旧約の歴史によれば、地上の人の間に一つの幕屋がありました。
その幕屋の中には神の臨在がありました。
神は幕屋の中に住まわれ、イスラエルの民と共に行動されました。
新約の時代になると、使徒ヨハネは、彼の書簡において、
いろいろな方法で幕屋について語っています。
ヨハネによる福音書の第一章十四節で、
「言は肉体と成って、わたしたちの間に幕屋を張られた」と言っています。
旧約での幕屋とはどのような特別な場所だったのでしょうか?
新約の時代のクリスチャンにとって、
幕屋はどのような意義を持つのでしょうか?
モーセは幕屋のビジョンを見た
出エジプト記は大きく二つに分けることができます。最初の一つは、第一章から第二四章です。二つ目は、第二五章から四〇章です。最初の二十四章は神がモーセを通してどのようにイスラエルの民をエジプトから導き出したかを記載しています。彼らは過越の祭りを守り、紅海を渡り、メラとエリムを経過し、マナを享受し、裂かれた岩からの生ける水を享受し、アマレク人と戦いました。そしてシナイ山、すなわち神の山へと到着しました。モーセは山の頂上で神の律法を受けただけでなく、神の栄光の中で幕屋のビジョンを受けました。神がおおいを取り除き、モーセは天の事柄のビジョンを見ました。二五章から四〇章は幕屋の建造の記載です。ヘブル人への手紙第八章五節で「それはモーセが幕屋を完成しようとした時、神から指示されたとおりです.すなわち彼は『見よ、山で示された型にしたがって、すべての物を造りなさい』と言われました。」と言っています。モーセがこのビジョンを見るには、エジプトからシナイ山に来なければなりませんでした。
神の民は初期の経験を通過した後、シナイ山で神との親密な交わりの中へと入りました。彼らは神との交わりの過程で、神が何であるかの啓示を受けました。この啓示は神の律法によって描写されました。律法は絵、写真であって、神が何であるかを見せます。律法は神が何であるかの啓示です。それは、神が聖で義であること、彼が光と愛の神であることを啓示しました。律法はまた神の民の状態を暴露しました。神は聖ですが、民はこの世的で世俗的でした。神は義ですが、民は不義で満ちていました。神は光と愛の神ですが、民は暗やみと憎悪で満ちていました。民は暴露されたので、モーセに自分たちのために神に行くようせき立てました。彼らは、神が聖で義であるので、仲保者を必要とすることを認識したのです。
モーセは神の山にいたとき、ビジョンを見ました。幕屋のビジョンを見ようとするなら、わたしたちも主と共に山頂にいる必要があります。モーセは神の山にいたとき、四十日四十夜、神と共に神の栄光の下にとどまりました。
出エジプト記第二五章で神はモーセに言われました、「彼らにわたしのために聖なる所を造らせなさい。それは、わたしが彼らの中に住むためである。わたしがあなたに示すすべてのこと、幕屋の型とそのすべての調度品の型にしたがって、あなたがたはそれを作らなければならない。」(八―九節)。シナイ山で、神の民は神が何であるかを啓示する律法を得て、彼らの真の状態が暴露されただけでなく、神の住まいである幕屋のビジョンをも受けました。これは、神の心の願いが彼の贖われた者たちと共に地上に住まいを持つことであると告げます。これが神がわたしたちを救うことの目標です。
幕屋はキリストを予表する
神がモーセに建造するように命じた幕屋は、肉体と成ったキリストの予表です。ヨハネによる福音書第一章十四節は言います、「そして言は肉体と成って、わたしたちの間に幕屋を張られた」。肉体と成った言であるキリストは、地上で神が人の間に張られた幕屋です。
人性における神の具体的な表現として
肉体と成ることを通して、キリストは人性を着て、人性における神の具体的な表現となられました。コロサイ人への手紙第二章九節は言います、「なぜなら、キリストの中には、神たる方の全豊満が肉体のかたちをもって住んでいるからです」。キリストが肉体と成って、人の体を着られた時から、神たる方の豊満は幕屋としての彼の中に具体的に住み始めました。
さらに、テモテへの第一の手紙第三章十六節は、「偉大なのは敬虔の奥義です。この方は肉体において現され」と言います。「肉体において」とは、人の様で、人の姿にという意味です(ローマ人への手紙第八章三節、ピリピ人への手紙第二章七節―八節)。キリストは人の形をとって人々の前に現れましたが(コリント人への第二の手紙第五章十六節)、彼は人において現された神、すなわち肉体にある神の具体化でした。彼は人性と神性の二つの性質を持ち、神性が人性の中に存在し、人性を通して表現される神・人です。
人性における神の住まいとして
肉体と成ることを通して、キリストは神性を人性の中にもたらしただけでなく、地上で人の間にある神の住まいとして神にとって幕屋ともなりました。旧約の歴史によれば、幕屋は地上にある神の住まいであり、幕屋としてのキリストは人性における神の住まいです。
人が神と接触し、それによって神を得て享受する手段として
神の具体化として、肉体と成った神であるキリストが人性における神の住まいとなったことによって、人は神に接触し、その結果、神を得て享受することができるようになりました。本来、天上で、隠されていて、触れることのできなかった神は(ヨハネによる福音書第一章十八節前半、テモテへの第一の手紙第六章十六節前半)、キリストを通して肉体となり、幕屋として彼の中に具体化されました。この幕屋を通して、人は神に接触し、神の中に入って彼を得、恵みと実際として十分に彼を享受することができます(ヨハネによる福音書第一章十四節後半)。
幕屋の枠板
幕屋は、金で覆われたアカシア材の枠板でできていました(出エジプト記第二六章十五節、二九節)。アカシア材は、性格において強く、標準において高いキリストの人性を表徴します。キリストの人性は、彼が神の表現と住まいとなるための基本的な要素です。金は、神聖で、純粋で、永遠に変わることのないキリストの神性を表徴します。内側も外側も金で覆われたアカシア材は、神聖な性質が人の性質とミングリングされており、また、神聖な性質が人の性質を貫いて、それを通して表現されることを表徴します。ですから、神性と人性とのミングリングである幕屋としてのキリストと共に、神は人性における具体的な表現と住まいを得られます。
幕屋の中の器具
幕屋は、垂れ幕によって分離された二つの部分に分かれていました。垂れ幕の外側の部分は聖所と呼ばれ、内側の部分は至聖所と呼ばれました(出エジプト記第二六章三三節)。幕屋の中には、たくさんの器具がありますが、それは、わたしたちが神の中に入った後、わたしたちが経験するキリストの異なる面を表徴します。聖所には、供えのパンの机と、金の燭台と、至聖所の近くに香の祭壇がありました。供えのパンの机は命の供給としてのキリストの経験を表徴し、燭台は輝く光としてのキリストの経験を表徴し、香壇はわたしたちが神に受け入れられるための、神に対する甘美な香りとしてのキリストの経験を表徴します。
至聖所には、契約の箱がありましたが、それは神が人々に会う場所としてのキリストを表徴します。契約の箱の中には、隠されたマナが入っている金のつぼ、芽を出したアロンの杖、二枚の契約の板がありました(ヘブル人への手紙第九章四節)。金のつぼの中の隠されたマナは、最も深い面での命の供給としてのキリストの経験を表徴します。芽を出した杖は、復活におけるキリストの経験を表徴し、神が与えてくださった務めの権威の中で、わたしたちを神に受け入れられる者とします。十戒の板である二枚の契約の板は、照らす内なる律法としてのキリストの経験を表徴し、神の神聖な性質にしたがってわたしたちを規制します。
幕屋は召会を予表する
聖書全体の啓示によれば、出エジプト記第二五章から第四〇章で描写された幕屋は、個人のキリストだけでなく団体のキリスト、すなわち召会をも予表します。キリストは肉体と成って、地上にある神の真の幕屋となり、十字架において人によって破壊されましたが、復活において再び建造されました(ヨハネによる福音書第二章十九節―二二節)。こうして、幕屋としての彼は召会へと拡大し(テモテへの第一の手紙第三章十五節―十六節)、最終的に神と人の永遠の住まいとして新エルサレムにおいて完成します(啓示録第二一章三節)。
幕屋は集会の天幕とも呼ばれる
幕屋が築かれ、建てられた後、神はすぐに来られて、その中に住まわれました。出エジプト記第四〇章三四節は言います、「その時、雲は集会の天幕を覆い、主の栄光が幕屋を満たした」。その時、神はただ天にいる神であるだけでなく、人の間に住む神でもありました。ここの幕屋と集会の天幕は、同じ建物を指します。人に関して言えば、それは集会の天幕ですが、神に関して言えば、それは幕屋です。キリストが地上における神の住まいの予表として、それは幕屋と呼ばれます。キリストが神の民の集まりの中心の予表として、幕屋は集会の天幕と呼ばれます(レビ記第一章一節)。ですから、一方で、肉体となったキリストは地上における神の住まいですが、他方、彼は神の民が神と共に集まる場所、彼らが自分たちの間で集まる場所です。その究極的な完成において、この幕屋は神と彼の贖われた者たちの永遠の住まいとして新エルサレムにおいて現されます。ここにおいて、神は永遠にわたしたちと共に住み、幕屋としてのキリストと共にわたしたちを覆われます(啓示録第七章十五節)。
詩歌(安らかに住む家あり) 習志野に在る教会作成
記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第1期第1巻より引用