レビ記から見る、神の民が持つべき生活

真理

レビ記の内容は、ただレビ人に関する事柄を語っているだけでなく、神に贖われた人が持つべき礼拝と生活を示しています。この書で記載されている規定とは、神が、彼の民を訓練し、礼拝させ、神にあずからせ、享受させるものであり、また神の民がどのように聖別され、清められ、喜びのある生活を持つべきかを語り出しているものです。

レビ記の背景

著者と執筆の年代、場所
レビ記の著者はモーセです。この書の全体の内容は、エホバのモーセへの語りかけの記載であると見ることができます。この書は、おおよそ紀元前四百九十年頃(参考、列王紀上第六章一節)に書かれたものです。それはイスラエル人がエジプトを出た後の二年後の第一の月の一日に幕屋を建て上げた時から(出エジプト記第四〇章十七節)、同じ年の第二の月の一日まで(民数記第一章一節)を扱っています。レビ記に書かれている規定と警告は、神がその一ヶ月の間にモーセに命じられたことです。

出エジプト記第十九章の一節から二節によれば、イスラエルの民がレピデムから出立し、シナイの荒野に来た時(その時にモーセはレビ記を書いた)、イスラエルの民はその場所にとどまり、移動しなくなりました。ですから、レビ記というのは、出エジプト記の継続、補充であるということができます。しかし、その中で非常に違いがあるのは、出エジプト記では、神がシナイ山の上で語られ、レビ記では天幕の中で語られたということです。神は人の間に住まわれ、人に近づかれました。

書名と神聖な啓示の進展
「レビ記」というのはこの書の元々の名称ではなく、七十人訳の訳者が原文をギリシャ語に翻訳した時に付けたものです。それはこの書の内容のほとんどがレビ人に関するものであったからです。しかしレビ人はこの書の重点ではありません。レビ記は元々、この書のヘブル語での最初の言葉を書名としていました。その意味は「呼んで語った」でした(参考レビ記第一章一節)。これらのことから、わたしたちは創世記から、出エジプト記、そしてレビ記に至る神聖な啓示の発展を見ることができます。

創世記では、神の創造と人の堕落、そして神の贖いの約束をわたしたちは見ることができます。出エジプト記では、神の贖い、彼の民を罪とこの世の束縛から連れ出すことを見ます。出エジプト記で見ることは、人の堕落から抜け出す道です。創世記の終わりは、人がひつぎの中に納められ、エジプトにとどめられることでした(第五〇章二六節)。しかし出エジプト記では、この死の苦境から抜け出す道が記されています。この抜け出す道には、神の贖いが含まれ、わたしたちを棺から連れ出し、神ご自身へと戻します。

出エジプト記では、神へと戻された者たちは、神のために幕屋を建造するように命じられました。これは、神が堕落した者たちを死から連れ出すことができるだけでなく、この人たちを用いて地上で彼の住まいを建造させることを示しています。創世記の終わりには、死体が入った棺を見ますが、出エジプト記の終わりでは生ける神がおられる幕屋を見ます。これは何と大いなる進展でしょう! しかし神の働きはここで終わることはありません。神は続けて彼の民を呼んで、神を礼拝させ、奉仕させます。それがレビ記の中で言っている「呼んで……語られた」です。

出エジプト記は第四〇章で幕屋が建て上げられることで終わっています。そして続くレビ記の最初で天幕が語られます(第一章一節)。幕屋と天幕は、同じものを指しています。幕屋は住む所であり、天幕は集会する場所です。幕屋は神の住まいであり、天幕は神の民が集会する場所です。ですから集会の天幕と呼ばれました。集会の天幕は神と神の民が会った場所でした。幕屋が建て上げられると直ちに、神は来てその中に住まわれました(出エジプト記第四〇章二節、三三節―三五節)。続いて神は、彼の贖われた者たちを呼び、彼に近づけられました。彼らが持つべき神への礼拝と生活のために神は彼らを訓練されました。一般的な理解によれば、礼拝するとはひれ伏し、儀式をもって奉仕を行なうことです。レビ記は、神の民が持つべき正しい礼拝をわたしたちに示しています。

レビ記の概要
レビ記の概要は、イスラエルの民が幕屋を通して、ささげ物をもって、祭司によって、神と交わり、神に仕え、神の聖なる民となって、神を表現する聖なる生活をするということです。幕屋はイスラエルの民が神に仕えるための手段ですが、仕えるための手段があったとしても十分ではありません。彼らは拠り所となるもの、すなわちささげ物が必要となります。これらを通して彼らはこの神に仕えることのできる領域へと入ることができるのです。そうでなければ、焼き尽くされ、神の御前で死んでしまいます(第十章一節―二節)。

わたしたちは、イスラエルの民がまず交わりを持ち、それから奉仕があったことに注意を払う必要があります。まず奉仕があり、それから交わりがあったのではありません。ですからレビ記の最初では、イスラエルの民がささげ物によって神と交わることが語られているのです。この交わりを根拠として、彼らは神に奉仕することができたのです。神と交わりを持つという意味は、神と共に席に着き、神と共にキリストを享受するということです。これは幕屋を通して、ささげ物によって、また祭司が行なうことができることです。今日、これらのことはわたしたちに対しては、すべてがキリストです。わたしたちと神が共にキリストを享受した結果は、神に聖別された民となり、聖なる生活をすることです。もう一面では、神に奉仕する人はみな、神に奉仕する生活をする必要があり、神に奉仕する体系を必要とします。イスラエルの民が神に奉仕する生活と体系は、彼らを神聖な民とすることができます。神に奉仕する人は、聖なる生活をすべきであり、そうしてこそ神に奉仕する体系に適したものとなります。

レビ記の主題
レビ記は神の民の三つのことを重視しています。第一のことは、神の民と神との交わりです。第二は、神の民の神への奉仕です。第三に、神の民の神の御前での生活です。ですからレビ記での鍵となる言葉は、交わり、奉仕、聖別です。その中でも重要なのが、神の民がどのように神と交わり、神に奉仕し、自分を聖別するかということです。神の民のこの三つのことはみな、キリストにおいてです。ですから、レビ記の主題は、キリストは神の贖われた者の交わり、奉仕、生活においてすべてであるということです。

レビ記の各区分の意味
レビ記は五つの区分へと分けることができます。それは、ささげ物に関する規定、奉仕に関する規定、生活に関する規定、祭りに関する規定、その他の規定と警告です。この五つの区分ではみな、多くの規定を語っています。聖書において、神の命令には律法と規定があると言っています。律法とは十の戒めであり、原則です。また規定とは多くの決まりを指しており、詳細なものです。これらの規定の内容の主要なものは、三つの面について言っています。それは神の民と神との交わり、神に対する奉仕、そして持つべき生活についてです。

ささげ物に関する規定(レビ記第一―七章)
ささげ物に関する規定には二つの部分があります。第一の部分は、各種のささげ物で、全焼のささげ物(第一章一節―十七節)、穀物のささげ物(第二章一節―十六節)、平安のささげ物(第三章一節―十七節)、罪のためのささげ物(第四章一節―三五節)、違犯のためのささげ物(第五章一節―第六章七節)です。第二の部分は、各種の祭りに関する規定です。基本的にもこれらの五種類のささげ物の規定のことを言っています。

奉仕に関する規定(レビ記第八―九章)
奉仕に関する規定で主要なものは、三部分から成っていて、その第一のものは塗り油(第八章)、第二に務めを行なうこと(第九章)、第三に罪を犯すこと(第十章)です。人が神に奉仕するには、必ず油塗られる必要があり、油塗られた後に務めを行なうことができました。もし、正しい務めがないなら、あるいは務めを行なうときに間違いを犯すなら、神に違犯し罪を得ます。

生活に関する規定(レビ記第十一―二二章)
生活の規定は八つの面を含んでいます。第一番目は、食物の清さと汚れです(第十一章)。これは人が外側から内側へと受け入れる問題です。第二番目は、出産における汚れです(第十二章)。これは人の中から出てくる問題です。第三番目は、らい病による汚れの問題です(第十三章―十四章)。これは人の中から現れ出るという問題です(第十五章)。第四番目に、男女の体から漏出する汚れです(第十五章)。以上の四種類の汚れに関する規定は、ほとんど神の民の全体の命、生活、行動を含んでいます。第五には、罪を覆う規定です(第十六章)。汚れの規定がまだ語り終わっていないときに、罪を覆う規定が語られました。それは外側から受けたものであれ、内側から出て来たものであれ、あるいは現れ出たもの、イスラエルの民の男女に及ぶまで、すべてが汚れていて、罪を覆わなければならないからでした。第六番目は血を顧慮する規定です(第十七章)。宇宙には、人が自由気ままに扱えない一つのものがあります。それは血です。血は汚れた者のため、罪を覆うのに用いられます。罪を覆うことで最も重要なのは血です。ですから神の民の血に対する態度というのは、自由気ままなものであってはなりません。第七番目は、聖なる民の聖なる生活の規定です(第十八章―二〇章)。第八番目は、祭司職のための聖なる生活の規定です(第二一章―二二章)。この最後の二つの規定は、一般のイスラエルの民と祭司の生活のことを言っており、どのように聖別され、他の人たちとは違っていなければならないかを言っています。

祭りに関する規定(レビ記第二三章)
祭りに関する規定は告げていますが、神が民に求めている生活とは、労苦し、思い悩む生活ではなく、祭りをして、喜ぶ生活であるということです。イスラエル人の一年は祭りに満ちていて、彼らは年の初めから年末まで喜びのある生活を過ごします。第二三章は特にイスラエル人がどのように祭りをするかについて語られています。これらは、イスラエル人が祭りをしているのですが、しかしそれはエホバの定めの祭りと呼ばれ(二節)、神の祭りでした。ですから、これらの祭りは、イスラエル人に重きがあるのではなく、神のためであること、神を喜ばせることに重きがあります。人はみな喜びたいと思いますが、神が喜ばれてこそ、人は喜ぶことができるのです。神が喜ばれないなら、人が祭りをしても喜ぶことはできません。ですから、人は必ず神と共に祭りをしなければなりません。そうしてこそ喜びがあります。

この大きな段落は二つの中段落に分けられていて、神がイスラエル人に与えられた祭りは大きく分けて二種類あることを説明しています。第一は、安息日――週ごとの祭りです(一節―三節)。第二は、年ごとの七つの祭りです(四節―四四節)。安息日については、イスラエル人は一年に少なくとも五十二の安息日を持ちます。六日ごとに一日の安息日がある以外に、イスラエル人には一年に七つの祭りがあります。七とは完全な数字であり、それは神が彼らに与えられた喜びと享受が完全であることを意味しています。この七つの祭りは次のものを含んでいます。(一)過越の祭り(四節―五節)。キリストが過越の祭りの小羊として殺され、神の民が救われたことを予表しています(コリント人への第一の手紙第五章七節)。(二)パン種のないパンの祭り(レビ記第二三章四節―五節)。人が救われた後に、罪のない生活をすることができることを予表しています(コリント人への第一の手紙第五章八節)。(三)初穂の祭り(レビ記第二三章十五節―二二節)。キリストが初穂の実として、死から復活したことを予表しています(コリント人への第一の手紙第十五章二〇節)。また人が罪のない生活をするには、初穂の実を神にささげなければならないことを言っています。(四)ペンテコステの祭り(レビ記第二三章十五節―二二節)。初穂の祭りが過ぎた後に、完全な収穫があります。それは聖霊の注ぎ出しにより召会が生み出されることを予表します(使徒行伝第二章一節―四節)。(五)ラッパを吹き鳴らす祭り(レビ記第二三章二三節―二五節)。キリストが来臨し、この時にラッパの音が鳴り、まき散らされたイスラエルの民が召し集められることを予表しています(マタイによる福音書第二四章三一節)。(六)罪を覆う祭り(レビ記第二三章二六節―三二節)。イスラエル人が悔い改めて、彼らの罪を捨て去り、神の御前で罪を覆われることを予表します(ゼカリヤ書第十二章十節―第十三章一節、ヨエル書第二章一節、十二節)。(七)かりいおの祭り(レビ記第二三章三三節―四四節)。千年王国の中での安息と喜び、人と神が共に喜ぶことを予表しています。

これらの祭りの中で、三つの最も重要なものがあります。それは過越の祭り、ペンテコステの祭り、そして仮庵の祭りです。その他の四つの祭りは次に重要なものです。イスラエルのすべての男子は、年に三回、神が彼の御名を住まわせるために選ばれた場所、すなわち彼の契約の箱がある場所で神を礼拝しなければなりませんでした。この三回とは、過越の祭り、ペンテコステの祭り、仮庵の祭りでした(申命記第十六章十六節、出エジプト記第二三章十四節―十七節、歴代志下第八章十三節)。

その他の規定と警告(レビ記第二四―二七章)
この最後の区分は、まだ扱われていない詳細なものを補足するものであり、その他の規定と警告を含んでいます。規定の面には次のものが含まれます。ともし火(レビ記第二四章一節―四節)、臨在(供え)のパン(五節―九節)、安息年とヨベル(第二五章一節―二二節)、嗣業の買い戻し(二三節―三四節)、利得(三五節―三八節)、奴隷(三九節―五五節)、そして誓願のための奉献の規定です(第二七章)。

警告の面では次のものが含まれます。偶像を造ってはならないことに関する警告(第二六章一節―二節)、服従する者に対する祝福(三節―十三節)、服従しない者に対する警告(懲らしめ)(四〇節―四六節)。ここでの警告は神に関するもの、偶像に関するもの、服従と服従しないことに関するもの、その最後の項目は悔い改めに関するものです。それらにはみな、その思考の道筋があります。

聖なる、清い、喜ぶ生活をさせる
レビ記には、神の民の正しい礼拝が示されており、それは神に触れ、神と共同の分け前を享受し、神と交わること、また祭りによって描写されています。祭りの中で、人の宗教的な礼拝はありません。ただ神へのささげ物の享受があるだけです。人と神、また他の人と共にこれらのささげ物を享受します。ですから、わたしたちが毎回集まるときに持つべき礼拝とは、キリストをわたしたちと神との、また他の人との間の共同の分け前として、神と接触し、神に近づくことです。わたしたちが礼拝に対してこのような理解を持つならば、わたしたちが集会に来た時に、賛美と、祈りと、証しによって、日常生活の中でのキリストに対する経験と享受を分け与えることができます。

わたしたちはキリストの中で生き生きとした、真実でまた豊かな礼拝を持つ必要があります。このような礼拝は、わたしたちが毎日キリストを経験し、享受することを要求します。またわたしたちの霊を活用し、わたしたちの霊の中でキリストに属するものをすべて解き放つことを要求します。そしてわたしたちが、他の聖徒たちと共にキリストを享受できるようにします。このような集会であれば、わたしたちは聖とされます。なぜならこのような集会の結果は、聖なる日常生活であるからです。このように、わたしたちは、聖なる礼拝する者となるだけでなく、聖なる人となり、聖なる生活をする者となります。これはレビ記の中の神聖な啓示です。

創世記、出エジプト記、そしてレビ記の中の神聖な啓示の進展によれば、わたしたちは創造を経て、堕落し、贖いへと至ります。また贖いから神の住まいへと至り、そこにおいてわたしたちはキリストをわたしたちの分け前として神に接触し、神と、また他の人と共にこの分け前を享受し、これらを通して神を礼拝します。この礼拝から日常生活の中の聖なる生活が生み出されます。このようにレビ記の中で、神は地上で住まいを得るだけでなく、訓練され彼を礼拝し、彼に接触し、彼と、他の人と共に彼のキリストと共同の分け前として享受する者たちを得られます。その結果として、これらの者たちはある種の聖なる、清い、喜ぶ生活をし、神を表現します。今日、わたしたちの召会生活が、神に対してもこのように正しい礼拝を持ち、神と、また人と共にキリストを享受し、お互いに交わり、神と人が共に満足を得るものでありますように。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第2期3巻より引用

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