福音の鍵 焦り

福音メッセージ

焦りは人によく見られる情緒の一つであり、この情緒は、通常プレッシャーに直面するときの反応、もしくは未来の事柄に対する心配です。これは特定の状況で生じることもあり、普遍的な感覚でもあります。あらゆる未知のものに直面することにおいて、多くの人は生理的に、あるいは心理的に、多かれ少なかれ焦りという感覚を表します。状況がひどければ、精神疾患にさえなってしまい、人の日常生活に影響を及ぼし、体にも極めて大きな悪い影響を与えます。

古くから、人々は「又聞き」したものに対して、「念のために備える」という観念を持っています。時代の進歩によって、ほとんどの人はあらゆる媒体を通して多くの情報やニュースを便利に得ることができるようになりました。例えば、年始の森林火災、火山の噴火、新型コロナウイルス、こうがいなどです。一面において、これらの情報の伝達は、わたしたちが世界情勢を知ることを助け、わたしたちの視野を拡大することを助けますが、同時にこれらのニュースの背後には、真偽の見分けがつきにくい多くの事柄から来る不安が隠されており、人々はそれによって心配します。さらに、最近は見ても聞いてもいない不確かな情報によって、多くの人は真実だと思い込み、「買い溜め」という状況を何度も引き起こしました。それによって、多くの日用品がなくなってしまいました。あらゆる外面的な生活環境の変化によって、人々は将来に対して焦りと不安を感じています。あなたとわたしの生涯の中で、どのようにしてこれらの焦りと心配を取り除くのでしょうか?

「それゆえ、主エホバはこう言われる、『見よ、わたしはシオンに一つの石を礎として据える.これは試みられた石、堅く据えられた礎としての、尊い隅の石である.信じる者はあわてることがない』」(イザヤ書第28章16節)。

キリストは試みられた石であり、試みられた方であり、堅固な方です。この石であるキリストは、彼の三十三年半における人の生活の中で試みられました。彼が人と成られたときから、地上で生活する毎日は、すべて試みられましたが、失敗はありませんでした。彼は完璧、完全、堅固、力強い方です。彼はわたしたちの礎となる完全な資格があります。なぜなら、彼はすでに試みられたからです。

イザヤ書第28章16節によれば、この試みられた、堅固な石を信じる者は、「あわてることがない」と言います。ダービー(J.N.Darby)は彼の註釈の中で言っていますが、この言葉は、「恐れて急ぐことがない」と訳すことができます。この言葉は、「驚いてあわてることがない」という意味でもあります。キリストは堅固な石であり、わたしたちが彼を信じるなら、どのようなことがわたしたちに起こっても、わたしたちは安心し、驚いてあわてることがありません。

多くの人は、何かが起こったとき、また何かに遭遇するとき、驚き、あわてふためいて何を行なうべきかがわからなくなります。わたしたちは、わたしたちの礎としてのキリストを忘れるべきではありません。この礎は試みられた、堅固なものです。わたしたちは、あわてふためくのではなく、彼を信じるべきです。ある格言は、「あわてることは悪魔から来る」と言っています。わたしたちが急いでいて取り乱しているとき、これは悪魔から来ていることを忘れてはなりません。わたしたちは焦る必要はありません。なぜなら、この試みられた石であるキリストがわたしたちの礎であるからです。

「あなたがたの心配事をすべて、神に投げてしまいなさい.なぜなら、あなたがたに関することを、彼は心にかけていてくださるからです」(ペテロの第1の手紙第5章7節)。

人生のあらゆる焦り、不安、悩みに直面することに関して、聖書はあらゆる試練を経過したキリストに信頼することのほかに、このように告げています。「すべて、神に投げてしまいなさい.なぜなら、あなたがたに関することを、彼は心にかけていてくださるからです」。ここの「投げる」という言葉は、神に託し、神に明け渡すという意味です。この動詞の時制は、一度限り労苦の行為を示します。「心配事をすべて」という言葉は、わたしたちの生涯すべての心配事、わたしたちの人生全体とそのすべての心配事を主に投げるべきであることを示しています。わたしたちはいかに心配事の重荷を神に投げるかを学ぶ必要があります。心配事の重荷は、今でもわたしたちの肩の上に乗っているかも知れませんが、わたしたちはこの重荷をわたしたちの肩から神に投げるべきです。

わたしたちは忙しい空港に飛行機が着陸することを例証として、心配事がわたしたちにやってくることを説明することができます。飛行機が着陸するのを見ると、それらは一機ずつ入って来ます。しかし、あるとき飛行機は数機、あるいはいくつもやって来ます。飛行機が着陸の時間を待つために空港の周りを旋回しているのと同じように、心配事はわたしたちの周りを囲んでいるかもしれません。

通常、人間関係が多い人は一人でいる人より悩みが多いです。たとえば、結婚して何人もの子供を持っている兄弟は、未婚の兄弟よりはるかに悩みが多いです。結婚した兄弟は妻と子供に対する関心が彼を悩む人にします。まず、彼の妻は悩みの源になります。それから一人の子供が生まれると、悩みの種が一つ増えます。子供が成長し、結婚して自分たちの子供を持つとき、悩む原因もまた増えるかもしれません。なぜなら、そのとき孫が悩みの種になるからです。

同じように、わたしたちのすべての財産やぎょうは悩みになるかもしれません。もし、あなたはある家の主人であるなら、その家を管理するために少し悩むかもしれません。あなたが二つ目の家を持つとき、家に対するあなたの悩みは倍になります。あなたの銀行預金についても同じです。銀行にあるあなたのお金も悩みの種になり得ます。わたしたちは経験から証しすることができますが、わたしたちのものが多ければ多いほど、わたしたちの悩みはますます多くなり、心配事の「飛行機」はさらにわたしたちの頭上で旋回します。

わたしたちはすべての心配事を主に投げることを学ぶ必要があります。わたしたちが心配事を彼に投げないなら、平安はありません。四歳以下の子供には心配事がないかもしれません。しかし、わたしたちが年をとればとるほど、心配事が増えていきます。なぜなら、多くの心配事の飛行機がわたしたちの「空港」に着陸しようと待っているからです。それでは、わたしたちはどうしたらよいのでしょうか? 簡単なことではありませんが、わたしたちは心配事を主に投げる必要があります。もし、すでに自分が主に投げた心配事を取り戻したなら、この心配事を再び彼に投げる必要があります。わたしたちはこのように主に祈ることができます、「主よ、この心配事をあなたから取り戻したことを赦してください。わたしは心配事を再びあなたに投げます。主よ、今日の心配事だけでなく、これから予期されるすべての心配事をあなたに投げます。わたしは将来すべての心配事をあなたに投げます」。

詩歌(主われを導く)   習志野に在る教会作成

主われを導く

「あなたがたの謙虚温柔さを、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。何事にも思い煩うことなく、あらゆることにおいて、感謝をささげることを伴う祈りと願い求めによって、あなたがたの要望を神に知らせなさい」(ピリピ人への手紙第4章5節―6節)。

もし、わたしたちがあらゆることにおいて、感謝をささげることを伴う祈りと願い求めによって、わたしたちの要望を神に知らせるなら、すばらしい結末を迎えます。ピリピ人への手紙第4章7節は言います、「そうすれば、人知をはるかに超えた神の平安が、あなたがたの心と思考を、キリスト・イエスの中で護衛してくださいます」。「護衛」という言葉の原文は軍隊用語であり、警備、あるいは保護とも訳すことができます。神の平安は兵士が城を守るように、わたしたちの心を守ってくださいます。外側から神の平安を突破してわたしたちの心の中に入って来ることのできる心配事はありません。神の平安は、すべての思い煩いからわたしたちの心を警備し、保護し、守ってくださいます。これは何という福音でしょう!

神は彼ご自身のすべての平安をもって、兵士のようにわたしたちの心を守り、すべての焦り、苦しみ、心地良くないものをすべて外側に追い出すことを約束してくださいました。さらに、神の平安は人知をはるかに超えており、人が思いつくことも、理解することも、持つこともない平安です。もし、わたしたちがすべてを神に託すなら、人知をはるかに超えた平安が、わたしたちの心と思考を護衛してくださり、わたしたちが人生におけるすべての波を平安の中で行くことができるようにしてくださいます。親愛なる友人のみなさん、あなたは神の平安を経験したことがあるでしょうか? あなたは神の平安があなたの心と思考を守ってくださることをご存じでしょうか? 多くのとき、わたしたちは重圧の中で逃れる道がなく、思い煩い、心配事がわたしたちの唯一の義務のようです。しかし、わたしたちの要望を神に知らせ、祈り、願い求めた後、自分は思い煩いを知らない者になったことをわたしたちは見ます。なぜわたしたちはこのように平安であるのかを不思議に思い、他の人も不思議に思います。これが人知をはるかに超えた平安です。これが神の平安の護衛です。この神の平安は、実は平安の神ご自身です(ローマ人への手紙第15章33節16章20節)。

注意していただきたいのですが、神の平安はわたしたちの環境が無事になることを護衛するのではなく、わたしたちの「心と思考」を護衛し、わたしたちの心を平安にしてくださいます。「あなたがたの心と思考を、キリスト・イエスの中で護衛してくださいます」は、「あなたの心と思考をキリスト・イエスに属するようにしてくださる」と訳すことができます。それは、わたしたちの心と思考がすべて主に向くようにしてくださるという意味です。ですから、親愛なる友人のみなさん、もし、今日あなたに問題があるなら、苦しみがあるなら、心配事があるなら、あなたが耐えられない状況があるなら、神に対してこのように簡単に祈ることができます、「神よ、わたしは自分をあなたの御手に明け渡します」。


記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第4期第6巻より引用

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