曲がるとき

証し

人生の旅路は、常に花の香りが漂って晴れであるわけではありません。
実際に、少しの風雨であなたを窮地へと追いやることができます。
そして力尽きたとき、心の中で常に復興を望みます。
そして、曲がるときにすべてを最初から始めることを望みます。

家は戦場のようであり、平安がなく、愛もない

わたしたち夫婦は長い間、争いの生活の中におり、しばしば小さい事で爆発的な家庭災害へと発展することがありました。たとえば、仕事の付き合いで夜遅く帰ること、子供に対するしつけ方の違い、夕食をどこで食べるか、何を食べるかで揉め、短いおしゃべりでさえ大口論に発展しました! 生活の中には平安がなく、喜びもありません。すべてに味わいがなく、相手を見れば見るほど、ますますいやになっていきます! このような暗い生活はひどく、ついに、高速道路上で車が故障した時、互いのせいにして、憤りに耐えられなくなり、わたしたち夫婦は、道路上で手を出して喧嘩しました。

わたしは気性が荒いことで有名でした。軍における二十年間の服役の中で、わたしの階級は高くはありませんが、長官と部署のみなは、安全のためにわたしを避け、敬遠しています。思えば、わたしも四十歳になりますが、まださ細な事柄で人と激しく争っているので、だれもわたしに近づこうとしません。そしてわたしが四十一歳の年に、突然わたしは糖尿病を患いました。それからわたしは毎日四回インスリンを打たなければならなくなりました。これはわたしにとってとても大きな打撃でした。家族遺伝がなく、肥満体質がないわたしがなぜ糖尿病になったのか、どうしても考えられませんでした。こうして、病の苦しみが、いつもはたくましく、性急で荒々しい性格のわたしを絶望まで追いやりました。

そのとき、わたしの一番目の男の子は十七歳で、青春の反抗期のまっただ中で、よくわたしの教育方針に不服で、家で騒動が起きたかのように騒ぎ、争っていました。二人目の子は女の子で、幼い頃から重んじられていないので、大きくなってわたしたちの気を引くために故意に悪事を働き、また嘘をついていました。このことは当然わたしの憤怒を引き起こし、このことでわたしはよく彼女を打ち叩きました。しかし、次の日になっても彼女は、元に戻り改善する傾向も見当たらず、わたしたちを極度に困らせ、手に負えませんでした。わたしたちは、彼女を更生保護施設に入れるか、または精神治療を行なわせるかを真剣に考えていました。

イエスに出会い、命において不思議な大変化があった

わたしたちの家庭生活がどん底の絶望的な状況のときに、ある日、妻はわたしに対して言いました、「わたしたちの生活は実にひどすぎます。この家にわたしは心身共に疲れ果てました! 隣の趙さん、李さんの家を見るたびに、彼らの生活は何と楽しそうで、喜びがあって、うらやましいです。いっそのこと、彼らと同じようにイエスを信じたいです!」。

彼女は本当にイエスを信じました! そしてわたしたちの生活にも活力が出てきました。まずは、わたしが驚き、好奇心を持ち、彼女の生活における変化を密かに観察しました。彼女は朝に祈り、詩歌を歌っていました。そして夜も祈り、詩歌を歌うか、クリスチャンの集会に参加しました。ただこんな簡単なことで、彼女はすぐに喜ぶ人に変わりました!彼女は以前、朝早く起きたら、常に口元で不満をつぶやき、まるで爆弾が爆発したかのように、大人から子供に対してもぶつぶつと小言を言い続けます。しかし、彼女がイエスを信じた後、毎朝常に喜んでいました。生活の中で彼女はよく詩歌を口ずさみ、人との会話も落ち着きがあり、子供に対しても叱りつけることが少なくなりました。彼女がこのように喜び、少しも強制されているというような部分が見当たらないので、わたしは秘かに喜んでいました! そしてどのような力が彼女にこのような変化をもたらしたのかをわたしはとても知りたいと思いました。

好奇心に満たされて、わたしは誘いを受けて、クリスチャンの「あいさん」と言われているものに参加しました。その集会の中でわたしが見たのは、一組一組のクリスチャン夫婦の祈り、挨拶、さらには彼らの眼差しを含むすべての行ないに幸せがあふれ出ており、わたしは深く引きつけられました。わたしも既婚者であり、夫婦間の愛の感覚というのは、それは装うことができないことを知っています。特にあのクリスチャンたちがわたしのために祈り、主イエスの名を呼ぶようにわたしを導いたとき、その瞬間ある深い感動がわたしを満たしました! 長年の間、わたしの心の奥深くに言い表せない渇きが常にありました。軍の生活の中でどんなに威張っていても、わたしのむなしさを満たすことができませんでした。たとえ怒りでうっぷんを晴らしたとしても、不可解な鎖からわたしを解放することができませんでした。今、わたしが主イエスを呼んだその時、内側の氷山はたちまち溶けていきました。

わたしは何と幸運な者でしょう! 命の道において、その転換点で主イエスに出会いました!

不思議な命の力によって、反逆的な子供たちはみな救われた

わたしは主に出会っただけでなく、神の家の愛らしい家族に出会いました。わたしが気楽で正常なクリスチャン生活を始めたとき、クリスチャン生活がどれほど尊いものであるのかを知りました。特に尊いのは、ある人が食物を供給するかのように、神の言葉をわたしに供給してくださることです。ある人は二十四時間のサービスセンターのように、わたしたちのためにあらゆる問題や困難を解決してくださいます。ある人はわたしたちのために祈ってくださいます。ある人はどのようにしてキリストにおける家庭生活をするかについて学ぶことをわたしたちに付き添ってくださいました。キリストにある愛のゆえに、わたしと妻は長い間忘れ去っていた甘さを再び取り戻しました。わたしたちは、毎日手を取り合い、主の御前にひざまずいて共に感謝し、心配事を神に投げ捨てました。生活の中で小さな摩擦は、わたしたちが共に主の御前で祈ることを願っているので、互いに罪を告白し、日々愛が増し加わりました。

当初、わたしの息子はわたしたち夫婦が主を信じることに対して非常に反対していましたが、生活におけるわたしたちの不思議な変化を見たので、主イエスは真にわたしたちの家庭に平和と祝福をもたらしたと認めざるを得ませんでした。こういうわけで、彼は中高生のクリスチャン集会に参加し始め、同年代の聖徒と頻繁に接触を持ち、最終的に主の御名の中へとバプテスマされました! 二番目の子の娘は、母と一人の女子中学生が一年間にわたって共に朝に祈り、聖書を読むことにより、彼女は行ないにおいて大きく変わりました。もはやむなしく、安心感がないというようなことはなく、それどころか常に喜びの笑顔があり、日夜悩むことがもはやなくなりました。以前の灰色の記憶はすでに忘れ去られました。子供が健康的な生命力に満たされていることを見ていると、親の心は慰められました。これは、本当に文字で言い表すことができません。

これはどんなお金、努力でも得ることができるものではなく、完全に主の無代価の救いです! 神が人と成られた方であるイエスが、わたしたちの信仰のゆえにわたしたちの中へと入って来られ、日々彼の命をわたしたちの中に分与してくださり、彼の神聖な命における本質の愛、喜び、平和を得させてくださいました! 本来はどうなるかわからず、徐々に崩壊していくわたしたちの家庭を、彼は愛の手を通して、自ら一つずつわたしたちを再び合わせてくださり、彼の命を供給し、彼の豊富を表現する全体的な単位としてくださいました。

詩篇第84篇10節は言います、「まことに、あなたの外庭にいる一日は、よその千日にもまさります.わたしは悪しき者の天幕に住むよりは、むしろ、わが神の家の門口に立つことを選びます」。家は、愛と活力の蓄電所だけではなく、それにもましてそれは、神に仕えるための神の救いの単位です。しかしながら、今の混沌としている社会において、神の臨在がない家が多くあり、家に対して定められた神の心の願いから離れており、当然愛と暖かさの機能も失われています。そのような家は風雨を避ける安息の場所ではなく、それどころか、暴風雨が吹く災難の地となっています。主に感謝します。主はわたしたちのこの家を救ってくださり、わたしたちの家をごみの堆積から起こしてくださいました。わたしの人生、家庭生活が神を知ることによって、その意義、目標、さらには栄光の望みを再び見いだしました。

詩歌(主われを導く)習志野に在る教会作成

主われを導く

記事はJGW日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第4期第1巻より引用

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