義、聖、栄光を着る

真理

創世記第三章の終わりで、わたしたちは、
神が三つのもので、命の木へと至る道を閉ざしたことを見ます。
それはケルビムと火と剣です。
ケルビムは神の栄光を表徴し、火は神の聖を表徴し、攻撃に使う剣は神の義を指しています。
義と聖と栄光は、神の三つの性質です。
罪のある者は、この要求に達することができず、命の木としての神に触れることができません。
では、大祭司は何によって、神の義、聖、栄光の要求を満足させ、至聖所へと入ることができ、
神の臨在の中へと入ることができたのでしょうか?

キリストはわたしたちの義である
アダムとエバがエデンの園の中で罪を犯してから、彼ら二人の目は開かれました。そして自分たちが裸であることを知りました。「そこで彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちのために腰を覆うものを作った」(創世記第三章七節)。神は彼らを探し出して、彼らのために別の覆うものを作られました。「エホバ・神は、アダムとその妻のために皮の衣を作り、彼らに着せられた」(二一節)。人は罪を犯した後には、神の御前で覆われる必要があります。これらの衣服の目的は覆うためのものです。人が神の御前で見る必要があるのは、人は適切に覆われなければならないということです。

神はおそらく、羊の皮を用いて衣服を作られました。この羊を用いて、罪のあるアダムとエバの代わりに犠牲の血を流させ、彼らの罪を赦されました(ヘブル人への手紙第九章二二節)。神によって殺された羊は、神の小羊―キリストを予表しており、彼は罪人の代わりに死なれ、彼の尊い血が流され、神の義の要求を満たしました。神はこの血を根拠として、キリストを信じる罪人を義とすることができます。このように、福音を信じる時、わたしたちはキリストを衣服のように着て、わたしたちを覆う義とします(参考、ルカによる福音書第十五章二二節)。主イエスは罪人の救い主となられました。彼の死は、サタンを打ち砕き、堕落した人を贖い、また人を神の御前で義とし、人に義認を得させます。

皮を用いて作られた衣服は、わたしたちが得た贖いと、また主イエスご自身を表しています。ですから、わたしたちが衣服を着るたびに、その中にキリストを見て、救いを見る必要があります。わたしたちは、神の御前では裸でいる者のようです。何も覆うものがありません。神の光から逃れることができません。神の裁きから逃れることができません。しかし、今、わたしたちは神の御前で神の救いを着、キリストを着て、わたしたちの義としました。それは適切なおおいとなりました。

祭司の着る衣服は、亜麻布で作られ、精工に、細やかに縫い合わされ、裂け目が一箇所もありませんでした。なぜなら、神は彼らが体のどの部分も露出することを願われないからです。祭司は神の御前で少しでも体を露出することを許されていません。手、足、頭以外は全身が覆われている必要がありました。ですから祭司の上服は特に長く作られていました。祭司はまた、亜麻のももひきで、彼らの裸の肉を覆っていました(出エジプト記第二八章四二節)。衣服は人を完全に覆います。祭司が着た亜麻の上服はキリストご自身がわたしたちの義として、わたしたちが彼のおおいの下にあることを描写しています。わたしたちは、この事において経験上の認識を持たなければなりません。

もし、わたしたちが召会の中で、一人の非常に柔和で、へりくだっていて、義であり、善である兄弟に出会ったとしましょう。彼は生まれつきそのような人であり、それは救いとは何の関係もありません。彼が召会へと入って来た時、ある人は、「この兄弟はすばらしい、彼が救われる前から、今日と同じようです!」と言うかもしれません。考えてみてください。この兄弟は、キリストを彼の上服としているのでしょうか? 当然、そうではないでしょう。その兄弟のすべてというのは、彼自身の義、天然の善良にしかすぎません。あなたは、彼の柔和さにおいて、へりくだりと義において、キリストの現れを見いだすことはできません。彼の行ないや、振る舞いの中に、キリストのそのような甘い香ばしさを感じることはありません。この一人の良い兄弟は、良い性格を持っていますが、彼の行ないにおいて、キリストの甘い香ばしさに欠けています。しかし別のクリスチャンたちの、柔和さの中には、確かにある種のキリストの甘い味わいがあり、あなたは、キリストの香ばしい味わいを感じます。ある兄弟のへりくだりの中には、あなたは、高ぶりしか感じず、キリストを感じません。ここで言っていることが何であるのか、あなたは見ることができるでしょうか?

わたしたちの上服は、わたしたちの義としてのキリストの表現です。わたしたちは、わたしたちの柔和、へりくだり、義、善良さを表現するのではなく、キリストをすべてとして表現しなければなりません。わたしたちは、柔和でなく、ただキリストだけを知る必要があります。へりくだりでなく、キリストだけを知る必要があります! これは、わたしに対しては、一つの深い学課です。わたしたちは、わたしたちの天然の柔和、へりくだり、正直さを捨てることを学ばなければなりません。そうしてこそ、キリストは、わたしたちから流れ出て、わたしたちのおおい、わたしたちの義となる道を持つことができるようになります。

キリストがわたしたちの聖となる
旧約の中の祭司は神に仕える人であり、必ず、祭司のために設計された衣服を着なければなりませんでした。それは今日の軍隊の中で服役している人が、決められた軍服を着なければならないようなものです。同じ原則で、祭司を表現する祭司の衣服は、彼らの資格でした。もし祭司が他の衣服を着ていたなら、祭司として神に仕える資格はありません。出エジプト記第二八章三節は、「それは、彼らがアロンの衣を作り、彼を聖別して、彼をわたしに祭司として仕えさせるためである」と言っています。この節の「聖別して」は、彼の唯一の目的のために、分離して神に帰することです。祭司の衣服は、祭司を聖別します。これらの衣服は、彼らを他の人たちから分離するためです。

仮に大祭司が彼のすべての衣を着てあなたの前に立っていたとします。あなたは長い上服、エポデ、肩当て、胸当て、巻ききんを見るでしょう。巻き頭きんの上には「エホバに対して聖」と彫られた金の記章があるでしょう。確かにあなたは聖という事柄に印象づけられるでしょう。聖は大祭司の衣のしるしであり、金の記章に刻印されてさえいました。ですから、大祭司の衣全体は神の聖を表徴します。大祭司が着ける聖なる冠にある金の記章は、彼らが聖別されて主のものであることを宣言するものです。彼の額にあるものは、すべての天使に、悪魔に、全宇宙に、彼らが聖別された主のものであることを宣言します。「エホバに対して聖」という記述は彼のしるしであり、宣言です。彼の全存在が彼は聖別されて神のものであることを宣言しています。

新約の光の中で、わたしたちは、真の聖別は地位上の変化だけではなく、性質上の変化も含んでいることを見ます。聖と性質は関係しています。神の神聖な性質は聖です。聖はわたしたちの中に加えられた神の成分です。ペテロの第二の手紙第一章四節では、わたしたち救われた人は、神の性質にあずかる者であると言います。なぜなら、わたしたちは再生し、神の命を持ち、また自然に神の性質を持つからです。命とは生活するときの本質的な力を言っており、性質とは生活するときの味わいのことを言っています。わたしたち救われた人は、なぜ天的なものを好むのでしょうか? これが神の性質と味わいだからです。なぜクリスチャンは聖を好むのでしょうか? それが神の性質と味わいだからです。なぜ、わたしたちは高ぶるとすぐにつらくなり、へりくだると心地良いのでしょうか? これもまた神の性質と味わいです。なぜ、クリスチャンが他の人のものをむさぼると苦しくなり、人に与えると喜びがあるのでしょうか? これもまた神の性質と味わいです。これらはみな、性質と味わいの問題です。神の命は、わたしたちの中で、生活の力です。神の性質はわたしたちの中で、わたしたちの生活の味わいとなります。

ある兄弟姉妹は、実際に聖別された生活をし、聖なるものを持っています。彼が救われたその日から、神の成分が少しずつ、彼の中へと加えられていき、彼はこれも要らないし、あれも行ないません。彼が表現するものはすべて、超越したものです。彼は日々新しくされるだけでなく、時々刻々と新しくされます。彼のこの新しさは、外側のものではなく、内側で成長したものです。わたしたちは、この世の人と分離され、識別されなければなりません。しかし、これはイエスを信じると、なにか名札のようなものが体に着けられて、宣言して、「わたしはイエスを信じた、わたしはクリスチャンである、わたしは、みんなとは違っている、わたしは非凡で、超越している、世俗的な者から遠く離れたものである」と言うものではありません。この分離は聖別ではありません。クリスチャンは、その内側にもう一つ別の成分、この世の人にはないものがあるので、他の人とは違っているのです。わたしたちは救われた日から、主の命を持ちます。霊がわたしたちの中にあります。生活の中で主に向かって自分を開き、毎日、主を受け入れ、彼の神聖な成分を、わたしたちの内側へと加えていきます。そうして、わたしたちはさらに他の人と違うようになり、わたしたちは聖とされます。この世の人、天使とサタンの前で、わたしたちは大祭司の冠にある金の記章のように、わたしたちの表現としての、この聖なる証しとしてのしるしを持ちます。

キリストがわたしたちの栄光となる
出エジプト記第二八章二節は、「あなたの兄弟アロンのために、聖なる衣を作って、栄光のため、また麗しさのためとしなければならない」と言います。「栄光」と「麗しさ」のこの二つの句は、すべてを含みます。予表によれば、衣服は表現を表徴します。その祭司の衣服は、栄光と麗しさのためです。栄光と麗しさは表現のためです。ここで、祭司の衣服に用いられる三種類目の材料―宝石について注意します。宝石は、神の原始の創造によるものではなく、被造物が長い時間を経過して、地底において、高圧、高温の下で、性質上の変化を遂げ、生み出されたものです。ですから、宝石は神の造り変えの働きを通して、生み出された結果です。これは神によって造られた人が良くて、美しいのですが、神の栄光を表す宝石となる資格が十分ではなく、人は罪を犯し、神の栄光と聖に違反し、神の表現がありません。それだけでなく、罪と罪のある自己を表現し、神の栄光に欠けます(ローマ人への手紙第三章二三節)。

アダムは土で造られました。わたしたちの旧創造はアダムから出ています。性質は土からのものですが、わたしたちが救われ再生した時、神聖な命、性質、要素と本質がわたしたちの中へと分与されました。土から造られたわたしたちを、命、性質、本質、要素において、また形状、外側の現れ、そしてわたしたち全体のすべての面において造り変え、神とならせ、神の栄光の表現とします。この栄光なる神が、わたしたちの中で、命となりますが、わたしたちはさらに造り変えられる必要があります。「栄光から栄光へ、主と同じかたちへと徐々に造り変えられていきますが、それはまさに主なる霊からです」(コリント人への第二の手紙第三章十八節)。

わたしたちは、自然界の中の宝石でこの造り変えを説明することができます。宝石は天然の要素、あるいは単一の化合物が結晶化してできたものです。天然の土、石、木などが高温を経過して、不純物が取り除かれて、圧力によって、これらの純粋な物質が規則正しく配列されることによって結晶化し、宝石となります。宝石の成分は純粋であればあるほど、透明度が高く、価値が高くなります。これは、造り変えを啓示します。わたしたちは、キリストを内側へと増し加え、天然や古いものに置き換え、キリストがわたしたちの中で拡大され、わたしたちの天然の命を減少させます。わたしたちの天然の存在の古い要素が取り去られ、復活し、栄光化されたキリスト、この命を与える霊が、新しい要素として、わたしたちの中へと増し加えられ、天然の要素と置き換えられて、わたしたちは造り変えを経験します。それだけでなく、わたしたちは、霊によって生き、霊によって歩きます(ガラテヤ人への手紙第五章十六節)。またミングリングされた霊にしたがって歩きます(ローマ人への手紙第八章四節後半)。キリスト、神聖な命がわたしたちを規制し、主の栄光なる形へと造り変えます。その霊がわたしたちの霊と共に、ただわたしたちの中で新陳代謝的に作用し、また神聖な命がわたしたちを規制し、わたしたちの行動を規制します。このような規制は、わたしたちの中で造り変えを起こさせます。ですから、わたしたちの中では新陳代謝の作用があるだけでなく、キリストの命の規制、規律があります。これが、わたしたちに造り変えを得させ、神の栄光の表現とならせます。

ですから、顔が晴れ晴れとしていないクリスチャンはいるべきではありません。わたしたちは、栄光を得るのに将来まで待つ必要はありません。今日、この地上において、わたしたちは、まだこの卑しい体の中にいますが、栄光なる生活を送ることができ、栄光なる人となることができます。クリスチャンは栄光なる人たちです。わたしたちの経験によれば、ある時、社会的にとても地位のある人と出会ったとしても、わたしたちは彼らよりも低い者ではありません。わたしたちが外側に着ている衣服は彼らのようではなく、地位や、名声、財産も彼らには及びません。しかし、彼らの内側のすべてのものは、わたしたちには及ばないのです。クリスチャンに重みがあるのは、神がわたしたちの内側で生きておられ、わたしたちの命となり、神のかたちが、わたしたちから表現されているからです。それがわたしたちの栄光です。また、この栄光は、絶え間なく発展し、ある程度の栄光から、別の程度の栄光へと至ります。これはとても栄光なことであり、とても尊いことです。もしわたしたちが、このことを認識するなら、生活の中で、自然に尊い重みを現し出します。

完全にキリストを着る
聖書は、キリストを享受する人が、キリストを着ている人であることをわたしたちに見せています。ガラテヤ人への手紙第三章二七節は、「なぜなら、キリストの中へとバプテスマされた者はみな、キリストを着たからです」と言っています。キリストを着るとは、キリストを衣服として身に着けるという意味です。聖書から見て、神の民の中で祭司が着ているものほど完全で美しいものはありません。祭司が身に着ける上服、エポデ、胸当て、それと巻き頭きんの上の聖なる冠、その全身の上から下まで、その内と外、前後左右、すべてがキリストを予表しています。ですから、ただ祭司となった人だけが、キリストを完全に着ることができるのです。キリストは祭司たちの衣服であり、衣服は祭司の表現であり、彼らの外側での表現です。わたしたちは、内側でのキリストの経験から、外側で彼を表現するに至るように、彼を大きく表現する必要があります。キリストをわたしたちの義、聖、栄光とすることで、わたしたちは神の臨在の中を生きます。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第1期第2巻より引用