清めと罪の赦しの祝福

福音メッセージ

「イエスが語られた時、あるパリサイ人の一人が、朝の食事を共にしてくださるよう彼に求めた.そこで、イエスは入って行って、食卓に着かれた。そのパリサイ人は、イエスが食事の前に、まず手を洗わなかったのを見て驚いた。しかし主は彼に言われた、『あなたがたパリサイ人は、杯や皿の外側を清めるが、内側は略奪と悪で満ちている。愚かな者たちよ! 外側を造られた方は、内側も造られたではないか? 内側にあるものを、施しとして与えなさい.見よ、そうすれば、すべてのものは、あなたがたにとって清いのである』」(ルカ十一・三七―四一)。

人の偽善
ルカによる福音書第十一章三七節から四一節は、ある日、主イエスがあるパリサイ人に食事に招かれたことを告げています。パリサイ人は、ユダヤ人の中で最も厳格な教派の人です。当時、ユダヤ人にはある風習がありました。それは、食事の前に手を洗わないなら、その人は汚れているということです。このパリサイ人は、主イエスが食事の前に手を洗わなかったのを見て、主イエスがユダヤ人の規則を破ったと思いました。しかし、主イエスはこのことを通して、パリサイ人の教派の真相を露わにしました。

主イエスはどのように語られたでしょうか? パリサイ人は杯や皿のようであり、外側はきれいに洗うが、内側は略奪と悪で満ちていると彼は告げられました。彼らは外側をきれいに洗い、外側を良く装っていれば、内側の邪悪なものはだれにも知られることはないと思いました。しかし、主イエスはここで、「愚かな者たちよ! 外側を造られた方は、内側も造られたではないか?」と示しました。人があなたの内側の罪を見ることができないので、神も見ることができないと思っているのでしょうか? あなたは人を欺くことはできますが、神も欺くことができると思っているのでしょうか? これはまことに無知であることです。

こういうわけでマタイによる福音書第二三章二五節から二八節で、主イエスはとても重々しい言葉を語られました。彼は言われました、「偽善者、聖書学者とパリサイ人よ、あなたがたは災いである! なぜなら、あなたがたは杯や皿の外側を清めるが、内側は略奪と放縦で満ちているからである。盲目なパリサイ人よ、まず杯や皿の内側を清めなさい.そうすれば、外側も清くなる。偽善者、聖書学者とパリサイ人よ、あなたがたは災いである! なぜなら、あなたがたは白く塗られた墓に似ているからである.それは外側は美しく見えるが、内側は死人の骨やあらゆる不潔なもので満ちている。だから、あなたがたも外側は人に義なる者に見えるが、内側は偽善や不法で満ちている」。

かつてこのような物語がありました。ある人の日常生活は腐敗しており、誠実ではなく、よく物を盗んでいました。ある日、彼は友人に昼食に招かれました。彼は友人の家の客間にある精巧で小さな目覚まし時計を見て、だれも見ていない隙にその時計を盗み、服のポケットに入れました。食事の時になって、彼は表面的にとても礼儀正しく装っていましたが、内側で自分はそうではないことを知っています。食事の途中で、突然その時計が鳴り響きました。同席した人たちはとても驚きましたが、すぐにどういうことなのかを理解しました。当然その人もそこにとどまることが恥ずかしくなり、立ち上がって急いで出て行きました。

多くの人もこの偽紳士のようであり、生涯多くの罪を犯していても、表面的に良く装っています。このような人の口は仁義や道徳に満ちていますが、個人的な生活は見るに堪えません。彼らは、彼らが犯した罪がだれにも知られていないなら、罪を犯していないことに等しいと思っています。しかし、ある日彼らのあの「目覚まし時計」は必ず鳴って、もはや彼らが犯した罪を隠すことはできません。

人の知らない罪
親愛なる友人のみなさん、あなたは不義の財産をむさぼったことがあるでしょうか? 横領、賄賂、横流し、公費の不正利用を行なったことがあるでしょうか?

あなたは人をののしり、打ちたたき、蹴り飛ばし、つばを吐き、だれかに濡れ衣を着せたことがあるでしょうか?

あなたは父、母、夫、妻、舅、姑、長官、友人、同僚、隣人を恨み、ねたみ、憎み、のろったことがあるでしょうか?

あなたは文書、証明書を偽造して長官を欺いたことがあるでしょうか?

あなたはあらゆる詐欺、偽り、惑わしを用いて悪事を働き、罠を作って人を陥れたことがあるでしょうか?

あなたは暴力で人に暴行し、人を殺し、幼児を遺棄し、中絶のようなことを行なったことがあるでしょうか?

あなたは強盗、窃盗、すり、詐欺、暴漢、やくざ、悪党、賊になったことがあるでしょうか?

あなたは女性を誘惑し、異性をもて遊び、売春、結婚詐欺、結婚の脅迫を行なったり、夫を持つ女性、もしくは妻を持つ男性と姦淫を犯したりしたことがあるでしょうか?

あなたはアルコール中毒になって、お酒を暴飲し、宴楽に酔ったことがあるでしょうか?

あなたは日夜、賭博にはまり、麻雀、トランプなどあらゆる賭け事で夢中になったことがあるでしょうか?

あなたはたばこ、葉巻たばこ、モルヒネや薬物の中毒になって、逃れられなくなったことがあるでしょうか?

あなたは夫を捨て、妻から去り、再婚して、一夫多妻、一妻多夫の生活をしたことがあるでしょうか?

あなたは仏を念じ、偶像礼拝し、泥、土、石、木、金属、紙で造った偽の神を拝んでいますが、天にいる真の神をののしり、恨み、天地万物を創造された主権者を侮辱し、軽んじたことがあるでしょうか?

親愛なる友人のみなさん、あなたの生涯で犯した罪は、あなたの親戚、友人、クラスメート、同僚も知らないかもしれません。しかし、知っている人は二人います。一人はあなた自身であり、もう一人は天におられる神です。なぜなら、神は人が見るように人を見られません。人は上辺を見ますが、神は心を見られます(サムエル上十六・七)。あなたが生涯において犯した罪は、あなた自身の心の中ではっきりとしていますが、天におられる神はさらにはっきりと見ておられます。あなたは人の前で、「わたしは罪を犯したことがなく、わたしには罪がない」と言うかもしれませんが、あなたは今日神に対して、「わたしには少しの罪もない」と言うことができるでしょうか?

親愛なる友人のみなさん、あなたは人を欺くことができ、また、自分をも欺くことできたとしても、決して神を欺くことはできません! 聖書はわたしたちに告げています、「心はすべてのものにまさって偽るもので、それはいやされることはない.だれがそれを知ることができよう? わたし、エホバは心を探り、内なる各部分を試して、おのおのに、彼の道にしたがい、彼の行ないの実にしたがって報いる」(エレミヤ十七・九―十)。

もし、今日、人の心の中にあるものを照らし出し、人の頭の中で考えていることを照らし出し、人がひそかに行なったことを照らし出すことができる機械を発明したなら、わたしたちはみなだれにも顔を向けることができません。友人のみなさん、わたしたちは罪人です。これは事実であり、もう十分にあわれです。しかし、もし自分が罪人であることを認めずに、また自分の罪を隠して、罪のないような人として装い、なおも偽善者であり続けようとするなら、それはさらにあわれです!

ある人は自分が遭遇したとても悲惨なある事柄を忘れることができませんでした。それは、彼がある友人の家に泊まったときのことです。その友人には十三歳の子供がおり、盲腸炎になり、腹痛がとてもひどかったそうです。しかし、その子供は手術を恐れて、歯を食いしばって我慢し、医者に伝えようとしませんでした。二日目になったとき、病状が悪化し、腹膜炎になりました。そして治療が遅れたことによって、彼は亡くなってしまいました。みなは、子供の死因は盲腸炎によるものだと告げていましたが、実際に彼を死なせたのは盲腸炎ではありません。彼の死因は病を認めずに治療しないことでした。彼は自分の病を認めず、医者に実情を伝えようとしなかったので、彼はいやされませんでした。

多くのとき、あなたの良心は眠っていますが、良心が目覚めたとき、常にあなたに罪の存在を告げます。告白されていないすべての罪は、一つの痕となります。あなたの良心は押さえつけられて声が出ないようにされているかもしれませんが、それは永遠に声を出さず、語らないということはありません。多くのとき、人はダビデが告げたようになります、「わたしは黙っていたとき(罪を告白しないとき)、終日うめいて、わたしの骨は古び衰えました。あなたの御手が昼も夜も、わたしの上に重かったからです.わたしの命の潤いは、夏の日照りのようになりました」(詩三二・三―四)。

神の御前で自分に罪があることを認める
友人のみなさん、今あなたに良い知らせを伝えたいと思います。わたしたちが宣べ伝えている主イエスは、罪人の救い主です。彼ご自身が語った言葉をお聞きください、「丈夫な人には医者はいらない.いるのは病んでいる人である.わたしが来たのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコ二・十七)。彼はまた告げられました、「神が御子を世に遣わされたのは、世の人を罪定めするためではなく、世の人が彼を通して救われるためだからである」(ヨハネ三・十七)。主イエスが地上に来られた目的は、罪人を救うためです。それは医者のように、病のある人をいやします。

友人のみなさん、少しの偽りも、装いも持たないでください。あなたはただありのままで、主イエスの御前に来て、少しも飾らずにあなたは罪人であることを認め、あなたの内側の感覚にしたがって、内側にあるすべての罪を一つ一つ主イエスの御前で悔い改めるなら、彼はあなたの罪を洗い清められます。あなたは神に向かってこのように言うことができます、「主イエスよ、わたしは罪人です。あなたが必要です。わたしはうそをつき、人を憎み、多くの汚れたことを行なってきました。さらには親に背き、他の人の物を盗みました。わたしを赦し、わたしを救ってください」。

罪の赦しの約束
神の義はすべての罪が死を通して裁かれることを要求します。主イエスはあなたの罪のために十字架上で釘づけられたことを見てください。彼の頭から血が流れ、彼の背中から血が流れ、彼の両手、両足からも血が流れました。彼はあなたの罪のために尊い血を流されました。なぜなら、「血を流すことがなければ、赦しはありません」(ヘブル九・二二)と告げられているからです。神は主イエスにおいて裁きを執行したことを通して、あなたの罪を一度で永遠に解決されました(ローマ八・三ヘブル九・二六)。

今や聖書の言葉ははっきりと告げていますが、あなたは信じるなら罪は赦され、罪に定められず、さらに義とされます。この約束は福音です。あなたはただ聖書の言葉を信じて、この罪の赦しの約束を受け入れるだけです。信じることは受け入れることです。人があなたに腕時計を贈るとき、あなたが行なう必要があることは、ただ受け入れることです。あなたがいったん受け入れるなら、その腕時計はあなたのものになります。神は、主イエスが血を流されたのはあなたの罪を担うためであると告げられました。あなたが信じるなら、この罪の赦しはあなたの内側に受け入れられます。あなたがいったんこの罪の赦しを受け入れるなら、永遠にあなたのものとなります。どんなものもそれを奪い去ることはできません。それは永遠にあなたのものです。

罪の赦しの祝福
罪の味わいは人を死なせ、人を不安にし、人を窒息させます。罪を告白した者だけがあわれみを受け、安息を得ることができます。罪の赦しを得た者は、常に重荷が落ちたように、心の中で平安を持ちます。あなたが罪の権威から救われたとき、解放され、もはや圧迫されることはなく、あなたは罪が赦された後の平安がどれほど清く、生き生きとしているかを経験することができます。

神があなたの罪を赦されることは、彼の御前であなたの罪の案件を消去して、彼の義の刑罰からあなたを逃れさせるだけでなく、あなたにおいて、あなたが犯した罪をあなたから離れさせます。それだけでなく、神があなたを赦されたなら、あなたの罪は完全に除き去さられます。神は彼の記憶からあなたの罪を忘れ、もはや思い出すことはありません。それはあなたが罪を犯したことがないようにします。有名なダビデ王は、詩を作って罪の赦しの祝福を証ししました、「幸いです、エホバがその罪科を負わせず、霊に偽りのない者は」(詩三二・二)。神に赦された者は、神から見て、罪を犯したことがないようになります。

ダビデはまた、神を賛美して言いました、「あなたは……救いの響きわたる叫びでわたしを囲まれます」(七節)。これはまた罪の赦しを経験したすべての者の共通した証しです。罪が赦された者は、内側から神に向かって楽しい歌がわき上がります。友人のみなさん、このイエスはあなたの救い主です。心配することなく、疑うことなく、このときに主イエスの御前に来て、彼を呼び求めて、「主イエスよ、わたしは罪人です。わたしを赦してください!」と告げてください。もし、あなたがまことにこのように主を呼び求めたなら、あなたは直ちに救われ、救いの喜びを享受することができます。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第6期第6巻より引用

 

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