にわたって隠されていた奥義です。キリストが戻って来られるとき、第七のラッパが吹き鳴らされ、これらすべての奥義は完成され、終わらされ、過ぎ去ります(啓十・七)。

「時代」という言葉の由来
時代という言葉は、「けいりん」という言葉からのものであり、ギリシャ語ではオイコノミアであり、その本来の意味は、「家庭の法律」、もう一歩進んで解釈するなら、それは家庭の行政です。家庭の行政が執行されるとき、それは案配と計画を伴い、そして具体的な到達する目標というものがあります。このような案配、計画、目標が家庭の行政を構成します。家庭の行政の案配の中で行なわれることは、おもに分配することです。家の中の必要のために、家の中にある財物を分配します。それは昔の中国の大家族のように、家族のすべての人が一緒に住んでいるのに、似ています。一族の者たちが大勢で共同生活する時、そこには必ず家庭の法律と規則があり、またそこには必ず家庭の行政の案配があります。この案配は、おもに家族のメンバーの生活のために家の財物を分配することです。この種類の分配が、「分与」(dispense)です。「分与」という言葉から、dispensation という名詞が生まれました。その意味は「経綸上の案配」という意味です。その言葉は、聖書を解釈するときに、「時代」という意味に用いられます。

どうして「経綸上の案配」という用語が「時代」を意味する言葉として理解されているのでしょうか? それはあらゆる期間ごとの案配が、実はその期間そのものであるからです。聖書の記録によれば、神の経綸の案配は四つの大きな期間に分けることができます。第一の期間の案配は、族長に関する案配であり、「父祖たちの経綸(案配)」と呼ぶことができます。第二の期間の案配は、どのように律法を用いて人を扱うかということに関することであり、「律法の経綸(案配)」と呼ばれます。第三の期間の案配は、どのようにキリストの恵みを適用するかに関することであり、「恵みの経綸(案配)」と呼ばれます。第四の期間は、神が彼の義を用いてすべてのことを執行されることに関することであり、「義の経綸(案配)」と呼ばれます。

神の永遠のエコノミーの中の四つの経綸(案配)、すなわち、父祖たちの経綸(案配)、律法の経綸(案配)、恵みの経綸(案配)、義の経綸(案配)は、その実際的な実行において、実は四つの期間です。「経綸(案配)」という言葉は、その文字通りの意味にしたがって理解するのが実に難しいです。ですから、実際には、「時代」というのが最も良い訳なのです。この訳に従うならば、族長の経綸(案配)は族長の時代であり、律法の経綸(案配)は律法の時代であり、恵みの経綸(案配)は恵みの時代であり、義の経綸(案配)は義の時代、王国の時代です。

聖書における四つの時代
父祖たちの時代(罪と死の時代)――アダムからモーセまで 
ローマ人への手紙第五章十四節は言います、「アダムからモーセに至るまで……死が王として支配しました」。アダムからモーセまで、人は罪の権威の下に陥りました。ですから、死が罪を通して王として支配しました。この時代において、人々は罪の下にあり、死によって支配されていました。創世記第五章における記録には、アダムは創造された後、多くの年月を生きて、死んだと書いてあります。彼はセツという名の子を生みました。セツもまた多くの年月を生きて、死にました。第五章の全記録は、これらの言葉、すなわち「生きた」、「生んだ」、「死んだ」で満たされています。なぜ人々は死ぬのでしょうか? それは人々に罪があるからです。ですから、アダムからモーセまで律法はありませんでしたが、人々は罪の中に生き、また死の下にありました。

律法の時代――モーセからキリストの一回目の来臨まで
ヨハネによる福音書第一章十七節は言います、「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと実際はイエス・キリストを通して来たからである」。モーセからキリストの一回目の来臨までの期間において、律法が罪と死に加えて存在していました。律法が与えられた時、それは、人が罪と死の下にあるという状況を確証しました。この期間は律法の時代と呼ばれています。

恵みの時代――キリストの一回目の来臨から二回目の来臨まで
ヘブル人への手紙第九章二六節二八節は、キリストの一回目の来臨において人の罪が取り除かれ、また彼の二回目の来臨において、彼に属するわたしたちが救われることを告げています。これらの二度の来臨の間に恵みの時代、すなわち召会の時代があります。主は最初の来臨において、律法の要求に従って律法の義の要求を満たし、律法の要求を消し去られました。主はまた罪を担い、罪を解決し、死を廃棄されました。こうして彼は恵みの扉を開き、恵みをもたらして、恵みが支配することができるようにしました。今や彼を受け入れる者はだれでも、直ちに律法から、罪から、死から開放され、恵みの中へと入ります。

義の時代――王国の時代
主の二回目の来臨、すなわち千年王国の初めの時から、千年王国の終わりまでの千年の期間は、義の時代です。この時代において、義が王として支配します。すなわち、キリストは義をもって地のすべての人を裁きます。この時代が終わるとすぐに、新しい天と新しい地、すなわち、終わりのない永遠が始まることをわたしたちは知っています。このことは、啓示録第二一章から第二二章において記録されています。最初の時代の前に永遠があり、第四の時代の後に永遠があります。最初に、始まりのない永遠がありました。そして最後に、終わりのない永遠があります。これら二つの永遠の間に時間と呼ばれる期間があり、時間は四つの時代に分けられます。これが聖書にしたがって時代を分ける方法です。

恵みの時代――奥義の時代

恵みの時代において、すべては奥義である
今日、わたしたちがいる時代は恵みの時代です。またそれは奥義の時代とも呼ばれます。なぜなら、恵みの時代のすべてのことはみな、奥義だからです。主が戻って来られる時、第七のラッパが吹き鳴らされ、この奥義の時代が終結します(啓十・七)。その時に、すべてのことが明らかにされます。主がわたしたちと共におられることから、わたしたちが主と共に王となることまで、すべてが見えるようになります。旧約時代においては、多くの事柄が明らかに現されましたが、王国の時代になると、あらゆる事が明らかにされます。ただ今の召会時代においては、あらゆることが奥義です。

わたしたちは、わたしたちはキリストのからですと言いますが、これは奥義です。わたしたちは、わたしたちは神の住まいですと言いますが、これは奥義です。わたしたちがここにおいて、毎日経験し、享受し、奉仕していることもみな奥義です。ですから恵みの時代は奥義の時代です。奥義は旧約の時代にすでに存在しましたが、旧約の時代においては奥義にではなく、明らかに現された事物に重点がありました。しかし、新約においては、あらゆることがすべて奥義です。新約において奥義はすでに啓示されましたが、わたしたちの経験することのすべては奥義です。

今日のあらゆる霊的なことは、奥義です。わたしたちの救い、再生は奥義です。罪の赦し、神との和解、キリストと共に復活し、天において主と共に座に着くこと、これらはみな奥義です。旧約時代においては、明らかに現されていることに重点がありますが、王国時代においてはすべてが明らかに現されます。ただ恵みの時代、すなわち召会時代、新約の時代においては、あらゆることが奥義です。

奥義の時代の開始も一つの奥義です。主が聖霊を通して、マリアの胎の中に入り、肉体と成り、人と成った時から始まって、主が戻って来られるまで、これらはみな奥義の物語です。ある日、一人の処女が身ごもり、主イエスを産みました。このことは実に奥義です。この時から始まり、奥義がやって来ました。この処女から産まれた奥義の人の中に神がおられました。奥義の時代はここから始まりました。

奥義とは神が肉体において現されることである
この時代の奥義とは、神が肉体において現されることです(Ⅰテモテ三・十六)。この奥義は、またわたしたちにおいて働き、ある日、わたしたち、主を信じる者すべてを栄光の中へともたらします。その時には、あらゆるものが目に見えるようになり、すべてが明らかに現し出されます。しかし、このことは現在の奥義が存在しないと言っているのではなく、召会が完全に栄光の中へともたらされた時に、宇宙の中にはもう隠された奥義はなく、あらゆるものがみな明らかに現し出されるということです。神が肉体と成ってから、わたしたちが贖われ、携え上げられるまで、この時代はすべて奥義です。これは聖書における基本的な原則です。霊的な生活は奥義の生活であり、霊的な人は奥義の人であり、霊的な働きは奥義の働きです。わたしたちの働きは、奥義の働きであるべきであり、わたしたちの生活も奥義の生活であるべきです。

この奥義とは、パースンです。すなわち聖霊から身ごもり、処女から生まれたイエスです。この方は、神が肉体において現れ、人の間に存在し、また様々な過程を経て、この地上でいろいろな事を行なってこられました。啓示のない人に対しては、この奥義は理解できません。しかし、啓示のある人に対しては、それは実際的なものとして現され、多くの人が喜んですべてのことを捨て去り、殉教するに至るほどまでになるものです。この世の人にとっては、それがどういう事なのか、全く理解できません。

この奥義は神と人のミングリングである
実は、この奥義は神と人のミングリングです。マリアは聖霊から身ごもりました。それは神性が人性の中へとミングリングされたことです。二千年以来のキリストと召会の間で起こってきた事は、神が人の中へとミングリングされたということです。パウロは言いました、「その奥義は、啓示によってわたしに知らされました」(エペソ三・三)。パウロの十四の書簡はみな、このことを中心としています。「そして確かに、偉大なのは敬虔の奥義です.この方(神)は肉体において現され……世の人の中で信じられ」(Ⅰテモテ三・十六)、異邦人にとっては、それは完全に奥義です。

聖書は神の奥義(コロサイ二・二)、キリストの奥義(エペソ三・四)、福音の奥義(エペソ六・十九)について語っています。神の奥義はキリストであり、キリストの奥義は召会であり、福音の奥義はキリストと召会です。それらはすべて神の永遠の定められた御旨の成就のためです。わたしたちはみな、この啓示を得て、この奥義を知るようになる必要があります。またこの奥義の中心は神が人の中へとミングリングされることです。すなわち、神と人のミングリングです。

過去二十世紀を通じて、この奥義を知った多くの人は、この得た啓示のために、喜んで、その貴重な命をささげ、輝かしい前途を捨て、捨て難い肉親の情を捨てました。このことは、未信者である世の人から見れば、何という無駄使いでしょう。しかし、この奥義を愛する人から見るならば、これは彼らの香ばしい証しです。主に感謝、賛美します。今、この奥義はわたしたちに啓示されています。わたしたちは、自分の生涯を、わたしたちの見た啓示の上に注ぎ出すことを願います。わたしたちの親族、クラスメート、同僚、友人たちは、わたしたちが何を行なっているのか理解しないでしょう。なぜなら、これは奥義的なことであり、また奥義の時代であるからです。

奥義の時代の年数とその終結

神が定められた七十週の七
ダニエルが見た七十週のビジョンの中で、この奥義の時代の年数が奥義であることを見ることができます(ダニエル九・二四―二七)。この七十週は、七週と六十二週と最後の週である一週に分けられます。七週から成っている最初の部分は四十九年です。そして、それはアルタシャスタ王によって聖なる都を再建する布告が出されることから始まります(ネヘミヤ一・一)。この期間に、通りと堀と共に、聖なる都エルサレムの再建が完了しました(ダニエル九・二五)。次に、六十二週から成る第二の部分は、最初の七週に続き、主イエスの十字架刑、すなわち、油を塗られた方であるメシアが断たれた年で終わる四百三十四年です(二六節前半)。これは、最初の七週の四百年後に、主イエスが生まれ、さらに三十三年半の人の生活を経過し、十字架につけられ、主が死なれたのは六十二週のまさに最後の年であったということです。

七十週の最後の部分である第三の部分は、最後の週である「一週」です(二七節)。この一週はこの時代の最後の七年です。その後に主は再来され、この時代は終わるでしょう。しかしながら、この最後の週と先の六十九週の間に奥義の期間が挿入されています。神が人となった主イエスでさえも、彼自身が再来する日に関しては、神は彼に知らされていないと、主イエスご自身が言われています、「だれも知らない。……子も知らない。ただ父だけが知っておられる」(マタイ二四・三六)。ですから、この奥義の期間が何年であるのかだれも知りません。

奥義の終結
神がこの七十週のビジョンを啓示した目的は、違反を終結させ、罪を終わらせ、罪科のためになだめをなし、永遠の義をもたらし、ビジョンと預言者を封じ、至聖所を油塗るためです(ダニエル九・二四)。「ビジョンと預言者を封じ」、これは奥義の時代の終わりを示しています。啓示録第十章七節は言います、「第七の御使いが声を発する日、彼がラッパを吹こうとしている時に、神の奥義は完成される」。神のすべての奥義が成就されたなら、もはやビジョンと預言者は必要でなくなり、奥義の時代は終わります。

わたしたちが今いる時代は、奥義の時代です。すなわち、恵みの時代、召会の時代です(エペソ三・三―十一五・三二コロサイ一・二七)。この時代において、キリストは密かに、奥義的に新創造の中で、彼のからだ、また花嫁としての召会を建造されています(エペソ五・二五―三二)。新創造が命の中で円熟するとき、キリストのからだは、キリストの配偶者としての花嫁と成ります(啓十九・七―九)。七十週の終わりの七週の最後に、キリストは彼の花嫁をめとられた後、彼の花嫁軍隊と共に、人手によらずに切り出された石として、この世の政権を足元から頭に至るまで砕き、神と直接戦った人類の政権を打ち砕きます。その後に、キリストは彼の勝利者と共に拡増し大きな山となって、全地を満たします。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第5期第3巻より引用

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