クリスチャンが神を信じることは、 唯物論か、それとも唯心論か?

福音メッセージ

宇宙の存在や人生の意義に対する、哲学上の二大学派は唯物論と唯心論です。クリスチャンは、この問題を聖書からどのように見ているのでしょうか?

唯物論とは
唯物論は、宇宙には物質しかなく、物質が第一で精神が第二であることを主張します。この世界の統一性は物質においてであり、物質の存在が意識を決定し、人の思考はすべて物質に従っています。もし物質が存在しなければ、思考や意識も存在しません。ですから、宇宙には悪鬼も神も霊も魂もなく、ただ物質があるだけです。人の思考や意識は、物質世界の、ある発展段階における自然な産物にすぎません。人の意識、人の精神は、物質的な存在の反映にすぎません。これが唯物論です。

唯心論とは
もう一つの学派は唯心論です。それは物質世界の存在を否定し、個人の感覚や意識こそが世界の源であり、それが第一に重要であると考えます。また、唯心論者が信じていることは、人が考え思うことが現実であり、人は考え思うことで、すべてを決定するということです。人の思うことだけが頼りになるものであり、外側の物質的なものはすべて空虚であり、偽りであるとしています。中国の明の時代の思想家である王守仁は、「天下には心の外には何もない」と言い、十七世紀の英国の哲学者、ジョージ・バークレーも「存在は感知されるものだ」と言っています。これらはすべて、典型的な唯心論です。

聖書による分析
聖書によれば、人には霊、魂、体の三つの部分があります。一番外側にあるのが人の体、その内側にあるのが人の魂、そして一番奥深くにあるのが人の霊です。内側から外側へ向かって言うならば、霊、魂、体です。中国人はよく霊魂という言葉を使います。実際には魂と霊は一つのものではなく、霊は霊であり、魂は魂です。人は霊、魂、体という三部分を持っています。ですから、人の外側の世界に対する感知もまた三つの側面、三つの段階があります。人の体は、外部の物質世界を感知するのに、もっぱら用いられます。人の魂は、心理的な面、すなわち精神世界を感知するのに用いられます。人の最も深い所には、霊というものがあります。それは神と神に属する事柄を感知するため、すなわち神聖で奥義的な領域を感知するために用いられます。つまり、人には三つの部分があって、外側の三種類の客観的な存在の領域を認識することができるのです。

クリスチャンは、物質の存在も精神の存在も否定しません。クリスチャンは、人の霊の存在、つまり人の霊が神に接触できるということをさらに認めています。したがって、クリスチャンは最も客観的であり、また最も科学的であり、人に対する分析も完全であり、外部の客観的世界に対する認識も最も包括的です。人には体だけがあり、自然界には物質だけしかないと考えるのは非常に表面的で愚かなことです。そして人には心や精神といった精神世界だけしかないと考えるのもまた愚かなことです。

聖書の啓示によれば、人には三種類の感知する能力があり、外部の客観的な存在には三つのレベルがあります。物質的な世界の存在、精神的な世界の存在、さらに神の存在、すなわち神聖で奥義的な領域の事柄があります。客観的な存在を知るためには、この三つの面の認識が必要です。もしわたしたちが物質的な世界だけしか認識していないなら、わたしたちはとても浅薄です。しかし、さらに一歩進んで人の精神的な世界を認識したならば、それは少し深くなったと言えます。しかし、わたしたちが人の霊を認識していないなら、また神を認識していないなら、わたしたちはやはり、客観的な存在に対しての全面的な認識を持っていないということになります。

物質世界の認識、精神世界の認識、そして神に対する認識というこの三つの基本的な認識を持つために、神は人に三つの部分を造られました。人の中にある霊は、もっぱら神に接触するために用いられます。人はその霊を用いて、宇宙を創造した神を認識しなければなりません。人の最も深く、最も高く、最も究極的な追求とは、神と神聖な事柄に関する追求です。人は食べるもの、着るものに不足しているなら物質的なものを追い求めるようになります。しかし、これらの問題が満たされたなら、人は知識、娯楽、文学、芸術など、精神的な楽しみを追い求めるようになります。しかし、人がこれらのものを手に入れ、それを享受しても、人の心の奥深くには言いようのないむなしさがあります。このむなしさは、人の霊の中から発せられたものです。そのむなしさが、神に対する渇望、神に対する追求となります。

したがって、唯物論も唯心論も、どちらにもその根拠がありますが、自然界を包括的に認識できているというものではありません。それは自然界を一面から観察し、認識できたものを根拠として提示された学説であって、包括的でなく、不正確です。

「物」が存在しているのは事実です。しかし「唯物(物だけ)」であることは根拠に欠けます。「心」もまた存在しているのは事実です。しかし「唯心(心だけ)」と言うのは、荒唐無稽なことです。人が完全で、包括的で、充実した人になろうとするなら、人は必ず神を認識しなければなりません。もし人が神を認識せずに、ただ外側の物質的なものを追い求めるなら、それは非常に浅薄で、堕落しています。より高いものを追い求めたとしても、満足を得ることはできません。唯一、人が神を得て、神を享受してこそ、人の霊、魂、体は真に満足を得ることができるのです。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第6期第8巻より引用

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