宇宙の良き知らせ

福音メッセージ

福音を伝えることに対してクリスチャンは常に喜んでおり、駅前、交差点、ショッピングセンター、キャンパスにいるのをよく見かけることができます。実は、宇宙で最初に福音を伝えた方は神です。人が罪を犯して堕落した後、彼はやって来て人に福音を宣べ伝えました。創世記第2章において、神が人を造られた後、人をエデンの園に置き、園の中には命の木と善悪知識の木がありました。神は、善悪知識の木の実は食べてはならないと人に命じられました。なぜなら、人はそれから食べる日に、必ず死ぬからです。第3章で記されているのは、アダムと彼の妻が蛇の誘惑と欺きによって、神の命令に背いて善悪知識の木の実を食べてしまったことです。彼らが死の判決に脅えていたとき、神は人を罪定めされなかっただけでなく、やって来て人を捜し、人に福音の良き知らせを告げ知らせました。

人は自分を覆い、自分を隠そうとした

創世記第3章6節から21節は言います、「そこで、女が見ると、その木は食べるのに良く、……彼女はその実を摘み取って食べた.……夫も食べた。こうして、二人とも目が開かれ、彼らは自分たちが裸であることを知った.そこで彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちのために腰を覆うものを作った。……彼らはエホバ・神が園を歩き回られる音を聞いた.そこでその人と彼の妻は、エホバ・神の御顔を避けて、園の木の間に身を隠した。エホバ・神はその人に呼びかけて言われた、『あなたはどこにいるのか?』。彼は言った、『わたしは園であなたの音を聞き、裸なので、恐れて、身を隠しました』。……女は言った、『あの蛇がわたしを欺いたので、わたしは食べたのです』。そこで、エホバ・神は蛇に言われた、『おまえはこのことを行なったので、すべての家畜と野のすべての動物の中で、最ものろわれる.……また、わたしは敵意を置く.おまえと女との間に、またおまえの子孫と女の子孫との間に.彼はおまえの頭を打ち砕く』……そこで、その人(アダム)は彼の妻の名をエバと呼んだ.それは、彼女がすべての生きている者の母であったからである。エホバ・神は、アダムとその妻のために皮の衣を作り、彼らに着せられた」。

この聖書から見ることができますが、アダムとエバは神の命令に背いた後、一面、自分たちが裸であることを知ったので、葉をつづり合わせて覆うものを作って自分を覆いました。もう一面、彼らの運命は死であることを理解したので、神の御顔を避けて木の間に隠れました。

今日多くの人もこのように自分を隠し、神の御顔を避けています。彼らの口は、神はいないと告げていますが、それは神がいないことを証明したからではなく、自分の行ないが悪いので、神を認めることができないからです。彼らは神のことを耳にするのを恐れ、宇宙の中で神がいないことの方が最も都合が良いのです。それは、強盗は警察がいないことを願い、悪人は法律がないことを願うことのようです。彼らは本当に神を信じていないのではなく、彼らの行ないのゆえに、彼らは神を信じることができなくなっているのです。彼らは罪を犯す、腐敗した、堕落した、人に告げることのできない生活をしているので、自分の行なったことがだれにも知られたくないのです。彼らは、親、隣人、友人、クラスメート、同僚などのだれにも知られたくないのです。そして、神にはもっと知られたくないのです! こういうわけで、彼らは神を求めず、神がいないことを望みます。彼らは神を求めたくないので、神はいないと告げます。彼らは自分たちを隠し、神の御顔を避けたいのです。しかしながら、人はどこに行けば神から隠れることができるのでしょうか? 彼らは口で神の存在を否みますが、夜更けに、彼らが一人で静まって心の中で自問するとき、もし本当に神が存在するならどうするのかと心配するでしょう。

神はやって来て人を尋ねる

アダムは神を避けましたが、神はやって来て彼を尋ねました。人は神の御顔を避け、神に会うことを恐れましたが、神は人を見捨てず、さらには人を尋ねられました。また、神は天の御座に座って、二人の御使いに「伝令して」アダムを連れて来させるように命じたのではありません。何千万もの御使いがいますが、彼は一人も用いたり、遣わしたりすることなく、自ら人を尋ねられました。何と不思議なことでしょう! 人は神を捨てましたが、神は人を尋ねられました。人に神がいなくても問題ないかのようですが、神には人がなくてはならないのです。人は神を求めませんが、神は人を求められました。

神が人を尋ねられたのは、人を罪定めするためではなく、人に福音を伝えるためでした。神はアダムに呼びかけて言いました、「あなたはどこにいるのか?」。神は、「アダムよ、わたしを避けないでください。わたしはあなたを助けに来ました。あなたは失われたので、わたしはあなたを捜しに来ました」と言っているかのようです。それは、主イエスが新約において、「人の子が来たのは、失われたものを尋ね出して救うためである」(ルカによる福音書第19章10節)と語っているのと同じです。イエスは神が人と成られた方であり、失われたものを尋ね出して救われます。そのとき、彼はさげすまれた取税人のかしらの家にやって来ました。人々はそれを見ると、みなつぶやいて、「彼は罪深い人の所に行って、宿を取った」と言いました。それから、イエスは言いました、「人の子が来たのは、失われたものを尋ね出して救うためである」。この取税人のかしらは罪人であるので、神に見捨てられ、裁かれるべきであると、人々は言っていました。しかし、イエスは、彼は失われた人であり、神に尋ね出されて救われる必要があると言われました。

主イエスが地上におられたとき、常に彼は罪人に寄り添っていたので、人は彼を罪人の友と呼びました。このことが告げているのは、人は神に行かないのですが、神は人に寄り添ってくださるということです。あなたは神を求めませんが、神はあなたを求めます。あなたは神を愛しませんが、神はあなたを愛しておられます。失われた人であればあるほど、ますますその人は主が尋ね求める者です。罪を犯す者であればあるほど、ますますその人は主が救おうとする者です。多くのとき、人は主を誤解しており、彼はただ良い人だけを求めていて、悪い人を求めていないと思っています。また、主は道徳的な人だけを喜び、不道徳な人を見捨てると思っています。しかし、彼は自らあの悪い、不道徳な人を尋ねてやって来られました。主に見捨てられるほど腐敗した人はいません。また、主が求めないほど不道徳な人もいません。主イエスが来られたのは、人を尋ね出すためです。

神は人のために救いを備えられた

神は人を尋ね、皮の衣を作って彼らに着せられました。アダムとエバが罪を犯した後、すぐに彼らは自分たちを救うある方法を見いだしました。それは、いちじくの葉をつづり合わせて覆うものを作り、彼らの裸を覆いました。彼らは自分たちの働きによって、罪人である彼らを覆い、すなわち自分の行ないによって彼らの罪深い恥を覆い隠そうとしたのです。しかし、いちじくの葉はすぐに枯れて、破れ落ちてしまいます。彼らがそのように行なっても、神の目における裸の状態を覆うことができません。この意味は、堕落した人は自分の働き、行ない、修行によって人の罪深い恥を覆うことは絶対に不可能であるということです。

人は自分の方法ではできないので、神は皮の衣を作って彼らに着せ、彼らの恥を覆いました。神はおそらく一頭の動物、小羊を殺し、そして小羊の皮を用いて彼らのおおいとされました。神は人を尋ねただけでなく、人のために救いを備えられました。

皮は多くの意義を含んでいます。皮を剥ぎ取るために、小羊は死ななければならないので、皮は死を暗示します。小羊の皮が衣となって、人のおおいとなるために、小羊は血を流して死ななければなりません。この小羊は罪を犯した人の身代わりになって死んだと言うことができます。おそらく神はアダムとエバの前で小羊を殺し、彼らにこの犠牲を見せたのでしょう。これは彼らに深い印象を与えたに違いありません。アダムはエバにこう言ったのかもしれません、「エバよ、それは本来わたしたちの定めであるべきであったことを知っていますか? わたしたちは殺され、血を流すべきであったのです。なぜなら、わたしたちは堕落し、罪を犯し、神の命令を犯したからです。エバよ、わたしたちがあの木の実を食べたら必ず死ぬということを、神は言われました。神の命令によれば、わたしたちは殺されるべきでしたが、神はわたしたちを殺しませんでした。神はこれらの小羊をわたしたちの身代わりとして殺しました。わたしたちはこれらの小羊に対してどれほどの感謝と感激を示さなければならないのでしょうか? 彼らはわたしたちの身代わりです。」

この殺されて血を流した小羊は、主イエスを表徴します。彼は罪人のために身代わりの小羊となり、十字架上で殺され、血を流し、神の御前における人の罪を贖われました。ヨハネによる福音書第1章29節において、バプテスマのヨハネは主イエスが彼の所に来られるのを見て言いました、「見よ、世の人の罪を取り除く神の小羊!」。主イエスは神の小羊となり、十字架につけられ、人の身代わりとなり、人の罪を担い、救いを成し遂げ、彼の尊い血を流し、人の罪を洗い清められました。

皮の衣を着ることは結合を暗示します。真の身代わりは結合によります。アダムとエバには罪がありますが、小羊は殺され、彼らの罪のために血を流しました。しかしながら、もし、小羊とアダムとエバが分けられているなら、小羊は彼らの身代わりになることができません。アダムとエバが福音を聞いたとき、神は小羊の衣を彼らに着せられたので、彼らと小羊は一となりました。罪人と身代わりが一となること、これが結合です。結合は身代わりの効果、身代わりが成就したものをもたらして彼らのものとなりました。

同じように、主イエスはすでにすべての贖いの働きを完成されましたが、結合がなければ、彼が完成されたすべてはわたしたちと無関係です。わたしたちは福音を信じるとき、彼をわたしたちに着させ、わたしたちを彼と一にし、十字架上で彼がなされたすべてのものがわたしたちのものとなります。

神は罪人を受け入れる

アダムとエバは皮の衣を着て彼らの裸を覆うことによって、彼らは神の御前に立ち、神に触れることができるようになりました。皮の衣は神が人のために備えられた救いを表徴します。それによって、神は人の罪を赦し、人は神の御前で義とされ、最終的に神は人を受け入れることができます。罪の赦しとは、存在していた罪が、すでに赦されたということです。義とすることは、罪はすでになくなり、赦すだけでなく、赦される必要がない地位に立つということです。その日、神はアダムを赦し、義としただけでなく、彼を受け入れられました。

罪人は、神に受け入れられるために覆う衣が必要です。ルカによる福音書第15章で放蕩息子の物語が記されています。放蕩息子が父の家に戻ってきたとき、父に言いました、「お父さん、わたしは天に対してもあなたの前でも、罪を犯しました.もう、わたしはあなたの息子と呼ばれる資格はありません」(21節)。父は奴隷に命じて言いました、「急いで、あの最上の衣を持って来て彼に着せ、手に指輪をはめ、足にサンダルをはかせなさい」(22節)。放蕩息子はひどく汚れていて、父の家に入るのにふさわしくありませんでした。こういうわけで、父は彼の服を着替えさせ、あわれな放蕩息子が彼の豊富な父と釣り合うようにして、父の家に入る資格を持たせました。本来、彼はあわれな物乞いであって、父と共にいることはふさわしくありませんでしたが、衣を着ると、彼は父の前で義とされ、良しとされました。今日、神はわたしたちが着る義の衣をわたしたちにも備えられました。それは、主イエスがわたしたちのために十字架上で死に、血を流し、わたしたちの罪の刑罰を担われたということです。わたしたちは彼が行なわれたことを心の中で信じて受け入れるなら、神はわたしたちを赦し、わたしたちを義とし、さらにはわたしたちを受け入れられます。

神は罪人に命を得さす

神は人を尋ね、彼らの死を宣告されなかっただけでなく、福音をもたらされました。神はエデンの園に来られて、アダムを呼んで言われました、「あなたはどこにいるのか?」。アダムと妻は恐れて、神は彼らを殺そうとしていると思ったかもしれません。しかし、神は罪定めの言葉、あるいは裁きの言葉を語ったのではなく、彼らに不思議な約束を告げられました。それは、「彼(女の子孫)はおまえ(蛇)の頭を打ち砕く」ということです。一見して、神は蛇が対処されることを語っていますが、アダムにとって、それは大きな福音です。なぜなら、この約束の中で「女の子孫」について語っているからです。このことの前に、アダムと妻は脅え、彼らがまもなく死に、命の存続はないと思っていたでしょう。しかし、神は彼らに「女の子孫」について語られました。女に子孫があるなら、女はまだ死に至らないことを意味します。ですから、これは彼らにとって、大いなる良き知らせです。

彼らは死ななかっただけでなく、この女はまだ蛇の頭を打ち砕く子孫を持ちます。アダムはとても興奮して、彼の妻に「エバ」と名づけました。エバのヘブル語の意味は「生きる」を意味します。これは、アダムが神の告げ知らせた良き知らせを聞いて、受け入れたことを示します。もし、アダムが神の告げ知らせた福音に対して反応を示さなかったなら、必ず自分の妻を「死」と呼んだでしょう。彼はこう言うでしょう、「あわれな女よ、あなたは自分が死の原因であることを知らないのでしょうか? あなたの名前は『死』と呼ばれるべきです」。しかしながら、アダムが妻に「生きる」と名づけました。彼は妻にこう言っているかのようです、「生きた! あなたは生きました! あなたは死ぬのではなく、あなたは生きます! あなたの名前はエバです。あなたは生きています!」。アダムは、もはや死の裁きはなく、彼とエバが生き、死に至らないと信じました。福音を信じて受け入れることを通して、彼らは命を得ました。

神は宇宙において最初の福音伝道者であり、アダムは最初に信じた人でした。今日、世の人も死の判決の下におり、福音の良き知らせを必要としています。ヨハネによる福音書第3章16節は言います、「神はそのひとり子を賜わったほどに、世の人を愛された.それは、彼の中へと信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を持つためである」。信じることを通して、わたしたちは滅びることなく、永遠の命を持ちます。そして、わたしたちはアダムと同じように叫んで言います、「主を賛美します。今わたしは生きています!」

詩歌(主は命の源) 習志野に在る教会作成

698主は命の源

記事はJGW日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第5期第2巻より引用

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