褒賞を受ける意義とその条件

真理

コリント人への第二の手紙第五章十節は言います、「わたしたちはみな、キリストの裁きの座の前に現れなければならないからであり、それは善であれ悪であれ、めいめいが実際に行なった事にしたがって、体を通してなされた事柄に対して報酬を受けるからです」。これは、信者たちの生活、行為、働きすべてが裁かれ、褒賞を受けるか、または懲罰を受けるかということを示しています。 ですから、神の御前では、わたしたちは救いの問題だけではなく、褒賞を受ける問題もあるということです。恵みによって救われた人は誰でも、この褒賞を受けることに注意を払い、認識する必要があります。

褒賞と救いの違い
コリント人への第一の手紙第三章十四節は言います、「もし、その土台の上に建てた人の働きが残るなら、彼は褒賞を受けます」。この節の意味は、もしキリストを土台とするわたしたちの働きが残るなら、わたしたちは褒賞を受けることができるということです。これは、褒賞を受けることが救われることと同じではないことを見せています。なぜなら、救いは信仰によるのであって、わたしたちの働きや行為によるのではありません(エペソ二・八―九)。反対に、褒賞はわたしたちの働きによって、すなわち、わたしたちの行為にしたがって受けることができます。

もし主の御前でのわたしたちの働きが焼き尽くされるなら、すなわち、それが残らないなら、わたしたちは損失を被ります(Ⅰコリント三・十五)。ここでの損失を被るとは永遠の滅びを示しているのではなく、わたしたちが褒賞を受けないで、裁きを受けることを示しています。なぜなら、このような損失を被る人であっても、彼自身は救われることを主ははっきりと語っておられるからです。ただ、このような救いは火をくぐってきたようであり(十五節)、この「火をくぐってきた」とはある種の裁きのことで、このような裁きは自然と人にも損失を被らせます。これは救われた人のその後の働きと行為が、神のみこころにしたがっておらず、それゆえに受ける結果です。ですから、コリント人への第一の手紙第三章十五節によれば、わたしたちは救われましたが、将来、裁きを受け、損失を被る可能性があります。

それゆえ、わたしたちは救いと滅びのほかに、褒賞と損失の問題があるということを見なければなりません。わたしたちは決して滅びることがないので、何も恐れることはないと思ってはなりません。それは違います! 滅びのほかに、損失を被るという問題があるのです! また、救いを得ることができれば、それだけで良いと思ってはなりません。それは違います! 救いのほかに、褒賞を受けるという問題があるのです! わたしたちは滅びからは逃れましたが、必ずしも損失を被ることから逃れたわけではありません。同じように、わたしたちは救いを得ましたが、必ずしも褒賞を受けることができるわけではありません。損失を被ることと滅びることが異なるように、褒賞を得ることと救われることは異なります。将来、一部の信者たちは救われるだけでなく、褒賞を受けます。しかしながら、一部の信者たちは救われているにもかかわらず、損失を被ります。これはわたしたちに対する警告であるべきです。

褒賞を受けることの意義
聖書によれば、褒賞を受けることに関して、少なくとも五つの面があります。それは、冠を得ること、御座に着くこと、権威を得ること、王として支配すること、祭司となることです。

冠を得る
義の冠――これは、主に忠信に従い、主の出現を慕ってきたすべての人たちに、将来に主が与えられる褒賞です。この冠が「義の冠」と呼ばれるのは(Ⅱテモテ四・八)、義なる審判者である主が、かの日には、彼の義にしたがって、彼を忠信に愛してきた人たちに授けられる冠であるからです。ですから、この冠は神の義を表すために人々に与えられるのであって、神の恵みを表すために人々に与えられる救いとは異なります。神の救いは神の恵みを表します。ですから、信じる者はそれを得ることができます。しかし、この冠は神の義を表すがゆえ、忠信に従う者たちだけにそれを授けなければなりません。今日、主を愛して、主のみこころと主の道を歩む人たち、そして主のために大きな代価を払い、苦難を受けた人たちに対し、かの日には、主はご自身の義にしたがって、義の冠を彼らに褒賞として授けてくださいます。それゆえ、この義の冠は、将来宇宙において、絶え間なく神の義を宣言することでしょう。

命の冠――これは、自分の命を顧みず、殉教によって死に至るまで忠信な信者たちに、将来に主が与えられる褒賞です。彼らは、主と主の証しのためには、自分自身を惜しむことなく、進んで自分の命を捨て去る程でした。ですから将来、主はこの命の冠を彼らに褒賞として与えることで(啓二・十)、彼らに、宇宙において永遠に、死によって抑制されない、死んで復活された力ある命である主を表現させ、そして彼らが死に打ち勝ったことを証明されます。

栄光の冠――これは、進んで今日神の群れを牧養する者たちに、将来に主が与えられるものです。彼らは神の心を思いやり、神の牧養に従い神の群れを顧みたので、主は将来、この栄光の冠を褒賞として与えられます(Ⅰペテロ五・四)。栄光は神の表現です。神が表現されたのが栄光です。彼らは今日、神の群れを顧みることで、神の性質とみこころにしたがって顧み、神ご自身と神の心を表現します。ですから、主は将来、彼らに神ご自身を表現することができる栄光の冠を与えられます。そして、彼らに永遠において全宇宙に神の栄光、すなわち、神ご自身を表現させるのです。

朽ちない冠――これは、この世の楽しみを捨て去り、主の行程を走る者たちに、将来に主が与えられるものです。彼らは主の行程を走るために、この世の朽ちる一時的なものをすべて捨て去りました。ですから、主は将来彼らに朽ちない冠を与えられます(Ⅰコリント九・二五)。それは今日の彼らの選択が、永遠に存続する、過ぎ去らない栄光なる祝福を選んだということを、宇宙において永遠に宣言するためです。

喜びの冠――これは、他の人たちの霊的な状態を顧みた人たちに、将来に主が与えられる褒賞です。彼らは今日、主のために他の人たちの霊的な状態や、主の御前での状態を顧みたので、主は将来、彼らが顧みた人たちを彼らの喜びの冠とならせます(Ⅰテサロニケ二・十九ピリピ四・一)。信者たちには二種類の喜びがあります。一つは彼ら自身の救いの喜びと、もう一つは他の人たちを救いに導く喜びです。ある人たちは一種類目の喜びがあるだけで、二種類目の喜びがありません。彼ら自身は救われていますが、他の人たちを救いにもたらしません。彼らは自分自身の霊的な状態には関心がありますが、他の人たちの霊的な状態には関心がありません。彼らは孤独な年老いたクリスチャンです。なぜなら、彼らには霊の子供たちがいないからです。そして、そのような喜びもないからです。しかしながら、ある信者たちは自分だけが救われるだけでなく、他の人たちも救いにもたらします。彼らは絶えず他の人たちを顧み、気遣っています。ですから、彼らの霊の子供たちが彼らの喜びとなります。彼らの霊の子供たちは、今日において彼らの喜びであるだけでなく、将来においても彼らの喜びの冠となって、主のために他の人たちのうえで労苦したことを、宇宙において永遠に証しします。

御座に着く
主は、ご自身に従うため、すべてを捨て去った十二弟子に、将来、褒賞を与えられます。彼らは十二の座に着きます(マタイ十九・二八)。彼らは主のためにすべてを捨てたので、将来、主が栄光の御座に着いて支配されるとき、彼らにも褒賞として、主の権威にあずからせ、主と共に御座に着かせます。これは、今日わたしたちがすべてを捨てて主に従うなら、将来、主によって御座を褒賞として与えられるという原則をわたしたちに見せています。啓示録第三章二一節は言います、「勝利を得る者を、わたしと共にわたしの座に着かせよう」。今日、勝利を得るすべての信者たちは、将来、主と共に彼の御座に着くという褒賞を受けることができます。

権威を得る
今日、最後まで主の命令に服従し、勝利を得た信者たちに、主は褒賞を与えられます。今日、召会が荒廃し、この世も主に逆らうとき、それらの信者は、主の命令を堅く守り、勝利者となります。主が将来この世を支配するときに、諸国民を治める権威を彼らに与えられ、主と共に権威をもって諸国民を治めます(啓二・二六―二七)。また、ルカによる福音書第十九章十七節は言います、「あなたは最も小さいことに忠信であったから、十の町を支配する権威を持ちなさい」。これは今日、主のために忠信に働く者たちに対して、主の再来の時には、諸国民を治める権威が与えられることを示しています。

王として支配する
各時代にわたって、主のために殉教する程度まで、主のために忠信に証しをしてきた人たちはすべて、千年王国の期間、主と共に王として世界を支配します(啓二〇・六)。これは将来、主が彼らに与えてくださる褒賞です。そして、もしわたしたちが今日、主のために苦難を受け耐え忍ぶなら、将来、彼と共に王として支配することができます(Ⅱテモテ二・十二)。これは将来、主がわたしたちに与えてくださる褒賞です。

「王として支配する」この面の褒賞から、前に述べた三つの面の褒賞(冠を得る、御座に着く、権威を得る)がすべて、王として支配することのためであることを、わたしたちは知ることができます。なぜなら、王には冠、御座、権威がなければならないからです。主が将来、勝利者たちに冠と御座と権威を褒賞として与えられるのは、彼らに王として支配するという褒賞を与えるためです。

祭司となる
今日、主のために自分の命を捨ててまで、主のために忠信に証しをする人たちは、主と共に王として支配するだけでなく、さらには、神とキリストの祭司となります(啓二〇・六)。将来、千年王国において、主は彼らに王と祭司の両方となる資格を与えられます。王であるとは、神の代行となって人の前に立ち、神の権威を人にもたらすことです。祭司であるとは、人の代表となって神の前に立ち、人の奉仕を神にもたらすことです。王であるとは、神の支配にあずかって、神の統治を遂行することです。祭司であるとは、神の命にあずかり、神ご自身を得て、全宇宙において最大の祝福である神ご自身を享受することです。王であるとは、神の代行となって人を牧養し、享受と満足を人に得させることです。祭司であるとは、神とキリストに彼らの奉仕を享受させて満足していただくことです。これらの二つの種類の尊い身分と祝福はみな、主が将来、勝利者たちに与えられる褒賞です。

褒賞を受ける条件
救いは神の恵みに基づいているので、わたしたちに信じることを要求します。褒賞を得ることは、神の義にしたがって、わたしたちの行為に照らして与えられます。ですから、褒賞を受けるには条件があります。

義なる審判者が褒賞を与える――将来、わたしたちに褒賞を与えてくださる方は、「義なる審判者」です(Ⅱテモテ四・八)。彼が授けるのは、「義の冠」です。褒賞は神の義にしたがって与えられます。それは、「恵みによって」(エペソ二・八)、わたしたちが得た救いとは違います。わたしたちは恵みによって神の救いを無代価で得ることができますが、主の褒賞は義にしたがって与えられるので、高い代価を払わなければ得ることができません。神の救いは人に何も行なうように要求しません。それは無代価で与えられます。しかしながら、主の褒賞は、わたしたちが力を費やし、代価を払わなければ与えられません。

それぞれの労苦にしたがって自分の褒賞を受ける――主は彼の義にしたがって、またそれぞれの労苦にしたがって、わたしたちに褒賞を与えられます(Ⅰコリント三・八)。奉仕をする者にとって、褒賞は一つの励ましとなります。コリント人への第一の手紙第三章十二節から十五節によれば、わたしたちが救われた後、もし主の御前でのわたしたちの労苦が金、銀、宝石から成っているなら、主はわたしたちに褒賞を与えられます。しかしながら、もしわたしたちの労苦が木、草、刈り株から成っているなら、主はわたしたちに褒賞を与えられないだけでなく、わたしたちに損失を被らせます。

それぞれの働きにしたがって――主は将来、わたしたちそれぞれの働きにしたがって、褒賞を与えられます(啓二二・十二)。わたしたちは救われるために働きを必要としませんが、褒賞のためには働きを必要とします。将来、わたしたちが主の褒賞を得ることができるかどうかは、わたしたちの働きに対する主の喜びにかかっています。褒賞の大きさはわたしたちの働きに対する主の喜びの大きさによって決まります。

ここでの働きは特別に良い行為だけを指しているのではなく、わたしたちの生活において、わたしたちの敵を愛し、敵に何の見返りも期待しないで善を行ない、また返済を期待せずに人に貸し(ルカ六・三五)、主に仕えるように、肉によるわたしたちの主人にも仕え、忠信に働く(コロサイ三・二二―二四)ことなども指しています。そうすれば、わたしたちは将来、褒賞を受けることができます。信者に冷たい水一杯を飲ませる(マタイ十・四二)という一見ささいな行為に対しても、人は褒賞を受けることができます。

わたしたちの施しをすること、献金をすること、祈ること、奉仕することなど、人からの称賛を得るために公然とではなく、神の御前で隠れて行なわれているなら(マタイ六・四―六)、わたしたちは褒賞を受けるでしょう。もしわたしたちが自ら進んで主のために福音を宣べ伝えるなら、わたしたちは褒賞を受けます(Ⅰコリント九・十六―十七)。

競技場で走る――陸上競技会でレースを走る者たちは、先頭を走らなければ、賞を得ることはできません。わたしたちが救われた後も、主からの褒賞を受けるために、主の道においてもこのように走らなければなりません(Ⅰコリント九・二四)。このように走ることは、褒賞を受けるための条件です。このように走る途上で、わたしたちの大胆さを投げ捨ててはなりません。なぜなら、その大胆さが、わたしたちに大いなる褒賞を得させるからです(ヘブル十・三五)。その他、競技をする者はだれでも、主の規定どおりに、そしてすべての事で節制して競わなければなりません(Ⅱテモテ二・五Ⅰコリント九・二五)。これはすべて、わたしたちが褒賞を受けるための必須条件です。

勝利を得る者――主のためにそしられ、迫害され、邪悪なことを言われる人は幸いであるだけでなく、天にある大いなる褒賞を得ます(マタイ五・十一―十二)。死に至るまで主に忠信であり、命を顧みず(啓二・十)、冷たくもなく熱くもない状態や、傲慢な状態に打ち勝ち、代価を払って必要なものを買い、戸を開いて主に入っていただいた勝利者たちは、必ず褒賞を受けます(啓三・二一)。

主の出現を慕ってきた人――勤勉な学生は試験の日を待ち望んでいます。なぜなら、褒賞を受けるからです。反対に、怠惰な学生は試験を恐れます。同じように、主を愛し、彼のためにすべてを捨てた人たちは、彼から褒賞を受けるので、主の出現を慕います(Ⅱテモテ四・八)。主を愛さずに、この世を愛し、罪を愛する者たちは主の来臨を恐れます。こういうわけで、主の出現を慕うことは、今日わたしたちが主を愛して、主のために生きているという証しです。ですから、これも褒賞を受けるための条件です。

勝利者となり、褒賞を受ける
わたしたち信者は、すでに救いを得ましたが、褒賞を受けることができるかどうかは、わたしたちが勝利者であるかどうかによります。神は、わたしたちが信じる時、わたしたちを救われますが、神がわたしたちに褒賞を与えるためには、わたしたちは勝利を得なければなりません。神の救いはすべての信者のためですが、神の褒賞は勝利者たちだけのためです。ですから、もしわたしたちが信じるだけであれば、神の救いを得ることができるだけです。もし神の褒賞を受けたいなら、わたしたちは勝利者になることを追い求めなければなりません。わたしたちが褒賞を受ける勝利者となることができるように、どうか神がわたしたちに恵みを与えてくださいますように!

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第5期第3巻より引用

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