大祭司としてのキリストーー供給し、とりなし、極みまで救う

真理

しかしイエスは、永遠に存続するので、変わることのない祭司職を持っておられます。こういうわけで、彼を通して神に進み出る者たちを、彼は極みまで救うことができるのです。なぜなら、彼はいつも生きていて、彼らのためにとりなしておられるからです(ヘブル人への手紙第七章二四節―二五節)。

聖書によれば、祭司職には三つの面があります。すなわちアロンの祭司職の面、王なる祭司職の面、神聖な祭司職の面です。アロンの祭司職の面は、わたしたちの罪のために神にいけにえをささげるためです。祭司職の王の面は、手順を経た神をわたしたちの命の供給としてわたしたちに供給するためです。神聖な祭司職の面は、わたしたちを極みまで救うためです。

彼はメルキゼデクの位による大祭司である
大部分のクリスチャンの間で、キリストの祭司職は大いに見下げられてきました。大部分のクリスチャンは、大祭司としてのキリストを語る時はいつも、依然として、わたしたちの罪のために神にいけにえをささげる大祭司であるという観念に執着します。もちろん、これは正しいです。しかしそれは消極的な面です。わたしたちの罪のために神にいけにえをささげる大祭司としてのキリストは、アロンで予表されます。それは過去においてでした。今日、キリストはもはやわたしたちの罪のために神にいけにえをささげているのではなく、わたしたちの供給として神をわたしたちに供給しておられるのです。過去において、キリストは、アロンで予表されたように、わたしたちの罪のために神にいけにえをささげられました。今日、彼はメルキゼデクの位によって、わたしたちの供給として神をわたしたちに供給しておられます。

メルキゼデクがアブラハムの所に来た時、アブラハムはあわれな罪人ではありませんでした。彼は、「ああ、祭司メルキゼデクよ、わたしをあわれんでください。わたしがどれほど罪深いか見てください。わたしの罪を顧みてください。わたしの状態はとてもみじめです。あなたはわたしのために、すべてのささげ物を神に持って行く必要があります」と、請い求めませんでした。アブラハムはそのような状態にはいませんでした。メルキゼデクが来た時、アブラハムは勝利者、戦士、ほふる者でした。アブラハムはケダラオメルと他の王たちをほふったばかりでした(創世記第十四章十七節)。アブラハムは多くの戦利品を獲得した勝利の戦士でした。わたしたちは何でしょう? あわれな罪人でしょうか、それとも勝利の戦士でしょうか? わたしたちは召会生活の中で、あわれな罪人ではなく、勝利の戦士であると、わたしは喜んで言います。

アロンは過ぎ去りました。わたしたちは今や、メルキゼデクと共にいます。わたしたちのキリストは今日、アロンにはるかにまさっておられます。レビ記では、アロンを高く評価する必要がありますが、ヘブル人への手紙に来る時、アロンは過ぎ去ったと言わなければなりません。ヘブル人への手紙では、メルキゼデクがわたしたちの大祭司です。わたしたちはレビ記にとどまっているのではなく、ひたすら創世記の初めに戻りたいのです。これが真の回復です。祭司があわれな罪人のためにいけにえをささげるのではなく、栄光ある勝利者にパンとぶどう酒を供給するのを見る創世記第十四章に戻りましょう。

夜ベッドに行く前に、メルキゼデクが来て、わたしたちが一日中多くのケダラオメルをほふったことで、パンとぶどう酒をわたしたちに供給するとしたら、何と幸いなことでしょう。わたしたちは一日中、何人かのケダラオメルをほふる必要があります。わたしたちは宗教と一切の消極的なものをほふる必要があります。日中、敵をほふるなら、毎晩わたしたちは主要な戦利品を持つでしょう。するとわたしたちのメルキゼデクが来て、「勝利の後、疲れたでしょうか? ここにパンとぶどう酒が、あなたの享受のための手順を経た神があります」と言うでしょう。これは、来てあわれな罪人のために罪のためのささげ物をささげるのではなく、勝利の戦士たちに神を供給するいと高き神の祭司の務めです。

彼は王なる大祭司である
この大祭司は、メルキゼデクの位による大祭司です。メルキゼデクは王であり、彼の名は義の王を意味し、キリストは義の王であることを表徴します(イザヤ書第三二章一節)。メルキゼデクはまた、平安の王を意味するサレムの王であり、キリストが平安の王でもあることを意味します(イザヤ書第九章六節)。あわれな罪人のためにいけにえをささげる祭司は、義の王や平安の王を必要としません。しかし、大祭司が手順を経た神を勝利の戦士に供給するために、彼は義の王と平安の王の両方でなければなりません。これが王なる祭司です。

わたしたちの王なる大祭司は、永続し、永遠で、初めも終わりもありません。ヘブル人への手紙第七章三節はメルキゼデクについて、彼には「父がなく、母がなく、系図がなく、生涯の初めも命の終わりもなく、神の御子のようであって、永久に祭司となっています」と言っています。創世記第十四章によれば、メルキゼデクは突然、現れ、そして消えました。彼には来ることも行くこともなく、生涯の初めも命の終わりもなかったようです。わたしたちのメルキゼデクは永遠ですから、彼には系図がありません。創世記のすべての重要な人物には系図がありますが、メルキゼデクにはありません。神聖な文書において、聖霊は主権をもって、彼の生涯の初めにも終わりにも何の記録も与えませんでした。それは彼が永遠の方としてのキリストの正当な予表となって、永続するわたしたちの大祭司となられるためでした。これはヨハネによる福音書での神の御子の記述と同じようです。彼は永遠であって、系図はありません(ヨハネによる福音書第一章一節)。しかし人の子としてのキリストには系図があります(マタイによる福音書第一章一節―十七節ルカによる福音書第三章二三節―三八節)。それは、手順を経た神を、日ごとの供給としてわたしたちに供給される王の、王家の大祭司であるキリストです。彼は永続する方、恒常的な方、永遠の方であって、生涯の初めも命の終わりもありません。彼は夜わたしたちに来られ、わたしたちが彼を経験している間、消え去るように思われるかもしれません。彼は決して、わたしたちにさようならと言われず、わたしたちも決して彼にさようならと言いません。しかし翌朝、目覚めると、彼がやはりそこにおられることがわかります。彼には来ることも行くこともありません。彼は永続する大祭司です。

彼は神聖な大祭司である
ヘブル人への手紙第七章で、キリストの祭司職は神聖な祭司職です。キリストの性質と命は神聖です。神性に満ちたそのような神聖な人として、彼は生きている方です。王なる大祭司としてのキリストには、何の不義も争いもなく、義と平安があります。神聖な大祭司としてのキリストには、死がありません。彼は死に打ち勝ち、死を征服し、死を飲み尽くされました。なぜなら、彼は命であるからです。

キリストは神聖です。彼の本質、性質、要素、構成はみな神聖です。彼の王なる身分はすべての問題を解決し、平安の環境を維持します。しかし彼は王であるだけでなく、神聖です。キリストは神聖ですから、彼がおられる所はどこでも、死はありません。彼がおられる所はどこでも、復活があって、死は飲み尽くされています。光は暗やみがないことです。なぜなら、光がある所はどこでも、暗やみはないからです。同じように、キリストの臨在は死がないことを意味します。彼は神聖な大祭司です。彼がおられる所はどこにも、命があります。彼の祭司職は、命をもたらします。

生きている
ヘブル人への手紙第七章二五節は言います、「こういうわけで、彼を通して神に進み出る者たちを、彼は極みまで救うことができるのです.なぜなら、彼はいつも生きていて、彼らのためにとりなしておられるからです」。キリストは永遠に生きておられます。死は彼が大祭司を続けられるのを妨げることはできません。レビの祭司たちはすべて、ある年齢まで生きて、死にました。死は、彼らが祭司を続けることを妨げました。第一の大祭司が死ぬと、第二の者が置き換わり、順に、彼も第三の者に置き換えられました。なぜなら、死が大祭司の務めを続けることを妨げたからです。それらの祭司たちが、他の人を救うことができなかったことは言うまでもありません。彼らは自分自身を救うことさえできませんでした。彼らはみな望みのない状態でした。しかし、キリストの祭司職は違います。

アロンの祭司職は依然として死に支配されていましたが、メルキゼデクの位による祭司職は、命の要素で構成されており、死がありません。それを構成している命は死を経過して、死を飲み尽くしました。この命は不朽です。それは肉における主の母によって、彼の肉の家族の全員によって、彼の人の生活のすべての苦難によって、悪魔、サタンのすべての誘惑によって、テストされました。究極的に、それは死、墓、ハデス、暗やみの力によってテストされました。この命はあらゆるものによってテストされ、何ものもそれを壊すことはできませんでした。それは絶対に不朽です。わたしたちの大祭司は、このような不朽の命の要素によって構成されています。

わたしたちのためにとりなし、極みまで救う
キリストは極みまで救うことができます。極みまでと訳された言葉は、完全無欠に、全く、完全に、終わりまで、永遠にを意味します。キリストは永遠に、変わることなく生きておられるので、程度において、時間において、空間において、わたしたちを極みまで救うことができます。程度において、時間において、空間において、彼がわたしたちを救われることは、極みまで達します。

キリストがわたしたちを救うことができるのは、彼がわたしたちのためにとりなしておられるからです。わたしたちの大祭司として、キリストはわたしたちのためにとりなすことによって、わたしたちの事柄に着手されます。彼はわたしたちのために神の御前に現れ、わたしたちが救われ、神の永遠の定められた御旨の中に完全にもたらされるように祈られます。あなたは、彼が自分のためにとりなしてくださっていることを決して認識したことがないと言うかもしれません。このことを認識する必要はないのです。ただその中に安息し、それに信頼し、それを享受しなさい。あなたの神聖な大祭司が、あなたのために絶えずとりなしておられることを確信しなさい。

キリストのとりなしは、機械が作動するために動力を送る強力なモーターのようなものです。どのようにして力が機械にもたらされるのでしょうか? モーターによってです。モーターが回転すると、力が機械に伝達されます。同じように、天でとりなすキリストは、天の力をわたしたちの中に伝達しておられます。

もう一度、アブラハムが王たちを打ち破った事例を考えてください。仮に、あなたがアブラハムであって、ロトが捕らえられたという知らせを聞いたとします。もしそれがわたしたちに起こったなら、わたしたちは死ぬほど驚き、テントの奥深くに入り込んで、「おお、主よ、わたしたちをあわれんで、守ってください。王たちがここに来ないようにしてください」と祈ったでしょう。しかしアブラハムは知らせを聞いた時、こう言ったかのようです、「彼らはわたしの兄弟ロトを捕虜にした!彼らがどれほど大勢であってもわたしは気にしない。わたしにはいと高き神がいる。行って王たちと戦い、ロトを助け出そう」。アブラハムと彼の三百十八人が大胆であったのは、メルキゼデクのとりなしによって活気づけられたからです。彼らは天の、宇宙的なモーターによって力づけられました。メルキゼデクは来てアブラハムを祝福した時、アブラハムの敵を彼の手に渡したことに対していと高き神をほめたたえました(創世記第十四章二〇節)。言い換えれば、メルキゼデクはアブラハムに、彼の勝利はいと高き神が彼のためにとりなした結果であると告げていたのです。

わたしたちはとりなしの務めの絵を、イスラエルとアマレクとの戦いの事例で見ることができます(出エジプト記第十七章八節―十三節)。モーセは丘の頂で手を上げており(すなわち、祈っており)、ヨシュアは戦場の真ん中で戦っていました。モーセが祈っている時、ヨシュアは敵をほふっていました。同じように、アブラハムが王たちをほふっていた時、メルキゼデクは彼のために祈っていたとわたしは思います。同じように、わたしたちが死の副産物をほふっている時、さらに卓越した務めを持つわたしたちの天の奉仕者キリストは、天でわたしたちのためにとりなしておられます。

わたしたちの神聖な大祭司は、わたしたちのために絶えずとりなして、わたしたちがいかに容易に倒れるか、いったん倒れたら、倒れた状態にとどまっていることを知っておられます。遅かれ早かれ、彼のとりなしは勝利を得、征服し、わたしたちを救います。これが今日か明日、起こらないとしても、来年、次の時代、あるいは、最も遅くても、新天新地では起こります。わたしたちはみな、彼のとりなしによって完全に征服され、救われるでしょう。神は彼を任命して、わたしたちを顧みさせられました。彼は今、わたしたちのためにとりなすことによって、わたしたちを顧みておられます。あなたは彼の御名を呼び求めたことを忘れるかもしれませんが、彼は決してそれを忘れません。彼はあなたのためにとりなしており、あなたを極みまで救われます。

極みまで救い、栄光を得させる
聖書には二つの節、ヘブル人への手紙第七章二五節ローマ人への手紙第八章三四節だけが、キリストがわたしたちのためにとりなしておられることを告げており、この二つの節は互いに対応しています。ローマ人への手紙第八章によれば、キリストがとりなしておられるのは、あわれな罪人が義とされるためではありません(義とされることは第四章にあります)。彼が今やとりなしておられるのは、わたしたちが栄光化されるためです。ヘブル人への手紙第七章二五節は、キリストがわたしたちを極みまで救うことができると言います。この極みまでの救いは栄光化であり、栄光化はわたしたちを死の副産物から救うことを意味します。ヘブル人への手紙第七章がなければ、ローマ人への手紙第八章にしたがって、とりなしているキリストは救い主にすぎないと考えたかもしれません。しかしとりなしているキリスト、わたしたちを極みまで救い、わたしたちを栄光化されるキリストは、王なる神聖な大祭司、天の奉仕者です。それはわたしたちのメルキゼデクです。


記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第1期第5巻より引用

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