賃金と恵み

福音メッセージ

古くから、人は堕落の状況から逃れる方法を見いだそうとしていました。一面、人は自分の外側の行ないが良心と神の義の標準に到達できないことを知っています。もう一面、人は自分の内側には自分を情欲の放縦、犯罪へと引いていこうとする傾向があることも感じています。人の直覚は、神がいることを自分に告げています。また、この神は義なる方です。人はまた、自分が罪を犯すことによって、神から隔てられることを知っています。このような状況の下で、人は自分を救う道を多く発明しました。この方法は千差万別ですが、一つの共通点があります。それは人の行ないと努力に寄り頼むということです。

賃銀は支払われるべきものであり、
恵みは無代価で得るものである
人が用いる自分を救う第一の、また最も普通の方法は、善を行なうことです。仏教徒は、人がただ善を行ない、不殺生しなければ来世で報われるということを信じています。イスラム教徒は、救いの道は神に対して忠実になり、預言者ムハンマドの言葉を信じることであると考えています。ユダヤ人は、人が神の喜びを得ようとするなら、モーセの律法を守らなければならないということを信じています。

またある人は、救いの道はざん(罪を悔い改めて、自分を罰する)であると考えています。彼らは、自分が過ちに対してとがを感じるなら、神は彼らの罪を赦すと考えています。多くの宗教家は禁欲主義と苦行を実行しており、彼らが体を痛めつければ痛めつけるほど、ますます神の恩恵を得ることができると考えています。彼らの観念において、神は人が苦しむことを見るのを喜ばれる神です。実は、懺悔はただ良心にわいを送る手段です。人がいったん罪を犯すと、良心は罪定めされます。彼は、自分を苦しく扱いさえすれば、彼がすでに苦しみの代価を払ったことを自分に告げることができ、良心をなだめることができると考えています。

しかしながら聖書は言います、「神はわたしたちを救い、……それはわたしたちのわざによるのではなく、彼ご自身の……恵みによります.キリスト・イエスの中で、もろもろの時代の前にわたしたちに与えられていたこの恵みは」(Ⅱテモテ一・九)。これは、人が救われるために、どんな代価も必要なく、行ないを通して得る必要もないということを示しています。それは神が無代価で人に与えた恵みに基づいています。恵みは神が人の行ないを受け入れることではありません。恵みは神が出てきて行なわれるということです。聖書によれば、神の義はすべての罪が裁かれるべきであることを要求します。ですから、恵みは神であり、主イエスでもあり、彼は罪人の地位にやってきて、罪人が犯した罪によって受けるべき結果を担われました。

聖書は言います、「人が義とされるのは、律法の行ないとは関係なく」(ローマ三・二八)。「義とされる」ことの意味は神の義の標準によれば正しいということです。また「律法の行ない」は人が律法を守るために行なう善の行ないです。聖書の言葉は示していますが、人が善を行なうことによって、神の義の標準に到達することは決してできません。なぜ善の行ないは、神の御前で人を正しいとすることができないのでしょうか? その原因は二つあります。第一に、善の行ないは人が過去に犯した罪の記録を除き去ることができないからです。もし、ある人が強盗殺人を行なって数年後にとがめを感じて、大金を貧しい人に分けることを決定したとします。貧しい人に寄付をすること自体は良いことですが、決して彼が強盗殺人をした罪の案件を取り消すことができません。もし、出廷して審理されるとき、彼は他の人に対する多くの善の行ないを理由に裁判で無罪を求めることはできません。同じように、善を行なうことは、神の御前で犯した人の罪を塗りつぶすことができません。善の行ないが神の御前で人が義とされることができない第二の原因は、人の善の行ないは、神の義の標準に到達するものは何一つないからです。なぜなら、神のような聖、義になれる人がいないからです。聖書は、わたしたちのすべての義は、汚れた衣服のようであると告げています(イザヤ六四・六)。汚れた衣服は、人の前に見せられるものではありません。同じように、わたしたちのすべての善の行ないは、神の目において、見せられるものではありません。

恵みと行ないは全く相対する原則です。行ないは、人が良く行なって自分を救うことを意味します。自分で救うことができない人はみな滅びます。しかしながら、わたしたちは見る必要がありますが、わたしたちは殺人放火の罪を犯していませんが、わたしたちの天性はすでに腐敗しており、わたしたちの思想と行ないはすでに多くの悪巧みに満たされています。わたしたちは真の罪人です。どうしてわたしたちは行ないを通して救われることができるのでしょうか?しかし神に感謝し、賛美します! なぜなら彼は行ないのゆえにわたしたちを救うのではないからです。彼は恵み、すなわち無代価の恵み、わたしたちにふさわしくない恵みによってわたしたちを救われます。ローマ人への手紙第四章四節は言います、「働く者に対する賃銀は、恵みとしてではなく、当然支払われるべきものとして勘定されます」。これは、賃銀は働いて稼ぐものであることを意味します。賃銀は義にしたがっています。逆に支払われるべきでないものを得られることが恵みです。ですから、「それが恵みによるとしたら、もはや行ないに基づくのではありません.そうでなければ、恵みはもはや恵みではありません」(十一・六)。

賃銀によって人は罪定めされる
人は律法にしたがうなら、神の要求するものを神に与えなければなりません。すなわち神の律法がこのように行なうようにと人に求めるとき、人はそのように行なって彼に答えなければなりません。これは聖書で言う行ないです。しかしながら、わたしたちは神の御前で罪以外に行なったものはありません。ですからわたしたちは罪の働きを行なっただけです。聖書によれば、わたしたちが罪を犯して支払われるべき賃銀は死です(ローマ六・二三)。また、「血を流すことがなければ、赦しはありません」(ヘブル九・二二)。わたしたちが罪を犯したので、神はわたしたちを罪定めしないわけにはいきません。神の性質によれば、彼は聖であるので、彼は罪を容認することができません。神の事を行なう手順によれば、彼は義であられるので、彼は罪人を処刑しないわけにはいきません。彼ご自身によれば、彼は栄光であられるので、罪人は彼に近づくことができず、彼の御前で罪人は死ななければなりません。

恵みは人を義とする
神は彼の聖にしたがって、彼の義にしたがって、彼の栄光の原則にしたがって人を扱われます。ですから、人の罪は神の裁きを経過しなければ赦されることはありません。神は人の罪状を見落とすことはありません。神は主イエスの血のゆえに人の罪を赦され、もはや人の罪を覚えることはありません(マタイ二六・二八エペソ一・七ヘブル八・十二)。こういうわけで、キリストの十字架を通して、恵みは人に臨みました。ですから聖書は言います、「無代価で、彼の恵みにより、キリスト・イエスにある贖いを通して、義とされるからです」(ローマ三・二四)。

主イエスは十字架上で死に、わたしたちのすべての罪の刑罰を担われ、わたしたちのために苦しみ、痛みを味わい、神の義による怒りの杯を飲まれ、わたしたちに代わって完全な救いを成し遂げられました。この恵みは何と深いことでしょう!これは神の恵みであり、救いの根本です。ですから、わたしたちは神によって義とされ、またわたしたちが救われるのは、わたしたちの行ないによるのではなく、神ご自身の恵みによります。

聖書は言います、「人が義とされるのは、……イエス・キリストにある信仰を通してである」(ガラテヤ二・十六)。なぜなら、「律法によっては、だれも神の御前に義とされないことは明らかです」(三・十一)。これははっきりと示していますが、だれも良い行ないで救われることはないということです。友人のみなさん、すでにここには主イエスの完成された働きがあり、彼はすでにすべての代価を払われ、あなたのゆえに十字架上で釘づけられました。もし、あなたがあなたに代わって成し遂げられた彼の贖いを受け入れるなら、あなたは救われます。なぜ自分の方法を苦しんで用いるのでしょうか?

友人のみなさん、あなたの滅びと救いはあなたの行ないがどうであるかによるのではなく、あなたが神の恵みを受け入れるかどうかによって決まります。神は彼の御子を人の代わりに死なせ、人の罪を担わせたことは以下のことを証明します。人は良い行ないができず、善を行なうことによって救われることができません。神の御前で、神の裁きから免れるために、罪人を覆うことができるものはありません。主イエスの尊い血のみ、それができます。十字架における主イエスの贖いは唯一信頼することができるものです。神は一つの救いしか設けておらず、それは彼が十字架を通して与える恵みを受け入れることです。人が救われるためには、ただ神の方法にしたがうしかありません。あなたはただ神の恵み、すなわち神が彼の御子を通して十字架上で成し遂げられたことを受け入れるなら、救われます。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第6期第5巻より引用