神のみこころを成就する祈り

真理

真の祈りは、神がわたしたちにご自分のみこころを知らせ、わたしたちが再びそのみこころを神に祈り戻すということです。 しかし、今日のクリスチャンの祈りにおける最大の問題は、「これは神のみこころに従っていますか?」と尋ねているだけであるということです。 わたしたちは、これが神のみこころに従っているかどうかを尋ねるべきではなく、「これはあなたのみこころでしょうか?」と尋ねるべきです。

新約聖書の主イエスが示した模範の祈りと、旧約聖書のハンナが息子を求める祈りから、わたしたちは神がわたしたちの祈りに対して、どんな御旨を持っているかを知ることができます。

主の祈りは王国をもたらすためである
マタイによる福音書第六章で主は言われます、「そこであなたがたは、このように祈りなさい.天におられるわたしたちの父よ、あなたの御名が聖とされますように.あなたの王国が来ますように.あなたのみこころが天で行なわれているように、地でも行なわれますように」(九―十)。 神は、ご自分の民に祈るようにと、何千年もの間命じて来られましたが、この一つの祈り以外には、わたしたちが何について祈るべきであるか、何世紀にもわたって、何の指示もされませんでした。 しかし、主はわたしたちに、「あなたの王国が来ますように」と祈るように教えました。 ですから、神はご自分の子供たちが、彼の王国をもたらすための祈りをささげることを待っておられるのです。 今日の恵みの時代は重要ですが、王国の時代はさらに重要です。 なぜなら、今わたしたちが享受している特権や力のすべては、来たるべき時代の前味わいと担保にすぎないからです。 神の全豊満は、王国の時代に現されるのであって、今のこの時代に現されるのではありません。 この啓示の光の中で、わたしたちはこのような「主の祈り」の重要性を見ることができます。

王国は神のみこころである
祈りとは何でしょうか? 真の祈りとは、はじめに、神がわたしたちの心の中に、彼の思いを知らせてくださり、その後、わたしたちが神に祈り戻すということです。 すると、神はその祈りに答えられます。 これは単なる定義ではなく、宇宙における神の働きの原則でもあります。 神には一つの、みこころがあります。 しかし、人の意志の協力がなければ、神はそのみこころを達成することができません。 わたしたちはどのようにして、人の意志を神のみこころの側に置くことができるのでしょうか? 唯一の道は祈りです。 祈りとは、わたしたちの意志を活用して、神のみこころが成就することを宣言することです。 わたしたちの祈りがなければ、神は何も行なわれません。 神は、わたしたちにご自分のみこころを知らせ、わたしたちの心の中に祈りを置かれます。 そして、神はご自分のみこころに対し、わたしたちの心からの応答を待たれます。 ある人が次のように言ったことがあります、「神の力は蒸気機関車のようなものであり、わたしたちの祈りはレールのようなものです」。 蒸気機関車には大きな力がありますが、レールがなければ動くことができません。 わたしたちの祈りは、神が入って来られる道を設けます。

主の祈りは、一つの模範としてわたしたちに朗読させるためではなく、この祈りは神のみこころを啓示しています。 何千年もの間、神はご自分の働きの目的を、だれにも話されませんでした。 しかし、この祈りの中で、それはわたしたちに示されました。 主は言われます、「あなたの王国が来ますように。あなたのみこころが天で行なわれているように、地でも行なわれますように」。 わたしたちはみな、神のみこころが行なわれるよう願います。 しかし、神のみこころはどこで行なわれるのでしょうか? 主は、「地上において」と言いました。 創世記第三章は、サタンがこの地に縛られていることを見せています(参考十四節)。 ですから、地上は神のみこころが行なわれていない唯一の場所です。 それゆえ、神のみこころが地上で行なわれるには、創造された者「人」の意志と、非受造の方「神」の意志(みこころ)が結合されることにより、同じく創造された者「悪魔」の反逆の意志を取り除くことが必要です。 このようにして、神の王国をもたらすことができます。 王国とは、権威を統治するという意味です。 神の王国は、神の統治です。 ですから、創造された意志が非受造の意志(みこころ)と結び付いている所には、神の統治と権威があります。 人の意志が祈りによって表現されるとき、神は動くことができます。

神のみこころのために祈る
神のみこころは王国と連結しています。人が天の王国に入るためには、主を呼び求めて救われるだけでなく、天の父のみこころを行なう必要があります。ですから、主イエスは言います、「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな、天の王国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者だけが入るのである」(マタイ七・二一)。わたしたちの全存在とわたしたちの持っているものすべては、神のみこころのために用意されていなければなりません。そうしてはじめて、わたしたちは敵の勢力を破壊することができる効果のある祈りを祈り出すことができます。これが、神の勝利です。この祈りは、神のみこころを行なわせることができます。

神は地上において、このように彼のみこころのために祈る人たちを待っておられます。この地に王国をもたらすことができる十分で霊的な力を持つために、わたしたちはどれほどの祈りを必要とすることでしょう。ですから、わたしたちの祈りは、「あなたのみこころがわたしの中で行なわれますように」で始まり、さらには、「あなたのみこころが、地でも行なわれますように」まで進まなければなりません。神は、次の時代をもたらすために、つまり王国の時代をもたらすために、今の時代の中に辛抱強く祈り続ける人たちを得なければなりません。

王国の時代をもたらす務め

神の民は復興される必要がある
イスラエルの歴史の中には、召会の歴史に類似する点が多くあります。イスラエルの歴史の始まりにおいて、アロンは一人の祭司として、人を代表して神に近づき、モーセは神の代表として、人の所に来られたことをわたしたちは見ることができます。この時期は長く続きませんでした。イスラエル人たちは良き地に入ると間もなく、神の律法のとおりに生活をしませんでした。すべての部族の生活はみな、非常に低いレベルにありました。彼らは絶えず罪に陥りました。ですから、神は敵という手段によって彼らを懲らしめました。彼らが神に叫び求めると、神は彼らを救うために士師(裁きつかさ)を立てられました。このようにして、彼らは復興を得ることができました。このことは、繰り返し起こりました。わたしたちはこのことを、士師記を通して見ることができます。

神が立てられた士師(裁きつかさ)には、デボラや、バラクや、ギデオンや、サムソンなど、その他大勢が登場します。ここに一つ注目すべき点があります。裁きつかさたちの力が強い時は、彼らの解放は目覚ましいものでしたが、力が衰えると、イスラエル人たちは再び敵の手に落ちてしまいました。繰り返し、彼らは倒れ、そして起こされ、罪を犯し、そして回復されました。わたしたちはこのことから、一つの大きな原則を見ます。すなわち、神の民は自分自身を治めることができないのです。彼らは、神から独立し、また同時にサタンから独立することができません。彼らは、神の権威に服するか、それとも、サタンの力の下に置かれるかのどちらかです。中間の道はありません。彼らが神の支配の下にいなければ、彼らは神の民としての地位を全く失ってしまいます。その結果、彼らは敵の勢力の下に置かれました。しかし神を賛美します。神の民は常にサタンの勢力の下には置かれません。なぜなら、彼らには復興があるからです。

これがイスラエルの歴史であり、教会の歴史です。振り返ってみると、教会が非常に低い状態になった時は、神はご自分が選ばれた人を用意し、その人の上にご自分の霊を置き、任務を与えました。そうすると、教会は復興されました。しばらくたって、教会はまたもや衰退し始めました。起き上がることと倒れること、堕落と復興が何度も何度もありました。もしわたしたちが士師記の時代の終わりころに生きていたなら、わたしたちの心の中には何があったでしょうか? 何をわたしたちは切望したでしょうか? 何をわたしたちは期待したでしょうか? わたしたちは過去の歴史を知っており、今また状態が低調になっているので、わたしたちは何を望み、何を祈ったらよいのでしょうか? わたしたちは、この国を再度復興させるために、もう一人の裁きつかさを立ててもらうように祈らないでしょうか?

時代を転換する必要がある
わたしたちは教会の一肢体であり、復興と堕落が繰り返されてきた歴史を見てきました。わたしたちは、ルーテルの下でのリバイバルや、その後に来た死んだ状態や、ウェスレーによるリバイバルや、その後の後退や、ダービーとその他のブラザレン(兄弟団)によってもたらされた命の大きな潮流や、その後の堕落などについて見てきました。これらの長い年月、教会は裁きつかさたちの下にあったイスラエルの歴史をただ繰り返しているにすぎません。しかし、今わたしたちは何を望むべきでしょうか? それは当然何か全く新しいものであるべきではないでしょうか?
わたしたちは旧約聖書において、裁きつかさの時代の後に、別の新しい局面があることを見ることができます。裁きつかさたちの歴史は永久には続きません。なぜなら、それは神の考えではないからです。神が考えておられるのは王国であり、もっと多くの裁きつかさを立てることではありません。神は王国と王をもたらしたいのです。神は暫定的に裁きつかさたちを用いられましたが、しかし神の考えはダビデの上にあり、神の目的は王を立てることでした。

今日、わたしたちの状況も同じです。神は、このような後退とリバイバルの循環の中で、召会が前進することを望んでおられません。それは、神の考えではありません。神は、わたしたちに数多くのリバイバル運動家を与えるのではなく、ご自身の王をもたらされたいのです。わたしたちはいつもリバイバルを考えていますが、士師記の時代は過ぎ去りました。それには限界があります。ところが、王国は永遠に続きます。わたしたちは、リバイバル運動家たちの上によく目を留めようとします。彼らが過去において、神によって用いられたことは事実です。しかし、それは過渡期であるだけで、彼らは王をもたらすことにおいて、神の真の目的には何の分も持ちません。神は時代を転換する人を得たいのです。ですから、わたしたちは士師記を離れて、サムエル記上に来なければなりません。この書は、王をもたらす一つの務めを代表しています。

神の主権はハンナの祈りを推し進めた
サムエル記上の時期は、大きなリバイバルの時期でもなく、また大きな後退の時期でもありませんでした。この書簡は目的地までの移行期間で、途中であり、過渡期を描写しています。こういうわけで、わたしたちは士師(裁きつかさ)を見ることはありませんが、同時に祭司であり、預言者でもある人、サムエルを見ることができます。当時、エリの下で古いアロンの祭司の体系は古びて衰退し、神は新しい開始を持って、彼のエコノミーを完成することを願われました。サムエルの誕生のために、神は背後で事を起こされました。サムエル記上第一章は、「エルカナには二人の妻がいて、一人の名はハンナであり、もう一人の名はペニンナであった。ペニンナには子供がいたが、ハンナには子供がいなかった。‥…エルカナは犠牲をささげる日が来ると、……ハンナには二倍の分け前を与えていた.それは彼がハンナを愛していたからである.しかしエホバは彼女の胎を閉じておられた」と記載しています。ハンナには何も誇るものはありませんでした。しかしながら、ペニンナには誇るものが多くありました。彼女は、自分の子供たちを指さして、「わたしにはこれがあり、あれがあります。あれもこれも、みんなわたしの子供です」と言うことができました。

ハンナのライバル、ペニンナは、彼女をひどく悩ませ、いら立たせました。ハンナは泣き、断食をし、祈り、神に仕えるために、神に全くささげられる男の子が与えられるようエホバに叫び求めました。十節から十一節は言います、「ハンナは魂に苦しみを覚え、エホバに祈って激しく泣いていた。彼女は誓願を立てて言った、『万軍のエホバよ、あなたがあなたのはしための苦悩を顧みて、わたしを覚え、あなたのはしためを忘れず、あなたのはしために男の子を授けてくださるなら、わたしは彼を一生の間エホバにささげ、かみそりを彼の頭に当てません』」。サムエルの誕生の後、わたしたちは預言者職の路線を見ることができます。彼はまた祭司でもあり、さらには王職をもたらしました。

神は、一方で、ハンナの胎を閉じられ、もう一方で、ペニンナを用意してハンナを悩ませました。これはハンナに強いて、主が自分に男の子を授けてくださるようにと祈らせました。この二人の女性は、根本的に異なる二つの原則を代表し、根本的に異なる二つの務めを代表しています。ハンナの務めは、ただ王をもたらす務めであり、多くの子供を持つことではありません。ペニンナの務めは多くの子供を持つことでした。すなわち、多くの働きの結果です。ペニンナとその子供たちは神の民ですが、彼らのうちだれも神の王とは何の関係もありません。もし、今日わたしたちが士師記の領域にいるなら、祝福され結果を持つことがあるかもしれませんが、神の目はわたしたちの上にはありません。もし、今の時代が最後の時でなければ、わたしたちはペニンナのように、もっと多くの子供を生むことを望んでもよいでしょう。しかし、今の時代は最後の時です。神の目は、王をもたらすことができる人たちの上に置かれています。ここで自問してみましょう、「わたしたちの務めは何でしょうか?  この特別な務めであるハンナの務めの中で、分を持っているでしょうか?」。ある人たちは、リバイバルのことしか考えていません。彼らは、士師記の原則が最後まで続くと思っています。しかし、実は王職をもたらすというもっと重要な務めがあります。

ハンナの祈りはハンナによってではなく、神によって開始されました。神はハンナの祈りと彼女の約束を喜び、彼女の胎を開かれました。ハンナは身ごもり、男の子を産み、彼をサムエルと名づけました。ですから、実はどの人もサムエルの起源ではありませんでした。神が真の起源であり、主権をもってひそかに彼の民を動機づけたのです。

時代を転換する祈り
わたしたちは神のための今の働きに満足をしてはいけません。次の時代をもたらすために努力をするべきです。わたしたちは、ハンナの道が易しい道ではないことを見てきました。すべてハンナになりたい人たちは、自分を準備しておかなければなりません。彼らは迫害や、あざけりを受けます。彼らは泣いて、断食をします。この務めは易しくありません。代価を払わなければなりません。なぜなら、そのような務めは試練と苦難を通して、わたしたちの中に造り込まれるからです。他の人たちは食べ飲みし、自分の子供たちを見ることができます。しかし、ここに断食をして泣いた一人の人がいます。

神はハンナに多くのことを行なわれました。神はハンナをあらゆる困難の中で導きました。その結果、飲食やその他すべてのことをわきに置くことのできる人を神は見いだすことができました。ハンナは、もし息子がなければ、前には進めない時点まで来ました。すなわち、彼女は必ず一人の男の子を持たなければならない時点にまで来ました。その結果、ハンナは一人の男の子を産んだだけでなく、さらに彼をナジル人として捧げました。サムエルはレビ人として生まれましたが、アロンの家のものではなく、自発的に献身し、祭司となりました。彼は預言者職を開始し、神のために語ることで、衰退した祭司職を置き換え、士師職を終わらせ、王職をもたらしました。

ハンナの祈りは、サムエルの誕生をもたらす手段になりました。ハンナの祈りは、神の心の願いの応答、語り出しでした。それは人が神聖な行動と協力したゆえです。神は今日もまた、祈りによって王国をもたらすことができる一群の人たちを得たいと願っておられます。わたしたちは、ルカによる福音書第十八章の中のあのやもめのようでなければなりません。彼女は無力で、だれも頼れる人がいませんでしたが、ひっきりなしにやって来て、日夜主に願い求めました。この祈りは、わたしたちが何人救うことができるかという問題ではなく、神がご自身の一群れの勝利者を得ることができるかという問題です。わたしたちの祈りは、一つの結果を得なければなりません。それは、男の子である勝利者を生み、王国をもたらし、神に完全な統治を得させることです。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第4期第6巻より引用

 

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