ピリピ人への手紙第二章十三節は言います、「なぜなら、神の大いなる喜びのために、願わせ働かせるのは、あなたがたの内で活動する神だからです」。わたしたちの内で活動する神は、三一の神です。そのような活動は、三一の神のみこころの大いなる喜びのためであり、わたしたちを神の究極の救いの頂点に到達させます。
ピリピ人への手紙は短い書ですが、豊かで深遠です。新約の他のどの書も、そのように実際的で経験的な方法で救いを啓示していません。わたしたちはマタイによる福音書第一章から、キリストがイエスまたインマヌエルという名の人と成られたことを知っています。イエスは「エホバ救い主」を意味し、インマヌエルは「神われらと共にいます」を意味します。「この二つの名は、神・人であるキリストがわたしたちの救いであることを示しています。しかし、わたしたちがピリピ人への手紙の中に入ったときはじめて、この二つの名の意味をわたしたちの経験の中で知り、神の実際で、経験できる、主観的で常時の救いの詳細を見ることができます。
神のエコノミーにおいて、わたしたちは主イエスをわたしたちの模範(ピリピ二・六、十一)、わたしたちの救いの標準(十二節)とし、わたしたちに願いと行動を起こさせます。これはすべて、わたしたちの救いを遂行し、この救いを究極的結末にもたらすためです。わたしたちが行なうべき唯一の事は、内で活動する神に従うことです。神がこのように、わたしたちの内で活動することには、イエス・キリストの霊の満ちあふれる供給が伴います。
家庭生活と召会生活には常時の救いが必要である
キリストにある神の救いは永遠であるだけでなく、常時であり実際的です。ある意味で、永遠の救いはかなり先のことです。わたしたちは、日常の状態、特にわたしたちの結婚生活や家庭生活に適用することができる救いを必要とします。結婚生活は獄にたとえられます。わたしたちの配偶者は獄吏であり、子供は看守です。そのような状況に対して、わたしたちは実際的な、常時の、経験的な救いを必要とします。ピリピ人への手紙は、わたしたちが日ごとに経験することができる救い、結婚生活という「獄」の中で享受することができる救いを啓示しています。
わたしたちは召会生活の中でも、現在の救いを経験する必要があります。召会にはさまざまな国籍からの、さまざまな性情や個性を持った聖徒たちがいます。共に召会生活にとどまるために、わたしたちは現在の実際的な救いを必要とします。召会を地方的にだけでなく、宇宙的に新しい人として経験しようとするなら、これは特に必要です。ですから、わたしたちは家庭生活のために、地方召会の生活のために、一人の新しい人の中の生活のために、救いを必要とします。
救いの手段
イエス・キリストの霊の満ちあふれる供給と内住する神の内なる活動を通して、わたしたちは常時の、日ごとの救いを得ることができます。これは、わたしたちに常時の救いを与えるのに、ある力が必要であることを意味します。この救いを成就するための神の手段は、形容し得ないほどに偉大です。ピリピ人への手紙によれば、手段は二つあります。すなわち、イエス・キリストの霊の満ちあふれる供給と、内住する神の内なる活動です。日ごとに、時々刻々にでさえ、わたしたちはこの二つの手段によって救われます。
日ごとの救いは、生けるパースンです。この日ごとの救いは、わたしたちが生き、経験し、享受しているキリストを、外側でも内側でも模範とした結果です。この救いの主要な要素は、十字架につけられた命のキリストであり(二・五―八)、また高く引き上げられたキリストです(九―十一節)。この模範(パターン)が、わたしたちの内なる命となる時、わたしたちの救いとなります。ピリピ人への手紙第一章では、救いは、イエス・キリストの霊の満ちあふれる供給から来ます。第二章では、この救いは、わたしたちの内で活動する神から来ます。活動する神は、実はイエス・キリストの霊です。いずれの場合でも、救いは実行上の、日ごとの、時々刻々の救いです。第一章の常時の救いは、特定の人が、特定の状況の中で、特殊な境遇から救われることです。第二章の常時の救いは、すべての信者が、日常生活の一般的な状況の中で、通常の事物から救われることです。
わたしたちの日ごとの救いの手段が、「神の霊」の満ちあふれる供給や、「訪れる」神の活動ではないことに注意してください。それは、イエス・キリストの霊の満ちあふれる供給と、内住する神の内なる活動です。わたしたちを救う神は、ただわたしたちを訪れる方ではありません。彼はわたしたちに内住する方です。一方で、パウロは、イエス・キリストの霊の満ちあふれる供給を通して、彼の状況が彼にとって救いとなると言うことができました。もう一方で、彼は聖徒たちに、神の内なる活動にしたがって、自分自身の救いを成し遂げるようにと命じました。こうして、その霊の満ちあふれる供給と内住する神の内なる活動が、実際的な方法で日ごとに救われるための二つの手段です。
三一の神(イエス・キリストの霊)と人の有機的結合
わたしたちがキリストを信じた時、わたしたちと三一の神との間に有機的結合がありました。キリストを信じることによって、わたしたちは神から生まれ、神はわたしたちの中へと生まれました。この神聖な誕生は、有機的結合を可能にします。すべてを含む霊、すなわちイエス・キリストの霊としての三一の神が、わたしたちの霊の中に入って来られた時、わたしたちは神から生まれました。わたしたちが主イエスを信じた時、おそらくそれを認識せず、気づかなかったのですが、この有機的結合が起こりました。すべてを含む霊がわたしたちの霊の中に入って来て、彼の満ちあふれる供給をもってそこにとどまっています。
イエス・キリストの霊の満ちあふれる供給の内容
神性
満ちあふれる供給は、神聖な命と性質を伴う神聖なパースンを含みます。ですから、満ちあふれる供給は神性を含み、神性は神聖な命、性質、存在、パースンを含みます。言い換えれば、それは神ご自身です。わたしたちは満ちあふれる供給の中で、神の命、性質、存在、パースンを伴う神を得ます。
人性
満ちあふれる供給はまた、引き上げられた人性、正常な命、生活、性質、パースンを伴う人性を含みます。主イエスは神と人の両方です。彼の中に神性と人性の両方があります。ですから、彼は地上にいた時、神として、また人として生きられました。主が地上で三十三年半、経過されたすべては、今やすべてを含む霊の中にあります。ですから、神性と人性は、主イエスの人の生活を含めて、すべてを含む霊の満ちあふれる供給の中にあります。
十字架、復活、昇天
十字架上で主イエスはすばらしい死を遂げられました。キリストのすべてを含む死は、宇宙のあらゆる消極的な事柄を対処しました。彼の死によって、すべての罪深い事柄は終わらされました。このすばらしい死はまた、その霊の満ちあふれる供給の中に含まれています。キリストの復活と昇天も含まれています。今やその霊の満ちあふれる供給の中に、キリストの神性、人性、十字架、復活、昇天があります。
神聖な属性と人性の美徳
その霊の満ちあふれる供給はまた、神聖な属性と人性の美徳を含みます。神は愛、光であり、また聖、義です。これらは神の属性のいくつかです。さらに、人としてキリストはすべての人性の美徳を持っておられます。神聖な属性と人性の美徳の両方が、イエス・キリストのすべてを含む霊の中にあります。
その霊の満ちあふれる供給を享受する時、わたしたちは気づかないでこの供給の成分にあずかります。例えば、わたしたちは、自分が愛しているという事実を意識しないで人を愛するかもしれません。同じように、わたしたちは服従していることを認識しないで服従しているかもしれません。しかしながら、もし注意深く愛そうとしたり、服従しようとするなら、わたしたちの愛や服従は真実なものではなくなるでしょう。真の愛と真の服従は常に自然であって、わたしたちが意識するものではありません。真に夫に服従している姉妹は、服従しているという意識を持ちません。なぜなら彼女の服従は、イエス・キリストの霊の満ちあふれる供給から来るからです。
真の美徳の源は、イエス・キリストの霊の満ちあふれる供給です。パウロはローマの獄中で喜んでいた時、わざと喜ばしく装っていたのではありません。彼が喜んでいたのは彼自身の努力の結果ではなく、確かに演技ではありませんでした。パウロは三一の神を愛し、三一の神に開き、三一の神と交わっていたので、三一の神は、彼であるすべてをパウロの中に注入する自由な経路を持たれました。その結果、パウロは、この三一の神にはイエス・キリストの霊の満ちあふれる供給があるのを認識することができました。パウロはこの供給を経験したので、囚人として鎖につながれている時でさえ、主の中で喜ぶことができました。
その霊は今日、単に神の霊、エホバの霊、聖霊ではありません。肉体と成ること、人の生活、十字架、復活、昇天の手順を経て、その霊は今やイエス・キリストの霊です。彼の中にあらゆる種類の神聖で、霊的で、天的な成分を含む生ける供給があります。イエス・キリストの霊のこの満ちあふれる供給を通して、パウロの環境は彼の救いとなりました。彼はこの満ちあふれる供給を通して絶えず、時々刻々救われました。こうして、彼の日ごとの救いの源は、イエス・キリストの霊の満ちあふれる供給でした。
常時の救いを経験する
ピリピ人への手紙第一章でパウロは、その霊の満ちあふれる供給を通して特別な状況から救われました。第二章で彼は続けて、どのように信者たちが、日常生活の普通の事柄の中で常時の救いを経験するのかを指摘しています。例えば、第二章十四節は、「すべての事を、つぶやいたり議論したりすることなく行ないなさい」と言います。つぶやきと議論は、わたしたちが日ごとに経験する事です。わたしたちは憎しみや怒りを毎日、経験しないかもしれませんが、必ず毎日、議論しつぶやきます。
結婚生活で、妻は特に容易につぶやき、夫は特に容易に議論します。ある意味で、天然の結婚生活はつぶやきと議論の生活です。ある兄弟が一人で生活し、配偶者としての妻がいないなら、つぶやきや議論の機会はほとんどないでしょう。しかしながら、結婚生活は、つぶやきと議論の十分な機会を与えます。同じように、ある姉妹は結婚する前、小さい挫折でつぶやきません。今や彼女は結婚した後、最も小さい挫折でつぶやくかもしれません。夫は彼女のつぶやきに対して議論して反応し、自分を弁護し、彼女を非難するかもしれません。ベッドが用意されていないこと、歯ブラシがその場にないこと、切れた電球、部屋がきれいでないことなどで、つぶやきや議論があるかもしれません。夫は仕事から帰って来て、家が整頓されていないのを見ると、黙っていることが難しいでしょう。たとえ彼が黙っていても、喜んで黙っているのではありません。そのような事柄に対するつぶやきや議論は、常時の救いが必要であることを啓示します。ああ、何とわたしたちは日ごとに、つぶやきや議論から救われる必要があることでしょう!
神はわたしたちの内で活動する
何がわたしたちをつぶやきや議論から救うことができるのでしょうか? 第二章十二節と十三節でパウロは、自分自身の救いを成し遂げるようにと命じています。なぜなら、「神の大いなる喜びのために、願わせ働かせるのは、あなたがたの内で活動する神だからです」。しかしながら、神がわたしたちの内で活動されるという事柄は、単に教理であるかもしれません。家である状況に直面すると、わたしたちには神の内なる活動の実際がないかもしれません。むしろ、わたしたちは完全に自己の中にいるかもしれません。それにもかかわらず、常時の救いを経験しようとするなら、この救いが、わたしたちの内で活動する神ご自身であることを認識する必要があります。
第二章十三節でパウロが語っているのは神であって、キリストやその霊ではありません。パウロがこの節でことさら神について語っている目的は、わたしたちの常時の救いが神ご自身にほかならないことを示すためです。しかしながら、第二章十三節で啓示された神と、創世記第一章一節で啓示された神との間には違いがあります。
使徒パウロがピリピ人への手紙を書いた時、すでに神は肉体と成ること、人の生活、十字架、復活、昇天の過程を経過されていました。イザヤ書第九章六節によれば、わたしたちに生まれたみどりごは大能の神と呼ばれました。ベツレヘムの飼葉桶に生まれ、ナザレの大工の家で生活された方は、大能の神でした。これによって、生ける神が人の生活を経験されたことを見ます。大能の神がひとりの人の中で、人類の間で三十年以上も生活されました。そして贖いの完成のために、彼は十字架につけられ、死の中に入り、ハデス[陰府]を旅行し、復活の中で出て来られました。さらに、わたしたちの神、イエス・キリストは天へ昇られ、すべての主とされました。今や彼は主権、王権、頭首権を持っておられます。
今日わたしたちの神は、創造主、贖い主、救い主、主であるだけではありません。彼はすべてを含む方です。第二章十三節の神という言葉は、このすばらしい、手順を経た、すべてを含む神を指しています。この内住する神が、今やわたしたちの内で活動しておられます。内住し活動する神は、父、子、聖霊です。さらに、彼はわたしたちの模範、命の言葉、すべてを含む霊です。
この内住する方は受動的ではありません。その反対に、彼は能動的、精力的で、わたしたちの内で動き、働き、活動しておられます。第二章十三節の「活動する」と訳されたギリシャ語の言葉は、「活気づける」ことを意味します。内住する神は内側からわたしたちを活気づけて、わたしたちの常時の救いのために、源、力、強さ、活力となられます。
さ細な罪から救われる
ピリピ人への手紙第二章でパウロは、つぶやき、議論(十四節)、責め、たくらみ、傷、曲がったこと、よこしまなこと、暗やみ(十五節)に言及します。対照的に、ローマ人への手紙第一章で、彼は偶像礼拝、淫行、殺人などのようなひどい罪について語っています。実は、ひどい罪から救われるのは比較的容易ですが、つぶやき、議論、曲がったこと、よこしまなことから救われるのはとても難しいのです。わたしたちはひどい罪を犯さないでしょうが、日ごとになおも、パウロがピリピ人への手紙第二章に列記した消極的な事に悩まされています。わたしたちはひどい罪からだけでなく、さ細に見える罪、つぶやきや議論などからも救われる必要があります。責められるところがなく、たくらみがないことを願うなら、わたしたちは常時の救いを必要とします。
このようにして、わたしたちを救い得る唯一の方は、手順を経て、すべてを含む、命を与える、複合の霊と成られた三一の神です。今日わたしたちの神は、そのようなすべてを含む霊です。このすばらしい神は今わたしたちに内住して、内側で働き、活気づけ、活動し、わたしたちを日ごとに救う機会を求めておられます。
神の救いの二つの面から言えば、第一に、キリストは十字架上で死んでわたしたちを救われました。第二に、わたしたちが彼に信頼するなら、全能の方として、彼は天にいて、極みまでわたしたちを救うことができます。ピリピ人への手紙でさらに、わたしたちは主イエスがいかに実際的にわたしたちを救われるのかを見ることができます。わたしたちには、特別な状況のためだけでなく、一般的な日常生活のための常時の救いがあります。わたしたちを救う方は、単に天におられる全能の方ではありません。わたしたちが救われるのは、イエス・キリストの霊の満ちあふれる供給を通して、また内住する神の内なる活動によってです。
満ちあふれる供給を与える神を通して
常時の救いを享受する
今日、わたしたちの神は主観的です。神はわたしたちの内なる供給となって、いかなる特別な状況の中でも、彼の豊富をもってわたしたちを支えてこられました。その豊富のすべては今、その霊の満ちあふれる供給の中でわたしたちの分け前です。この満ちあふれる供給を享受する時、わたしたちは自然に自分の特別な状況から救われます。さらに、この霊は、わたしたちの中に住む神であって、わたしたちの内で活動し、わたしたちを日常生活の一般的な状況から救われます。
ピリピ人への手紙第一章には、すべてを含む、命を与える、複合の霊があり、第二章には、手順を経た神があります。今日わたしたちの神は、もはや単にわたしたちの礼拝の対象ではありません。手順を経た方として、彼はわたしたちの中に住んでおられます。神はもはや手順を経ていない、「生の」神ではありません。手順の各段階を経過して、彼は今わたしたちの経験と享受のために、わたしたちの霊の中に住んでおられます。ハレルヤ、わたしたちは手順を経た神を分け前として持っています! 彼はわたしたちの内で活動して、日ごとにわたしたちを救っておられます。最後に、彼ご自身がわたしたちの常時の救いとなられます。
実は、わたしたちの内で活動する内住の神は、すべてを含む霊、イエス・キリストの霊です。彼がそうであるので、わたしたちは神を系統化することはできません。この神はキリストであり、またその霊です。わたしたちの常時の救いの源は手順を経た神であり、彼はすべてを含む、命を与える、複合の霊です。わたしたちにこの霊があるなら、満ちあふれる供給があります。わたしたちが手順を経た神を持つなら、内なる活動があります。この供給と活動が、わたしたちの常時の救いの源です。
このすばらしい源によって、わたしたちは特別な状況や日常生活の一般的な状況の中で日ごとの救いを経験します。このようにして、わたしたちは、つぶやき、議論、曲がったこと、よこしまなことから救われます。これは理論ではありません。それは実際的であり、日常生活の中で経験できるものです。この常時の救いを享受する時、わたしたちはキリストを生きます。わたしたちは日常生活の中で常時の救いを享受することによって、キリストを生きます。
記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第6期第4巻より引用