高くて畏るべき車輪―― 人の中の神の行動

真理

エゼキエル書第一章十五節から二一節、「また、わたしが生き物を見つめていると、見よ、生き物のそば、地の上に、四つの顔それぞれに対して一つの車輪があった。車輪の外観とその構造は、緑柱石の様のようであった。その四つのものは一つの姿をしていた.すなわち、その外観と構造は、車輪の中に車輪があるようであった。彼らはどこへ行っても、四つの方向に行き、行くときには曲がらなかった。その輪縁は、高くて畏るべきものであり、その四つのものの輪縁は、周り全体が目で満ちていた。生き物が行くときはいつも、車輪もそのそばを行き、生き物が地上から上げられるときはいつも、車輪も上げられた。霊が行く所へはどこへでも、彼らは行った……。そして車輪は彼らに伴って上げられた.生き物の霊が、車輪の中にあったからである。それらが行くときはいつも、これらは行き、それらが立ち止まるときはいつも、これらは立ち止まり、それらが地上から上げられるときはいつも、車輪はそれらに伴って上げられた.それは、生き物の霊が車輪の中にあったからである」。

四つの生き物と大きな車輪のビジョンは神の行動に関するものである
エゼキエル書第一章のビジョンの絵図は、まず正常なクリスチャンの霊的な歴史を明らかにします。それは風があり、雲があり、火があり、こはく金の物語があり、神のきらめく現れとなります。続いて、四つの生き物のビジョンがあり、それは神の表現、行動と行政のために一つの団体的な人を欲しておられることを言い表しています。それから大きな輪のビジョンがあり、それは神が特別な行動を取ることによって神のエコノミーを完成することを言っています。

車輪は行動のためです。車輪で行動するのと人が足で歩き行動するのには大きな違いがあります。人が足で歩くというのは、自分の力によるものであって、また日常よくある普通の行動です。しかし人が車輪を使って行動するというのは、自分の力によってではなく、ある目的を持って、特に遠くまで、あるいはより速く行くためです。ですから車輪は行動を表徴します。しかしそれは通常の行動ではなく、目的を持った特別な行動です。これらの車輪は地上にあります(十五節)。それは天にあるのではありません。これは、神の生き物を通しての行動が、この地上にあるということです。神は宇宙の中で、他のものには注意しません。ただこの地上に注意しておられます。神はこの地上に彼のみこころが行き渡り、彼のご計画が成就することを願っておられます。このために彼は自ら地上へとやって来られました。

神は人の中で行動される
旧約では、神はアブラハムに現れましたが、人の中で行動されることはありませんでした。神は人と共に、人の間で働いておられましたが、人の外側で働いておられました。サムソンは、このことの良い例です。彼はとても力持ちで、神の力に満ちていましたが、彼の個人的な生活は乱れていました。これは、旧約時代での神の動きが人の外側においてであって、内側の命からのものではなかったことを見せています。新約になると、神の行動の第一歩は人の中へと入ることでした。これは全新約時代における神の行動のための基礎を据えるものでした。

神が肉体と成る
わたしたちは彼の肉体と成ること(ヨハネによる福音書第一章一節十四節)における、神の動きに関する大きな意義を見なければなりません。旧約においては、神聖な性質と本質が人の中に入ったことはありません。新約において、神が行なわれたすべてのことで主要なことは、人の中でのことでした。マタイによる福音書第一章二〇節は、マリアの中で生まれたのは聖霊によると言っています。神が肉体と成られた時に、神は天から地へと来られ、彼は人性の中へと入られ、人性を着られ、人性を彼の存在の一部分とされました。このひとりの唯一なる神聖な神が、彼の神性と共にマリアの胎の中へと入られました。すなわち神が自ら一人の人となられました。神は肉体と成ることから、人の中での行動を開始されます。

三一の神は肉体と成られただけでなく、人の生活を経られ、十字架につけられ、復活、昇天されました。これらは神の地上での、また人の中での行動の段階です。これらの過程によって、初期の弟子たちは、このイエス・キリストという人が、彼の人性の中で神を表現したことを見ました。新約の記載によれば、神の地上における人の中での行動は、常に肉体と成るという原則の中にありました。

神が弟子たちの中へと入る
弟子たちとイエスが一緒にいたのは約三年半でした。彼らは彼が行なわれたことを多く見ましたが、彼の行なわれたことの内在的意義を理解することはできませんでした。彼が復活されたその日、状況は変わりました。ヨハネは第二〇章でわたしたちに告げています。主イエスは朝早くマリアに現れ、その後、夜になって弟子たちに現れ、ご自身を命を与える霊として彼らの中へと息吹き込まれました。彼は彼ご自身を復活の中へともたらすために、弟子たちから短い時間離れて、死を経過されました。彼は復活の中で命を与える霊と成り、彼ご自身を弟子たちの中へと息吹かれたとき、手順を経て、究極的に完成された三一の神が彼らの中に住みました。

主イエスは死んで復活してから四十日後、昇天の前に、彼の弟子たちに、出て行って、彼の御名によって、罪の赦しを得させる悔い改めを宣べ伝えるように命じられました(ルカによる福音書第二四章四五節―四七節)。彼は弟子たちが行って諸国民を弟子とし、天においても地においてもいっさいの権威が彼に与えられていることに基づいて、彼らに命じておいたすべてのことを教えるように命じられました(マタイによる福音書第二八章十八節―二〇節)。彼はまたエルサレムから、ユダヤの全土、サマリヤ、地の果てまで行き、彼の証し人となるように命じられました(使徒行伝第一章八節)。

彼の昇天の後、使徒行伝第一章は、ペテロが百二十人と共に十日間集まり、一つ思いで祈ったことを記載しています。諸召会を建造して、神が地上で行動できるように、ペンテコステの日に主がまず行なわれたことは、力の霊(すなわち、究極的に完成されたすべてを含む霊としての彼ご自身)を弟子たちへと注がれ、これらの弟子たちと彼ご自身を一とし、彼らを神の地上での表現と行動の代行とすることでした。それから、ペテロは兄弟たちの中で立ち上がって聖書を解釈しました。これは神の行動でした。その神の行動とペテロの行動は並行して進みました。また百二十人の行動とも並行して進みました。これは、神が弟子たちの中へと入ったことを見せています。それは神が弟子たちの中で行動するために、再び肉体と成ったと言うことができます。

ペンテコステの日、ペテロが行なったことは、神の行動でした。彼は啓示を見ただけでなく、ビジョンも見ました。この宇宙の中の特別な光景を見ました。その時から、ガリラヤの漁師であったペテロは、神の行動の大きな車輪によって推し動かされ、キリストを宣べ伝える者となりました。

神はペンテコステの日に行動を開始されました。あの百二十人はすべてビジョンを見、すべての弟子たちは力を得て、キリストを伝え、キリストに関することを預言しました。彼らは、気が狂ったように、酒に酔った人のようになって、キリストは神であると言い続けました。彼らは、キリストが地上で生きている団体の表現でした。それはちょうど、風、雲、火によって輝くこはく金が現れることや、四つの生き物が組み合わされること、またエゼキエルが見た車輪を経験したようなものでした。車輪の外観と構造は、緑柱石の様でした。緑柱石は宝石の一種で、聖書の中では神のかたちの現れを指しています。神は弟子たちの中で働き、行動し、人に神の現れを見せました。

主の召会の中での行動
エゼキエルはこれらの車輪の外観や構造が、車輪の中に車輪があるようであったことを見ました(エゼキエル書第一章十六節)。すなわち大きな車輪の中に小さな車輪がありました。それは、生き物の行動の中に、主の行動があることを指しており、主が彼らの行動の中で行動されることを意味します。車輪の中に車輪があるというのは、クリスチャンの霊的な行動にはすべて二層あることを表徴しています。外側に大きな車輪があり、内側に小さな車輪があります。内側の車輪(主がその車軸)は、外側の輪縁(召会がスポーク)の行動の力の源です。表面的に見れば召会の行動ですが、実際は主が召会の中で行動しています。

主は、初期の弟子たちに、彼が肉体と成られ、死と復活を啓示された後に、これらの啓示に基づいて彼の行動のためのビジョンを彼らに明らかにされました。神の行動がペテロと弟子たちの行動に追従して完成した最初のことは、エルサレムに在る召会を設立したことです。

福音をユダヤの地、サマリア、アフリカまでもたらす
エゼキエルは、生き物が地上から上げられるときはいつも、車輪も上げられ、それらが立ち止まるときはいつも、これらは立ち止まったと言います(十九節―二一節)。これは神の行動が聖徒たちの行動に追従するということを示しています。聖徒たちが行くところには神の働きも行きます。聖徒たちが動かないときは、神の働きも止まります。生き物の顔のそばにある四つの車輪は一つの姿をしていて、行くときには、四つの方向にまっすぐに行きました(十七節)。

神は彼の召会を拡増開展するのに、ペンテコステの後すぐに、ユダヤ人からの迫害を通して、エルサレムにいた大部分の弟子たちを、各地へと散らされました。主の行動の中で、弟子たちは福音をユダヤの地へ、サマリアへともたらしました。ピリポがエチオピア人の宦官に出会ったことは、このことを通して神の行動がアフリカまで開展したということです(二六節―三九節)。

新約のエコノミーが異邦人の中へ開展する
使徒行伝第十章の記載は、主がペテロに各種の四つ足の動物、地のうもの、空の鳥を食べるようにというビジョンを見せましたが、ペテロはためらいました。もちろん、ペテロはユダヤ人であり、汚れた物を一度も食べたことがありませんでした(九節―十六節)。しかし主は彼に、「神が清められた物を、俗なものとしてはならない」と言われました(十五節)。ペテロは福音をもって異邦人に接し、神の行動に従わなければなりませんでした。ローマ帝国の百人隊長、コルネリオの家から始まり、神のエコノミーは異邦人へと開展していきました(第十章一節―十一章十八節)。このように、神はペテロの行動の中で行動されました。これが、主がペテロの行動の中で完成される行動です。

ペテロがユダヤの地で福音を宣べ伝えたとしても、また異邦人の地で福音を宣べ伝えたとしても、すべて同じ福音であり、その結果は同じ様を持ちます。今日に至るまで、神はこの福音の大きな車輪を四方に向かって全地へと動かしています。古今東西のクリスチャンが救われた物語と、その中の光景は同じ様を持っています。それは人種や文化の違いにはよりませんでした。

小アジアの全域に福音を伝え広める
四つの車輪はすべて真っすぐに進みます。回転する必要はありません(エゼキエル書第一章十七節)。これは神の行動が聖徒たちの組み合わせによって推し進められ、各方向へ真っすぐに行き、曲がることはなかったことを示します。例えば使徒たちの時代に、パウロはいつも異邦人へと行き、ユダヤの地を顧みる必要はありませんでした。またペテロはいつもエルサレムへと行き、異邦人を顧みる必要はありませんでした。組み合わせの中にあって、彼らは回転する必要はありませんでした。

主はさらに拡増開展のビジョンを前進させるのに、アンテオケに在る召会に与えられた使徒パウロとその他の四人の預言者と教える者たちを、神のエコノミーの完成のためにご自身と共に行動させました(使徒行伝第十三章一節―四節)。パウロと彼の同労者は三回の福音の宣べ伝えの行程を通して、福音を小アジアへともたらし、各都市に召会を建て上げました。

福音の行程の方向がヨーロッパへと転換する
エゼキエル書第一章十八節は、その車輪の輪縁全体が目で満ちていたと言います。これは神の行動の車輪が動くと、洞察力のある先見する力がもたらされることを示しています。これは人の目を明るくし、すべてのことを認識させます。クリスチャンの先見する力は神の行動によります。輪縁が目で満ちていることはまた、生き物の行動が盲目的に従うのではなく、見ることができ、はっきりとしていて、明確で先見する力に満ちていることを示しています。

使徒行伝第十六章において、主はさらに前進し、マケドニア人が助けを懇願するビジョンをパウロに見せ、福音の行程の方向をアジアからヨーロッパへと転換させました。それは東ヨーロッパへの神の王国の開展のためでした。その後に、パウロの第四回目の福音の行程の中で(第二七章一節―二八章三一節)、ローマへと追放されることによって、福音をその地へともたらしました。彼は追放されるときも、自分を囚人とは見なさず、キリストを宣べ伝え、キリストを拡増開展し、神から見せられたすべての啓示とビジョンを押し広める者として見ていました。最終的に、その追放がパウロの最後の福音の行程となり、福音をさらに強力に西欧へともたらしました。

主がわたしたちの行動の中で行動する
エゼキエル書第一章二〇節で、「霊が行く所へはどこへでも、彼らは行った」と言います。これは、これらの生き物が霊に従って行動したことを示しています。使徒行伝第十六章で、使徒パウロが出て行って福音を伝えた記載が、この種の光景のものです。聖霊は彼らがアジアで語ることを禁じました。彼らはビテニヤへと進みたかったのですが、イエスの霊がそれを許しませんでした。わたしたちが真に生き物であるなら、わたしたちの地上での行動は聖霊に従ったものでなければなりません。

また、生き物の霊は車輪の中にありました(エゼキエル書第一章二〇節)。これはとても不思議なことです。車輪は生き物に従い、生き物は霊に従い、霊は車輪の中にありました。これはわたしたちと主が一であり、彼がわたしたちと一であることを示しています。主はわたしたちに従い、わたしたちは霊に従い、また霊は車輪の中にあります。これは、神がわたしたちに与えてくださった聖霊が、神の車輪の霊であることを見せています。神がわたしたちに与えられ、わたしたちの生活の歩みを導く霊は、彼が地上で行動する霊です。言葉を換えて言えば、神の聖霊がわたしたちの中へと入り、わたしたちにある種の生活をさせ、神の福音、すなわち神の働きを、わたしたちに従わせて行動することです。

主の行動の大きな車輪は高くて畏るべきものである
十八節では、その輪縁は、高くて畏るべきものであると言います。輪縁とは車輪の周辺であり、これは神の行動が高くて畏るべきものであることを示します。二千年に渡って、神の地上での、人の中での行動は、実に大きな車輪であり、高くて畏るべきものです。例えば、かつての中国への布教で、内地会の発起者であるハドソン・テーラーは十六歳で救われました。彼は救われて間もなく、神が彼に負担を与えられたので、遠方の中国へ行き福音を伝える必要があるという感覚を持ちました。最初、彼はある宣教団に送られて中国へとやって来て、浙江省一帯(海岸部)で福音を伝えていました。後に、また主の導きを受けて、内地会を設立し、福音を中国の広大な内陸部へと伝えました。これは十九世紀の後半のことで、召会歴史における一大事でした。神の大きな車輪の行動が中国にやって来たということでした。ハドソン・テーラーは若者でしたが、彼のそばで神の大きな車輪が回っていました。それは実に高くて畏るべきものでした。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第1期第3巻より引用

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