褒賞を追い求め、 王国を得る

真理

もし人が主イエスを救い主として信じ、命として彼を受け入れるなら、この人は神の御前で救われます。人が救われると、神は直ちにこの人を一つの道の上に置かれます。その結果、この人は走るべきレースを走り、彼の前に置かれている褒賞を得るでしょう。救いはわたしたちの行程の第一歩です。そして褒賞はわたしたちの行程の最後の一歩です。褒賞を得る資格が与えられているのは救われた人だけです。救われていない人には資格は与えられていません。

神は、この世の人々の前には賜物を置き、クリスチャンの前には褒賞を置かれます。人はキリストを信じる時、賜物を受けます。人はキリストに従っていくとき、褒賞を受けます。賜物は信じることで、この世の人たちに与えられます。褒賞は、忠実であり、良い行ないをする人々に与えられるものであり、それはクリスチャンのためのものです。

今日わたしたちが努力し追い求めるべきものは、わたしたちの前に置かれている神の褒賞です。将来における王国では、大きな違いがあります。すなわち、ある人は栄光を得、ある人は栄光を得ないでしょう。本編で、わたしたちは褒賞とは結局のところ何であり、またわたしたちがどのようにして得ることができるのかを見ていきたいと思います。

褒賞は行ないによる
聖書は、救いは信仰によるとはっきり言っているのと同じように、褒賞は行ないによるとはっきり言っています。救いは、罪人が信じることによるものであり、褒賞というのは、クリスチャンの行ないによるものであることを、聖書はわたしたちに啓示しています。ローマ人への手紙第四章四節は言っています、「さて働く者に対する賃銀は、恵みとしてではなく、当然支払われるべきものとして勘定されます」。「働く者に対する賃金」は、「働く者が得る褒賞」と訳すことができます。働く者の報酬とは、恵みではなく、当然に受け取るべきものです。報酬は働きによって得られるのであって、恵みによってではありません。

コリント人への第一の手紙第三章十四節は言います、「もし、その土台の上に建てた人の働きが残るなら、彼は褒賞を受けます」。ここで、人の働きが残るなら、褒賞を受けると言います。もしその人の信仰が残るなら褒賞を受ける、とは言っていません。褒賞は人の働きにかかっています。聖書は、救いと褒賞とをはっきり区別しています。聖書は、救いと褒賞、信仰と働きとを決して混同していません。信じることがなければ、人は救われません。良い行ないがなければ、人は褒賞を受けることはできません。人の行ないは、神の裁きの座の前に立てるものでなければなりませんし、神の燃える目の厳しい調べにも持ちこたえなければなりません。そうしてはじめて褒賞を受けることができるのです。

褒賞は王国である
聖書は、褒賞とは冠、王座(御座)、王国であることを、はっきりと示しています。王国は褒賞です。聖書では、王国には三つの面があります。第一の面において、王国は今日、神の権威が外側に現されたものであり、それは神の主権の外側の現れです。第二の面は、今日、神が人を支配し制御する権威です。これもまた王国と呼ばれます。第三の面で、王国とは、褒賞を指しています。

マタイによる福音書第五章から第七章における、山上での主の教えは、王国について語っています。これらの主の教えは、人がどのようにして天の王国に入ることができるかを告げています。このことがわたしたちに見せているのは、褒賞と王国が一緒にされているということです。その中で主は語られました、「霊の中で貧しい人たちは幸いである.天の王国は彼らのものだからである。……義のために迫害されている人たちは幸いである.天の王国は彼らのものだからである」(五・三)。天の王国が、これらの祝福の中で二回述べられています。これらの後、主は次のように言われます、「人々がわたしのゆえにあなたがたをそしり、迫害し、偽りを語って、あなたがたに対してあらゆる邪悪なことを言うとき、あなたがたは幸いである。喜び歓喜しなさい。天におけるあなたがたの褒賞は大きいからである」(マタイ五・十一―十二)。これは、王国は神の褒賞であり、この二つには区別がないことをわたしたちに見せています。

褒賞は冠を得ることであり、
また御座に着くことである
ある時、一人の西洋の宣教士がわたしに言いました、「たとえわたしが冠を得ることができなくても、少なくとも王国は持つことができます」。あなたは英国の国王に、彼が冠を失っても依然として王国を持っているかどうかを聞いてみなさい。冠とは何でしょうか? 金を打って帽子のようにし、そこにいくつかのダイヤモンドを飾ったもの、それが冠であるというのではありません。このような冠は、少しお金があるなら作ることができます。冠とは何でしょうか? 冠は王国における地位を表すものです。それはまた王国の栄光も表しています。もし冠が物質的なものにすぎないとすれば、それはあまり意味がありません。もしあなたにお金があるならば、金を使って冠を作ることができますし、わたしにお金がなければ、銅や鉄で冠を作ることができます。さらに貧しいなら、布切れで冠を作ってもよいでしょう。将来、あなたの冠がわたしの冠より大きいとか、あなたの冠にはわたしの冠よりダイヤモンドが多くついているとかの問題ではなく、冠にはその表すところの意義があります。わたしたちは、冠が王国を表徴していることを見る必要があります。冠を失うとき、王国を失います。

王座(御座)とは何でしょうか? 聖書は、十二使徒が十二の座に着くことを、わたしたちに見せています(マタイ十九・二八)。冠は、勝利者に対する褒賞です。そして王座(御座)も、勝利者に対する褒賞です。ですから、王座(御座)は王国の表徴であり、王国における地位、王国における権威、王国における栄光を表しています。冠を失っても、王国は持つことができるという人は絶対にいません。同様に、王座(御座)を失っても、王国を持つことができるという人も絶対にいません。王座(御座)を失うなら、王国を失います。同じように、冠を失えば、王国を失います。

王国を得る条件

神の御旨の実行
聖書には、一つの極めて厳粛な真理があります。それは、ある人が永遠の命を得たとしても、その人は天の王国とは何の関係もないということです。たとえば、マタイによる福音書第七章二一節では言っています、「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな、天の王国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者だけが入るのである」。ここで主は、天の王国に入る条件は神のみこころを行なうことであることを、はっきりとわたしたちに示しておられます。天の王国の褒賞は、人の服従に基づいています。もし地上に生きている間、忠実でないなら、救いを失うことはありませんが、天の王国は失います。天が支配する時、すなわち主イエスが二度目に来られる時、ある人たちは王国に入ることができず、王国を失います。

自分の体を打ちたたき、主を喜ばす
使徒パウロは、コリント人への第一の手紙第九章二節から二七節の中で言っています、「あなたがたは知らないのですか? 競技場で走る者はみな走りますが、賞を受けるのはただ一人です.あなたがたは賞を得るために、このように走りなさい」。パウロは、他の人に宣べ伝えておきながら、自分が失格するかもしれないことを恐れました。失格するとは、王国と褒賞を失うことを指しています。

パウロは、レースを走る者に自分自身をたとえています。そのレースにおいては多くの人が走りますが、賞を得る者はただ一人だけです。ですから、ここではどのようにして未信者が救われるかについて語っているのではなく、救われた人がどのようにして賞を得ることができるかを語っています。救われた人、神の子供となった人だけが、競走に加わる資格が与えられ、神がわたしたちに得させたい賞を追い求めることができます。もし神の子供でなければ、その人はまだ競走に加わる資格がありません。救いが競走によって得られると述べている箇所は、聖書の中にはありません。しかし聖書は、賞は走ることによって得られると言っています。では賞とは何でしょうか? 二五節で賞は冠であると言っています。わたしたちは、冠は栄光と王国を意味することをすでに述べました。もしパウロに賞と冠を失う可能性があったとすれば、わたしたちもみな、賞と冠を失う可能性があります。

ですから、二六節でパウロは続けて言っています、「こういうわけで、わたしはこのように走ります.はっきりした目標のない走り方ではありません.このように拳闘をします.空を打つような拳闘ではありません」。パウロには目標と方向がありました。すなわち、主を喜ばせるということです。彼がこの地上で生きるにしても死ぬにしても、彼の願いは主を喜ばせることでした(Ⅱコリント五・九)。

もし賞を得たいなら、わたしたちはどうするべきでしょうか? 「わたしは自分の肉体を打ちたたき、それを自分の奴隷としています」(Ⅰコリント九・二七)。多くの人は、自分の体を賞よりも上に置きます。多くの人は、自分の体を神のみこころよりも上に置きます。しかし、パウロはここで、自分の体を下に置きました。彼は自分の体を支配することができました。彼は、体の情欲、体の強い要求、体の欲望を制御することができました。クリスチャンが主を喜ばせることができるかどうかは、自分の体を支配することができるかどうかにかかっています。多くの人は、自分自身の体を支配することができません。少しでも体に刺激があると、あらゆる種類の罪が生じます。自分自身の体を制御できない人はみな、賞と冠を失うことを、わたしたちは見なければなりません。このような人は他の人に福音は宣べ伝えますが、彼ら自身は評価されません。

金、銀、宝石を用いて建造する
聖書の中で褒賞について最も明確に述べている箇所は、コリント人への第一の手紙第三章十四節と十五節です、「もし、その土台の上に建てた人の働きが残るなら、彼は褒賞を受けます。もし、その働きが焼き尽くされるなら、彼は損失を被ります。しかし彼自身は、火をくぐってきたようにではあっても救われます」。これは、わたしたちが褒賞を受けるか損失を被るかは、わたしたち自身の建てる働きにかかっているということを、はっきりとわたしたちに見せています。もし人が金、銀、宝石、すなわち永遠の価値あるものを用いて、主イエスの土台の上に建てるなら、彼は確かに褒賞を受けるでしょう。これらの尊い材料はみな、わたしたちが霊の中で聖霊によって、キリストにあずかり、享受し、生み出されるものです。これらのものだけが、神の建造に適したものです。もし人が木、草、刈り株を用いて建てるなら、神の御前で褒賞を受けることはありません。それらの価値のない材料はみな、信者の天然の人が生み出したものであり、また彼らの背景の中から集められたものです。彼らは人の前では多くのものを得ることができたとしても、神の御前では何も得ないでしょう。神のエコノミーの中で、これらの材料はただ焼かれてしまうものでしかありません。

真理は、とても均衡が取れています。救いを得ることは、主イエスにかかっています。しかしながら、人が褒賞を得るかどうかは、その人の建てる働きがどうであるかによります。人は神を信じなければなりませんし、働かなければなりません。この働きは、自分自身の働きではなく、三一の神があなたの中に成し遂げられる働きです。神はすべての信者に救いを与えられました。それは無代価の恵みであり、永遠にまで至るものです。また主は、あるクリスチャンたちの働きにおいて、神によって評価された信者に(すべての信者ではない)、王国時代のための褒賞を与えられます。この褒賞は、それらのクリスチャンの働きに対しての励ましです。

王国は望みであり、堅固で動かない
マタイによる福音書第二二章十四節は言います、「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ないからである」。招かれるとは、召されて救いを受けることです。選ばれるとは褒賞を得ることです。信者は、すでに召されましたが、選ばれ褒賞を得る者は多くありません。ですからペテロはわたしたちを励まして言います、「こういうわけで、兄弟たちよ、さらに勤勉になって、あなたがたの召しと選びを堅固なものとしなさい」(Ⅱペテロ一・十前半)。ここでは、人の選びと召しとが必ずしも堅固なものではないことを言っています。このことは、人が救われる前の状態に再び戻ることを意味しているのでしょうか? そうではありません。なぜなら、ローマ人への手紙第十一章は、「神の恵みの賜物と召しは、取り消されないものです」とはっきり告げているからです(二九節)。ペテロは、召しだけでなく、選びについても語っています。彼は召しと選びを一つにして述べています。聖書は、召され、救われる者は多いが選ばれる者は少ない、と何度も告げています。ですから、ここでの選びは、王国における地位を言っています。もしわたしたちがこの真理を知らないなら、これが王国の望みを堅固にすることを言っていることを見ないでしょう。

ペテロはまた、「これらの事柄を行なうなら、あなたがたは決してつまずくことがありません」(Ⅱペテロ一・十後半)と言いました。これらの事柄とは、五節から七節で述べられているような信仰、美徳、知識、自制、忍耐、敬虔、愛を指しています。もしわたしたちがこれらの事柄を行なうなら、決してつまずくことはないでしょう。これは、もしわたしたちがさらに勤勉になるなら、わたしたちの召しと選びはさらに堅固なものになる、と言うのと同じです。これらは、対になっている表現です。これらの対になっている表現の前半は、わたしたちは勤勉になって、自分の召しと選びを堅固なものにするべきであると言います。後半は、これらの事柄を行なえば、わたしたちは決してつまずくことがないと言います。

ですからペテロは十一節で言います、「このようにして、あなたがたは豊かに、あふれるばかりに供給されて、わたしたちの主また救い主イエス・キリストの永遠の王国へと入るのです」。わたしたちの召しと選びを堅固なものにすることは、永遠の王国の中に豊かに満ちあふれるばかりに入ることです。啓示録第十一章十五節は、キリストの権威が千年王国の時に始まることを、わたしたちに見せています、「第七の御使いがラッパを吹いた。すると、天に大声があって言った、『世の王国は、わたしたちの主とそのキリストの王国となった。彼は永遠にわたって支配される』」。この節の中で、キリストの王国と永遠が一緒に置かれていて、それは永遠にわたって続きます。しかし、キリストが千年王国において彼の統治を始められる時、ある人は王国に入ることができ、ある人は永遠の世になってはじめて入ることができるでしょう。千年王国の始まる時に、王国に入るということは、ただ救われただけでなく、救われた後、さらに神聖な命の中で成長し円熟することを追い求め、そして王国の褒賞を得たということです。

わたしたちの救いは、すでに決定されましたが、王国に入れるかどうかはまだ決定されていません。人が主を信じた後、彼の前には多くの経験すべき事があり、彼の前には王国があり、また将来の栄光が彼を待っています。ある人たちはキリストの王国に入りますが、ある人たちは入ることができないでしょう。ある人たちは入るだけでなく、豊かにあふれるばかりにキリストの王国の中に入るでしょう。これらのもの、王国、冠、栄光、褒賞は、ある人たちは得ることができ、ある人たちは得ることができません。キリストの王国に入ることができないということは、人が救われていないことを意味するのではありません。しかし、彼らの褒賞と栄光とが取り去られることを意味します。ですから、わたしたちは力を尽くして走る必要があります。将来において、わたしたちがナザレのイエスと共に王国を支配することができるかどうかは、今日わたしたちがどれほど力を尽くすかにかかっています。

王国に入り、キリストの栄光にあずかる
王国は、キリストとクリスチャンが共に栄光を受ける時です。王国は、神がキリストに褒賞を与えられる時です。その時、わたしたちもそこで分を持つでしょう。わたしたちが主の栄光を受けるにふさわしい者と見なされるかどうかは、わたしたち一人一人の生活と働きがどうであるかにかかっています。例えば、あなたの家が火事になるとか、あなたが恐ろしい危険に遭うとします。その時、あなたの家の召し使いがあらゆる犠牲を払い、命の危険も顧みず、あなたを救ったとします。あなたは彼にどのように報いるでしょうか? 「わたしはあなたに二十セントの褒賞を与えます」と言うでしょうか? そんなことをする人はいないでしょう。同様に、キリストは神に栄光を帰し、十字架上で死なれましたが、将来、神はどのようにキリストに褒賞を与えられるのでしょうか? そして、神はどのようにキリストに栄光を与えられるでしょうか? 二千年前にキリストが苦しまれたことに対して、神が千年王国でキリストに報いられる栄光はどのようなものでしょうか! 褒賞は、苦しみに匹敵するものでなければなりません。もし人が最も卑しい地位にもたらされるなら、彼の褒賞は最大のものでなければなりません。新天新地においては、ふさわしい者であるかどうかの問題はありません。しかし、王国においては、わたしたちがふさわしい者であってこそはじめて、栄光を受けることができます。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第5期第3巻より引用

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