むなしい人生が詩歌に変わる

福音メッセージ

伝道の書 第1章2節―3節‥
「空の空、伝道者は言う.空の空、すべては空である。
日の下で行なうすべての働きで、人は何の益を得るだろうか?」

エペソ人への手紙 第2章12節‥
「その当時、あなたがたはキリストから離れ、イスラエルの国籍から
除外され、約束の契約についてはよそ者であり、この世の中で
希望もなく、神もない者でした。」

聖書は神の救いの記録

人生のむなしさ

人生の意義と目的

人は神の道を得る

神はわたしたちにとってすべてである

聖書は神の救いの記録
聖書は単なる経典ではなく、神の救いを最も明確にはっきりと記録したものです。この本、聖書は、福音は神の力であり、すべて信じる者を救うとわたしたちに告げています(ローマ人への手紙 第1章16節)。わたしたちの経験においてもこれを証明できます。主の救いは実に不思議です。死から命へと人を救い出すだけでなく、人のすべてとなり、神のさまざまな祝福を人に与えます。それ以外にも、聖書は、主イエスのところへ来る者をすべて極みまで救い、彼らがつまずかないように守ることをわたしたちに見せています(ヘブル人への手紙 第7章25節ユダの手紙 第1章24節)。主は、わたしたちをさまざまな苦しみの中から救い出し、彼の命の祝福と平安をわたしたちに与えます。

目次に戻る

人生のむなしさ
わたしたちはどのような人でも、人生の味わいというものを少しは味わっているでしょう。わたしたちの少しの人生経験の中でも、人生はさまざまな苦しみや悲しみに満ちていることを身にしみて感じていると思います。しかし、人に最もやるせなく感じさせるのは、その人生の結末というのがむなしいということです。生きている時に成功し、地位を得、楽しんでいたとしても、その最終的な結末はやはりむなしいものです。マケドニア王国のアレキサンダー大帝はヨーロッパからアジア、アフリカを横断する大帝国を築きましたが、彼が死ぬ間際に、彼の部下たちに「わたしが死んだ後には、わたしの棺の両側に穴を開けて、わたしの両手が棺から外へ出るようにしなさい。両手には何も持たせずに、街をめぐり、人々にわたしがどのように空手でこの世に来て、また空手のままこの世を去ることを見させなさい。すべての栄華、富、金銀財宝、名声などを、何も持って行くことはできない!」。これはまさに人生のむなしさの極みを描写しています。

どの人の奥深くにも、何とも言えないむなしさと満たされないという感覚があります。またある人は忙しすぎて、むなしさを感じないかもしれません。またある人は故意に、自身を忙しくすることで、むなしいという感覚を消し去ろうとしています。しかし人がいったん落ち着くと、むなしいという感覚がすぐさま湧き上がってきます。実際に、どの人にもむなしい感覚というものはあるものです。また裕福な人は貧しい人に比べるとさらにむなしさを感じています。教育程度の高い人ほど、教育程度の低い人と比べよりむなしさを感じています。なぜなら、人がお金を持っていない時は、お金があれば良くなり、問題も解決されると思い、お金儲けが彼の人生の目標と方向性となるからです。しかし、彼がそれを成し遂げた時に、それはそれだけのものであり、むなしい感覚がさらに増し加わります。またある人は学問を追い求め、知識を目標とします。大学へ行き、一つの博士号だけでは満足できず、第二の博士号を取ります。しかしそれを得た時には、これらは彼の奥深い所にあるむなしさを満足させることができないことを見いだします。ですから、西洋の哲学者たちは、「人生には二つの大きな悲劇がある。その一つは『望むが、得られない』ことであり、もう一つは、『望んだものが得られる』ことである」と言っています。そのものを得た後の、何とも言えないむなしさは、耐えきれず、すすり泣いてしまうほどのものとなります。ある人は自殺してしまい、またある人は逃れるために出家する人もいます。

青年たちは、まだ人生のスタート地点にいるので、むなしいという感覚はあまりないかもしれません。学位を取った後や、ある地位を得、物質的な富を得、精神的な楽しみも得、名誉を手に入れた時に、すべてのことがむなしいと感じます。それは聖書の伝道の書で以下のように言っている通りです、「空の空、伝道者は言う.空の空、すべては空である……わたしは日の下で行なわれるすべてのわざを見たが、見よ、すべては空であって、風を捕らえるようなものである」(伝道の書 第1章2節―3節、14節)。

なぜ人生はこんなにもむなしいのでしょうか? なぜ人生における、すべての事柄の結末で、こんなにもむなしさを感じるのでしょうか? 簡潔に言えば、人がむなしさを感じるのは、人が内側に神を持っていないからです。ですから人生におけるすべてのものは、人を満足させることができません。これらの事や物は人生の意義ではなく、ただ神だけがそうであうからです。ですから、人が神に欠けるなら、人生は意義に欠け、そしてむなしさを感じるようになります。

目次に戻る

人生の意義と目的
いわゆる物というのは用途があります。すべての事物には、その専用の用途というものがあります。では、人の用途というのは何でしょうか? なぜ人は宇宙の中に存在しているのでしょうか? 哲学者たちは彼らの力を一生費やしてもこの問題に答えることができません。わたしたちは聖書に戻る時に、簡潔にまた直接的に、この人生に対する答えを得ることができます。聖書はわたしたちに言います。人は神の創造のためです。人生の目的は、他のもののためではありません。それは神の器として、神を入れ、神を表現するためのものです。ローマ人への手紙 第9章23節から24節は、「しかも、栄光へとあらかじめ用意しておられたあわれみの器に、彼の栄光の豊富を知らせようとされたとすれば、どうなのですか? 神はわたしたちをも、ユダヤ人の間からだけでなく、異邦人の間からも召されたのです」と言います。

しかし、人というこの容器は神を入れなければ、多くの他のもの、金銭や、学問、財産、享楽、名声、地位、成功等を入れてしまいます。ちょうどある詩歌では、「この世は巨大であって、わたしの心は小さいのですが、巨大なものが小さいものを満たすことができません。小さい心の必要は、ただキリストだけが満たすことができます」と描写されています(詩歌437番、第3節――全訳詩歌)。わたしたちの心は小さいのですが、全世界を入れたとしても、それでも満足ができません。なぜならわたしたちが造られたのは、外側の物質の世界のものを入れるためではないからです。わたしたちが造られたのは、完全に神を入れるためです。

人は彼のその用途を間違っています。ちょうど、ある物がもともと持っていた機能と用途を失ったかのようです。例えば、天井に多くの電灯がありますが、これらの多くの電灯の用途とは、電気の器として電気を中へと入れ、そして光を出して輝くことです。電灯にこのような機能がないなら、それは廃棄物と同じようなものとなってしまいます。もし電灯が感覚を持ち話せるとしたなら、彼はわたしたちに非常にむなしく、この世には何の意義もないと語るでしょう。しかし、もし電気が電灯の中へと入ってきて、輝き照らすならば、それはその機能を果たしていることになります。その時、電灯はすぐに、「これがわたしのすべきことです。電流が流れ、わたしが光り輝きます。これがわたしの存在する真の意義です。こうであってこそ、わたしは真の満足を得ます」と言うでしょう。

人は、自分の用途を間違っているので、舵のない船が海で漂っているように、その方向性や、目標、中心を見失っています。東へ西へと漂います。探そうとしますが、方向性がなく、目標が定まりません。試練に遭えば、対応できず、誘惑に遭えば、それに打ち勝つことができません。腐敗した事柄に出合うと、その影響を受けてしまいます。これらのことのすべての原因は、人の中に神が欠けているからです。人が神を入れていないと、人生に意義がないだけでなく、ふらふらとさまよい、目標と方向がありません。内側の満足を失うだけでなく、外側の目標を失い、そして内側の心の深みで疑問を持ち、「わたしが人であるのはなぜでしょうか? わたしという人の宇宙における存在は何なのでしょうか?

わたしは今日ここで何をするのでしょうか? また将来どこへ行くのでしょうか? また、わたしの結末はどのようなものなのでしょうか?」と言うでしょう。わたしたちは、これらの問題に答えることができません。なぜなら、わたしたちの中には中心となられる方、主がいないからです。わたしたちが神を得たならば、この問題へのはっきりとした回答を持つでしょう。

人は神を入れ、神を表し出す電灯のようなものです。人の中に神が流れると、その人の中には満足、喜び、平安があり、また人生がとても意義あるものと感じるようになります。逆に、人の中に神を入れず、神への用途を失うなら、安息と満足を持つことができません。これが人のすべての問題の根本的原因です。人が正しくなく、家庭が不和であり、社会に秩序がないそのすべての原因は人が内側に神を入れていないことにあります。人の中に神がいないので、人の個人的な生活が正しくありません。家庭の中に神がいないので、その家庭は円満ではありません。社会の中に神がいないので、社会は乱れ、調和がありません。すべての問題点は、神に欠け、神がいないことにあります。神がいるならば、人生のすべての問題に解答を得ることができます。すべての難しい問題が解決します。

詩歌(わが命に大変化あり)習志野に在る教会作成

241主、はいり来てのち

万物を創造された神は、彼の形にしたがってわたしたちを創造されました(創世記 第1章26節)。ただ神がわたしたちの中へと入ることで、わたしたちは真の満足を得ることができ、内側のむなしさを徹底的に消し去ることができます。もしこの神が入ってこられないなら、わたしたちは永遠に満足することはできません。ですから、むなしさの感覚を消すには、他の方法はありません。ただこの方、神を受け入れ、わたしたちの中へと入っていただくことです。

テサロニケ人への第1の手紙 第5章23節は「……あなたがたの霊と魂と体とを守って……」と言っています。人は神の器です。この器は霊と、魂と、体の三部分を含みます。体は、物質の領域のもので、それを用いて物質の世界の事物に触れるものです。それは最も浅い層のものです。魂は精神的なもので、心理の領域のものです。これを用いて少し深い精神の世界の事物に触れます。霊は人の最も深いところのものです。霊的な領域の物で、神の事物に触れます。

人の物質的な体の必要は食事、衣服、住まいです。人がこの衣食住に満ち足りれば、人はつぎに精神的な娯楽や、文化的な生活、芸術や音楽など追い求め始めます。しかしそれでも満足しません。なぜならこれらのものは人の魂の中へと入れられるものだからです。人の霊はまだむなしいままです。人生の最高の追求、人生の究極的な追求は、神を追い求めることです。それは人の霊からのものです。人の霊の中でこの神を得て、この神で満たされ、さらに進んで魂が満たされ、また全体が満たされる時に、人は真に満足を得ることができ、真に喜びを得ることができます。

古い言葉で、「人が万物の霊である」という言葉があります。人は万物の霊であるのは、人の中に霊があるからです。この霊は神と交わり、通じ合える器官のことを言っています。ヨハネによる福音書 第4章24節で、「神は霊である……」と言っています。人に霊があるのは、神が霊だからです。この神の霊は人と交わり、交流ができるためのものです。そして神は人に霊を造りました。人の中のこの霊は、神と接触するためのものです。

どのような民族でも、肌の色でも、人であれば、神を礼拝するという傾向と観念があります。すべての生き物の中で、ただ人だけが神を礼拝する必要があると感じています。わたしたちは、牛や馬が神社に行き神を礼拝したり、猫や鳩が、神のようなものを持ち出して礼拝したりしているのを見たことがありません。しかし神を礼拝するという観念は、古くから人の間にはとても普遍的なものとなっていて、未開の地の土着民でさえ、火を起こし、それを神として拝んだりします。

科学が進歩、発達した今でも、人は依然として神を礼拝するという観念から離れることはできません。教育を受けていない人たちだけが、神への畏敬の思いで満たされているだけでなく、有名な科学者、例えばアインシュタインも、神を礼拝するという思想に満ちていました。かつて、アインシュタインは「もしわたしの頭脳に神はいないと言わせようとするなら、それはわたしの頭脳に対する批判、嘲笑のようなものです」と言っています。

電灯をともすには、電灯に電気が通ることと、内側にもフィラメントが必要です。それは電気を吸収し、電気を放ちます。人の中の霊もこの電灯の中のフィラメントのようなものです。人は神と接触し、受け入れ、輝き、神を表現します。もし電球の中のフィラメントが切れてしまうと、いくら外側のガラスをきれいに拭いても、光を放つことはできません。同じように、ある人が外側で各種の物質面を享受し、また精神面でも各種の娯楽を持ったとしても、彼の中の霊に問題があると、神と接触できず、彼はやはりむなしく、満足がない人のままです。

目次に戻る

人は神の道を得る
では、人はどのようにして神を得ることができるのでしょうか? 神はわたしたち一人一人から遠く離れておられるのではありません。言葉はあなたに近い、あなたの口の中に、またあなたの心の中にあると聖書は言っています。(使徒行伝 第17章27節、参考、ローマ人への手紙 第10章8節)。人は堕落し、神から遠く離れたので、神は自らこの地上へと来られ、一人の人と成られました。その名前はイエスと呼ばれました。彼は失われた人を探し、救いました。彼は地上で三十三年半、生活されました。最後に人の罪のために十字架上で死なれましたが、また死から復活され、天へと昇られ、命を与える霊と成られました(コリント人への第1の手紙 第15章45節後半)。そして彼を信じるすべての者たちへとやって来られました。

これは不思議な出来事です。どのような時でも、またどのような場所でも、ただわたしたちが心を開いて主イエスの名を呼び求め、心の中で彼を救い主として受け入れるなら、わたしたちはすぐに彼を得ることができます。わたしたちの内側ですぐに変化が起こります。かつてわたしたちの内側は暗やみでしたが、光を得ました。かつてわたしたちの内側は苦痛で満ちていましたが、平安で満たされました。かつてわたしたちの内側は弱く救いようのないものでしたが、すぐに力強いものとなりました。これらはみな、わたしたちが主を受け入れて、内側の中心、安定した力を持ち、わたしたちが喜びのある人生を持ったからです。主イエスはわたしたちの中へと入って来られ、わたしたちの人生を調整し、わたしたちの内側の必要を満たし、積極的な結果をもたらします。これは何か空論や言い方だけというのではなく、ある霊的な実際があるものです。それは宇宙での真実です。この方、神は霊です。彼は人の中へと入られます。人に霊の中で満足を得させます。傷ついた心を喜びへと変えます。暗やみの人生を光り輝くものとします。

初めて福音を聞いた人は、よくこのような疑問を持ちます。「信じて、主を受け入れるのは、本当にそんなに簡単なのですか?」。そうです、本当にそのように簡単なのです。あなたはそれをおかしく思う必要はありません。太陽の光は、人の必要ですが、しかし太陽の光を得ることはとても簡単ではないでしょうか。また、空気も同じように人には不可欠のものですが、それを得ることはとても簡単ではないでしょうか。この神という方は、人にとってさらに必要です。今日、神を得ることは、あなたが考えるよりもはるかに簡単なのです。人が最も必要としているものは、往々にしてとても簡単に手に入れることができます。わたしたちは次のように祈ることができます。「主よ、主イエスよ、わたしはとてもむなしいです。わたしにはあなたが必要です。わたしの中へと入ってきてください。わたしの中へ住んでください。わたしを満たしてください。主よ、あなたに開きます。わたしは本当にあなたが必要です」。わたしたちがこのように祈り、主イエスの御名を呼び求めるなら、内側はすぐに真の満足で満たされます。このことは神が彼の言葉を用いてわたしたちに保証されていることなのです。ローマ人への手紙 第10章12節から13節は、「彼を呼び求めるすべての者に、彼は豊かです.なぜなら、『主の御名を呼び求める者はすべて救われる』からです」と言っています。わたしたちが深みから「おお、主イエスよ」と呼べば、主はわたしたちに豊かです。

目次に戻る

神はわたしたちにとってすべてである
神はわたしたちにとって太陽の光のようです。彼がいなければ、わたしたちの中は暗やみです。わたしたちの人生もまた暗やみの中にあります。この神という方は、わたしたちにとって食糧のようなものです。彼がなければ、わたしたちは満たされることがなく、むなしさを味わいます。この神という方は、またわたしたちにとって生ける水のようです。彼がなければ、わたしたちは渇き、不快さを覚えます。この神という方は、わたしたちにとって、また命です。彼がなければ、わたしたちは死んでしまったかのようになります。

要するに、神がなければ、人は暗やみの中にいて、飢え、渇き、失望していて、すべてが影を捉え、風を捕らえようとするようなものです。神を持てば、人生はむなしくなく、満足があります。なぜなら人が必要としているのは、神だからです。人が頼れるのも神だからです。神を持てば、人はすべてを持ちます。神を持てば、むなしい人生が詩歌へと変わります。

目次に戻る


日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第1期第1巻より引用

;

タイトルとURLをコピーしました