使徒たちの思いが 新しくされることと新しい人

真理

ペテロ、パウロとヨハネは新約の中で三人の主要な使徒たちでした。彼らの務めには強い光があり、「新しい人」というこの点を照らします。彼らの思いは新しくされ、主から、召会は一人の新しい人であるというビジョンを見ました。

漁をする務め、建造する務め、繕う務め
新約聖書の記録によれば、三人の主要な主導的な使徒、ペテロ、パウロ、ヨハネがいました。これらのすべての使徒たちと共に、わたしたちは一人の新しい人を持つという主の心の願いを見ることができます。ペテロは新約聖書の初期の記録において主要な役割を果たしました。書簡において、使徒パウロは非常に主要な地位を占めています。ヨハネの文書は新約聖書の結論と結びです。わたしたちは、新約聖書がペテロで始まり、パウロでいくらか完成し、使徒ヨハネによって完全に達したと言うことができます。

ペテロが主によって召された時、彼とアンデレは「海に網を打って」いました(マタイ四・十八)。彼らは人を捕る漁師とされました(十九節)。最終的に、ペテロはペンテコステの日に召会を設立するための最初の偉大な漁師になりました(使徒二・三七―四二四・四)。ペテロの務めは漁をする務め、すなわち材料をもたらす務めと考えてもよいでしょう。ペンテコステの日、主はペテロを用いて多くのユダヤ人信者をもたらし、また彼は主によって用いられて、コルネリオの家で異邦人信者の最初のグループをもたらしました(十・四四―四六)。新約聖書の記録によれば、ペテロは魚を捕らえ、召会の建造のための材料を集めました。パウロは主に選ばれた器として主の御名を宣べ伝えただけでなく、彼はまた天幕を造る仕事をした人でした(使徒九・十五十八・三)。彼の務めは建造する務めでした。ヨハネが主によって召された時、彼と彼の兄弟のヤコブは舟の中で、網を繕っていました(マタイ四・二一)。最終的に、ヨハネは命の務めによって召会の中にある破れを繕う真の繕う者となりました。こういうわけで、新約聖書において、わたしたちは漁をする務め、建造する務め、繕う務めを見ます。これらの主導的な務めの三つすべてと共に、光が「新しい人」の上に力強く輝いていました。

ペテロと一人の新しい人
使徒行伝の記載によれば、神はペテロを用いて、ペンテコステの日に多くのユダヤ人信者をもたらしました。主の主権の下で、彼らのうちの多くの人はさまざまな文化から来ており、さまざまな言語を語りました(使徒二・一―四)。その時、神の主権の下、多くの外地に住んでいた信仰深いユダヤ人が各地からエルサレムへと戻って来ていました。彼らもその声を聞き、弟子たちの下へと集まって来ました。彼らは、自分たちの地方の言葉で弟子たちが語るのを聞いてとても驚きました(五―十一節)。このとき、ペテロは十一人の使徒たちと共に立って、人々に福音を宣べ伝え、信じてバプテスマされた人はおよそ三千人いました(十四―四一節)。神はペテロを用いて多くの異なった文化、異なった言語のユダヤ人の信者をもたらしました。このことは、神の心の願いは、異なった部族、異なった言語の人たちが一となることであるということを示しています。

ペンテコステの日の後も、ペテロはおそらく、神の選びの民としてのユダヤ人だけが救われ召会となることができるという観念を保持していたでしょう。使徒行伝第十章で、ペテロが各地で福音を宣べ伝え、ヨッパの皮なめしのシモンの家に泊まっていました。ある日、昼の十二時ごろ、ペテロは祈りの時間を守って屋上に上って祈っていました(九節)。彼は祈っていると、突然空腹になって、食事をしたいと思いました(十節)。そして人々が食事を用意している間に、彼は夢心地になりました。夢心地とは、人が自分から抜け出て、そこから戻れるように感じる状態を言います(十二・十一のフットノート一)。夢の中にいるようですが、眠っているのではありません。この夢心地の中で、ペテロは大きなシーツのような入れ物が地に下って来るのを見ました。その中には、あらゆる汚れた動物がいました(十・十一―十二)。そして声が彼に臨みました、「ペテロよ、立ち上がりなさい.殺して食べなさい!」(十三節)。

ペテロが祈っていた時は、疑いもなく彼は霊の中にいて、神の計画と行動のビジョンを見ました。しかしペテロの応答は、「主よ、それはできません.わたしは俗な物や汚れた物を、一度も食べたことがないからです」というものでした(十四節)。彼の応答は、彼が自分の宗教的な考え方に戻ってしまったことを示していました。彼は霊の中で祈っていた間、夢心地になって、すばらしいビジョンを見ました。しかし彼はその声を聞いた時、直ちにユダヤ人の宗教的な考え方に戻ってしまいました。ペテロが見た、大きなシーツの中に入っていた四つ足の動物、這うもの、鳥は、あらゆる種類の人を象徴していました。このしるしにおいて、食べることは、人々と交際すること(二八節)、汚れた物を食べることは、異邦人と交わることです。ユダヤ人が異邦人と交際することは、汚れた物を食べるようなものでした。何かを食べることは、そのものをわたしたちの中へと取り入れ、それとわたしたちが一になることです。天から下りてきた大きな入れ物の中に入っていた汚れた物を食べることをペテロが拒んだことは、ユダヤ人が異邦人を進んで取り入れず、彼らと一にならないことの描写です。異邦人の所に行き、彼らと一になろうとするどのようなユダヤ人も、汚れた物を食べる人のようです。それは完全にユダヤ人の規定に違反しています。

後に、ペテロはこの天からのビジョンを理解しました。それは異邦人との交わりを実行するということでした。彼は異邦人信者のコルネリオの要請を受けて、彼の家に行って、彼の親族や友人に福音を宣べ伝えました。聖霊もまた彼らに下り、これらの異邦人すべてが救われました(十七―四八節)。ペテロはこのように実行できたことから、彼は少なくとも思いの中である程度にまで新しくされ、召会が一人の新しい人であり、ユダヤ人と異邦人が分けられていないということ見ていたと思われます。ですから、彼は宗教的な伝統に違反してでも、異邦人に福音を宣べ伝えることができました。

しかし、ガラテヤ人への手紙第二章で、ペテロは割礼の者たちを恐れて、異邦人信者と食事することにしりごみしてしまいました。福音の真理に忠信であるために、パウロはペテロを彼の面前で叱責しました(十一―十四節)。この事は、わたしたちに、ペテロの思いは新しくはされていて、神からの彼に与えられたビジョンは見たのですが、宗教の伝統により後退してしまったことを見せています。

パウロと一人の新しい人
パウロはユダヤ教においてペテロよりもはるかに深く力強かったのです。ペテロはガリラヤから来た漁師でしたが、パウロはユダヤ教の学者でした。彼は偉大なユダヤ人教師、ガマリエルのひざもとで教えられました(使徒二二・三)。ガラテヤ人への手紙第一章で、パウロは「自分と同族で同年輩の多くの者にまさってユダヤ教において進んでおり」とわたしたちに告げています(十四節)。パウロはユダヤ教とその伝統と規定に対してとても熱心でした。パウロはユダヤ教の力強い背景があったにもかかわらず、ダマスコの路上で大きな光と出会い、主イエス自ら彼に語った福音の宣べ伝えを聞き、キリストのからだのビジョンを見、そして異邦人とイスラエルの民へ福音を宣べ伝える器として主に選ばれました(使徒九・一―十五)。それから後、彼はとても大きな転換を持ちました。それは旧約の務めから新約への務めへと入ったことです。パウロはコリント人への第一の手紙第十二章十三節において言っています、「わたしたちはユダヤ人もギリシャ人も、奴隷も自由人も、みな一つ霊の中で、一つからだの中へとバプテスマされ、みな一つ霊を飲むようにされたからです」。そしてガラテヤ人への手紙第三章二七節から二八節において言っています、「なぜなら、キリストの中へとバプテスマされた者はみな、キリストを着たからです。ユダヤ人もギリシャ人もあり得ません.……あなたがたはみな、キリスト・イエスの中で一であるからです」。またコロサイ人への手紙第三章九節から十一節は言います、信者たちはすでに「古い人をその行ないと共に脱ぎ捨て、新しい人を着たのです.その新しい人は、それを創造された方のかたちにしたがって全き知識へと至るように……新しくされつつあるのです.その新しい人には、ギリシャ人とユダヤ人……はあり得ません.キリストがすべてであり、すべての中におられるのです」。パウロはこの書の中で、新しい人にはギリシャ人とユダヤ人は何の立場もないとわたしたちに告げています。ユダヤの宗教と教育が深く刻み込まれたパウロがこのように語ることは容易ではありません。彼がこのように言えたのは、彼の考え方において驚くほど新しくされたことを示しています。

しかしながら、使徒パウロは主からのはっきりしたビジョンを持っていましたが、ユダヤ教の影響のゆえに大きな間違いをしました。彼が三回目に福音と召会を顧みるために出て行ったその行程の中で、彼はエルサレムに戻り、ヤコブとその地の長老たちに会ったときに、ヤコブは最初にパウロに告げました、「兄弟よ、あなたの見るとおり、ユダヤ人で信じた者が何万といますが、みな律法に対して熱心です。ところで、彼らがあなたに関して聞かされていることは、あなたが諸国民の間に散らされているすべてのユダヤ人に対して、その子供たちに割礼させるなとか、慣例にしたがって歩くなとか告げて、モーセに背くように教えているということです。それで、どうしましょうか?」(使徒二一・二〇―二二)。これらのユダヤ人はキリストにある典型的な信者たちでしたが、なおも規定を守っていました。そして彼らはパウロがその規定を破っていることを聞いたのです。この結果、エルサレムの兄弟たちは、このことを心配して、パウロが他の四人の男と共に旧約のきよめを受ける儀式を行なうように提案したのです。それはパウロに関して、すべての人が「あなた(パウロ)について聞かされていることが根も葉もないことであり、あなた自身も律法を守って正しく歩いていることを」知るためでした(二四節)。パウロは兄弟たちによって説得されて、旧約のナジル人の誓願、神の御前できよめを受ける儀式を行ないました(二六節)。

パウロは、当然ですが彼の新約における務めの教えの原則(特にローマ人への手紙とガラテヤ人への手紙の中の)ははっきりとしていました。神の新約エコノミーの中では、そのような旧約の律法の実行は時代遅れのエコノミーであり、拒絶されるべきものです。しかし、パウロはエルサレムの長老たちの言葉に服し、なおもそれをしてしまいました。しかし主はそれを許されませんでした。誓願の七日が終わろうとしていた時、主は彼の主権をもって介入しました。主はパウロをユダヤ人によって捕らえさせ、ローマ人たちによって投獄させました(二七―三三節)。その後、主は西暦七〇年に、タイタスの指揮下にあるローマの軍隊を遣わし、エルサレムをその宮と共に完全に破壊しました。このことは、マタイによる福音書第二四章の主の預言を成就しました。そこで、主は宮に関して「一つの石も崩されずに、他の石の上に残ることは決してない」と言われました(二節)。パウロはエルサレムに来た時、このビジョンをはっきりと持ち、見ていたのですが、そこの雰囲気と環境は彼に強いて妥協案を取らせてしまいました。このことは神の召会に関する新約エコノミーを混乱させ、荒廃をもたらしました。

ヨハネと一人の新しい人
ペテロもパウロもビジョンを見、思いも新しくされ、召会が一であることを見、ユダヤ人と異邦人に区別がないことを見たのですが、新しい人の実行においてはある種類の失敗をしました。しかしながら、使徒ヨハネについては、わたしたちはこれらの種類の過ちを見ることができません。ヨハネは啓示録において、主が「その血によって、あらゆる部族、言語、民族、国から人々を神に買い取っ」たと告げました(五・九)。ヨハネもユダヤ人でしたが、この言葉は彼の思いが大いに新しくされていたことを示しています。彼は、さまざまな部族、言語、民族、国から人々を贖い出して、神へと帰するためにキリストが十字架上で死なれたと言いました。

また、ヨハネは第一章十節から十二節で言っています、「わたしは主日に霊の中にいた.すると、わたしの後ろのほうで、ラッパのような大声がするのを聞いた.それはこう言った、『あなたが見ていることを巻物に書いて、七つの召会に……送りなさい』。わたしは……振り向くと、七つの金の燭台を見た」。ヨハネが霊の中で見たビジョンを通して、わたしたたちは諸召会が金の燭台であることを見ます。しるしにおいて、金は神聖な性質を表徴しています。燭台が金であることは、諸召会が完全に神聖な性質で構成されていることを表徴しています。金の燭台にはその他のいかなる天然、民族、文化の要素はなく、ただ神聖な性質があるだけです。究極的にこれらの燭台が新エルサレムになることを見ます。燭台において、また新エルサレムにおいて、民族と民族の間の違いは全くありません。

一人の新しい人の出現のために、
わたしたちの思いが新しくされる必要がある

ペテロ、パウロ、ヨハネという何人かの使徒の務めから、わたしたちは一人の新しい人の実際の出現には、思いが新しいくされることが必要であることを見ます。エペソ人への手紙第二章十五節は言います、「(キリストは)数々の規定から成っている戒めの律法を、彼の肉体の中で廃棄されたからです.それは、彼がご自身の中で、二つのものを一人の新しい人へと創造して、平和をつくるためであり」。これは主が十字架上で死なれたときに、新しい人はすでに創造されたことを言っています。しかし、主の死と復活の後、約二十世紀が経過しましたが、この新しい人はまだ完全に地上に出現していません。なぜなら、多くのクリスチャンの思いがまだ新しくされていないからです。

わたしたちは、パウロの手紙から、新しい人が実際に出現するためには、キリストの十字架上の死を除いて、さらに三つの段階が必要とされていることを見ることができます。すなわち、信者がその霊の中でバプテスマされること、一つ霊を絶えず飲むこと、そして思いの霊の中で新しくされることです(Ⅰコリント十二・十三エペソ四・二三)。からだの生活と新しい人を持つために、わたしたちは思いの霊の中で新しくされなければなりません。思いが新しくされるとは、わたしたちの個人的な振る舞いのためだけではなく、それ以上に、からだの生活と新しい人のためです。もしわたしたちが天然の考え方のままでとどまるなら、一人の新しい人が出現する可能性はありません。またわたしたちの地方で正常な召会生活を持つことさえできません。

あらゆる人種にはそれ自身の性格、個性があります。その人種間の違いを取り除こうとしてもほとんど不可能です。わたしたちの民族性の違い以外に、わたしたちはそれぞれ、さまざまな環境で育ち、さまざまな背景から来たので、特定の性格と個性があります。主の恵みとその霊なしに、だれも他の人と一になることができません。わたしたちがメッセージを聞いたり、あるいは祈ったりする時に、おそらく思いは徐々に新しくされているでしょう。わたしたちもペテロと同じように、夢心地となり、一人の新しい人のビジョンを見、受け入れるかもしれませんが、ペテロが召会生活の実行においてやはり問題を持っていたように、今日わたしたちも同じ状況です。わたしたちが祈る時に、自分自身を霊の中へと祈り込みます。しかし、わたしたちは日常生活において、常に自分自身を霊の中に保ち、わたしたち自身を霊から出させないようにしなければなりません。

わたしたちは日常生活のすべての事柄において、どれほどさらに新しくされる必要があるでしょう。夫は妻との関係でさえ、普段の習慣に従うのではなく、思いの霊の中で新しくされる必要があります。そうでないと、主がからだを持たれる道はありません。また主が新しい人を持たれる道はありません。このことは、わたしたちの振る舞いを調整することではなく、思いの霊の中で新しくされ造り変えられることによって、わたしたちを別の人にするということです。日ごとに、わたしたちは古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着る必要があります。このために、わたしたちは一つ霊を飲む必要があります。それはわたしたちが実際の日常生活のあらゆる面において、思いの霊の中で新しくされるためです。このようにして、一人の新しい人は地上に実際に出現します。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第4期第3巻より引用

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