この世には二人の人しかいない

福音メッセージ

神の目に、この世には二人の人しかいません。一人はアダムであり、もう一人はキリストです。神はすべての人をこの二人の中に数えておられました。あなたはアダムの中か、あるいはキリストの中にいます。アダムは極めて大きな人のようであり、あなたが母の胎から生まれたときから、この大いなるアダムの中にいるようになりました。そして、あなたが主を信じて再生されたときにキリストに移されました。

あることわざで、「行なったことに責任を持て」というものがあります。なぜ聖書では、アダムが罪を犯したのに、全人類に罪があると告げているのでしょうか? また、なぜ主イエスは十字架上で釘づけられたことによって、彼を信じるすべての人の罪が赦され、義とされ、命を得るのでしょうか?

三つの主要な見方
このことを論じる前に、わたしたちはまず三つの主要な見方を見たいと思います。まずわたしたちは遺伝の法則に関して少し見たいと思います。一つの命の性質と表現における特性は、代々子孫に受け継がれます。一人の子供から彼の父親の特性や気質を見いだすことができます。逆に、後天的に訓練して学んだ特性は、遺伝で受け継ぐことはありません。例えば、鍛冶屋の腕は訓練して太くて強くなりますが、彼の子供の腕は細くて小さいかもしれません。なぜなら、それは後天的に訓練して得たものであって、遺伝で受け継ぐことはないからです。これは生物学で認識されている現象と事実です。

二つ目の主要な見方は、人類の合一です。聖書の見方によれば、わたしたちそれぞれの存在とは別に、神は全世界のすべての人を、何億人いるかにかかわらず、ただ二人と見なしています。一人はアダムであり、もう一人はキリストです。この二人はみな団体の人であり、それぞれの団体の人は多くの人を含んでいます。神はすべての人をこの二人の中に数えておられます。アダムの中でなければ、キリストの中に数えられています。神は、アダムから生まれた者をすべて、アダムの中に数えておられます。それはアダムから生まれたからです。またそれは一個の大きなスイカが二十切れに切られても、一切れ一切れがスイカであり、大量のぶどう酒が二十杯に分けられても、一杯一杯すべてがぶどう酒であるようにです。

三つ目の見方は人類の命の継続性です。個々の人の命は死にますが、人類という種族の命はなお継続しています。それは息子の命が父親の継続であるのと同じです。なぜなら、息子の命は父親からであり、またその後父親を継続するからです。同じように、あなたとわたしの命はアダムの継続です。アダムは九百歳ほど生きて死にましたが、実は彼の子孫を通して彼は生き続けています。今あなたとわたしは生きているだけでなく、わたしたちの子孫を通して生き続けます。

これがキリストとわたしたち人との関係を見るときの三つの主要な見方です。人類の命の遺伝、人類の合一、人類の命の継続性です。

広大な団体の人
人は個人で生きているだけではなく、また単独で生きているだけでもありません。人は自分の行動に対して完全に責任を負うのですが、またこの団体の人に属しています。すべての人はこの広大な生命体の一部分であり、常にこの広大な命を継続しています。またこの団体の人の一人目はアダムであり、彼の命は全人類の命を含んでいます。彼の行ないも次の世代にわたるすべての人の行ないです。彼の特性はすべて、次の世代の人に遺伝で受け継がれ、彼らは彼と同じような特性を持ちます。

人類の堕落はここから始まりました。人類の救いもここから始まりました。一人目が罪を犯したことで、後におけるすべての人も罪を犯しました。ですから、もしもう一人の人を命の源として、新しい人類の開始とするなら、これ以降の人も、この人の中で、彼が持っているもの、彼であるものを持つことができます。

アダムの中で罪を犯した
聖書は人類の堕落と罪をどのように見ているのでしょうか? 聖書がわたしたちに見せているのは、第一の人であるアダムが罪を犯したということです。そして人類の合一性のゆえに、全人類はまだ生まれていませんが、すでにアダムの中で罪を犯しました。これは高麗国が朝鮮半島で滅びて、その亡国の高麗人から生まれた子供が亡国を経なくても、すでに亡国の民であるようにです。彼らは祖先の亡国によって、亡国になったのです。彼らはまだ生まれてはいませんが、すでに彼らの父、もしくは祖父の中で亡国となりました。ですから、彼らは生まれながら亡国の民です。

今日わたしたちは、人がどのような罪を犯したかを見ますが、神はそのような見方をされません。あるいはわたしは生まれてから現在に至るまで少しの罪も犯したことがないと言うかもしれません。しかし、神はわたしがだれから出て来たのかを問われます。わたしがアダムから出て来たのであるなら、アダムがエデンの園で罪を犯した時、わたしもそれにあずかったのです。わたしの命はアダムから絶えず伝えられてきたものです。わたしのこの命は、アダムの罪を犯した命の継続です。ですから神から見れば、アダムからの一人一人の人はみな罪人です。アダムが罪を犯したので、一人一人はみなアダムの中で罪人となったのです。

もう一人の人
聖書はまた、もう一人の人が存在することを見せています。それはキリストです。神はキリストをアダムと同じような見方で見られます。神は、アダムとアダムから出たすべての人を一人の人と見なしたように、キリストとキリストから生み出されたすべての人を一人の人と見なします。アダムから出たわたしたちの命は、罪を犯す命です。わたしたちがキリストから出て来た者であるなら、すなわちキリストから出た命を得ることができるなら、わたしたちはイエスと同じように罪から離れることができます。

どのようにしてキリストから出た命を得るかについて見るのは後にして、まずキリストから出た命が主イエスご自身の命であることを見ていきます。それは罪のない命であり、神に喜ばれ、聖霊で満たされ、完全に聖で、絶対的に義である命です。わたしたちがこのような命を得る時、わたしたちはキリストと同じようになり、キリストのすべての経験を持つことになります。

第三の人はいない
こういうわけで、全世界の人はただ二人だけです。もしあなたがアダムに属する者でなければ、必ずキリストに属する者なのです。もしあなたがアダムに結び付いていないなら、必ずキリストに結び付いているのです。ほかに第三の人を捜し出すことはできません。

二人のアダムと二人の人
聖書は全人類をただ二人の人と見なしています。ですから、あなたがコリント人への第一の手紙第十五章四五節四七節を読んでも不思議に思うことはありません、「最初の人、アダムは、生きた魂と成った」。「第一の人は地から出て、土に属し、第二の人は、天から出ています」。

聖書は、最初の人がアダムであると言っています。それだけでなく、キリストもまたアダムであり、それは最後のアダムであると言っています。その意味は、別の第三のアダムはあり得ないということです。ただこの二人のアダムがいるだけです。神は人を数えるとき、アダムを第一の人とし、キリストを第二の人とします。アダムからキリストに至るまでに何億の人が生まれたのかわかりません。しかし、聖書は彼らを単独の人とは見ていません。アダムを第一の人とし、キリストを第二の人として見ているのです。

こういうわけで、およそアダムから出た者はみなアダムの中に含まれます。彼らはみな罪と関係があり、みな罪深く、地に属しています。同じように、最後のアダムから命を得ている者もみなキリストの中に含まれており、主イエスのすべての経験を得ており、罪は彼らにおいて何の力もありません。彼らは天から出ているのです。

あなたもわたしもアダムというこの一人の団体の人の中に含まれているので、アダムのエデンの園における経験もまたわたしたちの経験となり、アダムの結末もまたわたしたちの結末となりました。同じように、キリストもまた一人の団体の人であり、キリストの中にいるすべての人は、アダムに対して持ったのと同じような関係を、キリストと持ちます。キリストのすべての経験は、キリストの中にいる人の経験となります。全人類はすべてこの二人の人の中に含まれていて、この二人の人と密接な関係を持っているのです。

全人類とこの二人の人との関係
これからわたしたちは、全人類とこの二人の人との重要な関係を見ていきます。ローマ人への手紙第五章十二節は言います、「こういうわけで、一人の人を通して罪がこの世に入り、そして罪を通して死が入ったように、すべての人が罪を犯したために、死がすべての人に及びました」。十四節は言います、「しかし、アダムからモーセに至るまで、アダムの違反の様で罪を犯さなかった者をも、死が王として支配しました.アダムは来たるべき方の予表です」。

アダムからモーセまでの約二千五百年の間、人の数や犯した罪の種類は数え切れないほど多くありました。しかしながら、神の勘定によれば、罪はアダムという一人の人によってこの世に入ったのです。そしてアダムは来たるべき方の予表であって、アダムは来たるべきキリストの影です。あなたはアダムを見れば、キリストが何であるかを知るでしょう。

一人の人によって
ローマ人への手紙第五章十五節は続けて次のように言っています、「しかし、違犯は恵みの賜物には及びません.一人の違犯によって多くの人が死んだのであるなら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの無代価の賜物は、さらにいっそう多くの人に満ちあふれました」。もしアダム一人が罪を犯して多くの人を死なせたのであれば、イエス・キリストが義となられたことによって、恵みはさらに豊かに多くの人々に満ちあふれたのです! 死は一人の人によってやって来ました。そして恵みも一人の人によってやって来ます。

十六節から十七節は繰り返し、一人の人によって、と言っています。さらに十八節に来ると、「一度の違犯を通してすべての人に罪定めが及んだように、一度の義なる行為を通して、すべての人に命の義認がもたらされたのです」とあります。ここでわたしたちは再び見ますが、罪はわたしたちが犯して得たものではありません。アダムの中にいるなら罪人であるのです。義もわたしたちが行なって得るものではありません。キリストの中にいるなら義であるのです。

罪人に構成されるか、
義なるものに構成されるか
十九節はさらに進んで、わたしたちが罪人であるか、義なるものであるかは行ないによってではなく、内側の構成によると告げています、「一人の人の不従順を通して、多くの人が罪人に構成されたように、一人の方の従順を通して、多くの人が義なるものに構成されます」。一人の人アダムの罪科によって、罪は彼の中に入り込み、彼の性質は罪を持つ性質となりました。わたしたちの存在は彼によります。彼の命と性質が罪を持ったので、わたしたちが彼から得た性質にも罪があります。その結果すべての人は罪人に構成されました。

今日、わたしたちは罪を犯すので、罪人であるということではありません。わたしたちが罪人であるので、罪を犯すのです。わたしたちが罪を犯すのはとても自然であり、少しも不思議ではありません。もしわたしたちが罪を犯すことができず、あるいは罪を犯さないなら、それはとても不思議です。例えば一本のみかんの木にみかんが実ることは自然であり、みかんが実らないことは不思議なことです。また、それはみかんが実ったのでみかんの木であるということではありません。それはみかんの木であるので、みかんが実るのです。同じように、わたしたちは罪人であるので、わたしたちは罪を犯します。わたしたちが罪人であるのは、受け継ぐことによります。わたしたちが罪を犯すのは生まれながらのことです。だれもうそをつくこと、嫉妬すること、高ぶることをわたしたちに教えていませんが、わたしたちは自然にこのような本質と構成を持っています。罪の結末は罪定めと死です。アダムの一回の罪科によって、わたしたちはみな彼の中で罪定めされて死にます。

しかしながら、神に感謝します。キリスト・イエスが来られました。彼は罪を犯していないだけでなく、すべての人の罪のために、十字架上で死なれるまで従順になり、彼の中で命を得た者がみな義なるものに構成されるようにしてくださいました。

十字架上でのキリストの死は、わたしたちを彼と共に死なせました。彼のその義なる行ないは、神の罪定めからわたしたちを逃れさせただけでなく、積極面において、キリストの復活によって証明されたように、わたしたちは神に義とされました。キリストの復活は、神が彼と彼の行ないを受け入れたことを証明します。神がキリストを受け入れたことは、わたしたちを受け入れたことでもあります。なぜなら、わたしたちはみな彼の中にいるからです。それだけでなく、キリストは死から復活し、わたしたちに彼の命を得させてくださいました。彼が神に受け入れられて死から復活されたように、わたしたちも同じように神に受け入れられ、義とされて神の命を得ます。神の命がわたしたちの中に入って、わたしたちの内側の構成要素と成分となり、わたしたちを罪人から神の子へと造り変え、わたしたちを義なるものとしてくださいます。

アダムからキリストへ移される
以上が人類の二つの大きな源であり、二種類の命の流れです。すべての人は、片方の源からでなければ、もう片方の源から出てきます。片方の命の流れの中にいなければ、もう片方の命の流れの中にいます。中立はあり得ません。友人のみなさん、あなたはどの源から出てきたものでしょうか? またどの命の流れの中にいるのでしょうか?

わたしたちはみなアダムから生まれ、アダムの罪を犯す天性を持っています。わたしたちはどのようにして内側にある罪の遺伝から救われることができるのでしょうか? それはキリストの中に移されることによってです。アダムの中で、わたしたちはアダムに属するすべてのものを受け入れました。同じように、キリストの中でわたしたちもキリストに属するものを受け入れます。キリストの中に移されるために、あなたは三つのことを行なう必要があります。
一、自分がアダムから生まれたことを認める。
二、自分は罪定めされて死ぬべきであることを認める。
三、あなたの命の救い主として、キリストを受け入れる。
親愛なる友人のみなさん、あなたが命の救い主として、キリストを受け入れたなら、あなたはキリストの中にいます。今、あなたが主に開いて、アダムからキリストに移されることを経験し、キリストと結合し、キリストの成し遂げられたすべてを享受し、義なるものに構成されますように。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第6期第6巻より引用

タイトルとURLをコピーしました