全世界は邪悪な者の中に横たわっている

福音メッセージ

この時代はまことに忙しい、労苦の時代です! 人々は生きるために絶えず働き、自分があの邪悪な者の中で、思いのままにほふられていることを知らないのです……

今日の時代において、長時間の仕事、残業が一種の常態となっており、「過労死」のニュースもよく耳にします。医学的の解釈によれば、「過労死」とは、仕事の時間が長く、労働の負担が強く、心理的なプレッシャーが大きくなり、疲れ果てて体の潜在的な病が突然急性的に悪化して、治療が間に合わずに命を落すということです。「過労死」が普遍的な社会現象となったのは、多くの要素が互いに作用した結果です。たとえば、経済社会が転換してプレッシャーが増し、競争が激しくなり、社会保障の制度が健全でないなど、今日において多くの国がこのような危機に面しています。

人生はこの世でわずか数十年ですが、生きるために絶えず働き、この華やかな世界で自分のためにすべてを獲得しようとしています。しかし、人はこのために大きな代価を払い、自分の命でさえも払っています。聖書にある言葉があります、「全世界は邪悪な者の中に横たわっている」(ヨハネの第1の手紙 第5章19節)。この言葉はどういう意味でしょうか? まずわたしたちは邪悪な者がだれであるのかを知る必要があります。邪悪な者は、聖書の中で語っている悪魔サタンです。彼は、もともと神が創造した天使長でしたが、高ぶりのゆえに神に反逆し、多くの天使を連れて彼に従わせました。また彼は、人をだまして彼と共に堕落させ、それによって神に創造されたすばらしい地球が彼の反逆によって腐敗させられてしまいました。人は、神が彼の定められた御旨のために創造させたものでしたが、サタンは、人を占有し、人を奴隷とするために、すべてのもの、すべての人、すべての事を体系化して、神に敵対する世界の体系を形成しました。

全世界はすでにサタンによって体系化されており(第2章15節)、その中にあるすべての人・事・物はサタンに腐敗させられました。また、「全世界は邪悪な者の中に横たわっている」ということは、この世のすべての人・事・物は受動的に邪悪の者の勢力の範囲内にとどまり、彼の占有と操縦の下にいるということを意味します。この世の人は自分の自由がなく、完全に悪魔の制御と操縦の下にいます。わたしたちは外科手術の患者を用いて説明することができます。外科手術で患者は麻酔をかけられ、手術台の上に横たわっています。それから外科医は手術を施すとき、その患者は完全に外科医の制御の下にいます。今日の全世界とサタンの関係はこのようです。サタンは邪悪な「外科医」であり、この世の人たちは彼の「手術台」の上に横たわっている「患者」です。これはサタンの手の中に横たわっている全世界の絵です。世の中の人たちは邪悪な者の「手術台」の上に横たわっていて、彼が彼らに対して「手術」していることを知らないのです。

ヨハネの第1の手紙 第2章16節は言います、「すべて世にあるもの、すなわち肉の情欲と目の情欲と生活の虚栄」。邪悪な者、すなわち悪魔サタンは、直接人の前に現れるのではなく、この世の仮面をかぶっているのです。悪魔が直接現れていたなら、誰も彼を愛さなかったでしょう。しかし、すべての人がこの世を愛します。サタンはこの世を体系化し、この世にあるすべての人・事・物を、人を欺く、詐欺の仮面としています。ですから、今日この世の人たちは、自分のために生活し、努力し、自分の肉の情欲、目の情欲、生活の虚栄を満たすために労苦しているようですが、すでに悪魔の捕虜となり、悪魔の勢力の下で支配され、もてあそばれています。

人々は経済の発展の中、みな名声、富、地位、娯楽、享受を追い求め、さらに良い生活をしようとするとき、同時にこれらのことによって惑わされ、麻ひさせられて不本意に自分自身を失っています。患者がサタンの手術台の上に横たわっているように、無意識的に思いのままにほふられています。ですから、わたしたちは、経済が発展すればするほど、また富が蓄積すればするほど、ますます仕事の負担が大きくなり、貧富の差が明確になり、人々の苦しみの指数が高くなることを見ます。また、娯楽を楽しめば楽しむほど、ますます人の心はむなしくなります。放縦であればあるほど、ますます犯罪率が高くなります。それによって人々は生活、金銭、娯楽だけを重んじ、知らないうちにそのために命を使い尽くし、罪を犯すことに対して無感覚になり、「過労死」、うつ、犯罪、自殺、殺人などの自己破滅や他人の人生を滅ぼすという結果に向かいます。

出エジプト記第1章は、エジプトにおける神の民の状況を詳しく記しています。彼らの状況は今日のこの世の人たちの状況でもあり、その特徴は、奴隷状態と死です。人々はまずこの世の奴隷となり、それからこの世によって抹殺され、滅びていきます。ある人は、人類文化は積極的に進展していると思っていますが、神の目において、今日地上の奴隷状態と死は以前よりひどくなっています。

イスラエル人はカナンで生まれました。食物の不足のゆえに、彼らは強いられてエジプトに下りました(創世記 第12章10節、第42章1節、民数記第11章4節ー第5節)。エジプトは享受と快楽のこの世を表徴します。この世にいる者は、この世の快楽、豊富な物資の供給、肉の享受によって完全に占有されています。イスラエル人は生計を立てるために、エジプトの暴虐の下に落ちてしまい(出エジプト記 第1章10節―11節)、この世によって奴隷とされてしまいました。今日におけるこの世の人たちも同じようにサタンの暴虐の下にいます。彼らの職業とこの世の娯楽でさえも、彼らがサタンの暴虐の下にいるしるしとなっています。彼らは強いられて潮流に従い、自分をサタンの暴虐の下にとどまっており、神の定められた御旨から離され、それによって正しい選択をする自由がなく、最終的に奴隷とされて死に至ります。今日の多くの人は、富んでいても、貧しくても、みな金銭の奴隷です。彼らは懸命に働いて金銭を稼ぎ、ごく短い期間で、この世の快楽に彼らのすべてを使い果たします。ですから多くの人は今日、神に仕えないでマモン(金銭)に仕えているのです。これが古代のエジプトにおけるイスラエル人の状況であり、今日におけるこの世の人たちの状況でもあります。

このように人々が奴隷にされたのは、おもに生計を立てる必要があることによります。この世の人たちは、あらゆる娯楽に引き寄せられているのは、さらに良い生活を渇望しているからです。同じように、人々は今日さらに高い教育や技術を追い求めるのは、さらに良い生活、さらには最高の生活を獲得するためです。世界の各地において、先進国であれ、発展途上国であれ、人々は生活の必要のために奴隷とされています。これがエジプトにおけるイスラエル人の状況です。

エジプトのパロは、この世の王であるサタンを予表します。出エジプト記 第1章10節において、パロはイスラエル人をぬかりなく取り扱うと言い、彼らを強制的に働かせました。これは、サタンがいかに賢いか、いかにぬかりなく人々を取り扱って彼らを奪い、彼らを占有し、彼らを奴隷にするかを示しています。サタンはぬかりなく人々を扱う目的は人を奴隷とするためです。11節は言います、「エジプト人は彼らの上に苦役を監督する者を置いて、彼らを重い労役で苦しめた。そして彼らはパロのために倉庫の町、ピトムとラメセスを建てた」。また、13節で言います、「そこで、エジプト人は、イスラエルの子たちに過酷な労働を課し」。原文の「過酷」という言葉は、イスラエルの子たちには何の自由も、権利も、安息もなかったことを示しています。彼らの環境がどうであっても、彼らは奴隷として苦役しなければなりませんでした。14節で続けて言います、「彼らの生活を苦いものにした」。パロはイスラエル人の生活を、つらい労役と奴隷にすることをもって苦いものにしただけでなく、イスラエル人の命を殺そうとしました。彼はイスラエル人から生まれたすべての男の赤子を殺すようにヘブル人の助産婦に命じました。しかし、助産婦は神を畏れていたので、男の赤子の命は保たれました(15節―19節)。これは神の御手が彼の民をひそかに守ったことです。

神はイスラエル人のうめきと苦しみを聞き、また見ました。ですから、神は彼の民をパロの暴虐の奴隷の下から救うために、救う者を用意しました。神が用意した人はモーセです。神は、何度もモーセを訓練し、遣わしてイスラエル人がエジプトから出て荒野で神に仕えるようにパロと交渉させました。神はまた、イスラエル人を導いて、神がイスラエル人のために用意したカナンの良き地へと入り、そこで神の王国を建て上げるようモーセに命じました。

モーセはパロとの数回の交渉を経た後、なおパロの頑固な反抗を受けましたが、後に神はエジプトの地で十の災害を起こし、最終的にパロは強いられて、モーセがイスラエル人を連れてエジプトから出ることに応じました。しかし、イスラエル人がエジプトから紅海のところへ出て来たとき、パロはまた後悔して軍勢を連れてイスラエル人を追いかけました。このとき、神は大きな奇跡を行なってエジプトの軍勢がイスラエル人に近づけないようにし、モーセに杖を紅海に向けて挙げさせました。すると海水は分かれて、イスラエル人は海の中で乾いた地を歩くことができました。イスラエル人がみな紅海を渡り終えた後、エジプトの軍勢が海の中へと入ったとき、神はモーセに杖を海に向けて伸ばすように命じ、水が戻るようにしました。するとエジプト人のすべての戦車、馬、軍隊が紅海の中で埋もれました。このとき、イスラエル人はやっとエジプトのパロの暴虐から逃れ、奴隷から解放されることができました。

旧約において、神はモーセを用意して彼の民を救い、エジプトのパロの暴虐と奴隷状態から逃れました。新約において、神は彼の御子イエス・キリスト、すなわち彼ご自身を遣わし、サタンの束縛と奴隷状態から人を救い出しました。ヘブル人への手紙 第2章14節は言います、「子供たちが血と肉にあずかっているので、同様に彼ご自身も同じものにあずかられたのです。それは、彼が死を通して、死の権能を持つ者、すなわち悪魔を滅ぼすためであり」。ここの「滅ぼす」と訳されたギリシャ語の言葉はまた、「無にもたらす、無効にする、排除する、廃棄する、破棄する、捨てる」とも訳されます。悪魔が人を堕落に誘い込んだ後、キリストは神の約束にしたがって肉体と成り、十字架上で肉体における死を通して、人の肉体の中の悪魔を滅ぼしました。これは、キリストが十字架上ですでにサタンを滅ぼし、彼を破棄し、彼を無にもたらし、彼を無力にしたことでした。

ある人はこう尋ねるかもしれません、「悪魔は滅ぼされたなら、なぜ今日においてなお暗やみの権威があり、依然として彼はこのように活発なのでしょうか?」わたしたちはこのような偽りの言葉を信じるべきではなく、悔い改め、神に立ち返り、神の救いを受け入れ、悪魔がすでに傷を受け、滅ぼされたと語っている聖書の言葉を信じる必要があります。これは完成した事実であり、聖なる言葉に記されており、わたしたちに遺贈されました。わたしたちは聖なる言葉にしたがって、信仰によってこの遺贈を取るべきです。サタンを追い出す最上の方法は、彼を辱めて、彼が破れ、滅ぼされたことを彼に告げることです。わたしたちがこのようにサタンを辱めるなら、彼は必ず退きます。キリストはすでにサタンを滅ぼし、奴隷状態から、サタンの暗やみの権威からわたしたちを解放して自由にしました。ですから、わたしたちはただキリストに向きを変え、わたしたちの内側に彼の命を受け入れるなら、わたしたちはサタンの暗やみの権威にある奴隷状態と制限から救われ、神の光の王国に入り、真の解放と自由を得ます。

JGW日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第1期第5巻より引用
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