福音の鍵 信

福音メッセージ

神は人の目で見たり、物質の手で触れたりすることができません。しかしながら、目で見たり、手で触れたりすることができないものは存在しないのでしょうか? 実際に、神は霊であり、存在していますが、物質の人には隠されています。物質的な人には霊は見えず、触れることもできません。人は神に接触したいなら、目を用いて見るのでも、耳を用いて聞くのでも、また頭を用いて考えるのでもなく、深いところにある霊を用いて、信仰を通して彼に接触する必要があります。そうするなら、彼を受け入れて享受することができます。

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません.というのは、神に進み出る者は、『神はある』ことを信じ、彼を熱心に尋ね求める者たちに報いてくださる方であることを、信じるはずだからです」(ヘブル人への手紙第11章6節)。

全宇宙において、肉眼では見えないのに、人の日々の生活と密接な関係がある多くのものがあります。たとえば、可視光線は光の全波長範囲の一部しか占めていません。赤外線を見ることはできず、紫外線も見ることはできません。また、空気も肉眼で見ることができないものです。しかし、空気が流れているとき、人は感じ取ったり、観察したりすることができます。神も同じです。聖書は、神は霊であると告げており、空気や風のように至るところにあります。

空気中の無線電波も肉眼で見ることができません。しかし、無線電波の受信機を正しい周波数に合わせるなら、無線電波を受け取り、電波で流れている声と音楽を聞くことができます。同じように、神の存在は客観的な事実であり、人が彼の存在を感じ取ることができるかどうかは、人が自分の内側にある受信機のスイッチを入れて、正しい周波数に合わせることによります。すべての人の内側には霊という器官があり、それはもっぱら神に接触するための「受信機」です。聖書は告げていますが、「神は霊であるから、彼を礼拝する者は、霊と真実の中で礼拝しなければならない」(ヨハネによる福音書第4章24節)。わたしたちが自分の最も深いところにある霊を活用して信仰を用いるなら、霊である神に触れることができます。

電気は現代の生活において、一時も欠けてはならないものになっています。停電するときはいつも、わたしたちの生活も停滞します。人は電気を見ることはできませんが、コンセントを差し込み、スイッチを入れるなら、冷蔵庫、パソコン、多くの電化製品を使用することができます。神も同じであって、肉眼で見ることはできません。人は電球で、神は電流のようであり、人が信仰を用いて心にあるスイッチを入れ、神の電流、すなわち神を人の中へと入らせるなら、人の内側にある霊に明かりがつき、人の内側を照らします。こうして人は神の霊に満たされ、光り輝くようになり、すばらしい、平安で、喜ばしい感覚を得ます。

「なぜなら、あなたがたが救われたのは、恵みにより、信仰を通してであって、これは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物であるからです.それは行ないによるのではありません.だれも誇ることがないためです」(エペソ人への手紙第2章8節―9節)。

聖書はわたしたちに告げていますが、人は神の恵みと人の信仰によって救われます。恵みは神がわたしたちに与えてくださるものです。神はわたしたちのために一人の救い主を備えてくださり、わたしたちの罪をすべて彼に負わせ、彼が十字架上で釘づけられてわたしたちのすべての罪の刑罰を担い、わたしたちのために完全な救いを成し遂げてくださいました。これは神の恵みであり、救いの基礎です。人がこのことにおいて、できることは何もなく、すべて神がわたしたちのために完成してくださいました。神はすでに救いを成し遂げ、すべての罪人の前に、またあなたの前に置いてくださいました。

ですから、わたしたちは善を行ない、自己を克服し、自己改善し、教えを順守することによって救われるのではありません。聖書は、「あなたがたが救われたのは、恵みにより、信仰を通してであって」と言っています。神が恵みを与えてくださるので、わたしたちは信じるべきです。わたしたちが信じないなら、依然として救われません。神はわたしたちのために身代わりの死の救いを備えてくださいました。わたしたちは救われるために彼を信じるべきです。

ここで強調する必要がありますが、主イエスを信じることは、自分の努力や行ないによるのではありません。たとえあなたが他の人より知恵があってもなくても、あなたの道徳が人より高くても低くても、あなたが最も金持ちでも無一文でも、これらはあなたの救いと関係ありません。あなたが神の恵みを受け入れるなら、あなたに知恵があってもなくても救われることができます。

主イエスを信じる信仰は、主イエスが人の中に置かれたものであり、この信仰は神の信仰であり、イエス・キリストの信仰です。人が主イエスの名を聞き、主イエスの言葉(福音は神の言葉であり、真理です)を聞いたとき、真理の言葉、すなわち人が救われる福音は人の内側で主イエスに対する評価と尊さを生み出します。内側で、主イエスはすばらしく、主イエスを信じることは実に良いと感じ、ある切望と渇望が生まれます。これが信仰の開始です。あなたが主を信じようとするとき、それはあなたがすでに信じ始めたことを意味します。

今、あなたは努力して彼を信じようとする必要はありません。ただ単純に彼に祈り、単純に心を彼に開き、霊を彼に開いて彼の名を呼び、このように祈る必要があります、「主イエスよ、おお、主イエスよ、あなたを信じたいです。あなたを受け入れたいです。あなたの中へと信じたいです。主よ、わたしの霊の中に入ってきてください。主イエスよ、あなたを信じることを願います。さらにあなたを信じることができるようにしてください」。あなたがこのような簡単な祈りをするとき、主イエスはあなたの中に入り、あなたの内側の信仰となります。あなたが多く祈れば祈るほど、主はますますご自身をあなたの中へと分与し、あなたの信仰は増し加わり、ますますあなたは信じることができます。

「すべて彼を受け入れた者、すなわち、御名の中へと信じる者に、彼は神の子供たちとなる権威を与えられた」(ヨハネによる福音書第1章12節)。

信じるとは何でしょうか? 聖書の思想によれば、信じることは賛成することではなく、外側の同意でもなく、客観的な事実を信じることでもありません。信じることは受け入れることです。ある人があなたに大切な物を与えるとき、あなたが受け入れるなら、この物はあなたの物となります。主イエスを信じることは、主イエスを内側に受け入れることです。信じることはとても簡単であり、だれでもどこでもできます。ただ心を開き、霊を開き、主イエスに祈って、彼をあなたの内側に受け入れるだけで、あなたは神の子供となる権威を持ちます。

遅らせてはなりません。今、彼を受け入れましょう。直ちに信仰の手を開いて、主イエスを受け入れましょう。ここにあるたとえがあります。昔、ある金持ちがおり、多くの貧しい人が厳しい冬の雪の中で凍死していくことに耐えられず、大きな願いをもって出て行って調査しました。そして彼は多くの貧しい人の名前と住所を調べ、速やかに馬車で多くの炭を積んで彼らに送るようにしもべに言いました。一軒目の家に着いたとき、この家の住所と名前を確認して、主人の旨を伝えました。戸を開いた貧しい人は何かの間違いだと思いました。彼にはこのような思いやりのある友人はいないと思ったので、戸を閉めて受け取りませんでした。そのしもべはやむを得ず、二軒目の家へ行きましたが、そこの人も自分にはこのような慈善的な友人はいないと思いました。しもべは多くの言葉をもって間違いないことを証明しましたが、彼はやはり疑って受け取りませんでした。仕方ないのでしもべはまた別の家へ向かいました。いくつもの家を回りましたが、どうしても信じる心を持つことができず、無料で炭を彼らに与えるような良い人はいないと思い、受け取りませんでした。その後、あるやもめの家に行ったとき、彼女はしもべの話を聞いて喜んでこの炭を受け取りました。そして彼女はその炭を使ってその年の厳しい冬を乗り越えました。友人のみなさん、神の恵みはこのように、完全に無代価で与えられています。もし、あなたが主イエスを受け入れるなら、あなたはこの救いの喜びを享受することができます。あの疑心暗鬼に陥った人たちに倣って、無意味に自ら苦しんで永遠に失われることがないようにしてください! ただ主イエスを受け入れるだけであり、他に方法はありません。受け入れるなら、永遠の救いはあなたのものです。

あなたが主イエスを受け入れるなら、彼はあなたの中に入り、あなたの命となります。この命は神のすべての祝福を享受する権威です。王室に生まれた子供は、王室の命を持っているように、この命は彼が王室の祝福を享受する権威です。わたしたちは、本来神の創造物であり、神から出たものですが、神の命と性質を持っていません。そのときわたしたちと神は、ただ被造物と創造主の関係だけであって、子供と父の関係はありません。しかし、わたしたちが主を受け入れるとき、神との関係は被造物の関係から子供の関係に変わります。わたしたちは神の命を得るとき、神の命と性質を得て、父の家のすべての祝福を享受することができるようになります。

「神はそのひとり子を賜わったほどに、世の人を愛された.それは、彼の中へと信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を持つためである」(ヨハネによる福音書第3章16節)。

神は愛の神であり、人に対する心は愛です。ルカによる福音書第19章は、主イエスがある取税人の家に行ったことについて述べています。人々はそれを見ると、みなつぶやいて、「彼は罪深い人の所に行って、宿を取った」と言いました。イエスは彼に言われました、「人の子が来たのは、失われたものを尋ね出して救うためである」(7節10節)。世の人は神を尋ね求めませんでしたが、神は世の人を尋ね求められました。あなたは神を尋ね求めませんが、神はあなたを尋ね求められます。あなたは神を求めませんが、神はあなたを求められます。あなたは神を愛しませんが、神はあなたを愛しておられます。この取税人は罪人であり、失われた人であって、神の尋ね求めることと救いを必要としました。神は一人の失われた人を尋ね求めるだけでなく、すべての失われた人を救うことを願っておられます。神は彼を尋ね求められましたが、あなたをも尋ね求めておられます。神は彼を救いますが、あなたをも救います。どんな人も神の救いを必要とします。

神は彼のひとり子をわたしたちに賜わった「ほど」に、世の人を愛され、彼をわたしたちのために十字架上で死ぬようにしてくださいました。主イエスは十字架上で、わたしたちの罪を担われました。彼は十字架上で、尊い血を流し、わたしたちの罪が赦されるようにしてくださいました。彼は十字架上で、わたしたちに代わって、神に裁かれました。聖書はこのように告げています、「わたしたちが罪に死んで、義に生きるために、彼はわたしたちの罪を、ご自身の体において、木の上で担われました.その方の打たれた傷によって、あなたがたはいやされたのです」(ペテロの第1の手紙第2章24節)。

神がわたしたちを愛し、彼のひとり子をわたしたちに賜わったのは、わたしたちが彼の御子の中へと信じるためです。信じることは受け入れることです。神が賜わったので、わたしたちは受け入れるべきです。さらに言えば、信じることは受け入れるだけでなく、信じることは結合です。接ぎ木した木のように、悪い木は良い木に接ぎ木されることによって、結ぶ実が小さいものが大きくなり、苦いものが甘くなります。あなたが主イエスを信じるとき、あなたは彼と結合して永遠の命を得ます。悪い枝が良い木に接ぎ木されて良い実を結ぶように、これからあなたの命にある大変化が起こり、あなたは自然に罪から解放され、自然に善を行なうことができ、また神の王国に入ることができるようになります。これは、神が世の人に与えた唯一の救いです。

友人のみなさん、今あなたが神にこのように言うことができますように、「神よ、感謝します。あなたはわたしを愛し、あなたのひとり子を賜わってくださいました。わたしは今彼を受け入れ、彼を信じて永遠の命を得ることを願います」。

詩歌(主は命の源)   習志野に在る教会作成

698主は命の源

記事はJGW日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第5期第1巻より引用

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