善良な人は なお救われる 必要があるのか?

福音メッセージ

一人の善良な人
使徒行伝第十章一節から四節は言います、「カイザリヤにコルネリオという名の人がいた.イタリア歩兵隊と呼ばれる部隊の百人隊長であって、信心深く、彼の全家と共に神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈り求めていた。ある日……御使いは彼に言った、『あなたの祈りとあなたの施しは、神の御前に立ち昇って覚えられている』」。これらの聖書から、わたしたちは以下のことを知ることができます。(一)コルネリオは信心深い者であり、(二)彼自身は全家と共に神を畏れ、(三)貧しい人に多くの施しをしており、(四)彼は神に祈り、(五)彼の祈りが神に覚えられていたということです。以上の五つの点は、彼が善良な人であることを証明します。このような善良な人はなお救われる必要があるのでしょうか?

善良な人の苦悩
わたしたちはまず聖書の中のパウロという人を見たいと思います。彼は主を信じて救われる前、善を行なおうとする人でした。彼は律法を行ない、善を行ない、また善良な人でした。しかし、彼はこう言いました、「わたしは自分の中に、すなわち、自分の肉の中に、善なるものが住んでいないことを知っています.なぜなら、わたしは善をしようと欲するのですが、善を行ない出すことはないからです。わたしは自分の欲する善を行なわず、かえって自分が欲していない悪を実行しています。もしわたしが欲していないことを行なうなら、それを行ない出すのはもはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪です。……何とわたしは苦悩している者でしょう! だれがこの死の体から、わたしを救い出してくれるのでしょうか?」(ローマ七・十八―二〇、二四)。

パウロは、自分は苦悩している者であると告げました。実は、善を行なおうとするすべての人はみな苦悩している者です。なぜなら、思いの中に善の法則があり、善を行なおうとするからです。しかし、わたしたちの肉の中にはもう一つの法則があり、聖書は罪の法則、または死の法則、すなわち罪を犯す法則と呼んでおり、それはわたしたちを死に至らせる法則です。その法則は一種の規律であり、自動で自発的な力があり、わたしたちの内側で悪を行なうようにわたしたちを引いて行き、わたしたちが善を行なうことができないようにし、わたしたちが願う善を行なわせないようにし、願わない悪を行なわせます。

これは善を行なおうとするすべての者の実際的な経験ではないでしょうか? 善を行なおうとしなければ、問題はなく、みなと共に同じ汚れた流れの中にいます。しかし、もし聖別され、善を行なおうとするなら、罪を犯す法則はわたしたちを力強く引いて行き、わたしたちが行ないたくない事を行なわせます。かんしゃくを起こすことについて、だれがかんしゃくを起こしたいのでしょうか? 人がかんしゃくを起こすとき、あることを行ない、ある言葉を言いますが、それらは非常に適切ではありません。人がかんしゃくを起こした後、よく後悔します。後悔した後に、もはやかんしゃくを起こさない、と決心して言います。しかし、決心したことは役に立つでしょうか?わたしたちはみな経験があると思いますが、決心しないときは、まだ良かったようでしたが、決心した後にかんしゃくをさらに起こしやすくなりました。ですから、教えがあるかないかの問題ではなく、決心したかどうかの問題でもなく、内側の命の問題です。

鶏のひなとアヒルのひなの例証を挙げたいと思います。めんどりの下に鶏の卵とアヒルの卵を置いたなら、同時に鶏のひなとアヒルのひなが孵化します。しかし、鶏のひなとアヒルのひなが成長すればするほど、異なる現れが出てきます。アヒルのひなが大きくなると、水辺を好みますが、鶏のひなは水を見ると離れます。なぜなら、アヒルのひなには水を泳ぐ命がありますが、鶏のひなにはないからです。魚はなぜ海の中で泳ぐのでしょうか? それは泳ぐ命を持っているからです。鳥はなぜ空を飛ぶのでしょうか? それは飛ぶ命を持っているからです。人はなぜ罪を犯して堕落するのでしょうか? それは罪を犯して堕落する命を持っているからです。

人は罪の命を持っている
初めに神が造られた人は、明るく、純粋でしたが、後に人の命は腐敗し、罪によって汚れ、腐敗し、堕落し、罪深い命となってしまいました。人の命は制御できないどころか、逆に自動で自発的に罪を犯す命となってしまいました。このような命は、教えを通して善を行なうことを期待することができません。なぜなら、ある種の命はその種の実を結ぶからです。聖書は言います、「彼らの実によって、あなたがたは彼らを見分けるのである。人はいばらからぶどうを、あざみからいちじくを集めるだろうか?」(マタイ七・十六)。いばらの命はとげのあるいばら、人にささるいばらだけを生み出します。ぶどうの木の命だけがぶどうを生み出すことができます。ですから、人の真の必要はさらに優れた教えではなく、さらに優れた命です。教えは依然として良いのですが、その命がなければ行なうことができません。

中国の唐の時代に、白居易(はくきょい)という詩人がおり、あるとき彼は仏教の禅師に尋ねて言いました、「仏教の大義は何でしょうか?」。この禅師は答えて言いました、「あらゆる罪を行なわず、あらゆる善を行なうことです」。そして白居易は言いました、「この言葉は三歳の子供でも知っています」。禅師は答えて言いました、「三歳の子供も知っていますが、八十歳の老人でも行なうことができません」。この禅師が語っていることは少しも間違いありません。三歳の子供でも、「あらゆる罪を行なわず、あらゆる善を行なうこと」を知っており、悪を行なってはいけないことを知っており、また子供たちは小さい頃から善を行なう教育を受けてきました。小さい頃は家で、両親は、子供は誠実でうそをついてはいけない、堂々としていなさい、やましい策略を行なってはならないと教えました。学校に行くようになると、先生もこのようにして善を行なうように教えました。あらゆる宗教も人に善を行なうように勧めます。人は小さいときから親に教えられ、大きくなっても先生や先輩に教えられ、あらゆる宗教、あらゆる哲学もみな人に善を勧めますが、人はなぜ行ない出すことができないのでしょうか? なぜ八十歳の老人は行なうことができず、成し遂げることができないのでしょうか? これは、教えの問題ではなく、勧めるかどうかの問題でもなく、「人」に問題があることを見せています。「人」は堕落し、腐敗し、罪深いのです。罪深く、堕落し、腐敗している人は善を行なおうとしますが、行ない出すことができません。

善良な人であっても罪人である
前に述べたコルネリオは善良な人でしたが、依然として罪人でした。彼はすべての人と同じであって、堕落した人類の一人であり、神の御前で罪深く、また罪定めされています。それは、両親を敬い、誠実で柔和で、あわれみの心を持って、他の人に同情する人が、自分には罪がないと言うことができないことと同じです。コルネリオは神を畏れ、義を行ない、彼の祈りと施しは神に覚えられていました。しかしながら、彼は依然として贖い主であるキリストの中へと信じなければ、神に罪を赦されることはありません。

コルネリオは信心深い人でしたが、救われていませんでした。彼は神を畏れている人でしたが、救われていませんでした。彼は多くの施しを行なっている人でしたが、救われていませんでした。彼は神に祈っていましたが、救われていませんでした。彼の祈りは神に覚えられていましたが、救われていませんでした。コルネリオは善良な人でしたが、彼はまだ救われていませんでした。なぜなら、信心深いことは自分で行なったことであり、畏れは自分の中にあることであり、施しも自分で行なったことであるからです。彼には神の命がないので、彼はなお救われる必要がありました。

救いの福音
ですから、コルネリオが神に祈り求めていたとき、神はビジョンの中で、彼の祈りと施しが神に覚えられており、また使徒ペテロを彼の家に招くように告げました。こうしてコルネリオは人を遣わしてペテロを招き、また彼の親族と親しい友人たちを呼び集めて、主がペテロに命じたすべての言葉を聞くために、家で待ちました。ここでわたしたちは見ることができますが、神はコルネリオを覚えられ、ペテロが福音の啓示を彼に伝えて、彼が救われるようにされました(使徒十・一―五二二―二三)。

ペテロはコルネリオに次のように告げました。神は人を偏り見る方ではないので、あらゆる国民の中で、神を畏れ、義を行なう人は、神に受け入れられます。神はイエス・キリストを通して、平和の福音を宣べ伝えられ、聖霊と力をもって、ナザレ人イエスに油を塗られ、彼と共におられます。イエスは巡回しながら善い事を行ない、また悪魔にしいたげられていた人たちを、すべていやされましたが、人々はこの方を、木にかけて殺しました。神はこの方を、三日目に復活させ、彼を現されました。彼は、ご自分が生きている者と死んだ者の裁き主として神によって定められた方であることを、弟子たちが民に宣言し、厳かに証しするようにと、弟子たちに命じられました。彼は万民の主であり、彼の中へと信じる者はすべて、彼の御名を通して罪の赦しを受けます(三四―四三節)。

善良な人はどのようにして救われるのか
ペテロが宣べ伝えた福音は、イエスが万有の主であることを啓示します。彼は神であり、人の救い主として来られ、人生を経過し、十字架につけられ、死人の中から復活し、万民の主となり、人の罪を赦して、彼の命を得させました。ですから、悪人だけが救い主としての主イエスを必要とするのではなく、善良な人も同様に救い主としての主イエスを必要とします。すべての人は悔い改めて罪を告白し、主イエスの名の中へと信じなければ、救われません。

また、ペテロはコルネリオの家の人に福音を宣べ伝えた後、イエス・キリストの名の中へとバプテスマするようにと彼らに命じました。マルコによる福音書第十六章十六節はわたしたちに告げています、「信じてバプテスマされる者は救われる」。信じることは救い主としての主イエスを受け入れることであり、これは主の贖いによって人の罪が赦されるだけでなく、人が神の命を得て再生され、神の子供となるようにしてくださることです。バプテスマは一つの確証であり、一面において、水の中に浸されることは、主の死の中にバプテスマされることを通して、旧創造を終わらせることです。もう一面において、起き上がることは、主と共に復活することを通して、神の新創造となることです。信じることとバプテスマは、神の完全な救いにおける全体的な手順の二つの部分です。

福音とは新しい命である
ヨハネによる福音書では、もう一人の善良な人の物語について語っています。名をニコデモというユダヤ人の指導者がおり、彼はパリサイ人(パリサイ人はユダヤ人の中で最も厳格な教派であり、彼らは自分たちの非凡な宗教生活、神に対する敬虔さ、聖書の知識を誇っています)であり、また教師であり、高い道徳と人望もある人でした。彼は夜に主イエスのところに来て、教えを請い求めました。彼は主イエスをラビと呼びました。ラビは先生を意味します。彼は、主イエスは彼よりもさらに優れた教えがあると思ったので、彼を先生と呼び、彼から教えを得ようとしました。しかし、主イエスが答えられたことは、彼に教えを与えることではなく、彼の真の必要を告げたことでした。主イエスは言われました、「人は新しく生まれなければ、神の王国を見ることはできない。……人は水と霊から生まれなければ、神の王国に入ることはできない」(ヨハネ三・三、五)。主イエスは一言でニコデモの必要を言い表しました。ニコデモはすでに教師なので、彼の真の必要はさらに優れた教えではなく、さらに高い教えでもなく、「新しく生まれる」ことであり、それは神聖で、永遠の命を得ることでした。新しい命を得ることによってのみ、新しい生活を生かし出すことができます。人の真の必要は、神が与える神聖で、永遠の命を得ることです。

クリスチャンが宣べ伝える福音は、人に宗教を与えることではなく、人にさらに多くの教えを与えることでもなく、ましてや人に善を行なうように勧めることでもありません。それはただ人に束縛を増やすだけです。福音とは人に新しい命、神聖で、永遠の命を与えることです。ですから、ヨハネによる福音書第十章十節で、主イエスは言われました、「わたしが来たのは、羊(人)が命を得、しかも豊かに得るためである」。ここで告げられている命は、人の命に言及しているのではなく、神の神聖で、永遠の命に言及しています。ですから、主を信じる者は永遠の命、すなわち神聖な命を持っています。

人の真の必要は、人としてどのように振る舞うのか、またどのようにして善良な人となるのかを教えるもう一つの宗教や教えではありません。ある人が新しい命を得て、この新しい命、すなわち神の命を彼の内側で成長させ、発展させ、拡大させ、この命を徐々に強めるなら、彼は自動的に自発的に罪に打ち勝ち、自動的に自発的に善を行なう生活を生かし出し、自動的に自発的に善を行ないます。この新しい命を生かし出し、行なう善は、人の標準の善ではなく、神の標準に合った善であり、超越した善です。この善は神の標準に到達し、神の要求に到達します。この善は、神ご自身を生かし出すことです。また、これは神が人を造られた当初の目的です。すなわち、人が彼の複製となって神を表現し、神を生かし出し、ある生活を生かし出すことです。その生活は、神ご自身のような生活であり、二千年前に主イエスが地上で生きられたような生活です。神は、わたしたちが再生を通して、神の命を得て、彼と同じような生活を生かし出すことを願っておられます。

クリスチャンとなることは、キリストの継続、キリストの拡大、キリストの増殖、すなわちキリストの複製となることです。神は彼ご自身を複製することを求めておられます。主イエスは彼ご自身を複製することを求めておられます。彼は、彼を信じて受け入れるすべての人の中に彼の命を分与されます。友人のみなさん、神があなたを祝福し、あなたが神の命を得て、神の子供となり、真に善の命を生かし出し、善の生活を生かし出すことができますように。人の目において善であるだけでなく、神の目においても神の要求を満たし、神の標準に到達することができますように。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第6期第4巻より引用

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