正当なクリスチャンの集会

真理

わたしたちクリスチャンの辞書にはただ一つの言葉、キリストがあるべきです。キリストはわたしたちのすべてです。わたしたちがキリストをすべてとする時、日常生活には何という甘さがあることでしょう! これがわたしたちの日ごとの経験であるなら、わたしたちは集会の中で自然に霊を解放しキリストを展覧することができるでしょう。もし聖徒たちがみなこのような日常生活を送るなら、集会は本物で、豊かで、高く引き上げられたものになるでしょう。主がすでにわたしたちにはっきり見せているように、正当な集会とはわたしたちクリスチャンの日常生活の展覧です。

リント人への第一の手紙第十四章二六節は新約の中で独特なものです。なぜなら新約の中で、クリスチャンがどのように集会すべきか、そしてどのように機能するべきかをわたしたちに告げているところは他にないからです。コリント人への第一の手紙第十四章のこの部分は集会の中でわたしたちがどうすべきかを告げています。特に二六節の「それぞれに……があり」は、わたしたちが注意深く研究するのに価値があります。

召会時代の初期、聖徒たちはとても単純であった
召会時代の初期、聖徒たちはとても単純でした。当時、彼らはまだ新約聖書を持っていませんでしたし、ごく少数の者しか旧約聖書の写しを持っていませんでした。さらに、彼らは詩歌集も持っていませんでした。しかしながら、一つの事は確かです。すなわち、彼らはみなすべてを含む、命を与える霊を持っていました。召会生活の初期には、それほど多くの教理、実行、主のために働く方法はありませんでした。むしろ、聖徒たちはただ、彼らの霊の中に生き、住んでおられるその霊を享受しました。これは彼らを別の種類の人にしました。彼らは救われる前、エペソ人への手紙第二章一節から三節でパウロが描写しているように、自分の違犯と罪の中に死んでいる人たちでした。しかし彼らは悔い改め、救われ、再生された後、別の種類の人、すべてを含む霊が内住している人となったのです。

主の御名を呼び求める
初期の召会の人たちは、主イエスの御名を呼び求めたという事実によって知られました。使徒行伝第九章十四節は、サウロが祭司長から権限を受けて、主の御名を呼び求めるすべての者を縛ろうとしていたと言っています。主イエスの御名を呼び求めるというこの実行は、キリストにある信者のしるしでした。未信者は、主の御名を呼び求めたという事実によって、容易にクリスチャンを知ることができました。コリント人への第一の手紙第一章二節でパウロはこの事柄に言及しています、「コリントに在る神の召会へ、すなわち、キリスト・イエスの中で聖別された者たち、召された聖徒たち、それと共に、わたしたちの主イエス・キリストの御名を至る所で呼び求めているすべての者へ」。この節は、一方で、信者たちは召された人々であることを示しています。なぜなら、彼らは神によって召されたからです。もう一方で、彼らは呼び求める人々です。なぜなら、彼らは主イエス・キリストの御名を呼び求めるからです。わたしたちは主の御名を呼び求めるために神に召されたのです。信者たちは「至る所で」主の御名を呼び求めました。

語る
初期の召会の人たちは、主の御名を呼び求めることに加えて、主イエスについて多く語りました。彼らは主について互いに、また未信者に語りました。彼らの語りかけは、新約で強調されている預言です。生ける霊であるキリストは、彼らの霊の中におられました。こういうわけで、パウロは「主に結合される者は、主と一つ霊になります」(Ⅰコリント六・十七)と言うことができました。召会生活の初期のクリスチャンは、彼らの霊を活用して互いに語り合い、また主のために未信者に語りました。召会生活の初期の聖徒たちは、何と単純だったことでしょう! 彼らの集会では多くの呼び求めること、語ること、歌うこと、賛美することがあったに違いありません。エペソ人への手紙第五章十九節によれば、彼らは詩と詩歌と霊の歌とで語り合い、心から主に向かって歌い、朗詠しました。

集会でみな機能して、
すべての事を建造のために行なう
コリント人への第一の手紙第十四章二六節でパウロは言います、「それでは兄弟たちよ、どうなのですか? あなたがたがいつも集まるときには、それぞれの人に詩があり、教えがあり、啓示があり、異言があり、解釈があります。すべての事を、建造のために行ないなさい」。この節で五回繰り返されている「ある」は、ギリシャ語では広く使われており、多くの意味を持つ言葉です。そのうち次の三つがおもなものです。(一)(あるものを)保持する、所有する、守る。(二)(あるものを)享受として持つ。(三)ある事を行なう手段、力を持つ。初めの二つは、この節に挙げられた五つの項目の初めの三つ(詩歌、教え、啓示)に適用されるべきであり、第三のものは、後の二つ(異言と異言の解釈)に適用されるべきです。これは、わたしたちが召会の集会に来る時、人に分け与える主の何かを持っていなければならないことを示します。それは、主を賛美する詩歌、キリストの豊富を供給して人を成就し養う(教える者の)教え、神の奥義であるキリストと、キリストの奥義である召会に関する、神の永遠の定められた御旨のビジョンを与える預言の啓示(三〇節)、未信者がキリストを知って受け入れるための、彼らへのしるしとなる異言(二二節)、キリストと彼のからだに関する異言を理解できるようにする解釈です。わたしたちは集会に来る前、主を経験したことや、主の言葉を享受したことや、祈りの中で主と交わったことなど、主から来た事柄、主についての事柄で、その集会のために自分を準備すべきです。わたしたちは集会に来たなら、霊の感動を待つ必要はなく、待つべきでもなく、自分の霊を活用し、訓練された思いを用いて、機能すべきです。そして準備してきたものを、主の栄光と満足のために主にささげ、参加している者たちの益のために、すなわち、彼らが照らされ、養われ、建造されるために、ささげるのです。

これは、古代のかりいおの祭りのようです。イスラエルの子たちは良き地の産物、すなわち彼らがその地で働いて収穫した物を、祭りに携えてきて主にささげました。それは、主との交わりと互いの交わりの中で、主に享受していただき、また互いに主の御前で享受するためでした。わたしたちは、わたしたちの良き地であるキリストの上で労苦して、彼の豊富からいくらかの産物を収穫し、召会の集会に携えてきて、ささげるべきです。このようにして、召会の集会は、キリストの豊富の展覧となります。そして全員が神の御前で、神と共に、分け与えたキリストを互いに享受して、聖徒たちと召会が建造されていくのです。

このように、「ある」という言葉はとても重要です。パウロによれば、わたしたちがみな共に集まる時にはいつも、何かがあるべきです。パウロは「あるであろう」とか、「あるべきである」とは言っていません。彼は現在時制で語ってその事実を示し、わたしたちには何かがある、各自には何かがあると言っています。さらに、彼は数名の者にあるとか、多くの者にあるとか、大多数にあるとは言っていません。彼は「それぞれの人に……がある」と言っています。このリストはすべてを含んでいるのではありません。それは実例です。この章で彼が注意しているのは、神の行政のために召会を建造することです。

集会はキリストと召会を
中心また内容とする
二六節は五つの事を順番に挙げています。詩歌、教え、啓示、異言、異言の解釈です。この節に挙げられた五つの項目はすべて、わたしたちの分け前としての神の中心であるキリストと、わたしたちの目的としての、神の目標である召会に焦点づけられるべきです。詩は、わたしたちの日常生活と召会生活での知恵と力としてのキリストを与えておられる神を、賛美するものであるべきです。教える者の教えと預言者の啓示は、キリストと、キリストのからだである召会を人に教え、供給すべきです。異言とその解釈も、キリストと召会をその中心と内容とすべきです。キリストと召会以外のどのような事柄も強調するなら、召会に混乱をもたらし、神の新約エコノミーの中心路線から召会をそらしてしまうでしょう。この他にパウロは、「すべての事を、建造のために行ないなさい」と告げています。わたしたちが召会の集会で行なうどのような事も、聖徒たちと召会を建造するためでなければなりません。集会の中でキリストを展覧し、キリストを享受して、キリストのからだを建造することが、わたしたちの唯一の目的であり、目標であるべきです。

パウロが詩歌を最初に述べているという事実は、召会の集会で主を賛美することが優先されなければならないことを示します。わたしたちは賛美することで、新約エコノミーの水準に引き上げられる必要があります。わたしたちは神聖な啓示の心臓部である書(ガラテヤ、エペソ、ピリピ、コロサイ)を歌えるような曲を作る必要があります。わたしたちは、いかに神が御子を喜んでわたしたちの中に啓示されたかについて、わたしたちの中に生きておられるキリストについて、わたしたちが彼と共に十字架につけられたという事実について、その霊の中で、その霊の規制にしたがって歩くことについて、神の召しの望み、聖徒たちの中にある彼のぎょうの栄光、キリストを復活させ、彼を天で座らせるために働いた神の力の偉大さを知るために、知恵と啓示の霊が必要であることについて、キリスト、すべての中ですべてを満たしている方の豊満である召会について、わたしたちが力をもって、神の霊を通して内なる人の中へと増強され、キリストがわたしたちの心の中に彼のホームを造られ、わたしたちがすべての聖徒たちと共にキリストの宇宙的な大きさを会得して神の全豊満へと至るという必要性について、一つからだ、一つ霊、一つ主、一つ信仰、一つバプテスマ、すべてのものの一つ神また父について、イエスにある実際の中を歩いてわたしたちが古い人を脱ぎ捨て、思いの霊の中で新しくされ、新しい人を着て、新しい人の実際を持つことについて、イエス・キリストの霊の満ちあふれる供給について、キリストを生き、彼を大きく表現し、キリストの中に見いだされ、彼を追い求め、彼を知る知識の卓越性を持つことについて、見えない神のかたち、全被造物の中で最初に生まれた方としてのキリスト、愛される方について、これらを歌うことを学ぶ必要があります。これら四冊の書と共に、ローマ人への手紙、コリント人への第一、第二の手紙、ヘブル人への手紙からの節を歌うことも学ぶ必要があります。

「それぞれの人に詩歌があり」と言った後、パウロはさらに進んで教え、啓示、異言、解釈を述べています。教えは使徒たちの教えにしたがったものでなければなりません。また啓示は、隠されていたものが今や啓示されたものを見せるのでなければなりません。わたしたちは集会で、教えの言葉、啓示の言葉を必要とします。すでに指摘したように、教える者からの教えと預言者からの啓示は、キリストと、彼のからだとしての召会を教え、供給すべきです。原則において、異言と異言の解釈についても同じでなければなりません。それらはキリストと召会をその中心と内容として持つべきです。これは、それらが他の事にではなく、神の奥義としてのキリストとキリストの奥義としての召会に中心がなければならないことを意味します。正当な異言で語ることは、キリストと召会に関するものであるべきです。これはコリント人への第一の手紙全体、すなわち神の知恵と力、また神の深い事柄としてのキリストと、キリストを表現するからだとしての、また神の行政を執行する手段としての召会について語っている書の文脈に基づいています。

集会はキリストを展覧する
展覧会では、人々は彼らが持っているものや生み出したものを見せ、展示します。わたしたちが持っていないものではなく、持っているものだけを展覧することができます。わたしたちは召会の集会に共に集まる時はいつも、日ごとに主から享受しているものを展覧すべきです。正当なクリスチャンの集会は、わたしたちのクリスチャン生活の展覧であるべきです。それはわたしたちが日ごとの歩みで経験するキリストの豊富の展覧であるべきです。わたしたちが霊を活用して日ごとに主に触れるなら、召会の集会で聖徒たちに分け与えるキリストを持つでしょう。

主イエスは宗教、一種の形式、規則、教えではありません。彼はわたしたちが日ごとに触れることができる生けるパースンです。わたしたちの霊に内住しているすべてを含む霊として、彼は実際であり便利です。時間ごと、瞬間ごとにさえ、わたしたちは霊を活用して親密に彼に触れるべきです。わたしたちは絶えずどこでも主の御名を呼び求める習慣を発展させる必要があります。この実行を建て上げるなら、「おお、主イエスよ、あなたの御名は地上で最も甘い名です」と言うことができるでしょう。わたしたちは主に触れ、彼の御名を呼び求める時、彼と共に歩き、彼によって生き、彼の目の表情にしたがってすべてを行なわなければなりません。目の表情とは目の周りの顔の部分を指し、顔つきは内側の思想や感覚の表示であって、その人全体を表明し、現します。コリント人への第二の手紙第二章十節によれば、パウロはキリストのパースンと表情の中で生きました。彼は主の目の表情を通して伝達された表現にしたがって、すべてのことを行ないました。わたしたちもキリストのこの表情にしたがって生きるべきです。わたしたちが言い、行なうあらゆることは、主イエスの目の表情の中にあるべきです。わたしたちは日常生活のあらゆる詳細にわたって、主の目の表情にしたがって振る舞うことができます。ああ、キリストの目の表情の中で生きるのは、何と甘いことでしょう!

わたしたちは主との親密な接触を持ち、彼の目の表情にしたがって生きる必要があります。わたしたちはこのように生きる時、主がいかに実際で、生きており、共におられるかがわかります。もし日ごとに主と接触し、彼によって生きていないなら、召会の集会で展覧すべきキリストの何を持つのでしょうか? 多くの聖徒たちは展覧すべきキリストの何も持たないので、集会の中で黙っています。しかし日常生活で主を享受し、この享受について集会で証しするなら、わたしたちはさらに主を享受するでしょう。わたしたちがキリストについて語れば語るほど、ますます彼を享受し、ますます満たされて神の全豊満へと至ります。

単純さに戻る
わたしたちは、初期のクリスチャンの単純さに印象づけられるべきです。主が今日そのような単純さを、彼の回復の中のわたしたちの間で回復してくださいますように! 集会の中でこの単純さに連れ戻されるなら、時には、わたしたちは詩歌も聖書も使わない集会をしても良いのです。むしろ、わたしたちは霊を活用して単純にキリストを現し出すでしょう。わたしの詩歌や聖書を奪われることはあり得ますが、わたしの霊の中のすべてを含むキリストを奪われることはあり得ません。ああ、主が生けるキリストご自身以外の何ものにも信頼を置かせないようにしてくださいますように!

初期のクリスチャンは聖書や詩歌を持っていませんでしたが、生けるキリストを持っていました。彼らは御名を呼び求め、彼を、また彼に関して多く語りました。彼らはまた歌い、主を賛美しました。ですから、彼らが共に集まる時はいつも、日常生活でキリストについて経験し、享受したことを、展覧することができました。これによって、正当なクリスチャンの集会は、クリスチャン生活の表現であることを見ます。わたしたちは集会を、日常の歩みとは違った、あるいはかけ離れたものとすべきではありません。もしそうするなら、わたしたちの集会は演技となり、集会所は劇場となり、聖徒たちは役者となるでしょう。わたしたちの集会は演技であってはなりません。それはわたしたちが家庭で、学校で、職場で生きていることの展覧であるべきです。それはわたしたちが日ごとにその方によって、その方の中で生きているキリストの表現であるべきです。正当な集会を持つためには、まず正当な日常生活を持たなければなりません。

霊にしたがって歩く
正当なクリスチャンの日常生活を持ちたいなら、霊にしたがって歩く必要があります。新約がわたしたちに、聖書にしたがって歩くように命じているのではなく、霊にしたがって歩くようにと命じているのは意義深いです(ローマ八・四)。ガラテヤ人への手紙第五章十六節でパウロは、「霊によって歩きなさい」と言います。二五節では彼は続けて、「もしわたしたちが霊によって生きているならば、霊によって歩こうではありませんか」と言っています。これらの習慣を発展させるなら、わたしたちの集会は自然にわたしたちの日常の歩みの展覧となるでしょう。そのような集会は、今日のキリスト教の形式的な宗教礼拝と何と違っていることでしょう。

集会は、日常生活の中でわたしたちの霊を活用してキリストを経験したことの成果です。もし日常生活の中でわたしたちの霊を活用しないなら、集会で行なうことは何であれ演技であって、日ごとのクリスチャン生活の自然な展覧ではないでしょう。日ごとに霊の中で歩くなら、集会がどのように始まるか、だれも予告することができないでしょう。わたしたちはただ共に集まって、召会を建造するためにキリストの豊富の自然な展覧をするでしょう。伝統と天然の観念の影響のゆえに、わたしたちはとても容易に組織化された方法で集まります。その集会は形式的であり、その霊の自然性に全く欠けているでしょう。ああ、わたしたちには解放が必要です! 自由が必要です! しかしこの解放と自由は、集会での演技で始めることはできません。それは、わたしたちの日常の歩みで霊を活用することによって始めなければなりません。わたしたちは日常生活の中で、主に触れ、彼の御名を呼び求め、彼について人に語り、主に賛美を歌う人であるべきです。そうすれば、召会の集会に来る時、わたしたちはこのような人であり続けるはずです。こうして、集会でのわたしたちの活動は、わたしたちの日常の歩みでの実行を展覧するでしょう。

高く引き上げられた集会のために
キリストを展覧する
わたしたちクリスチャンの辞書にはただ一つの言葉、キリストがあるべきです。キリストはわたしたちのへりくだり、忍耐、わたしたちのすべてです。わたしたちがキリストをすべてとする時、日常生活には何という甘さがあることでしょう! 彼の目の表情にしたがって生きることは、何と驚くべきことでしょう! そのような生活は、呼ぶこと、語ること、歌うこと、賛美することで満ちています。これがわたしたちの日ごとの経験であるなら、集会には何の演技もないでしょう。その反対に、わたしたちは自然に霊を解放してキリストを展覧するでしょう。すべての聖徒たちにそのような日常生活があるなら、集会は本物で、豊かで、高く引き上げられ、わたしたちが今まで経験したものとは全く異なったものとなるでしょう。どのような集会であるべきかという天然の観念を捨て去りましょう。主ははっきりと、正当な集会とはクリスチャンとしてのわたしたちの日常生活の展覧であることを見せてくださいました。集会では、歌うこと、宣べ伝えること、教えることに注意を焦点づけるべきではありません。わたしたちの焦点は、わたしたちの日ごとの歩みの展覧でなければなりません。これについてはっきりしているなら、集会をどのように持つべきかをだれも教えることはできないと認識するでしょう。教えることは演技に導くだけで、決して展覧には導きません。みなあわれみを求めて主を仰ぎ見、そして言いましょう、「主よ、わたしたちは宗教によって覆われ、あなたご自身からそらされてきました。主よ、わたしたちを多くの良い、霊的な、聖書的である事からさえ、あなたご自身へと連れ戻してください。わたしたちにキリストを、キリストだけを知らせてください」。

現在、主はわたしたちとご自身との日ごとの親密な接触と、わたしたちが彼によって生きることを回復しようとしておられます。宗教的な伝統を拒否し、ただ生けるキリストだけに注意しましょう。そうすれば、集会においてその霊で湧き立つでしょう。主を語れば語るほど、ますますわたしたちは語るものを持つでしょう。ああ、わたしたちがみな単純になり、キリストご自身に戻りますように! 宗教的な伝統とすべての形式的な実行を忘れましょう。主はわたしたちを霊の中へと召しておられます。わたしたちの緊急の必要は、霊の中で生き、歩き、そしてキリストの中でのわたしたちの日常生活を団体的に展覧することです。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第4期第6巻より引用

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