神のエコノミーと神の分与

真理

わたしたちが何の偏見もなく聖書を読み、神を畏れる心で学ぶなら、わたしたちは聖書がそれほど簡単ではなく、浅いものでもなく、三つの層があることについて語っているということを知るでしょう。その第一層は神の福音と救いであり、第二層は神の祝福と繁栄であり、第三層は神のエコノミーと神の分与です。

聖書
どんなものでも高貴で価値のあるものは、簡単でなく、複数の層を持っています。中国の青島は、水晶を産出します。浅い場所を掘るなら、粗悪な水晶しか得ることはできません。もし高価な水晶を得たいなら、深い場所を掘らなければなりません。同じように、聖書の中の神聖な啓示も一層だけではありません。人がその層にいるなら、その層の聖書を読むだけです。どのような水準の人であるかが、聖書の中で見いだす啓示の水準を決定します。例えば、現代の中国にフーシーと呼ばれる最高の哲学者がいました。彼の認識によれば、聖書は現代中国語の最高の芸術作品です。自分の子供から敬われたい人たちは、聖書を両親を敬うことについての本とします。夫に愛を求める姉妹たちは、聖書を夫が妻を愛することについての本とします。妻の服従を期待する人たちは、聖書を妻が夫に服従することについての本とします。したがって、わたしたちがどんな人であるかで、聖書をどのように読むかが決まります。

聖書の中の神聖な啓示の三層
わたしたちが深く聖書を研究するなら、聖書には三層あることを見出すでしょう。第一層は神の福音と救いであり、第二層は神の祝福と繁栄であり、第三層は神のエコノミーと神の分与です。

人が主を信じる前は、違犯と罪の中で死んでいて、肉の欲にしたがって生き、自分の肉の欲の中で振る舞い、肉と思いの望むままを行なっていました(エペソ二・一―三)。福音を聞き、神の救いを受け入れた後、人は死から生かされ、彼は神聖な啓示の第一層に入り込みました。その後、彼は主の祝福と繁栄を経験し、神聖な啓示の第二層に入り込むでしょう。それから長い時間を経て、人は自分の経験があまりにも低いことを認識するようになります。神のエコノミーと神の分与という第三層があることを認識するようになったのは、わたしが主に仕えるようになって、しばらくしてからです。神は宇宙で唯一の尊い方です。そのような尊い偉大な方が何も努力もしないでいられるでしょうか? 神がわたしたち罪人を救ったのは、わたしたちに幸福と平安を得させるためであり、わたしたちが正しい生活をして、ある日、真珠の門を通って天にもたらされ、金の大通りを歩き、永遠の祝福を享受するためなのでしょうか?

神のエコノミーと神の分与を見なければならない
聖書は六十六冊より成りますが、それには多くの教えが含まれています。わたしたちが霊的な識別力を持って、聖書を徹底的に、詳細に、注意深く学ぼうとするなら、神のエコノミーはご自身を人の中に分与するという計画であることを見るでしょう。ですから、神のエコノミーにおいて達成される重要な点というのは、神の分与です。「エコノミー」という言葉の意味は、ギリシャ語で「オイコノミア」(oikonomia)です。それは、家族の規則、家庭の行政、家庭の統治を意味します。それは、行政上(分配)の案配(dispensation)、計画(plan)、あるいはエコノミー(economy)の意味で用いられます。ですから、それは家族の管理です。分与の事柄は、エペソ人への手紙第三章二節コロサイ人への手紙第一章二五節から二七節に啓示されています。これらの節で、「執事職」(原文ではエコノミーと同じ)という言葉には、分与の意味があります。神の執事職は、手順を経た三一の神を、キリストの中で彼の選ばれ、贖われ、再生された人の中に分与して、彼が彼らの命またあらゆるものとなり、宇宙でキリストの唯一のからだを生み出して、彼の団体の表現とすることです。このからだは、この時代には召会であり、永遠においては新エルサレムです。もしわたしたちが神のエコノミーと神の分与を見ていないなら、主のために世のすべてを放棄し、単純に主を愛していたとしても、主はある日わたしたちに尋ねられるでしょう、「あなたがわたしを追い求めたのは何のためだったのか?」。多分、わたしたちは、主を享受したいからであると言うでしょう。しかし、わたしたちが最初の二つの層にとどまっているなら、わたしたちは主を享受するでしょうが、主ご自身は享受することができません。わたしたちが最初の二つの層にとどまっているなら、わたしたちが主を愛し、主を享受し、毎朝復興され、毎日勝利をし、召会を愛し、召会のためであったとしても、利害の分岐点が来たとき、わたしたちは暴露されるでしょう。そして、わたしたちはただ自分自身のためであって、主のためでも、主の召会のためでもないことが明らかにされるでしょう。

もし神のエコノミーと神の分与を見るなら、わたしたちは自分の達成と利益を顧みないでしょう。神のエコノミーは、わたしたちの成就のためではなく、わたしたち選ばれ、再生された者の全存在がその霊で満たされ、至る所に主がおられ、至る所に神がおられるようになるためです。それは、わたしたちが天然の自己から離れ、すべての聖徒たちと共に神の住まいとなるためです(詩歌三八二番)。

神のエコノミーは団体の表現を得るためである
わたしたちは神のエコノミーと神の分与を見る必要があります。神のエコノミーの目標は団体的表現です。それゆえに旧約の中で、神はご自身のかたちにしたがって、ご自身の姿に似せて人を造られました(創一・二六)。それは、神がご自身を人の中に入れて、人の命となるためであり、また人が神と一つとなり、神を表現し、神の代理権威となるためです。

新約において、神ご自身である主イエスは、地上での神の幕屋となって人として来られました。それは神が地上に住んで、ご自身を表現するためでした(ヨハネ一・十四十八)。主イエスは、三十三年半の間、人の生活を送られました。それから、死と復活を経て、彼は命を与える霊と成り、信者の中に入られました(ヨハネ二〇・二二)。この幕屋は拡大して召会、神の満ち満ちた表現としての地上での神の住まいとなりました。最終的に、主がわたしたちに見せておられるのは、新エルサレムです。新エルサレムはキリストと召会の究極的な完成であり、永遠に神が住むための幕屋と聖徒たちが住むための宮であるでしょう(啓二一・三二二)。そして永遠の団体的な神の表現となります。

神の分与は神のエコノミーのためであり、
神ご自身を人に分与するためである
神のエコノミー、すなわち神のご計画と案配は、神の目標です(エペソ一・十三・九)。神の分与、すなわち、神ご自身の割り当て、分配することは、彼の手続きです。ご自身を人の中に造り込むというエコノミーを達成するために、神は分与する手段を経過しなければなりません。ですから、神の分与は、神のエコノミーのためです。

第一段階――肉体と成る
ご自身を人に分与するために、神が経られた第一段階は、肉体と成り、人と成ることでした(ヨハネ一・十四)。彼は肉体の中にあった時、一方で、世の人の罪を取り除く神の小羊でした(一・二九)。もう一方で、彼は青銅の蛇でした。それは、彼が肉体と成られたこと、すなわち、罪の肉の様で遣わされたことを示しています(ローマ八・三)。青銅の蛇として、彼はただ蛇の形を持っておられただけで、蛇の毒はありませんでした。主は肉体の中にあった時、十字架に上げられて、サタン、年を経た蛇を滅ぼされました(ヨハネ三・十四十二・三一)。さらに、彼はまた一粒の麦であり、彼は地に落ちて死なれ、神の命を解き放たれました(十二・二四)。

第二段階――命を与える霊と成る
神がご自身を人に分与するために経られた第二段階は、命を与える霊と成ることでした(Ⅰコリント十五・四五後半)。この二つの段階は、二つの「成った」を含んでいます。主はまず肉体と成り、次に命を与える霊と成られ、彼を信じる人たちが受けるように準備されました。わたしたちが彼の中へと信じるとすぐ、復活の中の命の霊はわたしたちの霊の中に入り(ローマ八・十六)、わたしたちの霊の中に住まわれます(十一節)。

三一の神の分与は信者たちを再生し、造り変え、栄光化する
キリストは命を与える霊として、まずわたしたちの霊を再生し(ヨハネ三・五―六)、天然の命に加えて、新しい人の新しい源と新しい要素としての、神の永遠の命をわたしたちに持たせました。この後、命を与える霊としてのキリストは、わたしたちの霊から広がって、魂を造り変えられます。わたしたちが魂の主要な部分である思いを霊に付けて、内側の霊なる主の活動と働きに協力するなら、わたしたちの思いは新しくされます(ローマ十二・二)。わたしたちの思いが新しくされる時、わたしたちの魂の別の部分である意志と感情も、自然に新しくされます。このようにして、神の命と性質がわたしたちの中に加えられ、わたしたちは新陳代謝的にキリストのかたちに造り変えられて、キリストを表現します(Ⅱコリント三・十七―十八)。最後に、彼はわたしたちの体を変貌させ、わたしたちの体は贖われて彼の栄光の中に入り、わたしたちの全存在はあらゆる面で彼のようになります(ローマ八・十七二三ピリピ三・二一Ⅰヨハネ三・二)。これは、神の救いの究極的な完成です。これらは、神聖な三一のわたしたちの中での分与です。

神の傑作としての召会を生み出す
神聖な三一の神聖な分与を通して、召会は生み出されました。召会がキリストにとって有機的なからだ、神にとって生ける人、三一の神にとってすばらしい、生きた、有機的な住まいとなるためには、神聖な三一の神聖な分与をすべての信者の中にもたらす以外に道はありません。この神聖な分与は、神ご自身を神聖な三一として分与することにほかなりません。

ですからエペソ人への手紙第二章では、召会は神の傑作とも呼ばれます(十節)。ギリシャ語で「傑作」という言葉は、詩を意味します。それは極みまで人の知恵と技能を表現した作品に対して使われます。神の目に、召会は神のすばらしい傑作です。救われる前、わたしたちはみな「わがままな」者でした。だれも、わたしたちを変えることができませんでした。しかし、ある日、だれかがやって来て、わたしたちに主イエスを信じるように告げました。その時、わたしたちは主イエスがだれであるのかあまりよく理解していませんでしたが、主を信じ、御名を呼び求めて、バプテスマされました。そのような経験を通して、わたしたちはみな変えられました。これは奥義です。だれも、それを説明することができません。わたしたちが言えることは、神聖な命の神聖な分与のゆえに、神ご自身がわたしたちの中に入られ、わたしたちが神の傑作になったということです。

召会、すなわち、からだと新しい人を建造する
召会は、新創造にある新しい人です。神聖な命の神聖な分与以外の何も、わたしたちを新しくすることはできません。福音を宣べ伝える時に、神聖な命の分与は、患者に注射をするようなものです。看護師は、患者にあまり説明する必要はありません。彼女は、患者の腕に薬を注射する必要があるだけです。同じように、神聖な命は、聖書の教えを人が理解することを通して分与されるのではなく、わたしたちが語って神聖な命を注入することを通して分与されるのです。そのような分与によって、何かが人の中に注入されます。

召会は生み出された後、建造される必要があります(エペソ二・十一―二二)。召会は新しい人であり、ただ生まれる必要があるだけです。しかし、この新しい人には体があり、体は建造される必要があります。赤ん坊が生まれるには、どのような建造も必要ではありません。しかしこの赤ん坊には体があり、体は建造を必要とします。赤ん坊が生まれたばかりの時、体はあまりに小さいのですが、この体は建造を通して成長します。聖書によれば、キリストのからだの成長とはキリストのからだの建造のことです(エペソ四・十六)。赤ん坊の体が成長する方法は、乳を飲むことを通して彼の体を養うことによってです。人をバプテスマした後、わたしたちは霊的な乳で養って彼を建造する必要があります(Ⅰテサロニケ二・七Ⅰコリント三・二前半Ⅰペテロ二・二)。

すべての母親は、赤ん坊に一度にあまり多く食物を与えるなら、かえって害になるということを知っています。ですから、徐々に、少しずつ食物を与えるべきです。子供は完全に成長するまで、長年母親の顧みの下で食物を与えられる必要があります。母親の養いとは分与することです。毎日、彼女は子供に乳、牛肉、りんご、卵、チキン、その他、多くの種類の食物を子供の中へと分与します。こうして、子供の体は建造されていきます。

救われた日から、主はわたしたちを養ってこられました。集会に来るたびに、わたしたちは養われます。朝早く起きて、主の言葉を祈り読みする、これも養いです。この養いは主の分与です。クリスチャン生活は、日々分与する生活です。わたしたちがそれを認識してもしなくても、この分与は奥義的な方法で絶えず進行しています。わたしたちは感じないと言うかもしれませんが、わたしたちの中でいつも多くの分与と霊的な養いが行なわれています。毎日、毎時、わたしたちのクリスチャン生活は、神の神聖な分与の下での生活です。わたしたちはこのことに関して何の感覚もないかもしれませんが、自分の感覚に信頼するべきではありません。わたしたちは神の分与に信頼するべきです。

一方で、召会はからだです。その機能はキリストと関係があります。もう一方で、召会はまた新しい人です。その機能は神と関係があります。この全宇宙で、神は行動しておられます。神は働いて、彼の大いなるエコノミーを完成しつつあります。「エコノミー」という言葉は、家庭の行政あるいは計画を意味します。神には大いなる家庭のご計画があり、キリストのからだである神の家庭は無限に大きいのです。神の家庭のご計画の中で、宇宙全体が彼の住まわれる家の大きな部屋です。神の永遠のご計画、すなわち、もろもろの時代のエコノミーを完成するために、神は一人の人を必要とされます。神は多くの一人を必要とされるのではなく、彼はただ一人の人を必要とされます。この一人とは、一人の団体的な新しい人です。

恵みの執事職の中の神聖な分与は、
召会の存在と新しい人の出現のためである
神のエコノミーを完成するために、神は、召会に仕え、供給する執事を得る必要があります。このために使徒たちは恵みの執事職を受けました(エペソ三・二)。この執事職は神の恵みを信者へと供給し、また神聖な恵みとしての測り知れないキリストの豊富を分与し、召会を生き生きとさせ、正しく存在させ、立たせます。使徒の務めは、まずキリストを罪人の中に供給し、信者たちを生み出します。次に、それは信者たちを養うことよって召会を建造します。同時に、豊富な言葉を供給することを通して、キリストの計り知れない豊富を召会の中へと分配し、分与し、召会が正しく存在することができるようにします。

召会は、正しく存在することの必要以外に、主の証しのために十分に立つ必要もあります。そのためには、召会にはキリストの豊かさを聖徒たちにもたらし、彼らの時機を得た助けとなるように、豊かな言葉の務めが必要です。聖徒たちは言葉の中に具体化されたキリストの豊富を受ければ受けるほど、ますますこのキリストの豊富を享受し、主の証しのために十分な方法で正しく立つことができるようになります。このようにして、キリストのからだが建造され、一人の新しい人も実際的に出現します。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第4期第3巻より引用

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