召会の堕落と回復

真理

旧約時代、神はまずアブラハム、イサク、ヤコブを通して一群れの民を得られました。やがて、それらの人々はイスラエルの民となりました。新約時代、ステパノは、イスラエルの民は「荒野での集会」(使徒七・三八)であることに言及しました。ここの「集会」は、ギリシャ語は「エクレシア」です。新約のほかのところでは「召会」と訳されています。これは、イスラエルの民は召会の予表であることを示しています。

もし、わたしたちが召会の歴史を学ぶなら、イスラエルの民のバビロンへの捕囚と、捕囚からの帰還が、召会歴史のある時期、すなわちバビロン主義が召会の中に入り込み、召会を破壊し、召会の内容を運び去ってしまうことを予表していることを見ることができます。しかし、どんな事柄でさえ、神の心を変えたり、彼を止めたりすることはできません。こういうわけで、サタンの破壊の後、神は過去に行なったことを再び行なうために来られたのです。これが神の回復です。主の回復は、神の敵サタンによって失われ、破壊されたすべてのものを、神が再び取り戻されることです。

召会の堕落

グノーシス主義の哲学と、この世の初歩的な教えに支配される
コロサイ人への手紙第二章八節は言います、「だれもあなたがたを、哲学とむなしいだましごとによって、とりことして奪い去ることのないように、気をつけなさい。それは人々の伝統にしたがい、この世の初歩的教えにしたがうものであって、キリストにしたがってはいないのです」。召会の堕落の第一の面は、グノーシス主義の哲学と、この世の初歩的な教え(肉を食べること、飲むこと、洗い事、禁欲主義などに関する、数々の儀式的な規定から成っているユダヤ人と異邦人両方にとって初歩的な教え)によってとりことして奪い去られることです。

パウロが言っているように、哲学とむなしいだましごとはキリストにしたがってはいません。キリストこそ、すべての真の知恵と知識を支配する原則であり(参照、三節)、すべての真の教えの実際であり、神に受け入れられるあらゆる概念を測る唯一の尺度です。ですから、パウロは十六節から十七節で言いました、「そういうわけで、食べることと飲むことについて、あるいは祭りや新月や安息日について、だれにもあなたがたを裁かせてはなりません.これらは来たるべき事柄の影であって、その本体はキリストにあります」。第二章二〇節から二一節で、パウロは続けて言います、「もしあなたがたがキリストと共に死んで、この世の初歩的教えから離れたのなら、なぜこの世に生きているかのように、規定に従っているのですか?」。この世の初歩的教えには、ユダヤ教の儀式、異教の規定、哲学が含まれており、また神秘主義や禁欲主義なども含まれます。すなわち人類によって発明され、この世で実行されている初歩的な原則です。キリストが十字架につけられた時、わたしたちも共に十字架につけられ、この世の初歩的な原則から解き放されました。

使徒たちの教えからそらし、敬虔を利得の手段と見なす
使徒行伝第二章四二節は、新しく救われた信者たちはみなひたすら使徒たちの教えを持ち続けたと言っています。使徒たちの教えは、神の新約エコノミーにしたがった教えです。ところが、ある時になって、ある教える者たちは聖書的ではあるけれど、神のエコノミーとは異なる事、すなわち、使徒たちの教えと異なる事を教え始めたのです。最終的に、このことがパウロの教えからそらすという結果をもたらしました。これが召会の堕落の第二の面です。

テモテへの第一の手紙第一章を注意深く読むなら、使徒によって罪定めされた異なる教えは、異端でも何でもないことがわかります。ある者たちは旧約聖書から、系図(四節)や、神からモーセに与えられた律法(七―八節)などを教えます。律法は異端ではありませんが、律法は使徒たちが教えていたものではありませんでした。異なる教えはキリストと召会以外の事を強調します。例えば長老が召会を治めること、賜物、バプテスマ、足洗い、頭のおおい、主の食卓の規定といったさ細な事です。これらのことは分裂を引き起こします。

テモテへの第一の手紙第六章三節から五節前半で、パウロは、「もし異なったことを教えて、健康な言であるわたしたちの主イエス・キリストの言にも、敬虔に合う教えにも同意しない者がいるなら、彼は高ぶりによって盲目になっており、何も理解せず、論議と言い争いに病みつきになっているのです.そこから、ねたみ、争い、そしり、邪悪なさい疑心が生じ、思いの中で腐敗し、真理を失い」と言っています。「失い」と訳されたギリシャ語は、これらの人たちは、かつては真理を所有していたのに、今はそれらが彼らから取り去られてしまったということを暗示します。ですから、彼らは真理を持っていないのです。

パウロは「敬虔を利得の手段と思い込んでいる者たち」に言及しています。彼らは敬虔を、利得を得る手段、すなわち物質的利益、利益を生む商売と思い込んでいました。物質的利益を願うがゆえに、ある者たちは神のエコノミーと異なることを教えるようになりました。高ぶりから、また利益や富を求めるがゆえに、ある者たちは異なったことを教えます。高ぶりは地位と名声を求めることに関係があり、利得はお金や物質的利益と関係があります。

最終的に、これらの異なる教えのゆえに、人々はパウロの教えから離れ去りました。パウロはテモテに言いました、「あなたが知っているように、アジアにいる者たちはすべて、わたしから離れ去りました」(Ⅱテモテ一・十五)。これは、ローマの属州であったアジアにいた信者たちが、以前は使徒の務めを受け入れていたのに、今は彼から離れ去ってしまったことを示します。また、これは彼らがパウロという人を離れ去ったのではなく、彼の教え、彼の務めから離れ去ったことを意味します。パウロの務めから離れ去った者たちは、神の完全な啓示から離れ去りました。

神の完全な啓示の中心とは、聖徒たちの内側の奥義であるキリストです。パウロの書簡は神の永遠の目的とエコノミーに関する神聖な啓示を完成します。彼の務めはすべてを含むキリストと、彼の宇宙的からだ、すなわち、神を表現する彼の豊満としての召会に関する啓示を完成します。

異端をもたらし、人々を卑しいことに用いられる器にする
テモテへの第二の手紙第二章十六節から十八節は言います、「また俗悪で、無益なおしゃべりを避けなさい.というのは、彼らはますます不敬虔へと陥っていき、また彼らの言は、えそのように蔓延するからです.その中に、ヒメナオとピレトがいます.彼らは真理に関して的からはずれてしまい、復活は済んでしまったと言って、ある人たちの信仰を覆しています」。「えそ」とは、むしばむただれ、がんを意味します。パウロはそれほど強烈な言葉を使って異なることを教える人たちを形容しました。パウロは、彼らが教理と教えからはずれたのではなく、彼らが真理において、すなわち新約エコノミーの実際において「的からはずれて」しまったと言います。彼らは、復活は済んでしまったと言って、真理からそれていきました。これは、将来復活はないと主張することであって、深刻な異端です。なぜなら、それは命の中の神聖な力を否定し、ある人たちの信仰を覆していることです。ここの信仰は主観的なものであり、わたしたちの信じる行為を指しており、わたしたちと三一の神との有機的な結合という関係へもたらします。人の信仰を覆すとは、内側の有機的な結合が壊されるということです。

えそのように異端をもたらす人たちは、人々を大きな家の中の卑しいことに用いられる木や土の器にしてしまいます。テモテへの第二の手紙第二章二〇節は言います、「大きな家には金や銀の器だけではなく、木や土の器もあり、そしてあるものは尊いことに、あるものは卑しいことに用いられます」。ここの大きな家はマタイによる福音書第十三章三一節から三二節での異常に大きくなった木で例証されている堕落した召会です。ところが、テモテへの第一の手紙第三章十五節から十六節で定義された神の家とは、その神聖な性質と本質的な特徴において真の召会であって、真理の土台です。この大きな家には、尊い器だけではなく、卑しい器もあります。尊い器は神の性質(金)と、贖われ再生された人の性質(銀)から成っています。テモテや他の真の信者たちのような人たちは真理を保持する確かな土台を構成します。卑しい器は堕落した人の性質(木や土)から成っています。ヒメナオとピレトや他の偽信者たちはこの部類に属します。

敬虔の力を否み、健康な教えに従わない
テモテへの第二の手紙第三章二節から七節には、大きな家の腐敗した状態を見ることができます。「その時……人々は……敬虔を装いながらその力を否んでいる者となるからです.……彼らの中には人の家にもぐり込み、愚かな女たちをとりこにしている者がいるからです.彼女たちは、……常に学んではいますが、決して真理の全き知識へ至ることができません」。敬虔を装うとは、本質的な実際がなく、外観だけがあるという意味です。敬虔の力とは、神を表現するための、生ける影響力を持つ実際の、実行上の美徳であり、すなわちその霊です。敬虔を装いながら、その力を否む人たちは、敬虔を持っているような振りをしますが、敬虔の力であるその霊を否みます。

パウロはまた言います、「やがて時が来て、人々が健康な教えに耐えられなくなり、彼ら自身の欲のままに、耳に聞きよい教えをする者たちを自分の周りに寄せ集め、そして真理から耳をそむけて、作り話へと迷わされていくからです」(四・三―四)。召会の衰退がさらに悪化した時、多くの人が、命において健康で、また人に命を供給するという健康な教えに耐えられなくなり、かえって耳に聞きよい教えをする者たちを好むようになりました。健康な教えに耐えられない人たちは自分たちの楽しみのために何か耳に聞きよい、珍しいことを聞きたがるようになります。それだけではなく、そのような人たちは真理から耳を背けて、作り話へと次第に迷わされていきます。人々が常に学んだとしても、決して真理の全き知識へ至ることはなく、召会はさらに衰退していきます。

召会の回復
新約の啓示によれば、召会の回復とは、分裂的な背教の立場から離れ、キリストのからだの唯一で純粋な一の立場へと回復されることであり、また新約の信仰と神のエコノミー、キリストのパースンと働きに関する真理へと回復されることです。また、召会の回復とは、神の宮、神の家としてのキリストのからだを建造すること、神の王国の生活を建て上げることも含んでいます。

新約の信仰と神のエコノミー
テモテへの第一の手紙第一章三節と四節で、パウロは言います、「わたしがマケドニアへ出発する時あなたに勧めたように、あなたはエペソにとどまっていて、ある人たちが異なる事を教えたり、作り話や果てしのない系図に、心をとめたりすることがないように命じなさい.そのようなものは、信仰の中にある神のエコノミー[経綸]ではなく、むしろ論議を引き起こすだけです」。神のエコノミーとは、神の家庭の経営を指しています。聖書によれば、神は最初から王国を得ようとはされませんでした。むしろ、初めは家、家庭を持とうとされたのです。なぜなら、いったん彼の家を持ったなら、それは自然に彼の王国になるからです。そういうわけで、神のエコノミーは、第一に神の家庭の経営の事柄です。使徒たちの務めは、この神のエコノミー、すなわち、神の家庭の行政を中心としています。それは、キリストの中で、神ご自身を神の選ばれた民の中へと分与して、神がご自身を表現する一つの家、家庭を得られることです。すなわちこの家が召会、キリストのからだです。

神の敵が、宗教、哲学、異なる教え、異端などを利用して、神の民をこのエコノミーからそらしていたとき、パウロはわたしたちに思い起こさせました。神のエコノミーは信仰の中にあります。わたしたちは、新約における「信仰」の意味に深く印象づけられる必要があります。第一に、信仰とは、わたしたちに語りかけられる言葉である神です。わたしたちが神を持つと、神は言葉としてわたしたちに語りかけられます。神の言葉を通して、また神の霊によって、わたしたちはキリストの中で神に浸透されます。その結果、何かがわたしたちの内側に芽生えます。これが信仰です。その後、信仰はわたしたちの中で働き、わたしたちを三一の神との有機的な結合の中にもたらします。この有機的な結合を通して、神は絶えずわたしたちに注入され、浸透されます。その結果、わたしたちは神聖な命と神聖な性質を持った神の子たち、キリストの各肢体、新しい人の一部分となるのです。全体として、わたしたちは神の家、キリストのからだ、新しい人となります。これが、信仰の中にある神のエコノミーです。

キリストのパースンと働き
ある人たちは間違った認識を持っています。それは、キリストは永遠の過去から神と共にいたのでもなく、神でもなく、ある時に至ってはじめて、キリストは神と成り、神と共にあるようになったというものです。へブル人への手紙第七章三節はわたしたちに次のように言っています。キリストには「父がなく、母がなく、系図がなく、生涯の初めも命の終わりも」ありません。このために、ヨハネによる福音書には、キリストの系図が記載されていないのです。第一章一節は言います、「初めに言があった.言は神と共にあった.言は神であった」。この節が啓示しているのは、言であるキリストが、初めから神と共におられ、神でもあったということです。ですから、キリストの神性は永遠であり、完全であること、彼が初めから神と共におられ、また、神であったことは、すべての人がはっきりしていなければならないことです。また、十四節の「言は肉体と成って」がわたしたちに見せているのは、神の御子だけでなく、神全体が肉体と成ったということです。言であるこの神は、部分的な神ではなく、全体的な神(子なる神、父なる神、霊なる神)です。

キリストの贖いのみわざに関して、パウロはテモテへの第一の手紙第一章十五節で言います、「『キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世に来られた』という言は信実であって、全く受け入れるに値します.わたしはその罪人のかしらです」。コリント人への第一の手紙第十五章三節から四節で、またパウロは、「わたしが受けて、あなたがたにも伝えたことは、第一に、キリストが聖書にしたがって、わたしたちの罪のために死なれたこと、そして彼が葬られたこと、そして彼が聖書にしたがって三日目に復活させられたこと」であると言います。キリストは、神が肉体と成ることで人と成られた方です。そしてそのことは、彼が人の体の中で、死と復活を通して、わたしたちを救うことができるようにしました。わたしたちは、近代主義者たちに対抗してキリストの贖いに関する真理のために戦う必要があります。近代主義者は、イエスが十字架上で死んだのは、贖いのためではなく、ただ彼は一人の殉教者として、自分の教えのために自分自身を犠牲にしたにすぎないと言います。このような言い方は異端です。

キリストは、わたしたちの罪のために死なれ、わたしたちを終わらせるために彼は葬られ、命をもってわたしたちを新しく生まれさせるために復活されました。これらは福音の最も重要な事柄における基本的な項目です。この世には、多くの哲学や宗教がありますが、どれを取っても命に欠けているものばかりです。ですから、活力がないのです。しかし、キリストの福音には命が含まれています。この命は復活のキリストです。彼は復活の中で、ご自身をわたしたちの内に分与し、わたしたちに彼の神聖な命を得させ、彼を生かし出させます。すなわちこれが福音の力です。

召会(キリストのからだ、神の宮、神の家)を建造する
召会の回復において、わたしたちはキリストのからだ、神の宮、神の家を建造しつつあります。このことは、旧約時代、エズラの指導の下で行なわれた宮の再建によって予表されます。今日、わたしたちもキリストのからだである神の宮としての召会生活を再建しているところです。ヨハネによる福音書第二章十九節から二一節は、キリストのからだを宮として啓示しています。「イエスは彼らに答えて言われた、『この宮を壊しなさい.そうすれば、わたしは三日のうちにそれを起こす』。そこでユダヤ人は言った、……しかし、イエスはご自分の体の宮のことを言われたのであった」。サタンはイエスの物質の体が神の地上での住まいであることを知り、全力を尽くして、その体を破壊しようとしました。サタンは、ユダヤ人たちの手を通して、十字架上で確かにその体を破壊しました。しかし、主は復活の中で、また復活によって、召会、すなわち神の家を建造されました。サタンによって破壊された後に、主は復活の中で、さらに大規模な建造をされました。

パウロは言います、「神の家とは生ける神の召会であって、真理の柱また基礎です。……敬虔の奥義……この方は肉体において現され」(Ⅰテモテ三・十五―十六)。召会は神の住まい、神の家、また神の家族です。神は、肉体における拡大された団体の表現としてのキリストのからだ、生ける神の家である召会において現されます。これが偉大な敬虔の奥義です。かつては、十字架で破壊されたイエスの肉体は小さく、また弱いものであったかもしれませんが、復活におけるキリストのからだは実に大きく、力強いものです。敵が十字架で破壊した体は、イエスの体でしかありませんでしたが、主が復活の中で起こされたものは、ご自身のからだだけでなく、彼を信じる信仰を通して、彼と結合されたすべての人たちでもあったのです(Ⅰペテロ一・三エペソ二・六)。これは、召会が、肉体において現された神の表現であるキリストの継続であるという意味です。召会は依然として前進し、成長しています。主イエスご自身が勝利するだけでなく、彼のからだであり、宮である召会も、やはり勝利するのです。

旧約では、宮と神の民は二つの別のものでした。しかし、旧約の成就である新約では、住まいと家庭は一つです。神の宮である召会について、パウロはコリント人への第一の手紙第三章十六節と十七節で、こう言っています、「あなたがたは神の宮であって、神の霊があなたがたの中に住んでおられることを、知らないのですか? ……神のその宮は聖なるものであり、あなたがたはそのようなもの(神の宮)であるからです。」。十六節の「神の宮」は、ギリシャ語は内なる宮を意味し、ある地方にいる団体の信者たちを指しますが、十七節の「神の宮」は、この世にいる信者すべてを指しています。この宇宙における神の唯一の霊的な宮は、地上の多くの地方にそれぞれの表現を持っています。その表現こそ、その地方にある神の宮であるのです。ですからここには、召会の宇宙的な面と地方的な面があります。宇宙的な面は、召会の構成、性質、内容について述べており、地方的な面は、召会の表現と実行について述べています。

王国の生活を建て上げる
最後に、召会の回復は、王国の生活を建て上げることを含んでいます。これは、ローマ人への手紙第十四章十七節のパウロの言葉によって指摘されています。「神の王国は食べ飲みすることではなく、義と平和と聖霊の中の喜びとであるからです」。この節の文脈によれば、神の王国が召会生活です。召会生活の実際は王国です。ローマ人への手紙第十二章は、からだの生活に言及し、第十四章は、王国の生活に言及しています。これは、ローマ人への手紙によれば、王国の生活こそが、からだの生活の実際であることを示しています。神の王国の権威がわたしたちの中で働く時、義と平和と喜びがわたしたちの日常生活の特徴となります。そのような生活を持つことは、ネヘミヤ書におけるエルサレムの都の再建によって予表されているように、王国の生活を建て上げることです。ですから、召会の回復において、わたしたちが召会を建造しているのは、神の家のためだけでなく、神の王国のためでもあります。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第5期第2巻より引用