善か悪かではなく、生か死かである

真理

申命記第三〇章十五節から二〇節において、モーセは命と幸い、死と災いをイスラエルの民の前に置き、彼らに命を選ぶようにと勧めました。このことがわたしたちに見せていることは、わたしたちがもし正当な召会生活を望むなら、善悪知識の木の原則にしたがうのではなく、命の木にしたがう必要があるということです。なぜなら、悪や善はみな命ではなく、知識、悪や善はみなわたしたちに死をもたらすものだからです。


イエスが地上におられたとき、人は善悪や、正しいか間違っているか、是か非かという問題を彼のところに持ってきました。しかし主イエスは、それらの問題にしたがって答えられることはなく、彼は人を命へと方向付けられました。わたしたちはヨハネによる福音書にある四つの事柄から、主イエスがどのように命として、善、悪、知識がもたらす死と相対しているかを見ることができます。

生ける命の水の満ちあふれと、
宗教的な偽善とは反対のものである
ヨハネによる福音書第四章には、一人のサマリアの女が水をくみに来た事例が記載されています。彼女と主の会話の中で、主は彼女の必要が生ける水であることを指摘されました。人がもし主が与える水を飲むなら、永遠に渇くことはありません。この水は人の内側で源泉となり、湧き上がって、永遠の命へと至ります。

しかし、彼女が主にこの水を求めたときに、主は彼女に言われました、「行って、あなたの夫を呼んで、ここに連れて来なさい」(十六節)。主は知恵のある方であり、彼は「夫」というこの言葉を用いられました。夫の問題は彼女の真の問題、彼女の罪悪の中心的なものでした。

その女は深く触れられ、本当である言葉を用いて主にうそを言いました。彼女は「わたしには夫はいません」と言いました。主は彼女を罪定めすることなく言われました、「夫がいないと言ったのはもっともだ.あなたには五人の夫がいたが、今いるのはあなたの夫ではないからだ.あなたが言ったことは本当である」(十七―十八節)。サマリアの女は最初の夫を試みて、その「水」を飲みましたが、満足しませんでした。それから第二、第三、第四、第五の夫を試みましたが、だれにも彼女は満足しませんでした。そして彼女はさらにもう一人試みました。彼女が不断に夫を変えたことは、彼女がこの「水」からどれほど飲もうとも、依然として渇いていたことを十分に証明しています。

主イエスは、この女に徹底的に罪を告白させるようにしましたが、彼女は自分の不道徳な歴史を認めたくなく、話題を巧妙に神の礼拝に関する宗教的なものへと変えようとして言いました、「わたしたちの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムであると言われます」(二〇節)。歴史がわたしたちに告げていることは、サマリア人はモーセの五書を持っていて、その旧約の部分にしたがってユダヤ人と同じように神を礼拝していたということです。この罪があり、軽視されてはいますが、聡明な女は、礼拝の問題を主の前に持ち出して、だれが正しくて、だれが間違っているのかを知ろうとしました。

しかし主は、是であるとか非であるとか、正しいとか間違っているとか答えられませんでした。彼は言われました、「女よ、わたしを信じなさい.あなたがたがこの山でも、エルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来ようとしている。……神は霊であるから、彼を礼拝する者は、霊と真実の中で礼拝しなければならない」(二一、二四節)。この「真実」は、不道徳なサマリアの女の偽善とは反対のものです。彼女が礼拝しようとした神は、本質上は霊です。この霊である神を礼拝するには、彼の性質と同じである霊によって彼を礼拝しなければなりません。主はその女を導き、彼が生ける水(命を与える霊)の源泉であり、人に享受と満足を与えるものであることを信じさせようとされました。彼女は彼女の霊を用いて、霊である神と接触する、すなわち生ける水を飲む必要がありました。このように生ける水を受け入れるなら、永遠の命を得、また真の満足を得ることができます。

この原則はすべてのクリスチャンに対して同じです。わたしたちはよく、どのように神を礼拝するとか、どのような方法を用いるとか、どのような場所で行なうのかなどを話し合っています。わたしたちはこのような問題に捕らわれて、方法、「どのように」を話しあっていてはいけません。わたしたちは、神と関係するものは何であれみな、わたしたちの霊の中にあるべきであることを知らなければなりません。ただわたしたちの霊を用いることによってはじめて、この霊である神に触れ、そして命が満足する享受を得ます。

命の解放は、
律法の規定と殺すことに相反する
第八章において、聖書学者とパリサイ人が姦淫を犯した女を捕まえて、主の前に連れてきました。彼らは律法を知っていて、主を試す方法で彼に尋ねました、「モーセは律法の中で、そのような女を石打ちにするよう、わたしたちに命じています。ところで、あなたは何と言われますか?」(五節)。おそらく彼らの中には高ぶって、「わたしはパリサイ人だから、律法はよく知っている」と言ったり、また別の者は「わたしは聖書学者、律法学者である」と高ぶり、身を延ばして立って言ったりしたかもしれませんが、主イエスは、身をかがめて、指で地面に字を書いておられました。ここで再びわたしたちは主が知恵ある方であることを見ます。彼はすぐに事を行なわれませんでした。彼らがしつこく問い続けたので、主は言われました、「あなたがたのうちで罪のない者が、まず彼女に石を投げなさい」(七節)。この言葉は彼らの良心に触れました。だれも自分に罪がないと言える者はいませんでした。それらの自らを義としているパリサイ人ですら言えませんでした。そして老人から始まって、一人また一人と去って行きました。

主が聖書学者とパリサイ人に対する回答はとても簡単なものでしたが、わたしたちにとっては、罪と関係するすべての問題が啓示されているものでした。それらは(一)罪の源について、それが悪魔であること、(二)罪の主要な三項目が、姦淫と不品行、殺人、うそつきであること、(三)罪の支配、あるいは奴隷について、(四)罪の終極、結果が、死であること、(五)だれに罪がないのかについて、それは主であること、(六)だれが人を罪に定める資格があるのかについて、それが主であること、(七)だれが人の罪を赦せるのかについて、それが主であること、(八)だれが罪から人を解放できるのかについて、それが主であることです。

また、これらの事例が描写していることは、律法の宗教が人を罪と死から解放できないということです。しかし、大いなる「わたしはである」としての主は、人の子と成られ、十字架につけられ、わたしたちの罪を担われました。ですから主は、わたしたちの罪を赦すことができます。そして主は永遠の神であり、わたしたちの中へと命の光として入って来られ、わたしたちを罪の奴隷と暗やみから救い出してくださいます。

主がわたしたちに啓示してくださったのは、その罪を犯した女が石打ちで殺されるべきなのかどうかが重要なのではなく、重要なのは「だれ」が、自分には罪がないということができるかということでした。召会生活の中で、わたしたちは批判することで他の人を殺しています。わたしたちが罪に定めたり、批判したりするとき、わたしたちが罪のない者ではないということを思い起こさせられなければなりません。これは正しいとか正しくないとかの問題ではありません。それは完全に命の問題です。ただ一人の方が命であり、その方はイエス・キリストであり、彼は具体化された神、罪のない方です。彼はわたしたちの必要です。彼は神であり、彼は命であり、今日彼はその霊です。わたしたちは彼を必要とします。

命の視力は神学の盲目と相対する
第九章には生まれつきの盲人の事例があります。ユダヤ人の神学によれば、生まれつき盲人であるのは、罪を犯したゆえであるとされていました。ですから弟子たちはイエスに尋ねました、「『ラビ、この人が盲人に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか? 彼ですか、それとも彼の両親ですか?』。イエスは答えられた、『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもない.彼がそのように生まれついたのは、神のわざが彼において現れるためである』」(二―三節)。この事例には一つの重大な原則が含まれています。神はすべてを支配されている方です。神がその人が盲人に生まれつくようにされたのは、神がこの盲人を用いて彼の力あるみわざが現されるためでした。

その人が生まれつき盲人であったのは、表面的に見れば何も原因がないかのようですが、主イエスはわたしたちに、すべてのことは神の栄光のため、神から出ていることを示されました。もしだれも盲人でなければ、主にはこのような盲人をいやすことを通して、ご自身を現されるという機会を持つことはありませんでした。このように、わたしたちの神学や知識でこの事を議論し、原因を分析すべきではありません。このことは役に立ちません。あるとき、若者が結婚し、三日後に彼らのこの決定を後悔するなら、ある人は神学的な方法で尋ねます、「これはだれの間違いなのですか?」。しかしわたしたちはある意味において、その結婚が正しいものであったと言えるものはほとんどないということを認めるべきです。結婚してある期間が過ぎたとき、どの結婚が依然として正しかったと言えるでしょうか? しかし、すべての結婚は神の支配の下にあります。あなたの間違いでもなく、あなたの配偶者の間違いでもありません。わたしたちが、歴史、伝記を読むなら、多くのクリスチャンが彼らの結婚を通して、大きな助けを得たことを知ることができます。すべての夫は、その愛する妻のゆえに神に感謝する必要があります。なぜなら、あなたが神を尋ね求めることの上で、あなたの妻のようにあなたを助けてくれる人はいないからです。多くの妻も彼女たちの夫のゆえに神に感謝する必要があります。彼女たちが受けたすべての苦難によって、彼女たちは大いなる成就を受けました。他の方法では彼女たちがこれほど益を得ることはできなかったでしょう。わたしたちの結婚は、わたしたちの選択にあるのではありません。わたしたちがいくら注意したとしても、わたしたちは罪を犯してしまう可能性があります。わたしたちが慎重になればなるほど、わたしたちの犯す間違いはさらに重いものとなるでしょう。

すべての父親、母親は、良い子供を持つことを願っています。しかし、経験のある親たちがみな、服して認めることは、子供が良いか悪いかは、父母によるのではなく、神の主権にあるということです。人がもし、良い子供を持ったなら、必ず神を礼拝しなければなりません。もし良くない子供を持ったなら、さらに神を礼拝しなければなりません。なぜなら、わたしたちの得る益はさらに多くなるからです。わたしたちは、長男が博士号を得ることを願い、次男が医者となり、三男が市長となることを願うでしょう。そしてわたしたちは言います、「これらのことが神の祝福ではないのでしょうか?」。しかし実際は、わたしたちの長男の知力は低く、次男は足が不自由で、三男は反抗的です。どの子供も良くありません。わたしたちがどのように信じ、どのような環境や状況の中にあろうが、すべては神の主権の下にあり、神がわたしたちにおいて彼のあわれみを現され、そして多くの恵みをわたしたちに与えられます。

わたしたちは神の主権が勝利することを認めなければなりません。多くの人はみな喜びのある召会生活を望みますが、神だけがわたしたちの生活が喜びのあるものかどうかを知っておられます。そして、わたしたちは、神の主権が、彼の慈しみ、恵み、平安と安定をわたしたちにもたらします。わたしたちは、是非や状況分析にしたがうのではなく、主権を持たれる神にしたがうことを学ぶ必要があります。ヨハネによる福音書第九章での問題と、第四章、第八章での問題は同じです。正しいか正しくないかの問題であり、知識に属し、その結果は死です。しかし主の回答は、わたしたちを彼ご自身、その結果は命である命の木へと導かれます。

命の復活は死の絶望と相対する
ヨハネによる福音書第十一章は、普通のことではなく、意義深い、ラザロの事例です。ラザロが重い病気になったとき、彼の二人の姉妹のマルタとマリアは、主イエスに使いを送り、このことを知らせました。イエスは通常は、知らせを受けたなら、すぐに行って病人を顧みましたが、今回、彼はそのようには行なわず、反対に彼の訪問を意図して二日間遅らせました。弟子たちが失望してしまったときに、主はラザロのところへと行かれました。

イエスがベタニヤに着かれたとき、ラザロは墓の中にいてすでに四日たっていて、マルタは責めるようにして主に言いました、「主よ、あなたがもしここにいてくださったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう」(二一節)。イエスは彼女に言われました、「わたしは復活であり、命である.わたしの中へと信じる者は、たとえ死んでも生きる」(二五節)。主のこの言葉は、彼が遅れて来ようが、時間通りに来ようがそれらは重要なことではないことを示しています。なぜなら復活は時間におけるものではないからです。主が意図して遅れて来られたのは、マルタに一つの事を見せるためでした。それは時間が重要なのではなく、ただ彼の臨在があるなら、ラザロは必ず復活するということでした。しかし、マルタは答えました、「終わりの日の復活の時に、彼が復活することは知っております」(二四節)。彼女は古い神学の知識によって、復活するのはある終わりの日であると限定しました。主は答えて言われました、「生きていてわたしの中へと信じる者はすべて、決して永遠に死ぬことはない。あなたはこれを信じるか?」(二六節)。マルタは言いました、「はい、主よ.あなたが世に来られるキリスト、神の子であると信じております」(二七節)。彼女の回答は、主の問われたことではありませんでした。彼女の回答は、宗教、神学の観念にしたがったものであって、主の復活の啓示を覆い隠し、主の現在の復活の命を人が享受することを妨げるものでした。

前の三つの事例において、命の妨げと命に反するその主要なものは宗教でした。今、主が一人の死人を復活させようとするなら、弟子たちや、マルタのような人の意見に直面し、妨げを受けます。これらの知識から来る意見は知識の木に属するものですが、主はここにおいて実際的には、命の木を人に享受させておられます。主がわたしたちに知ってもらいたいことは、すべてのことには価値がなく、ただ一つのことに価値があるということです。すなわちそれは主の臨在です。彼が命です。

場所、規定、原因と時間を忘れる
主が、サマリアの女に生ける水を与え、啓示されたことは、神を礼拝するには、どのようにするのか、ここなのか、あそこなのかという問題ではなく、それがわたしたちの霊の中の問題であることでした。主が罪のある女を赦された事例において、わたしたちが見た事は、律法の規定には何の力もないということでした。主が生まれつきの盲人をいやされた事例において示されたことは、わたしたちが自分の境遇の原因を知りたいと思ったとき、その原因というのは主の主権であることをわたしたちが知るべきであるということです。主がラザロを復活させられたことは、復活は時間の問題ではなく、復活は一人の生けるパースンであることです。わたしたちがただ彼を持つなら、わたしたちは復活を持つということです。

わたしたちがすばらしい召会生活を持ちたいと願うならば、この四つの事例から学ぶ必要があります。それは場所、規定、原因、時間を忘れることです。わたしたちは生けるパースン以外には注意を払いません。彼はわたしたちにとっては命、復活、神、その霊であり、あらゆる神聖な事物の実際です。わたしたちが必要としているのは、この三一の神であり、彼は具体化されて、わたしたちの救い主と成られた、イエス・キリストです。彼は死と復活を通して、命を与える霊と成られました。今、わたしたちは彼をわたしたちの中心、目標、目的としなければなりません。彼は神であり、彼は命であり、今や彼はその霊です。わたしたちには彼が必要です。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第4期第5巻より引用