人にとっての裁き(2)

福音メッセージ

”人にとっての裁き(1)”の続きです。

裁きの時を逃れる方法はない

ある人は次のように考えるかもしれません、「すべての人は死ななければならず、裁きがその後にやって来ます。わたしは死んで、ハデスに行くでしょう。わたしはそこに隠れ、そこから出ないことにします。良いことをした者たちは、命へと復活させられるでしょう。悪いことをした者たちは、罪定めへと復活させられるでしょう。そうであるならば、わたしは、復活させられないことを選びます。わたしはハデスに隠れています。それで構わないのではないでしょうか?」。しかし、神の言葉を聞いてください、「たとえ、彼らがシェオール[陰府]にもぐり込んでも、そこからわたしの手は彼らを取り出す」(アモス 第9章2節前半)。あなたはハデスに隠れ、ハデスの口を閉じることによって、裁きを逃れることができると考えます。しかしながら、神の御手はあなたをそこから引き出します。たとえあなたがハデスにまで掘り進むことができたとしても、また、たとえあなたがこれ以上深い所には進めないほど掘ることができたとしても、神の御手はあなたをそこから引き出されるでしょう。

今日の科学者やパイロットなどの人々は、裁きの日には、飛行機に乗って空に行き、最も高い所にとどまって、裁きを逃れようと考えるかもしれません。しかしながら、どうか聞いてください、「たとえ、彼らが天に上って行っても、そこからわたしは彼らを引き下ろす」(2節後半)。あなたは上るかもしれませんが、神はあなたを引き下ろされます。あなたが上るのには多くの労力を必要としますが、神があなたを引き下ろすのは容易です。

ある人は次のように考えるかもしれません、「わたしは、高い山々や茂みの中に隠れます。だれもわたしを見つけることはできないでしょう」。しかしながら、神の言葉は言います、「たとえ、彼らがカルメルの頂に隠れても、そこからわたしは捜して彼らを捕らえる」(3節前半)。高い山々には多くの木があり、もしそこに隠れれば、裁きを逃れることができると、あなたは考えるかもしれません。しかし、神はあなたを捜し出して捕らえるでしょう。

ある人は、ハデスに隠れることも、天に飛んでいくことも、高い山々に隠れることもできないのなら、海の底に逃れようと考えるかもしれません。しかしながら、神の言葉は言います、「たとえ、彼らがわたしの目から海の底に身を隠しても、その所でわたしが蛇に命じると、それは彼らをかむ」(3節後半)。あなたは海の底に隠れるかもしれませんが、神は蛇に命じて、あなたをかませるでしょう。ですから、あなたには逃れる所はありません。

前述したいくつかの状況は、神があなたのために描かれた絵にすぎません。あなたは、ハデス、天、高い山々、海の底に行くことによって、人の手を逃れることができるかもしれませんが、神の御手を逃れることはできません。聖書によれば、裁きから逃れる方法はなく、また言い訳をする方法もありません。もし今日あなたが依然として罪を犯し、この世のために生き、自分自身の楽しみを求め、罪を犯すことを自分の生涯とするのであれば、わたしはあなたに裁きの問題を考慮するよう請い求めます。あなたは永遠に生きるのではなく、裁きから免れることもありません。裁きは、死と同じように確かであり、確実なのです。

どのようにして裁きを逃れるか

裁きを逃れるためには、わたしたちはまず、なぜ将来裁かれるのかを問わなければなりません。すべての人は罪を犯したので、裁かれなければなりません。もしあなたが罪を逃れることができれば、あなたは裁きも逃れることができます。

原文の「裁き」は、「義」や「罪定め」と同じ言葉です。ですから、「一度死ぬことと、その後、裁きが定められている」は、「一度死ぬことと、その後、罪定めが定められている」と読んでも同じです。罪は、だれもが逃れることのできない問題です。もし人に罪がないなら、わたしたちはこの集会所を取り壊すことができたでしょう。なぜなら、わたしたちはそれを必要としないからです。伝道者もすることがなく、聖書も燃やしてしまい、人は何でもすることができたでしょう。しかし、罪は実際にあります。そして、わたしたちが救い主を必要とすることは、確実な事実です。

神はどのような方法を用いて、わたしたちを罪から救われたのでしょうか? わたしには罪があります。そして、罪は裁きと火の池に値します。しかしながら、聖書はわたしたちに、神の御子がわたしたちの罪のために死なれたことを、告げています(コリント人への第1の手紙 第15章3節)。神の御子は来られて、わたしのために死なれました。神の御子はわたしの罪を担い、十字架上で罪の刑罰を受けられました。ですから、わたしは彼を信じることを通して救われることができます。これが福音です! わたしの目的は、あなたに災いの知らせをもたらし、あなたが死んで裁きを受けることをあなたに告げることではありません。わたしがあなたにまず裁きを示したのは、あなたが自分の必要に気づくためです。あなたは、罪を担ってくださる救い主を必要とします。

アメリカ合衆国の南北戦争の時、二人の兄弟がいました。一人は北部に住み、もう一人は南部に住んでいました。彼らは二人とも徴兵されました。南軍は敗北し、北軍によって多くの兵士が囚人として連行されました。捕虜を監視していたのは、兄でした。彼は、自分の弟が囚人の中にいることに気づきました。彼は何も言おうとしませんでした。夜になると、彼は自分の服を脱ぎ、弟にそれを着せて逃がしてやり、弟の命を救いました(当時、囚人は翌朝に処刑されることになっていました)。彼は弟の服を着て、弟に代わって囚人になりすましました。翌朝、兄は銃殺隊によって処刑されました。後に、だれかが、死んでいるのは本人でないことを発見しました。彼らは弟を捕まえようとすることもできましたが、法律によれば、弟を逃がさなければなりませんでした。なぜなら、兄が弟のために死んだからです。だれも二回死ぬことはできません。これは、十字架のほんの小さな例証にすぎません。

イエスが来られたのは、わたしたちのために裁かれるためであったと、聖書はわたしたちに告げています。わたしたちは死に値する者でしたが、イエスはわたしたちのために死なれました。彼は天からやって来られ、わたしたちが天に行く道を造ってくださいました。彼が神から離れ、この世にやって来てくださったのは、わたしたちが神へと近づくためです。彼が貧しくなられたのは、わたしたちが富むためです。彼がこの地に来られたのは、わたしたちが地から自由になるためです。彼が来て罪を担われたのは、わたしたちが罪から自由になるためです。彼がわたしたちのために裁かれたのは、彼を信じるわたしたち一人一人が裁きから免れるためです。

将来において、死と裁きは確実なものです。しかしながら、神はわたしたちのために救いを用意されました。彼の御子がわたしたちのために死なれました。友人のみなさん、どうか今日、イエス・キリストをあなたの救い主として受け入れてください。ヨハネによる福音書 第3章18節は言います、「御子の中へと信じる者は、罪定めされない。信じない者はすでに罪定めされている。なぜなら、神のひとり子の御名の中へと信じなかったからである」。原文において、「罪定めされ」という言葉は「裁かれる」です。言い換えれば、「御子の中へと信じる者は、裁かれない。信じない者はすでに裁かれている」となります。第5章24節において、主は告げます、「まことに、まことに、わたしはあなたがたに言う.わたしの言を聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠の命を持っており、また裁きを受けることがなく、死から命へ移っているのである」。この節がわたしたちに告げていることは、もし人が主イエスの言葉を聞いて、主イエスを遣わされた方を信じるなら、(一)彼は永遠の命を持ち、(二)裁きを受けることがなく、(三)死から命へ移っている、ということです。信じることは裁きから免れる道です。

友人のみなさん、もしあなたがまだ神の御子を信じていないのでしたら、どうか今、彼を救い主として受け入れてください。あるとき、ある兄弟がある所で宣べ伝えていると、死にかけている医者に福音を伝えるように頼まれました。その医者は言いました、「わたしはイエスについて聞いたことはありますが、いつも彼を拒みました。わたしは軍医であり、多くの種類の人に会い、また多くの罪を犯してきました。わたしの心の中には平安はありません。わたしは死んだ後、神に会うことはできないでしょう」。その兄弟は彼に、ヨハネによる福音書 第5章24節を読んであげました。彼はこれらの御言葉を聞くと、神が人に命を与えることを願っていることと、人は信じる限り、永遠の命を得、罪定めを受けることがなく、死から命へ移ることを認識しました。彼はこの御言葉を受け入れた時、平安を持ちました。この友人と話す前と話した後では、彼はまるで別人のようでした。その兄弟が来た時には、彼は涙を流していました。その兄弟が去る時には、彼は喜んでその兄弟と握手し、感謝していました。しかし、友人のみなさん、かの日がやって来るまで信じるのを待たないでください。あなたの最後の機会まで、信じるのを待たないでください。今、神に言ってください、「神よ、たった今、わたしはあなたの御子を受け入れます」。おお、神の御子はあなたのために死に、あなたに代わって裁きを担われました。ですから、罪人たちよ、どうぞこれらのことを信じてください。

JGW日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」

第1期第4巻より引用

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