聖書における四人の人

真理

「また、その真ん中から四つの生き物の姿が出て来た。それはこのような外観であった.彼らは人の姿を持っていた。また、彼らの頭の上にある大空の上に御座のようなものがあり、サファイア石の外観のようであった.そして御座のようなものの上に、人のような外観の方がその上におられた」(エゼキエル書第一章五節、二六節)。

エゼキエル書は四つの生き物に人のような外観があり、また御座の上の神にも同じく人のような外観があったと言っています。神の計画を完成するのは人です。神を表現するのも人です。神の敵を破壊するのも人です。神の王国を人類の中へともたらすのも人です。神は人を必要とされます。

聖書は四人の人について語っている
聖書が語っている四人の人とはだれでしょうか?まず、聖書はアダムについて語っています。コリント人への第一の手紙第十五章四五節は言います、「そこで、『最初の人、アダムは、生きた魂と成った』と書かれていますが、最後のアダムは、命を与える霊と成ったのです」。聖書の啓示によれば、アダムは最初の人であり、主イエスは最後のアダムです。第一の人はアダムであり、すべての被造物を代表しています。ですからわたしたちすべての人はアダムの中にあり、すべての人はアダムの一部分です。第二の人は主イエスです(四七節)。アダムと主イエスの間に他の人はいません。第三の人はエペソ人への手紙第二章十五節で言っている「新しい人」です。最後の一人、第四の人は啓示録第十二章五節で言っている男の子です。

旧約聖書全体は第一の人、アダムの伝記です。新約聖書の四福音書は第二の人、イエスの伝記であり、使徒行伝から啓示録までは第三の人の歴史、すなわち、一人の新しい人の歴史を内容としています。啓示録は、第四の人である男の子についての伝記と考えられます。このことは、聖書の巻頭から巻末までこの四人の人を語っていることをわたしたちにはっきりと見せています。

アダム
第一の人はアダムであり、神によってご自身のかたちに、ご自身の姿にしたがって創造されました(創世記第一章二六節)。神の当初の創造において、彼にはただ一つの目的がありました。それは神が人を通して表現されるということです。しかしサタンの反逆により、神はもう一つの目的を持たれました。それはサタンを対処するということです。神はご自身のかたちにしたがって人を造り、人に神を表現させ、人に治めさせ、人に神の敵を対処できるようにされ、サタンに奪われた地を回復させ、神の権威をもたらします。

人が神を表現し、サタンを対処するには、神の命を必要とします。ですから、神は人を造られた後に、人を命の木の前に置かれ、人に命の木の実を受け入れさせ、すなわち神を命として人の中へと取り入れられるようにさせました。このようにして、神の命が人の中へと入り、人が神のかたちを表現できるようにさせました。また神の命は人の中で、人に権威をもたらしました。聖書は、第一の人が失敗したことを見せています。失敗の原因は、彼が神を取り入れなかったからです。すなわち、彼が命の木から食べなかったからです。その代わりに、彼は善悪知識の木から食べました。神は人にご自身と接触して欲しかったのですが、そうではなく人はサタンと接触し、神を命として取り入れないで、間違った要素を取り入れたため、人における神の目的を完成できなくなりました。

イエス
神の永遠の御旨の完成は人を通してでなければなりません。神は彼ご自身の中では、彼の御旨を完成することはできません。第一の人が失敗した後でも、神はご自身の永遠の御旨を放棄しませんでした。神が定めたことは完成されます。こうして時が満ちて、神は御子の中で第二の人として来ました(ガラテヤ人への手紙第四章四節)。

ヨハネによる福音書第一章一節は言います、「初めに言があった.……言は神であった」。そして十四節は、言は肉体と成ったと言います。神はどのようにして肉体と成ったのでしょうか? イザヤははっきりと言います、「見よ、処女が身ごもって男の子を産む.そして彼女は彼の名をインマヌエルと呼ぶ」(イザヤ書第七章十四節)。「インマヌエル」は「神われらと共にいます」を意味します。この節で語られている「男の子」は、非常にすばらしいです。彼は人ですが、神です。彼は神ですが、肉体を着ました。彼は人と共におられる神です。これがイエスです。イエスは第二の人です。彼が地上にいた三十三年半の間に行なった最初の事は、神を表現することでした。ヨハネによる福音書はわたしたちに、だれも神を見た者はいない、ただイエスこの方だけが、すなわち神が肉体と成った方が、神を明らかに示されたと告げています。

第二に、主は人としてサタンを対処します。神は人を通してサタンを対処します。人なしに、神は直接サタンを対処しようとしません。なぜなら、もし神が自らサタンを対処なさろうとするなら、それは神ご自身の地位を低いものとしてしまうからです。ですから神は人を通して対処しなければなりませんでした。主イエスが荒野で試みられた時、サタンは彼に言いました、「もし、あなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じなさい」(マタイによる福音書第四章三節)。非常にこうかつなサタンは、主イエスを人としての彼の地位から引き離して、彼を神の子としての地位に立たせようとしました。主イエスはサタンのこうかつな意図を知って言われました、「『人はパンだけで生きるのではなく……』と書かれている」(四節)。主イエスはサタンを打ち破るために人として来ました。

主イエスが大祭司によって裁かれた時、サタンは大祭司を通して再び試み、「あなたがキリスト、神の子であるかどうか……告げよ」と言った時、主イエスは言われました、「あなたの言ったとおりである。しかし、わたしはあなたがたに言う.今から後あなたがたは、人の子があの力ある方の右に座し、天の雲に乗って来るのを見る」(二六章六三節―六四節)。主イエス、彼は人の子であり、彼は昇天した時も一人の人でした。そして彼は再臨するとき、依然として人です。サタンは人としての身分にある主イエスを最も恐れます。なぜなら、神は人を通してサタンを対処することを選んだからです。

創世記第三章十五節は、蛇の頭が女の子孫によって打ち砕かれることを示しています。処女から生まれた主イエスはこの子孫です。ヘブル人への手紙第二章十四節は言います、「こういうわけで、子供たちが血と肉にあずかっているので、同様に彼ご自身も同じものにあずかられたのです.それは、彼が死を通して、死の権能を持つ者、すなわち悪魔を滅ぼすためであり」。イエスが人として血と肉にあずかったのは、サタンを滅ぼすためでした。

第三に、また、主イエスが人の子として来たのは、失われた人を尋ね出し、救うためでした。ルカによる福音書第十九章十節は言います、「人の子が来たのは、失われたものを尋ね出して救うためである」。もし主イエスが人にならなかったなら、彼はわたしたちの救い主となることはできなかったでしょう。神は人を通してご自身を表現し、神は人を通してご自身の敵を対処し、また神は人を通して失われた者を救います。

召会――一人の新しい人
神が創造した第一の人が失敗したので、神は自ら来られて第二の人と成られました。それは、すなわちイエスです。彼は百パーセント成功し、絶対に失敗はありません。しかし、たとえ彼があらゆる面で成功したとしても、彼はただ個人の人でした。ですから神は第三の人――新しい人を必要とされました。新しい人を得るために、主は人と成られ、十字架の死を経て、人のために罪、肉、この世、サタン、旧創造などの問題を解決されました。また平和をつくる人となり、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄され、一人の新しい人を創造されました。

使徒行伝第十七章二六節は言います、「彼は、一人からあらゆる国民を造り」。このことは、神が最初に造られたアダムは一人の団体の人であったことをわたしたちに見せています。神は一人の団体の人が神を表現することを願われました。ですから人の天然の命と性質の中には、一つの必要があります。それは団体の生活です。しかし人は堕落し、サタンは彼の腐敗した性質を人の中へと注入し、人が群れにならないようにしました。サタンはどのような方法を用いたのでしょうか? それは生活の規定でした。どのような民族にも彼らの生活と関係がある規定があります。この点において最も違っているのはユダヤ人と異邦人の間のものです。ユダヤ人には彼らと異邦人とを分離する数多くの食事の規定があります。エペソ人への手紙第二章十四節から十五節はわたしたちに言います、「彼ご自身は、わたしたちの平和であって、両者を一つにし、そして敵意である隔ての中垣を取り壊し、数々の規定から成っている戒めの律法を、彼の肉体の中で廃棄されたからです.それは、彼がご自身の中で、二つのものを一人の新しい人へと創造して」。「両者」はユダヤ人信者と異邦人信者を指しています。キリストは十字架上で数々の規定から成っている戒めの律法、すなわち、人々の間の敵意を廃棄しました。それは、彼がご自身の中で、ユダヤ人信者と異邦人信者の両方を一人の新しい人へと創造するためでした。これら二つのグループから、主はご自身の中で一人の新しい人を創造しました。このことは、一人の新しい人が個人ではなく、団体の人であることを証明しています。

十六節は続けます、「両者を一つからだの中で神に和解させるためでした」。十五節と十六節は、十五節の一人の新しい人が十六節のからだであることを見せており、また十六節のからだが十五節の一人の新しい人であることを見せています。第一章は彼のからだとしての召会について語っており(二三節)、第二章十五節と十六節は、このからだが一人の新しい人であることを見せています。ですから、召会はキリストのからだであるだけでなく、一人の新しい人でもあります。新しい人はキリストのからだと比べてさらに高いです。召会の最も高い面は新しい人です。この新しい団体の人は、ある種の生活、キリストがすべてであり、またすべての中におられるという生活をする必要があります。それは、団体的に神を表現し、神の敵を対処し、神の永遠の定められた御旨を完成するためです。

男の子
ペンテコステの日に生み出された召会、すなわち新しい人は、使徒たちの時代にはまだ全地には広がっていませんでした。また時間の上においても、一時的に現れただけであり、神の定められた御旨を完成することなく、失敗して荒廃しました。その時、神はご自身の定められた御旨を達成するために、啓示録において男の子によって表徴される勝利者たちを召し始めました。男の子は聖書において語られている第四の人です。

第十二章五節は、一人の女が一人の男の子を生むと言います。そして一節では、「一人の女が太陽を着て、月を足の下にし、十二の星の冠を頭にかぶっていた」と言っています。これは、彼女が個人ではなく、宇宙的な女であることを言っています。それは古今東西、歴代のすべての主に属する者たちの集大成であることを言っています。

聖書の中で、女は比較的弱い部分を表徴し、男は比較的強い部分を表徴します。女は神の民の大部分が弱いことを象徴しますが、その中の一部分は強く、それはこの女が産み出した男の子です。この男の子は将来、鉄の杖をもって諸国民を牧養します(五節)。第二章二六節から二七節では、「勝利を得る者、わたしのわざを最後まで保つ者には、諸国民を治める権威を与える.彼は鉄の杖をもって、陶器を打ち砕くように、彼らを牧養する……」と言っています。この二つの箇所から、男の子は召会の中の勝利者であることを証明することができます。男の子が女の中の強い部分であるように、勝利者もまた召会の中の強い部分です。

啓示録が示しているように、サタンは女に対して注意しているのではなく、男の子に注意し、その男の子を食い尽くそうとしています。第十二章五節から七節は、男の子が神に、神の御座に携え上げられるとき、天では戦いがあることについて語っています。男の子は神の王国のために戦い、サタンとその使いたちを投げ落とします。ここの男の子は、十一節で言っている、サタンに打ち勝った「兄弟たち」です。十節は昼も夜も兄弟たちを訴えるサタンについて語っています。しかしながら、兄弟たちはサタンに勝利します、「小羊の血のゆえに、また彼らの証しの言のゆえに、彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでも自分の魂の命を愛さなかった」(十一節)。消極的な事柄に関して、男の子は神の敵であるサタンを天から投げ落とします。積極的な事柄に関して、男の子は神の王国をもたらします。最終的には、この第四の人が神の定められた御旨を完成します。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第1期第3巻より引用

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