良き地の生活の結果― 神の宮と都

真理

イスラエルの民が良き地で労苦した結果は、神の宮と都をもたらしました。良き地はキリストを予表し、宮と都はキリストのからだと豊満としての召会を予表します。宮は神の住まいであり、神を表現します。都は神の王国であり、神に権威を持たせます。旧約の詩篇の中で、詩篇の作者が神の宮と都に対する経験を発表しているのは、まさに、神の家と神の王国の両面である召会に対するわたしたちの今日の経験を描写しています。

肉体と成ったキリストは
神の幕屋また神の宮であり、
キリストの拡大としての召会は
神の拡大した宮である
神は宇宙的な神であり、どこにでもおられます。しかし彼はさまよう神ではなく、天に住居があります(列王上八・三〇後半、三九前半、四三前半)。しかしながら、神は天にとどまることに満足しません。彼は地上で人と共に住むことを願われました。出エジプト記の終わりで、地上に小さな幕屋が立ち上がったとき、神の栄光は幕屋を満たしました(四〇・三三―三五)。後ほど、ソロモンが宮を建てたときも、神の栄光が宮を満たしました(列王上八・十―十一)。幕屋と宮が建造されたとき、神は非常に喜ばれました。なぜなら神は地上の人の間にご自身の住まいを得たからです。

旧約で、天における神の住居とエルサレムにおけるシオンの山の彼の宮はいずれも、物質のものでした。しかし新約で、神の住居は霊的なものです。新約で、キリストは神の幕屋また神の宮です(ヨハネ一・十四二・二一)。

コリント人への第一の手紙第三章十六節でパウロは、団体的に信者たちは神の宮であると言います。ここでキリストは拡大されました。拡大されたキリストは、神の拡大である宮としての召会です。召会は物質の建物ではなく、わたしたち信者が召会です。エペソ人への手紙第二章二二節でパウロは、わたしたちはキリストの中で共に建造されて、霊の中にある神の住まいへと至ると言いました。テモテへの第一の手紙第三章十五節で彼は、召会は生ける神の家であると言いました。キリストの拡大としての召会は、神の拡大である宮、すなわち神の家――住まいです。

わたしたちは共に集まるとき、実際的に召会であり、神はわたしたちの中に、またわたしたちの間に住まわれます。わたしは集会で聖徒たちと共にいるとき、とても喜ばしく感じ、解散したくないと感じるほどです。わたしたちが家にいて、集会に行かないとき、それほど喜ばしく感じないでしょう。わたしたちは家にいる感覚と集会にいる感覚を比べることはできません。ある聖徒たちは大きな代価を払って集会に来ます。なぜなら、神の家、召会で神を享受したいからです。

召会は宮であり、神の家となる
詩篇にはすばらしい節があります。「エホバの良きことを味わい、そして見よ」(三四・八)。ではわたしたちはどこで主を味わうことができるのでしょうか? 宮の中です! わたしたちはただ宮で、すなわち召会の中で、神を味わうことができます。

神の家に住むことを求める
ダビデは、命の日の限り、神の家に住むことを求めると言いました。「わたしは一つの事をエホバに願いました.わたしはそれだけを求めます.わたしの命の日の限り、エホバの家に住んで、エホバの麗しさを見つめ、彼の宮で尋ね求めることを。それは、彼が災いの日に、わたしを彼の避難所にかくまい、わたしを彼の天幕の隠れ場に隠し、わたしを岩の上に上げられるからです。今、わたしの頭は、わたしを取り囲むわたしの敵の上に高く持ち上げられます。わたしは彼の天幕で喜びの叫びの犠牲をささげ、エホバに向かって歌い、詩を歌います」(二七・四―六)。これは、わたしたちが神の家としての召会を予表する宮において、以下の各面を含む様々な享受を持つことを描写しています。

神の麗しさを見つめる――「麗しさ」というヘブル語は、愛すべきこと、楽しさ、喜ばしさを暗示します。わたしたちは神の麗しさを見つめているとき、とても喜ばしい雰囲気の中にいます。コリント人への第二の手紙第三章十八節は、わたしたちはおおいのない顔をもって、栄光の中で主の栄光の御顔を見つめることができると言います。朝、主と共にいる時、多くの「セラ」(休止、停止)で短い祈りをもって、主を見つめ、主を仰ぎ見ることができるのは最も良いことです。

神に尋ね求める――これは、わたしたちが日常生活のあらゆることについて、神に調べていただくことができることを意味します。

神の避難所にかくまい、神の天幕の隠れ場に隠す――神の家は避難所であり、隠れ場です。災い、災害が起こっているとき、わたしたちは神の避難所にかくまわれることができ、災いはわたしたちを「見る」ことができず、わたしたちに影響を与えることができません。だれかがわたしたちを捕らえようとしているとき、神の天にはわたしたちを隠す隠れ場があります。人はわたしたちを見いだせません。かくまうのは、わたしたちを災害の損害から遠ざけるためです。隠すのは、わたしたちを捕らえようとする者から遠ざけるためです。

よって上げられ、頭が高く持ち上げられる――わたしたちは地的な人々で、常に地を注視しています。貴重な物を失って、地面で捜しているかのようです。しかし、アブラハムが夜、神の約束を聞いたとき、神は彼に天の星を見るように告げられました。そして神はアブラハムに、彼の子孫は星のように無数になると告げられました。わたしたちは地上のすべての事柄を忘れる必要があります。むしろ、わたしたちは仰ぎ見る必要があります。わたしたちは頭を持ち上げて言う必要があります、「主を賛美します! ハレルヤ!」。これは彼にとって栄光です。

喜びの叫びの犠牲をささげ、神に向かって歌い、詩を歌う――神の家は彼の麗しさを見つめ、彼に尋ね求める場所であるだけでなく、叫ぶ場所でもあります。このように叫ぶことは一種の犠牲です。宮はまたエホバに向かって歌い、詩を歌う所です。これはすべて、神の家の中――キリストの中と召会の中――で、わたしたちによって経験されるべきです。

神の家の中で豊富を享受する
詩篇第三六篇七節から九節は、詩篇の作者が神の家の中で豊富を享受することを啓示しています。「神よ、あなたの慈愛は何と尊いことでしょう! 人の子たちはあなたの翼の陰に避け所を得ます。彼らはあなたの家の脂肪分で満ち足り、あなたは彼らにあなたの楽しみの川から飲ませられます。あなたと共に、命の源泉があり、あなたの光の中で、わたしたちは光を見るのです」。

神の家で豊富を享受する者たちは、神の家の脂肪分(満ちあふれ、豊富)で満ち足ります。また、わたしたちは神の楽しみの川から飲むことができます。それは一種類の楽しみではなく、多くの楽しみです。詩篇第三六篇にはひとつの川があります。聖書の終わりは、新エルサレムにも川があり、神と小羊の御座からら旋状に、都全体を通して流れることを啓示しています(啓二二・一)。

神の家で、わたしたちはまた神の命の源泉にあずかります(詩三六・九前半)。
神の楽しみの川と命の源泉は、命の木が神の命の川の中で生長していることを暗示します。新エルサレムで、命の木は命の水の川の中で生長しています(啓二二・二)。神の家で、聖徒たちはまた神の光の中で、光を見ます(詩三六・九後半)。ここに楽しみの川があり、命の源泉があります。命があるので、そこにはいつも光があります。なぜなら命は人の光であるからです。このすべての享受は神の家である召会の中にあります。

時に、わたしたちには困難があり、難しいと感じ、どうすることもできません。わたしたちは祈って、神のみこころを認識したいと願うかもしれません。しかしわたしたちの祈りは役に立たないかのようです。わたしたちが召会の集会に来るとき、集会の中でわたしたちは光を得て、すべてはわたしたちにとって明らかになります。これは神が召会におられるからです。このように、神の家で、わたしたちは命の川、命の木、そして命の光を享受します。これが神の家で神を享受することです。この家はまずキリストであり、その後、キリストの拡大としての召会となり、最終的には新エルサレムにおいて完成します。

召会は都であり、神の王国となる
召会はキリストの享受を経験することから存在します。そして召会が強められ拡大されるとき、それは神が住まわれる家になるだけでなく、神が支配される都ともなります。詩篇はわたしたちに告げていますが、キリストに対するさらに深く、さらに甘い経験にしたがって、都の高嶺があるでしょう。詩篇第四六篇から第四八篇は、いかに神が都、彼の住まい、召会に住んで、聖徒たちによって彼らの避け所、力、最も近くにある助けとして経験されるか、それは神がキリストの中で全地を支配する王となるためであることを告げています。

神は都の中でわたしたちの必要に応じる
第四六篇は言います、「神はわたしたちの避け所また力、苦しみの時の助けであって、最も近くにおられる」(一節)。神は都の中で、わたしたちにとってすべてです。続けて二節と三節は、たとえ、地が変わり、海の水が鳴りとどろき、泡立っても、わたしたちは恐れない、とわたしたちに告げています。なぜなら都には川があるからです。「一つの川がある.その流れは神の都を……喜ばせる」(四節前半)。この川は、わたしたちの命としての神ご自身の流れを表徴します。もしこの命の流れがなかったなら、わたしたちはしおれ、しなびているでしょう。わたしたちの喜びは消え去って、何の楽しみもないでしょう。わたしたちは最も喜びのある人たちです。なぜなら都の中に、召会の中に、生ける水の流れ、しずくではなく、川があるからです。

この神の聖なる都は、「いと高き方の幕屋である聖なる場所」(四節後半)です。神の都は強められ、建造され、拡大された召会です。これは父の家としての、宮であるだけではなく、それはまた、神の王国の中で神が治められる都です。神の都は拡大し、強められ、建造された召会であり、それは神が彼の王国の中で治めるための中心です。続いて五節では、「神が都の真ん中におられる」と言っています。それは拡大された召会の真ん中であり、そしてまた、「都は揺らぐことはない」と言っています。地は揺らぎ、山々は移されますが、都は決して揺らぐことはありません。なぜなら、揺らぐことがない神がそこにおられるからです。「神は夜明け前に、これを助けられる」。わたしたちが地方召会にいるなら、朝にいます。地方召会の外にいるなら、試練の夜にいます。召会には常に夜明けがあり、神はわたしたちの助けです。

七節から十節は言います、「万軍のエホバはわたしたちと共におられる.ヤコブの神はわたしたちの高きとりでである。セラ 来て、エホバのみわざを見よ.彼は地に荒廃をもたらされた。彼は地の果てまでも戦いをやめさせ、弓を折り、槍を断ち切り、戦いの車を火で焼かれる。『静まって、わたしが神であることを知れ』」。これらの節は一種の予言です。諸国民は今日、騒ぎ立っていて、神はこれを今日、言うことはできません。なぜなら、彼はそのような強い召会に欠けておられるからです。神はそのように諸国民に語るようなとりでを、この地上でまだ獲得しておられません。神は地上で得た召会を、そのように強め、拡大し、彼にとって都として建造するとき、彼は諸国民の間で立場を持ち、全地を占有します。最後に、都の中でわたしたちは言うことができます、「万軍のエホバはわたしたちと共におられる.ヤコブの神はわたしたちの高きとりでである。セラ」(十一節)。

神はキリストにあって
都を通して全地を支配する
詩篇第四七篇は、都の中でわたしたちの必要を満たすこの神が、キリストにあって、都、すなわち強められ拡大された召会を通して、王として全地を支配されることを、わたしたちに告げています。一節は言います、「すべての民よ、手を打ちたたけ。勝ち誇る声をもって神に喜び叫べ」。召会が真に都として拡大されるとき、わたしたちはその中で神をわたしたちのすべてとして享受し、必ず手を打ちたたくでしょう。そのような召会生活の中で、何とわたしたちは勝ち誇る声をもって神に喜び叫ぶことができることでしょう!

二節と三節は言います、「エホバ・いと高き方は畏るべき方、全地の大いなる王。彼はもろもろの民をわたしたちの下に従わせ、諸国民をわたしたちの足の下に従わせられる」。これらはすべて、神がキリストにあって、都、すなわち拡大された召会を通して行なわれたことです。召会が拡大されて都となるとき、神は都を通してもろもろの民を征服し、大いなる王としてのキリストの中で、全地を支配します。

五節から九節は言います、「神は大歓声の中で昇られる.エホバは角笛の音の中で昇られる。神に向かって詩篇を歌え、詩篇を歌え.わたしたちの王に向かって詩篇を歌え、詩篇を歌え。まことに、神は全地の王.英知を尽くして詩篇を歌え。神は諸国民を支配される.神は彼の聖なる御座に座しておられる。……彼は大いに高く上げられる」。これらすべての驚くべき事柄が起こるのは、神が地上の拠点として都を獲得されたからです。召会は都として建造されなければなりません。それは、神がご自身の行動のために、この地上で拠点を得られるためです。強められ拡大された召会を通して、神はキリストにあって賛美され、全地の王として高く上げられ、すべての民を統治します。

都を最高に経験することでの神
詩篇第四八篇一節は言います、「エホバは偉大であり、わたしたちの神の都……で、大いにほめたたえられるべきである」。都の中でのみ、堅固にされ拡大された召会の中でのみ、神は偉大であり、大いにほめたたえられることができます。神は家で二、三人が共に集まっている中で偉大であることができると、あなたは思うでしょうか? そのような状況で、神は大いにほめたたえられることができるでしょうか? そうです、二、三人の中でも神は偉大ですが、あわれな方法において偉大です。わたしたちが神を大いに現そうとするなら、堅固な召会を必要とします。二、三人が共に集まっているのは都ではなく、ほとんど家と呼ぶこともできません。どのようにして神は偉大であり、どのようにして神は大いにほめたたえられることができるのでしょうか?わたしたちは都となる必要があります。わたしたちは強められ、拡大され、都として建造される必要があります。そうすれば、神の偉大さが表現されます。

二節は言います、「シオンの山は、北の端にあり、大いなる王の都であって、高くて麗しく、全地の喜びである」。召会が強められ、拡大され、都として建造されるとき、地には高い所があります。召会は高くされ、その高い所は召会の麗しさです。高くされて麗しいのはシオンの山です。そのような召会、そのような都は全地の喜びです。この都において、神は大いなる王であり、この大いなる王はキリストにある神、キリストご自身です。家の中で彼は大いなる御父ですが、都の中では大いなる王です。

三節は言います、「神はご自身をその宮殿の中で、高きとりでとして知らせられた」。都は召会であり、人が神を、高い塔として、高いとりでとして知ろうとするなら、召会の中にいなければなりません。四節と五節は言います、「見よ、王たちは共に集まり、そばを通った。彼らは都を見た.そして驚いた。彼らはおびえ、急いで逃げ去った」。なぜでしょうか?なぜなら、彼らは召会を見たからであり、そのようなとりでを見たからです。そのような建造された召会を見ることだけが、敵を急いで逃げ去らせます。

九節は言います、「神よ、わたしたちはあなたの宮の中で、あなたの慈愛を深く思います」。本当にすばらしいです! 敵の仕事は走り逃げることであり、わたしたちの仕事は神の宮の中で神の慈愛を深く思うことです。

十二節と十三節があります、「シオンを回り、その周囲を行き巡って、そのやぐらを数えなさい。その城壁を注意深く調べ、その宮殿の間を通り過ぎなさい.それは、あなたがたが後の世代にまで語り伝えるためである」。エルサレムの都の内側には宮殿があり、王に住まいを与えます。やぐらと城壁は敵と戦うためであり、都を守ります。これらすべては召会の機能を指しています。わたしたちがもしそのような召会生活を見たことがあるなら、なぜ詩篇の作者が神の都についてそんなにも興奮したのか、理解することができます。

最後に、詩篇の作者は賛美します、「まことに、この神こそ、永遠にわたって、わたしたちの神である。彼はわたしたちを死に至るまで導いてくださる」。この都の神こそ、「永遠にわたって、わたしたちの神」です。本当にすばらしいです! もし人が召会の外にいて歩き回るなら、迷ってしまうでしょう。しかしあなたが召会の中へと来るとき、導く方がいます。都としての召会の中で、導く方はわたしたちの神です。

宮と都の中で神を享受する
宮と都の中での神に対しての享受は、キリストを通して、キリストの中で、そしてキリストと共にあります。この享受に対しての経験は、キリストのからだとしての宇宙召会の中にあり、またからだの表現としての諸地方召会の中にあります。詩篇が示しているのは、わたしたちがまずキリストを経験する必要があり、それからキリストはわたしたちを地方召会で神を享受するように導くことです。神の家としての召会は拡大され強められ、都すなわち神が管理し支配する国となります。家としての召会の中で、わたしたちは神の住まいとしての面を享受します。また都としての召会の中で、管理し支配する神を享受します。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第4期4巻より引用

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