人類歴史の内にある神聖な歴史の中で生きる

真理

この宇宙には二つの歴史、すなわち人の歴史――人類歴史と、神の歴史――神聖な歴史があります。
わたしたちはみな人類歴史の中で生まれましたが、神聖な歴史の中で再生されました。それは召会生活において神聖な歴史の中で生きるためです。わたしたちの自分の生活、日常の歩み、学校生活、仕事、事業はみな、今日、地上での神の驚くべき、卓越した動きにおける神の歴史の一部分です。

二つの歴史を見る――
人の歴史と神の歴史
宇宙には二つの歴史、すなわち人の歴史、人類歴史と、神の歴史、神聖な歴史があります。わたしたちは人の歴史をくるみの殻にたとえ、神の歴史を殻の内側の核にたとえてよいでしょう。残念なことに、大部分の聖書の読者は殻に注意を払うだけで、内側の核には注意を払いません。殻、人の歴史は容易に見ることができます。外側の物質的である殻を見るのは容易です。なぜなら、それは外側の、物質的なものだからです。しかし、わたしたちは内在的な洞察力を持って、殻の内側の核を見て、人類歴史の内にある神聖な歴史を知らなければなりません。

人類歴史の内にある神聖な歴史

神のエコノミーにおける目的
人類歴史の中で起こる神聖な歴史を知ろうとするなら、まず、三一の神は永遠であることを認識する必要があります。神が永遠であるとは、彼には始まりがないことを意味します。この永遠の方はご自身の内側で、エコノミーを立てられました。神は彼のエコノミーにしたがって、ご自身を人の中へと造り込んで人と一になり、人の命、命の供給、すべてとなって、人を神の表現とすることを願われました。こうして、神のエコノミーにおける目的は、神と人から成る団体的な実体を持ち、永遠に神の表現とすることです。この神聖な歴史は、永遠の神と彼のエコノミーをもって始まりました。

神聖な歴史の継続

キリストの肉体と成る事と人の生活
神聖な歴史は、キリストの肉体と成ることと人の生活をもって継続しました。ある日、宇宙を創造した神が肉体と成って、聖霊から人の処女の胎に入り、この処女から生まれて神・人となられました。この方は神全体であり、また完全な人です。神がイエスという名の人となり、この人がナザレで生き、三十歳まで大工として働いておられました。キリストの肉体と成ることと人の生活は共に神聖な歴史の一部分であり、人類歴史の内にある神の歴史です。

キリストの十字架と復活
主イエスは地上での彼の生活と務めの終わりに、進んで十字架に行かれました。彼の十字架は身代わりの死、すべてを含む死であって、旧創造を終わらせ、すべての問題を解決しました。彼の死は彼を復活の中へともたらしました。一方で、彼は復活の中で生まれて神の長子となられました(使徒十三・三三ローマ一・四八・二九)。もう一方で、彼は復活の中で、復活を通して、命を与える霊と成られました(Ⅰコリント十五・四五後半)。さらに、キリストの復活を通して、千万の人が神によって生まれ、再生されて(Ⅰペテロ一・三)、神の子たちとなり、キリストのからだ、すなわち召会の肢体となりました。

肉体と成り、十字架につけられ、復活したキリスト、昇天し、その霊として下って来たキリストは、三一の神の団体的な表現としての召会を生み出されました。召会は今日、キリストの現れの拡大です。こうして、召会も神聖な歴史の一部分です。この歴史は、外側の人類歴史の内にある神聖な奥義の内在的な歴史です。神の歴史のこの部分は、すでに二千年以上も続いており、なおも続きます。

キリストの再来、王国、新エルサレム
神聖な歴史のこの部分の終わりに、キリストは再来し、彼の軍隊としての彼の勝利者たちと共に下って来て(ヨエル三・十一)、反キリストと彼の軍隊を打ち破ります。この二人の人物、すなわち、反キリスト(外側の人類歴史の中の人物)と、キリストとその勝利者たち(内在的で神聖な歴史の中の人物)は、相まみえます。神聖な歴史の中の人物は、人類歴史の中の人物を打ち破り、彼を火の池の中へと投げ込みます(啓十九・二〇)。これに続いて、千年王国が来ます。最終的に、この王国は新天新地の中の新エルサレムにおいて究極的に完成します。新エルサレムは、神の歴史の究極的な、完成した段階です。

神の歴史は二つの部分から成っている
神の歴史は二つの部分から成っています。すなわち、旧約の中に見いだされる、人と共にある神の歴史と、新約の中に見いだされる、人の中にある神の歴史です。旧約で、神の歴史は人と共にある歴史でした。新約で、神の歴史は人の中にある歴史です。なぜなら、この歴史は、神が人と一になることを含むからです。ですから、新約における神の歴史は人性における神聖な歴史です。

人と共にある神の歴史
神はご自身にしたがって、すなわち、彼のかたちに、彼の姿にしたがって人を創造されました(創一・二六―二七)。わたしたちは、神のかたちに創造された人は神の「写真」であったと言ってよいでしょう。人の写真はある程度までその人自身を見せています。ですから、神によって創造された人も一枚の神の写真ですが、ごく限られた程度、神を見せることができます。神は人を創造した後、人と共におられましたが、なおも人の外側におられました。ですから、旧約では、神が人の中におられ、あるいは人と一であるのではなく、ただ人と共におられることを見ます。創世記、出エジプト記、詩篇、旧約全体で、神は人と共にいましたが、人の中におられたのでなく、また人と一ではありませんでした。旧約は、おもに人について語っているのではありません。むしろ、それはおもに神について語っています。神が主役であり、人は脇役です。ですから、旧約の歴史は神の歴史であり、人と共にある神の歴史です。

人の中の神の歴史
新約における神の歴史は大いに異なっています。マタイによる福音書第一章に始まって、啓示録の最後の章に至るまで、人の中へと入って来て人と一になられる神があります。新約は、神が今や人の中におられ、人と一であることを啓示しています。こうして、新約における神の歴史は、人の中の神の歴史です。

肉体と成ることは二つの事を成就した

神を人の中へともたらす
人の中の神の歴史に関して、キリストの肉体と成ることは二つの事を成就しました。第一に、肉体と成ることは神を人の中へともたらしました。旧約が啓示しているように、肉体と成る前、神は人と共におられただけでした。彼は人の外側にいました。しかし肉体と成ることによって、神は人の中へと入られ、その時から神の歴史は異なりました。過去、神は人と共におられ、神の歴史は人と共にある歴史でしたが、今や神は人の中におられ、神の歴史は人の中の歴史となり始めました。

神と人を一にする
第二に、肉体と成ることは神と人を一にしました。肉体と成った結果、すばらしいパースン、神と人のミングリングであるパースンが生み出されました。イエスというこのパースンは、神だけでもなく、人だけでもありません。彼は神全体であり完全な人です。さらに、彼は人の中の神だけでなく、人とミングリングされた神です。このことから、肉体と成ることは空前の出来事であったことを見ます。肉体と成ることの前には、そのようなパースン、神と人の両方であるパースンはありませんでした。しかし今や、肉体と成ることを通して、神と人のミングリングであるすばらしいパースンが生み出されました。

わたしたちと神・人との関係
信者として、わたしたちはみなこのすばらしいパースン、神と人の両方であるこの方と関係があるようになりました。啓示録第二二章十七節前半はこの関係について語っています。それは、「その霊と花嫁」です。その霊は、究極的に完成された三一の神であり、花嫁は、造り変えられた三部分から成る人です。この節が啓示しているように、その霊と花嫁の両者は結婚し、結合されて、一つの実体、一人の団体のパースンとなります。これは、新約において、神が人の中におられ、人と一であることを強く示しています。新エルサレムはすばらしいしるしであり、いかに神が人の中におられ、人と一であるかを見せています。

人は神の道を取らない
人と共にある神の歴史も、人の中の神の歴史も、簡単な事柄ではありません。神が人と共にいた目的は、人の中へと入り、人と一になることでした。人が神によって創造されたのはこの目的のためでした。しかし神はそのような目的を持って人を創造されたのですが、人は別のこうかつな目的を持っており、この二つの目的は一致しません。神には神の道があり、人には自分の道があります。このゆえに、人は神と協力するときでさえ、神の道によらずに、自分の道によってこれを行ないます。こうして、二つの路線、すなわち神の路線と人の路線があります。神は人の中へと入り、人と一になりたいのです。しかしながら、人は神の道を取らず、自分自身の道を堅持します。この堅持は大きな失敗をひき起こしてきており、今も続けてひき起こしています。その結果、神の目に人は罪深く、腐敗し、忌むべきものとなりました。

召会生活の中で、神聖な歴史の中を生きる
わたしたちはみな人類歴史の中で生まれましたが、召会生活の中で神聖な歴史の中を生きるために、神聖な歴史の中で再生されました。今わたしたちは自分自身にこの質問をする必要があります。わたしたちは神聖な歴史の中で生きているでしょうか、それとも単に人類歴史の中で生きているだけでしょうか? もし、わたしたちの生活がこの世にあるなら、わたしたちは人類歴史の中で生きています。しかし、わたしたちが召会の中で生きているなら、神聖な歴史の中で生きています。召会生活の中で、神の歴史はわたしたちの歴史です。今や両者、すなわち、神とわたしたちは一つの歴史、神聖な歴史を持っています。これが召会生活です。

わたしたちは神の今日の歴史を書く必要がある
わたしたち自身の生活、日常の歩み、学校生活、仕事、事業が今日、地上での神の驚くべき、卓越した動きにおける、神の歴史の一部分でなければならないことをわたしたちがみな、見て、認識することができますように。正常なクリスチャンとなり、今日の勝利者となり、主の現在の召しに答え、主の回復における彼の現在の必要に応じるには、ただいわゆる良い兄弟、あるいは良い姉妹となり、召会の集会に定期的に参加し、正しく振る舞い、人の目に幾らか完全である生活をするだけでは、絶対に十分ではありません。

神が彼の愛する勝利者たちの中で行動し、力を尽くして活動するとき、わたしたちは神と一になる必要があります。すなわち、命、生活、この地上での今日の行ない全体において、神と一になる必要があります。わたしたちは今日の神の歴史を書く必要があります! わたしたちは、力を尽くして活動する神と一になって前進する必要があります! 彼の中で! 彼と共に! 彼によって! 彼のために!

神の究極の動き――キリストのからだを得る
旧約と新約の福音書と使徒行伝において、神の創造における動きを見ることができ、また神が肉体と成ることにおける動きを見ることができます。しかし人類に関する神の究極的活動を見ようとするなら、わたしたちは使徒行伝からさらに、使徒パウロの十四の書簡に進まなければなりません。パウロはこの究極の動きを明らかに提示します。すなわち三一の神は、多くの手順を経たうえで、今や彼の選ばれた人たちの中にご自身を造り込み、彼らの命となられます。彼は今や内住する霊です。この霊は三一の神の究極的表現また人への到達です。それは彼がその選ばれた人たちを、神聖な命と性質をもって神の子たちへと構成するためです。またキリストに有機的に結合された彼の肢体に構成するためであり、そのようにして神が一つの家族を持ち、またキリストが彼を団体的に表現する一つのからだを持たれるためなのです。

パウロはわずか一節や二節ではなく、十四冊の書簡の中で、これらの問題をすべて取り扱っています。彼は、わたしたちは神に義とされ、神と和解しただけでなく、また神から生まれたことをも告げています! わたしたちは彼の息子であり、彼の命と性質を持っています。これはわたしたちが神と全く同じ性質の者であることを意味します。もしわたしたちの子供たちが、わたしたちの命と性質を持っているとしたら、彼らはわたしたちと全く同じではないでしょうか? 彼らはわたしたちではありません。しかも彼らはわたしたちと同じなのです。同様に、わたしたちは神ではありませんが、わたしたちは神聖な命と性質において神と同じなのです。わたしたちは彼から生まれた息子たちであって、彼によって養子とされた者ではありません。パウロはこのことを、とてもはっきりさせました。

彼はまたわたしたちがキリストの肢体であることを、はっきりさせました。彼は、わたしたちがキリストにあるのは神によるのである(Iコリント一・三〇)、と言いました。わたしたちはアダムの中にいましたが、神はわたしたちをキリストへと、単に地位上だけではなく、生きている方法で移し変えてくださいました。こうして、わたしたちとキリストとの間には有機的な結合があるのです。わたしたちは彼の肢体です。彼はかしらであり、わたしたちはそのからだです。彼とわたしたちは、みなキリストです。団体的キリストは、かしらだけではなく、またからだもキリストです。頭があって体はないという人があるでしょうか? しかし多くのクリスチャンのキリストはこれなのです。彼らは、キリストにはからだがあることを、考えることさえしないのです。多くのクリスチャンは、自分はキリストの肢体であるという直接の認識に欠けています。パウロは、わたしたちの体はキリストの肢体であるとさえ言っています(Iコリント六・十五)。わたしたちの霊だけではなく、わたしたちの体もキリストの肢体なのです! キリストと一つであること、彼のからだであることは、一つの偉大な事柄です。

神の究極の動きは、おもに福音の宣べ伝えでも、聖書の教えでもなく、聖書的な集会でもありません。神の究極の動きは、キリストを命として持っている一グループの人を得ることです。ですから、わたしたちはキリストを生きなければなりません。わたしたちは単に教理だけでなく、日常生活の中で真実な命を持たなければなりません。キリストがわたしたちの内側で流れる命であることが、わたしたちの経験でなければなりません。キリストはわたしたちに浸透し飽和する時、彼のすべての要素をわたしたちに供給されます。肉体と成ること、人の生活、十字架、復活、これらすべてはこの浸透によって、わたしたちの内側へと伝達されます。彼の命がわたしたちに浸透する時、わたしたちの内側の消極的なものを殺し、神聖な要素をわたしたちに供給します。わたしたちはこれを、単なる教理ではなく、わたしたちの経験また実際として知る必要があります。そしてわたしたちは、どのようにして造り変えられ、どのように成長して円熟するかを知る必要があります。さらに、わたしたちは、キリストがからだを持たれるために建造されるとは何であるかを、経験によって知らなければなりません。

わたしたちの究極的な責任――キリストを生きる
わたしたちは、中心的なビジョンを見せてくださるよう、主を仰がなければなりません。このビジョンとは、すべてを含み、すべてに拡大する、主観的なキリストであり、彼は、今やすべての手順を達成した三一の神の究極的表現としての、命を与える霊です。わたしたちはキリストを、そのような方として見なければなりません。わたしたちはそのようなキリストを生きなければなりません。彼はわたしたちの命でなければなりません。彼はわたしたちの生活でなければなりません。彼はわたしたちの日ごとの家庭生活でなければなりません。彼はわたしたちの召会生活でなければなりません。

パウロは一人のキリストを生きた、卓越した模範です。彼がコリントというギリシャの文化都市に行った時、彼は言葉の優秀さをもって行くまいと決心しました。その高い文化に対抗するために、彼は知恵の雄弁な言葉を用いようとせず、十字架につけられたキリストだけを高く挙げました。「なぜなら、わたしはあなたがたの間ではイエス・キリスト、しかも十字架につけられたこの方のほかは、何も知るまいと決心したからです」(Ⅰコリント二・二)。コリント人に対する彼の言葉は、信者である彼らが主と一つ霊に結合されることでした(六・十七)。ピリピ人たちに彼は言いました、「わたしにとって生きることはキリストであり」(ピリピ一・二一)。キリストが「生きるにも死ぬにも」、彼の体において拡大されることが、彼の期待であり、希望でした(二〇節)。

わたしは、あなたが印象づけられているのは福音の宣べ伝え、聖書の教え、良い集会でありはしないかと思います。しかし、あなたはこのすべてを含むキリストについて、あまり認識を持っていないかもしれません。わたしたちの責任は、このキリストを生きることであり、どこへ行ってもこのキリストをもたらすことです。これを行なうためには、わたしたちが完全に霊の中にいること、その霊によって生きること、その霊によって、七倍に強化された霊によってさえ歩くことを必要とします。キリストを生き、霊の中で生きる人たちが集まるとき、それはキリストの真実なからだです。このからだは一です(エペソ四・四)。彼らはまた事実上、新しい人であり、新創造であって、新しい生活をして三一の神を表現します。

わたしたちの究極の責任はキリストを生きることであり、わたしたちがからだ、新しい人、燭台、花嫁となるような方法で、わたしたちの地方で共に集まることです。わたしたちは一の中で集まります。わたしたちが生き、宣べ伝え、証しするキリストは分けられません。わたしたちは彼から出たこの展望にしたがって彼を生きます。わたしたちは、すべてを含み、拡大するキリストを生きます。彼は、多くの手順の後、今や三一の神の究極的表現としての命を与える霊です。わたしたちは、地方にしたがって共に集まり、召会となります。召会は、単に集会だけでなく、からだ、新しい人、燭台、花嫁です。わたしたちはまたあらゆる地方で真の一、すなわち一つからだ、一つ霊、一つ都市、一つ召会を実行します。そのような生活が、わたしたちの究極の責任です。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第3期第3巻より引用

タイトルとURLをコピーしました