わたしたちはどうしたらよいのかーー救いへの道

福音メッセージ

使徒行伝第2章36節から39節は言います、「『こういうわけで、イスラエルの全家は、確かに知っておきなさい.あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は主またキリストとされたのです』。人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとその他の使徒たちに、『兄弟たちよ、わたしたちはどうしたらよいのでしょうか?』と言った。すると、ペテロは彼らに言った、『悔い改めなさい.そして、あなたがたの罪が赦されるために、イエス・キリストの御名の上にバプテスマされなさい.そうすれば、あなたがたは聖霊を賜物として受けます。なぜならこの約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供たちにも、遠く離れているすべての人、主であるわたしたちの神がご自身に召しておられるすべての人にも、与えられているからです』」。

使徒行伝第2章36節から39節は、ペテロがユダヤ人に対して語った最初のメッセージであり、人がどのようにして救われるかをわたしたちに見せています。ペテロの言葉によれば、救いへの道は三つの手順、すなわち悔い改め、信じること、バプテスマを含みます。

悔い改め――思いを変える

救いの第一歩は悔い改めです。人は生まれるとすぐに、神から離れ、神に背き、遠く神を置き去りにしてきました。毎日わたしたちが新聞を開くなら、人生は実に罪に満ちていることを見いだすことができます。多くの人はマージャン、賭博、お酒、ダンス、麻薬、ゲームの中毒になり、さらには法律を犯して風紀を乱し、性的暴行までに至っています。聖書で言っているように、「すべて人の心の思いはかることが常に悪いことばかり」(創世記第6章5節)になっています。この世の誘惑とその背後にいる悪魔サタンの邪悪な勢力に対して、人に抵抗する力は全くありません。無知で無学な者が罪を犯すだけではなく、高等教育を受けた知識人でさえ、罪の影響によって自分の人格を失い、人を害し、また自分を害し、大きな過ちを犯してしまいます。どれほどの有望な青年、すばらしい結婚、幸せな家庭が、罪の支配によって破壊されてきたことでしょう。
人は罪の束縛を受け、逃れる力もなく、最終的に滅びの道へと至ります。しかしながら、神のあわれみにより、堕落し、絶望的な罪人のために、彼は救いを用意されました。主イエスはすでに人の罪のために十字架上で死なれ、罪の刑罰から人を贖われました。彼はさらに復活し、命を与える霊と成って、人の内側で命となり、罪の権威から人を救ってくださいました。人が悔い改めて彼に向きを変えるなら(マルコによる福音書第1章15節)、罪の赦しと救いを得ることができます。

悔い改めとは思いを変え、過去を悔いて、将来のために転換することです。以前わたしたちは神に背いており、神から遠く離れていました。今日わたしたちは向きを変え、神に立ち返り、神に向かい合い、神を見つめ、神を思う必要があります。ですから、悔い改めとは、ただ消極的な面において、わたしたちの罪や過ち、この世とその腐敗、また以前わたしたちが神を拒んで生きてきたことを悔い改めるだけではありません。積極面において、すべての面において、すべての事柄において神に立ち返ることです。わたしたちが悔い改め、神に立ち返るなら、すぐに光がやってきて照らします。こうしてわたしたちは以前、親、妻、子供、友人、同僚に対して犯した自分の過ちと罪を見ます。わたしたちが心を主に開いて、自分の罪を一つ一つ認めるなら、主は彼の尊い血を用いて、わたしたちの罪を洗い清めてくださり、わたしたちのとがを取り除いてくださいます。そしてわたしたちの中に入り、わたしたちの命と力となって、罪の支配からわたしたちを逃れさせ、真の自由と満足を得させてくださいます。

ある兄弟は、主を信じる前は政治に夢中で過激な人であって、キリストを信じることに対してとても反対していました。ある日、彼は古い寺の中に入り、供えの台の上に一冊の聖書が開いて置かれているのを見ました。彼は好奇心のゆえに見に行きました。ちょうど詩篇の第一篇の箇所で、「悪しき者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず」(詩篇第1篇1節)とありました。彼は読めば読むほどますます感動し、そこで悔い改めて罪を告白し、自分を義とすること、また以前の見るに忍びない惨状と腐敗を罪定めし、さらには地に伏して号泣しました。彼はそれによって救われました。それから、彼は自己、この世、悪鬼から神に立ち返り、主に仕える同労者となりました。

信じる――受け入れる

救いの第2歩は信じることです。使徒行伝第2章38節で、「イエス・キリストの御名の上に」と告げています。「の上に」は信じることを意味します。聖書で告げている「信じる」は、一般的に知られている意味ではありません。あなたは天があると言うとき、わたしは天があることを信じます。これが信じることです。信じることは賛成することではなく、同意することではなく、認めることでもなく、受け入れることです。たとえば、わたしが一杯のお茶をあなたに持ってきたとします。あなたはこれが一杯のお茶であることは知っていますが、あなたは飲もうとしません。これは、信じていることではありません。またたとえば、わたしがあるメッセージを語った後、あなたはよく理解し、賛同していましたが、あなたは受け入れません。これも信じていることではありません。信じるとは受け入れることです。

わたしたちは悔い改めて神に立ち返るだけでなく、さらに神を信じる必要があります。それは、主イエスをわたしたちの中に受け入れることです。ローマ人への手紙第10章9節から10節は言います、「あなたが自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神は彼を死人の中から復活させたと信じるなら、あなたは救われます.なぜなら、人は心で信じて義とされ、口で告白して救われるからです」。ここではっきりと告げていますが、主はわたしたちから遠く離れているのではありません。わたしたちは天に上ったり、地に下ったりして彼を尋ね求める必要はありません。彼はわたしたちの口にあります。いつでもどこでも、わたしたちは自分が罪人であることを認め、悔い改めて罪から逃れることを願って、「おお、主イエスよ、あなたを信じます。あなたを受け入れます」と呼び求めるなら、彼はすぐにわたしたちの中に入ってきて、わたしたちの命と救いになられます。

かつてある裁判官が専門学校で教員の兼任をしていたとき、福音を聞きましたが、クリスチャンが宣べ伝えている主イエスに対して半信半疑になっていました。ある兄弟は、彼が家に帰った後に、戸を閉じて、主イエスの御前にひざまずいて祈ることを勧めました。彼は祈ることに損はないと思い、試すことに同意しました。家に帰った後、彼は妻と子供に彼の邪魔をしないように告げ、部屋の戸を閉じ、冗談半分でひざまずいて主に祈りました。彼は主に告げました、「もしあなたが真の神であるなら、わたしの罪を知らせてください」。彼はこのように祈った後、自分が本当に罪人であり、多くの罪を犯してきたと感じて、一つ一つ主に告白し、主の赦しを求めました。二日目に、彼はいつものように仕事に行きましたが、内側では言い表せない喜びがありました。彼は天と地が変わったと感じました。空が特別に青く、地がとても美しく、道ばたにいる小犬でさえ喜ばしいと感じました。後に、彼の人生観も変わり、以前にあった多くの良くない嗜好が落ちていきました。これは、彼が主イエスを信じ、主イエスを彼の中に受け入れて彼の命に不思議な変化がもたらされたからです。

税関で働いているある兄弟は、以前、娯楽と喫煙が好きでした。ある日、彼は福音を聞き、家に帰って戸を閉じ、ひざまずいて主に祈り、罪を告白して救われました。その後に、彼は喫煙することを忘れ、遊び回ることがなくなりました。彼の妻はこのことに対して喜ばしく思わず、とても嫌気が差して、この兄弟が集会して家に帰って来たときに戸を開けませんでした。彼が聖徒たちを家の食事に招いたとき、何と彼の妻は残り物を出したのです。しかしながら、みなの断食の祈りを通して、この兄弟の妻も救われました。さらに、兄弟姉妹を家の食事に招き、彼らに悔い改めて罪を告白しました。これらの人の内側にある命の変化は、すべて彼らが主イエスを信じ、主イエスが彼らの中に入って彼らの命となることを受け入れたからです。

バプテスマ

救いへの道は悔い改め、信じることだけでなく、さらにバプテスマが必要です(マルコによる福音書第16章16節)。キリストを信じることは内側の実際であり、バプテスマは外側の表明です。内側の実際を持つだけでなく、外側の表明も持つ必要があります。これは、心の中でキリストを信じるだけでなく、外側でバプテスマされる必要があるということです。バプテスマは一つの結びと確証です。悔い改めて信じるだけであるなら、内側で救われただけであって、救いは堅固ではありません。バプテスマされたなら、救いは外側の確証を得て、さらに堅固になります。これは鉄を精錬することのようであり、鉄は打たれ、焼かれた後に、水に浸される必要があります。そうすれば精錬した鉄はさらに堅固になります。

バプテスマは一面、人が罪と関係を断って、神に帰すことを表します。もう一面は、人が自己を離れて神の中へと帰すことを表します。バプテスマは実際の行動をもって、以前の行ないと以前の人は完全に終わらされ、死んで、葬られたことを宣言することです。そして今後はもはや以前の人ではなく、もはや以前の行ないはなく、キリストと結合し、キリストを生かし出します。悔い改めて信じることは、人が救いを得て、罪から逃れさせることに十分ですが、なおもバプテスマされて外側の確証を得て、人の内側の救いを完成させる必要があります。

このように行なった結果

わたしたちは悔い改め、信じること、バプテスマを通して、罪の赦しを得て、罪の刑罰と罪の権威から逃れただけでなく、聖霊、すなわち神ご自身を得て、神の永遠の命を得て、喜び、平安、開放の人生を送ることができます。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第5期第5巻より引用

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