あんしゅ――キリストと結合される

真理

レビ記において、イスラエル人がささげ物を献げる時、
献げる人はささげ物の頭の上に手を置かなければならないと言っています。
新約においても、人がバプテスマされる時、使徒は信者の頭の上に手を置いたことが記載されています。
これは旧約の按手とどんな関係があるのでしょうか?
聖書が啓示していることによれば、この両者はみなキリストとの結合に関係があります。
聖書において、信者とキリストとの結合は一つの重要な真理であり、
このことについてわたしたちは正しい認識を必要とします。

レビ記第一章四節は、イスラエル人が全焼のささげ物を神に献げる時、献げる人は全焼のささげ物の犠牲の頭の上に手を置かなければならないと言っています。第三章から第四章では、人が平安のささげ物と罪のためのささげ物を神に献げる時、人は献げる犠牲の頭の上に手を置かなければならないと言っています(三・二、八、十三、四・四、十五、二四)。

旧約において、按手は結合を表徴しており、旧約のすべてのささげ物はみなキリストを予表しています。ですからこのように按手することは、キリストと結合することを予表しています。以下にいくつかの方面から、按手の意義および信者とキリストとの結合について見てみたいと思います。

按手の意義――結合
按手の意義は結合です。レビ記第一章で言っている、犠牲の頭の上に手を置くことの意味は、ささげ物を献げる人とささげ物の犠牲が一になることであり、ささげ物と結合することです。按手は一つの大きな問題を解決するためです。人が神の御前に来て罪のためのささげ物、あるいは全焼のささげ物を献げる時、なぜ自分を献げないで、牛や羊を献げるのでしょうか? すべての牛も、羊もみな神のものであるのに、それでも神は心にとめられるのでしょうか? 事実上、人が神の御前に来て、自分を献げない限り、神は満足されません。ささげ物を献げることは、自分を献げることであり、牛や羊を献げることではありません。

もし人が祭壇の上で実際に自分を献げ、殺され、焼かれて、全焼のささげ物とするなら、ちょうど旧約においてモレクを拝した人たちと同じではないでしょうか? モレクを拝した人たちは、牛や羊をモレクに献げたのではなく、自分の生んだ子をモレクに献げました(十八・二一、二〇・二)。もしわたしたちが実際に自分を火の中に置くとすれば、わたしたちの神がわたしたちに求められることは、モレクよりさらにひどいことになるのではないでしょうか?

一面、神の要求は確かにモレクよりずっと厳しいです。しかし、もう一面において、神はわたしたちに一つの方法を与えて、わたしたちが犠牲となっても焼き捨てられないようにしてくださっています。それは一頭の牛か羊を引いて来てささげ物の犠牲として、その頭に手を置くことによります。ささげ物の犠牲の頭は、全身で最も重要な部分です。ですから、ささげ物を献げる人が両手をささげ物の頭の上に置くのは、彼とささげ物の結合を表していて、自分を神の御前に香ばしい全焼のささげ物として献げることです。それゆえこのささげ物の犠牲はわたしのようであり、祭司にほふることがゆだねられます。ささげ物の犠牲から流れ出た血は、献げた人の流された血です。ささげ物の犠牲が祭壇の上に置かれたことは、献げた人が祭壇の上に置かれたことです。献げた人とささげ物の犠牲は同じ一つの地位に立っていて、神の御前にもたらされるのです。

キリストはすべてのささげ物の総合計と集大成です(ヘブル十・五―十)。ですから、わたしたちはわたしたちの供え物のキリストの上に手を置くことによって彼と結合して、彼とわたしたちは一になります。このような結合において、わたしたちのすべての弱さ、欠点や失敗を彼が担ってくださり、彼のすべての美徳がみなわたしたちのものとなるのです。

新約の信者は信じること、
バプテスマまた按手を通して、
キリストと彼のからだに結合される
新約聖書の記載から見ますが、人がバプテスマされてキリストに帰された後に、神が立てられた権威が、すなわち使徒のような人たちが、かしらを代表し、キリストのからだを代表してその人に按手しました(使徒八・十六―十七十九・五―六)。人は按手を受ける時、彼の頭を下げなければなりませんが、その意味は今から後、彼は決して頭を出さないということです。彼はキリストと結合しており、かしらとしてのキリストの権威の下に服するのです。使徒はかしらとしてのキリストを代表するだけではなく、キリストのからだも代表して信者に按手し、信者をキリストのからだの交わりの中へともたらします。ですから信者も、キリストのからだ、すなわち召会と結合して一になります。

新約の信者とキリストとの有機的結合 
新約において、わたしたちは信者が信じ、バプテスマされ、按手されることを通してキリストと結合されるという啓示を見るだけではなく、また多くの方面において、信者がキリストと有機的に結合されることを啓示していることを見ます。

キリストが信者に受け入れられる
ヨハネによる福音書第一章十二節は言っています、「しかし、すべて彼を受け入れた者、すなわち、御名の中へと信じる者に、彼は神の子供たちとなる権威を与えられた」。人がキリストを信じて受け入れるなら、キリストは人の中に入って、人の命またすべてとなられます(コロサイ二・六)。このように、キリストは彼を信じる人の中へと入って、彼らと命の結合を持たれます。

キリストが信者の中に啓示される
ガラテヤ人への手紙第一章十六節は、神が喜んで「御子をわたしの中に啓示し」と言っています。人が福音を聞いて、キリストを信じ受け入れた時、神は御子を人の中に啓示してくださいます。この啓示は、外側にあるのではなく、内側にあるものです。外面のビジョンによるのではなく、内側で見ることによります。これは客観的な啓示ではなく、主観的な啓示であり、彼らにキリストを認識させ、彼を命として受け入れさせ、彼と有機的な結合を持たせるものです。

信者はバプテスマされて
キリストに帰されキリストを着る
ガラテヤ人への手紙第三章二七節はまた言っています、「キリストの中へとバプテスマされた者はみな、キリストを着たからです」。信者は信じてバプテスマされ、キリストの中へと浸し込まれ、キリストと深く結合されます。バプテスマされてキリストに帰されたすべての人は、みなキリストを着たのです。キリストを着るとは、キリストを衣服として身にまとうことです。一面、わたしたちはバプテスマの時、キリストの中へと浸されます。もう一面、わたしたちはバプテスマの時、キリストを着ました。信者がバプテスマされてキリストに帰される時、自動的にキリストを着て、キリストと結合されて一となります。

信者はキリストの中にある
コリント人への手紙第一章三〇節は言っています、「あなたがたがキリスト・イエスの中にあるのは、神によるのです」。信者がキリストに結合されるのは、神が彼らをキリストの中に入れ、また彼らをアダムからキリストの中へと移し変えられたからです(Ⅱコリント五・十七)。これはキリストの十字架と復活を通して(ガラテヤ二・二〇)、また信者の信仰とバプテスマを通して成し遂げられました(ヨハネ三・十五ガラテヤ三・二六―二八)。「キリストの中にある」とは、三一の神が肉体と成ること、人の生活、十字架刑、復活、そして昇天の手順を経て、完全で完備な贖いを成し遂げられたことを示します。それは、彼がその贖われた民を彼との有機的な結合へともたらして、彼らに彼と同じ命、同じ性質、同じ生活、同じ歩みにあずからせるためです。

信者は以下の各面において
キリストと結合されて一となる
――信者はすでにキリストの中にある人ですから、彼のすべてを含む死の中で、彼と結合されて一となっています(ローマ六・三後半六前半)。キリストは、彼のすべてを含む死の中で、人の罪の性質、罪の行ない、肉、古い人、旧創造、そして人々の間を隔てるすべての規定と習慣とを解決されました。信者はキリストとの結合を通して、彼が十字架上の死によって成し遂げられたすべてを、自分の実際の主観的な経験とします。今や信者は、彼の死の様の中で、彼と結合して成長するのです(六節前半)。種が地にまかれると、表面は死んだかのようですが、実際はまさに成長し始めるのです。これが死の様の中で成長することです。キリストの中へと浸し込まれることによって、わたしたちはみなキリストの死の様の中で彼と結合して成長するのです。

葬り――信者のバプテスマは、キリストと共に葬られることです(六・四前半コロサイ二・十二前半)。キリストの葬りの中で、彼は人の肉、自己と自己に属するすべてのものを終わらせました。信者がキリストの葬りの中で彼と結合される時、肉、自己、罪、またこの世、さらに旧創造またサタンに属するすべてのもの、また神以外のあらゆるものからも救い出されます。

生かされる――神が信者をキリストと共に生かされるのは(エペソ二・五)、命の霊(ローマ八・二)を通して、永遠の命、すなわちキリストご自身を(コロサイ三・四)、彼らの死んだ霊の中に分与することによって彼らを生かして、彼らを霊の中でキリストと結合して一とならせるためです。

復活――キリストと共に生かされたのは、神の命の救いの最初の一歩です。引き続き神は彼らを死の境遇から、キリストと共に復活させます(エペソ二・六前半ローマ六・四後半)。キリストの復活は新創造の発芽であり、彼を信じる人を再生して神の子たちとならせます(Ⅰペテロ一・三ヘブル二・十)。彼の復活は、彼がすでにサタン、ハデス、墓を含む死に打ち勝たれたことを証明します(使徒二・二四三一ヘブル二・十四啓一・十八)。信者は彼と共に復活し、また彼の中で勝ち誇ることができます。

昇天――信者はキリストと共に復活しただけでなく、またキリストと共に、宇宙で最も高い所であるもろもろの天に座しています(エペソ一・六後半)。神の救いは、わたしたちを神のすべての敵からはるか遠くの地位へと至らせます。これは、信者がキリストの中で進み入ることのできる最高の地位です。ですから信者は、キリストの死、葬り、生かされること、復活と昇天などの各面で、キリストと結合されて一となっているのです。

信者はキリストの中で接ぎ木される
ローマ人への手紙第十一章十七節から二四節で、パウロは信者を野生のオリブの木の枝にたとえて、キリストという良いオリブの木に接ぎ木されることを語っています。信者はキリストへと接ぎ木されて、彼に結合されました。この接ぎ木の結果、野生のオリブの木の枝である信者と良いオリブの木であるキリストは、有機的に共に成長します。もともとは二本の木で、それぞれにそれぞれの命があります。しかし今やこの二本の木が共に接ぎ木されて、二つの命は有機的に共に成長して、実を結びます。ですから信者の命は接ぎ木された命であり、二つの命が接がれて一つとなった命であって、キリストに結合されて成長する命です。これは信者がキリストに結合されて、良きオリブの木の実際へと接ぎ木されることです。

信者は油塗られた方であるキリストに
結び付けられる
神は信者を団体的にキリスト、この油塗られた方に結合して、キリストが神から受けた塗り油に共にあずからせます。コリント人への第二の手紙第一章二一節は言っています、「しかし、わたしたちをあなたがたと共に、キリストへと堅く結び付けて、わたしたちに油を塗られた方は神です」。キリストは神に油塗られ、神のみこころと永遠のご計画を成し遂げるために任命されました。神は、すでに究極的に完成されたその霊としてのご自身をもって、キリストに油塗られました。しかも、すべての信者をこの油塗られた方に結び付けて、彼らもキリストと共に神の油塗りにあずかるようにして、神の永遠のご計画を完成されます。

信者はキリストと一つ霊となる
コリント人への第一の手紙第六章十七節は言っています、「しかし、主に結合される者は、主と一つ霊になります」。これは、信者とキリストが一つ霊になるほどに、密接に結合されることを説明しています。つまり、信者はキリストの中にあり、キリストも彼らの中にあることを示しています。信者とキリストはもはや有機的にブレンディングされて、さらに命の中で一つになっています。キリストは三一の神の具体化であり、種々の過程を経て、その霊と成りました(Ⅱコリント三・十七)。今や、この霊であるキリストは信者の中へと入り、彼らの再生された霊とブレンディングされて一つ霊と成っています。このように信者とキリストは密接にブレンディングされて一つ霊となり、もはや決して分離されることはありません。

信者は霊を活用してキリストと共に生きる必要がある
信者はすでにキリストと結合されて一つ霊になっていますから、ふさわしい祈りによって霊を活用して、経験的に主と一つになる必要があります。このようにして、レビ記第一章四節が言っているように、わたしたちが祈ることによってキリストの上に手を置く時、命を与える霊、すなわちわたしたちが手を置いているこのキリストは(Ⅰコリント十五・四五Ⅱコリント三・六十七)、直ちにわたしたちの中で動き働かれます。それはキリストが地上で生きた生活、すなわち、全焼のささげ物の生活をわたしたちが繰り返し送ることを可能にされます(レビ一・四のフットノート一参照)。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第2期第3巻より引用

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