列王紀上第八章一節から八節で、ソロモンはエルサレムの聖なる宮の建造を完成し、エホバの契約の箱をシオンであるダビデの町から運び上げ、祭司たちがエホバの契約の箱を用意された場所へ、すなわち聖なる宮の最も内なるところ、至聖所の中へと運び入れたと言っています。今日、主の回復の中で、神は、キリストが彼のからだとしての召会の中で表現されるという正常な状態を回復させるために働いておられます。
旧約における召会の予表
旧約において、召会は隠されており、明文化されておらず、示されてはいませんが、イスラエル人がエジプトを出て、荒野を進み、戦い、幕屋を建て、神に奉仕し、犠牲をささげたことは、すべて召会の予表です。イスラエル人が過越の祭りを持ったのは、個人的にではなく、団体的にでした。イスラエル人が紅海を渡ったのもまた、団体的でした。彼らは荒野を進みましたが、だれも単独で行動しませんでした。彼らは毎朝マナを拾いましたが、それも団体的でした。彼らの戦うことと奉仕することはみな団体的なものでした。これは、召会の事柄が彼らにおいて隠されていたということを啓示しています。
聖書を知っている人はみな、旧約の霊が新約の実際であることを知っています。イスラエルの民が荒野を旅したとき、十二部族には順序があり、すべてある決まりに従っていました。宿営するとき、東西南北にどの部族が配置されるか、すべてはっきりとしていました(民二・二―三一)。これらは完全に召会を描写しています。神はイスラエル人を用いて召会を描写しているだけでなく、幕屋も用いて予表しています。幕屋の周りの枠板が一枚一枚と立てられ、金で覆われた横木を用いて、また金の環を用いて結び付けられていたことは、召会の中の聖徒たちが神の住まいへと建造されることの明らかな予表です(出二六・十五―三〇、エペソ二・二一―二二)。イスラエル人がカナンに入ったとき、石を用いて聖なる宮を建造しました。このことも召会を描写しています。ですから新約において使徒は、わたしたち救われた者たちも生ける石として、主の御前に来て、霊の家に建造されていくと言っています(Ⅰペテロ二・四―五)。
イスラエル人は聖なる宮を持つだけでなく、エルサレムという都を建造しました。エルサレムの都は召会の拡大の描写です。新約の終わりで、召会の最終の表現は新エルサレムです(啓第二一―二二章)。旧約には召会という言葉はありませんが、召会の予表があります。召会という言い方はありませんが、召会の事実があります。旧約では、神の働きは個人において開始され、エルサレムの都を得るという結果になりました。新約においても、神の働きは個人において始まり、新エルサレムを得るという結果となります。神は宇宙において、ただ一つの目的と目標を持っておられます。神の歴代の働きは、彼の召会を建造することです。それは新エルサレムにおいて究極的に完成されます。
キリストは神の奥義であり、召会はキリストの奥義である
神の奥義とは、神に関する事柄、神の物語です。キリストは神に関する事柄、物語です。ヨハネによる福音書第十四章八節から十節は、主を見た者は父を見たのであり、主を知ったなら、父を知ったことになるという、主とピリポの会話を弟子たちに告げています。主は父の物語であり、父に関する事柄であり、父の表現であり、父の奥義です。コロサイ人への手紙はこの奥義について専一に語っており、神はこのキリストを万物のうちで第一とすることを喜ばれます(一・十八)。キリストの中には、神たる方の全豊満が肉体のかたちをもって住んでいるからです(二・九)。神は、彼の神たる方のすべてを、神のすべての事柄、すべての物語をキリストの中に置かれました。キリストはからだのかしらであり、神の事柄、神の奥義です。
かしらであるキリスト、彼に関する事柄と物語のすべてが召会の中にあります。彼はご自身を完全に召会の中に置かれています。ですから、召会はキリストに関する事柄、キリストの奥義です。キリストのすべての物語は、召会の中にあります。人はキリストの外では神に会うことはできません。同様に、人は召会の外ではキリストに会うことはできません。人が神と会いたいなら、キリストに触れなければなりません。人がキリストと会いたいなら、召会に触れなければなりません。召会はキリストの表現であり、キリストの証しです。キリストであるもの、持っているもの、できること、行なうこと、これらすべてに関する事柄が召会の中にあります。
霊としてのキリストが召会の中にいる
神は、ご自身をキリストの中に置かれ、死と復活を経過しその霊と成りました。このように、神がキリストにおいて語られ、経過し成就されたすべてが今、その霊の中にあります。旧約の時代に、神の霊が人に臨んだとき、人の罪はまだ解決されていなかったので、その中には人の罪を赦すという要素はありませんでした。そして新約の時代になって、キリストは死に、復活し、昇天し、すべてを含む霊と成られました。この霊は人へ臨み、罪を赦す要素をもたらしました。キリストは血を流し、人を贖い、人の罪を解決することを経過されたので、その霊と成った彼は、人の罪を赦すという要素を持っておられます。今日、新約時代の究極的に完成された霊は、旧約時代の神の霊よりもとても豊かです。
キリストは、神を人に、人を神に導きます。サタンは彼によって追い出され、罪は彼によって取り除かれ、死は彼によって滅ぼされます。この世は彼の中に地位がなく、偶像は彼に触れることができず、サタンの王国は彼を支配することができませんでした。キリストはこれらすべてを通過し、これらすべてから逃れ、これらすべてを解決し、これらすべてに勝利し、神の豊かさに満ちあふれています。彼にはたくさんの物語があり、そのすべての物語を持って、その霊の中へ入っていかれました。ですから、ペンテコステのとき、聖霊(神がその中におられる)が神から下ってきたとき、その中にはこれらの要素がすべて含まれていました。
この霊は、キリストを信じる人々に臨みました。これらの人々の中にはキリストの奥義、キリストのあらゆる物語があります。彼らが一緒にいるとき、人は彼らの中に奥義の物語があることを感じます。また神と彼らが共におられ、彼らが神の中で生きていて、彼らの間にはサタンに地位がなく、罪も死も、この世も偶像も、サタンの王国にも地位がないことを感じます。これが彼らのキリストに対する証しであり、召会の証しです。
召会の証しはキリストご自身である
キリストが昇天されてからは、だれもキリストを見たことがなく、召会だけがキリストを表しています(エペソ三・九―十)。二千年の間、キリストはあらゆる場所で、あらゆる時代に、召会によって表されてきました。これが、召会の証しです。つまり、召会の証しは、真理や事柄ではなく、パースン、キリストご自身です。少しでもキリストご自身に欠け、キリストご自身でないものがあるなら、それらはみな召会の証しではありません。人々は主の証しを維持しなければならないとよく言いますが、主の証しとは神を証しし、神のキリストを表すことです。それ以外のものは、主の証しにはなりません。
クリスチャンは、召会の一の証しを維持するだけ、あるいは召会の立場の証しを維持するだけでよいと考えてはいけません。それはわたしたちの証しではありません。キリストがわたしたちの証しであり、それは神のすべての豊富が彼において現されるためです。そして、召会としてのわたしたちは、キリストの証しであり、キリストのすべての豊富、彼のすべての物語、彼のすべての事柄を召会の中で現します。人が神を知るためには、キリストを知らなければなりません。人がキリストを知るためには、召会を知らなければなりません。召会が証しし現すものは、神の証しと表現であるキリストです。
使徒行伝には、ペンテコステのとき、百二十人が一つ思いで祈り、主に仕えたと記載されています(一・十四―十五)。このような一つ思いが三千人、五千人の救いをもたらしました(二・四一、四・四)。その時、信者は一つ心、一つ魂であり、財物を共有していました(三二節)。彼らの間には、神が人と共におられ、人が神の中に生き、サタンとそのすべてには何の地位もないという状況がありました。その状況が召会の証しです。
第五章でサタンが入ってきました。アナニヤと妻のサッピラは、資産を売り、その代金の一部を自分たちのために取っておきました。彼の妻はそれを知っていました。そしてアナニヤがその一部だけを持って来て、使徒たちの足もとに置きました。そこで使徒ペテロは彼に言いました、「アナニヤよ、なぜ、あなたはサタンに心を満たされて聖霊を欺き、その土地の代金のいくらかを自分のために取っておいたのか?」(五・三)。その時点から始まり、啓示録第二章と第三章の七つの書簡までに、あらゆる種類のサタンとサタンに属するものが召会の中で現し出され、召会の証しが破壊されたことをわたしたちに見せています。
召会の証しは召会の立場の根拠である
わたしたちが召会の立場を認識するには、まず召会の証しを認識する必要があります。もしあなたとわたしが、召会の証しを明確に、正確に、徹底的に見なければ、何を召会の立場というのか、永遠に明確にならないでしょう。わたしたちの証しがキリスト、すべてを含むキリスト、すべての中ですべてを満たしているキリストであるなら、わたしたちの立場はとても容易に明確になるでしょう。わたしたちは、わたしたちが主によって起こされ、わたしたちが証しすることは、キリストご自身であることを見る必要があります。わたしたちは人々に「どれほどキリストに地位があるのか」を尋ねるべきです。わたしたちは人々の中にどれだけのキリストの要素があるのかに関心を持ち、わたしたちの間にどれだけキリストがおられるのかに注意します。
召会の証しはキリストであり、キリストの奥義は召会です。召会の証しは多くあるのではなく、絶対に一つです。この証しがどれほど多くの人に置かれたとしても、やはり一つであり、分けることはできません。この証しは一つ主、一つ霊の中にあります。多くの人において現されますが、この証しはやはり一つです。多くの地方召会を通して各地で現されますが、この証しはやはり一つです。
召会の証しが一つであるように、召会の立場も一つしかありません。召会がキリスト以外の事柄を証しの中心とするなら、さまざまな立場があるようになるでしょう。ですから、召会の立場を明確にするには、召会の証しを見なければならないのです。ただ教理や言葉だけで召会の立場を判断するのはあまり正確ではありません。召会の証しから召会の立場を見てこそ明確にすることができます。
召会が現し出すべき状況は、キリストの臨在で満ちているものでなければなりません。この証しは唯一であり、一でもあり、二つはありません。もしこのようであるなら、立場は明確です。証しが唯一で、一であるように、立場もまた唯一で、一でなければなりません。召会は分けることはできませんし、分けるべきでもありませんし、また分ける理由もありません。いかなる理由も正しくありません。なぜなら召会の証しは一つであるからです。
召会の証しの実際は聖霊の中にある
召会の証しの実際は聖霊の中にあります。これらを単なる教理として聞いたり、語ったりするのではなく、このように問わなければなりません。わたしたちはこの聖霊の中で生きているでしょうか? 聖霊はわたしたちの中で地位を持っているでしょうか? 聖霊はわたしたちの間でキリストの証しとなる機会を得ることができているでしょうか? わたしたちがどれだけの事で、どれだけの状況で、聖霊に地位を与え、聖霊の中に含まれているキリストのすべての豊かな要素を自由に活動させているでしょうか?」。これがあらゆる問題のかぎです。
聖霊が働いた分だけ、わたしたちの間にキリストの証しがあります。わたしたちの間のキリストの証し、召会の証しがどれだけあるかは、わたしたちがどれだけ聖霊に働いていただき、支配していただき、成し遂げでいただくかにかかっています。人々がそのような状況に出会うなら、「神がまことにあなたがたの中におられ、キリストが実際的にあなたがたと共におられる」と言うでしょう。人々がそのような状況に出会ったとき、神が人と共におられ、人が神の中で生き、サタンとサタンに属するあらゆるものには地位がないことを感じるでしょう。ここには、神がおられ、また人がいますが、サタンとサタンに属するものはありません。この人は贖われた人であり、対処を受けた人であり、ろ過された人です。すべての不純物、つまり最初に創造された時のものではないものがすべてろ過され、取り除かれています。
ここにあるのは、このようにろ過された人が神の中で生き、神の臨在で満ちているということです。これが召会の証しであり、実際のキリストが召会の中へとミングリングされています。すなわち、聖霊が召会の中で活動に満ちているという状況です。これはあらゆる地方召会において、あるべき状況です。これは一種の教理ではなく、主義でもなく、方法でもありません。それは聖霊であるキリストの実際の証しです。これは神の表現であり、またキリストの表現です。これは神の証しであり、キリストの証しです。神がこの時代において必要とされていることです。このことだけが、神の御旨を成就し、神の心を満足させることができます。このことだけが、神の敵を対処し、神の王国をもたらすことができます。
召会の立場と行程
信者たちが救われた後、彼らは召会の中にいるべきですが、今日の召会と初期の頃の状況とは異なっています。キリスト教では一つの地方に一つの召会ではなく、一つの地方に百の召会があり、完全に召会の一の証しが破壊されています。この状況は、旧約のイスラエルの子たちの歴史が予表しています。初めに、イスラエルは一つの国でしたが、堕落して、彼らは分裂しました。最終的には、彼らはアッシリアとエジプトとバビロンに連れ去られました。国の滅亡後、ただイスラエル人が存在し、イスラエルの国はありませんでした。七十年が満ちたとき、神はイスラエルの子たちに、捕囚の地から戻って、再び国を造るように命じられました。エズラ記、ネヘミヤ記、エステル記は、ただ少人数のイスラエルの民だけが聖なる宮と聖なる都を建て直すために帰還したとわたしたちに告げています。イスラエルがエジプト、バビロン、アッシリアなどの地にまき散らされていたとき、彼らの人数は多かったのですが、帰還したのは少人数だけでした。しかし、神の目にはそれはイスラエルの国でした。
帰還しなかった人たちもすべてイスラエル人であり、同様にアブラハム、イサク、ヤコブの子孫です。彼らはさまざまな場所に共に集まってはいましたが、彼らは捕囚の地にとどまることに執着し、神の召しに聞き従おうとせず、聖なる地に戻って神を礼拝するために代価を払おうとしませんでした。ですから、彼らの状況は荒れ果て、変質してしまっていました。捕囚の時が終わり、神はすべてのイスラエルの子たちに、正しい立場、一の立場、すなわち、エルサレムに戻るように命令されました。それで彼らは、神によって罪定めされた場所であるアッシリア、またはエジプトの中に、ましてバビロンにはとどまるべきではありませんでした。たとえ彼らがベタニヤに戻ったとしても、それで十分に良いというわけではありません。彼らは、エルサレムに進まなければなりませんでした。神の目には、エルサレムに戻らなかったイスラエル人は、イスラエルの国民ではありませんでした。同様に、神の目に、神を礼拝するために正しい立場に戻らないクリスチャンは、実際における召会ではありません。多くのクリスチャンが一緒に集会していても召会でないかもしれません。神によって定められた唯一の立場に立ってこそ、召会です。これは非常にはっきりした表徴です。
捕囚の中で、あるクリスチャンは、神の啓示を見て、彼らがその捕囚の地から帰るべきであるということを知りました。しかしながら、ある人たちは帰る必要を見ただけで、彼らが帰るべき正しい立場を見ませんでした。その結果、彼らは途中で立ち止まって、ニー兄弟が「半路涼亭(旅行者のための休憩用のあずまや)」と呼んだものになりました。ただ帰還したイスラエル人だけが、イスラエルの国民でした。彼らは神への正しい礼拝を回復するためにエルサレムに戻って、宮と都を再建したからです。その結果、神はまたシオンに戻ることができました(ゼカリヤ八・三)。今日の召会も堕落し分裂しています。予表によれば、今日、カトリックやさまざまなキリスト教の諸宗派とグループから、出て来た人たちだけが召会です。なぜなら、わたしたちが人の意見や組織から離れて、主の純粋な言葉に従って、本来のあるべき召会の立場、すなわち、一つの地方に一つの召会という立場に戻り、霊の中で集会し、礼拝し(ヨハネ四・二四)、主のために証ししているからです。したがって、すべての救われた信者たちは、変質したキリスト教の中にとどまるのではなく、正しい立場に立つ、神のみこころに符合している人たちが、神の目から見て召会なのです。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第6期第5巻より引用


