まず、神はイスラエルの民をエジプトから導き出し、荒野でさまようことを経過させ、そしてヨルダン川を渡らせ、カナンの地へと入らせました。ここには、神の救いの完全な絵があるだけでなく、この世を対処することと肉を対処することの両方を含む絵があります。新約によれば、悪魔、この世、肉は神の敵と呼ばれています(マタイ十三・二五、三九、ローマ八・七―八、ヤコブ四・四)。出エジプト記で、サタンはパロによって表徴され、この世はエジプトによって表徴され、肉はアマレクによって表徴されています。この三つの敵が対処された後、神の王国が入って来ます。
わたしたち神の選民は、この世の暴虐の下にあります。わたしたちは贖われ、救われ、解放された後に、非常に主観的な敵、すなわち肉に直面しなければなりません。この敵はわたしたちを煩わせ、占有し、破壊しようとさえします。わたしたちが、肉を死に渡す十字架の救いの経験をすることによってはじめて、荒廃と失敗の状態から脱け出すことができます。そして、キリストの豊かな安息の中へと入り、天の領域の中で、神の王国がもたらされるために戦うことができるのです。
肉の定義
腐敗した体
神が人を創造された当初、人の体の中には罪も情欲もなく、それは単に創造された体でした。しかしサタンは人に善悪知識の木の実を食べるように誘い、その実によって表されるサタンと、彼の罪深い命が人の体の中へと入り込み、人の体を変質させ、腐敗させ、肉とならせました。ですから今日、内側に罪と情欲と多くのサタンからの毒素を持つ人の肉体は、初めの人の体と比べるならずっと複雑です。
肉が腐敗した体であることを示す聖書の根拠は容易に見いだすことができます。例えば、ローマ人への手紙第六章六節は「罪の体」、すなわち罪深い体と言っています。ローマ人への手紙第七章二四節は「死の体」、すなわち死んだ体と言っています。罪深い死んだ体は腐敗した体であって肉を意味します。「罪」と「死」はサタンの命の性質です。体は罪と死を持ったために肉となりました。ですから、使徒パウロは第七章十八節で、「自分の肉の中に、善なるものが住んでいない」と言っており、また二〇節は、「わたしの中に住んでいる罪」と言っており、二一節でさらに、「わたしに、悪が共にある」と言っています。これらの節は、わたしたちの中にある「罪」や「悪」が、わたしたちの肉の中にあると言っています。パウロはまた二三節で、彼の「肢体の中にある罪の法則」と言っています。これは、その罪を犯す法則が、からだの肢体の中にあることを具体的に言っています。上記のこれらの節は、わたしたちの体は、サタンの毒素と混合し腐敗したことをわたしたちに見せています。
ガラテヤ人への手紙第五章十九節から二一節は、肉の表れ、例えば、淫行、汚れ、好色など、すべてわたしたちの腐敗した体から出て来るものを挙げています。ですから、肉の第一の定義は、わたしたちの腐敗した体です。
すべてが堕落した人
ローマ人への手紙第三章二〇節は、「律法の行ないによっては、いかなる肉も、神の御前に義とされない」と言い、ガラテヤ人への手紙第二章十六節も同じように、「人が義とされるのは、律法の行ないに基づいてではなく」と言っています。この二箇所の「肉」と「人」は、原文では「肉」です。主から見て、人は肉を持っているだけではなく、肉そのものなのです。
どのようにして、人は堕落し肉となったのでしょうか? 人が創造された直後、人の体は魂に服従しており、魂は霊に服従していました。一方で、人は霊によって神と交わりを持ち、それによって神のみこころを知り、またもう一方で、人は霊を活用して自分のすべてを支配し管理して、神のみこころに服従させていました。ですから、その時から、人は霊によって生き、霊の支配を受けていました。人がサタンの誘惑を受け入れ、善悪知識の木から取って食べたので、人は霊から堕落し、もはや霊によって生きなくなりました。同時に人の体はサタンの毒素を持ったので、変質して肉となりました。これが人の堕落の第一歩です。そしてカインは自分の好みと見方によって神に仕えたため、神に受け入れられないで罪を犯し、堕落しました。このように、人は完全に魂の中に堕落してしまいました。人は魂によって生きて、魂の人となりました。カインの後、人はますます深く堕落し、さらにひどく罪を犯しました。その結果、人の霊はだんだんなえてきて、人の肉はますます強くなりました。そしてついに霊の地位を奪い取り、人全体を支配するようになりました。このようにして、人は肉の中に完全に堕落し、肉によって生きるようになりました。ですから、洪水の前、神は人が「肉」であると言われました(創六・十三)。また神は、「すべての肉が、地上でその道を腐敗させた」(六・十二)と言われました。その時、神から見れば人は肉に属するものであっただけでなく、肉そのものでした。悪い人たちが肉であるように、良い人たちも肉です。人を憎む人は肉です。人を愛する人もまた肉です。この世のすべての人が肉なのです。ですから聖書の中で、肉は、堕落した人全体であるわたしたちを指しています。
人の良い面
肉と言うとき、ほとんどの場合、ガラテヤ人への手紙第五章十九節から二一節に述べられているような、腐敗した邪悪なものだと考えます。しかし聖書は、肉には悪い点だけでなく、良い点もあることを示しています。良い肉は良い事を行ないます。神を礼拝したり仕えたりさえします。パウロはピリピ人への手紙第三章三節から六節で、肉にあって神を礼拝し、肉を誇りとしている者たちがいることを示しています。そこで言われている肉は疑いもなく良い面での肉を指しています。そこで人は肉によって神を礼拝し、誇っています。
なぜ人には、あるいは肉には良い面があるのでしょうか? なぜなら、わたしたちは深く堕落した人ですが、それでもなお初めに創造された時の良い成分がいくらか残っているからです。ですから、わたしたちはしばしば良い事をしたり、神に仕えたいと思ったりします。しかし、肉のこの良いという一面は、結局は弱く無力で、良い事を行なおうとしても行なうことができず、神に仕えようとしますが、仕えることができません。別の面では、神から見て、堕落した人であるわたしたちは肉によって支配され、完全に肉になってしまいました。わたしたちの中から出るものは良くても悪くても肉から出たものであって、神が喜ばれないものです。ですから、わたしたち自身から出る短気や、憎悪や、神に敵対するものが肉から出るだけでなく、わたしたち自身から出る柔和や愛や神への奉仕も肉から出て来ます。良くても悪くても、わたしたち自身から出るものやわたしたちに属するものは肉なのです。わたしたちはこの程度にまで肉を知らなければなりません。そうしてはじめて肉の意義に触れ、肉が何であるかを知るのです。聖書での肉は人の良い点をも含みます。
神の御前での肉の地位
神の御前での肉の地位はどのようなものでしょうか? 肉に対する神の態度はどうでしょうか?聖書ではこのことを多くの箇所で述べていますが、ここでは最も重要な箇所だけを取り上げます。
神は肉とミングリングすることができない
出エジプト記第三〇章三一節から三二節は言います、「それ(聖なる塗り油)を人の肉に注いではならない」。聖なる塗り油は聖霊を予表し、聖霊は神ご自身でもあります。人の肉の上に聖なる塗り油を注いではならないということは、神が肉とミングリングしたり、肉と結合したりすることはできないことを意味します。
神と肉は両立できない
出エジプト記第十七章十四節と十六節は言います、「エホバはモーセに言われた……わたしは、アマレクについての記憶を天の下から完全に消し去ってしまう。……エホバは代々にわたってアマレクと戦われる」。なぜ神はアマレクを完全に滅ぼそうとし、代々にわたってアマレクと戦うと言われたのでしょうか? それは聖書の中で、アマレクはわたしたちの肉の予表だからです。エサウの子孫であるアマレク人は、わたしたちの中の堕落した天然の部分、すなわち、肉の中のアダムに属する古い人を象徴しています。ヤコブの子孫であるイスラエル人は、わたしたちの中の選ばれ再生された部分、すなわち、霊の中のキリストに属する新しい人を象徴しています。エサウとヤコブは双子でしたが、その子孫であるアマレク人とイスラエル人は互いに敵対しました。
続けて旧約聖書の多くの箇所で、わたしたちは神の民とアマレク人との戦いを見ることができます。士師記第三章五節から七節、サムエル記上第十五章、第二七章、第三〇章、サムエル記下第八章、歴代志上第四章の中で、わたしたちはこの事を見ることができます。特にサウルがイスラエルの王になったとき、神はサウルに「アマレク人を討ち、彼らが持っているすべてのものを徹底的に滅ぼしなさい。彼らを容赦してはならない」(サムエル上第十五章)と命じられました。
わたしたちはエステル記にさえ、アマレクとの戦いを見ます(三・一―六、九・七―十)。そこで、ハマンはアガグ人であり、サムエルによって細切れにされたアマレクの王アガグの子孫であったことが告げられています(サムエル上十五・三三)。アガグは殺されましたが、彼の子孫のある者たちは生き残りました。ハマンはアガグの後期の子孫でした。神はハマンによって表徴される肉を憎みます。エステル記によれば、肉は隠れた方法で働いて神の民をひそかに破壊し、さらには彼らを殺します。イスラエルの子たちを滅ぼすというハマンの計略は、最終的に暴露され阻止されました。エステルは用いられてハマン、隠された肉を対処しました。彼女の助けを通して、ハマンは死に渡されました。今日のハマンは肉であり、召会の中で働き、召会が十分に建造されないようにしようとしています。肉というこの問題があるかぎり、王国はやって来ることができません。ですから神と肉は両立しません。
神は肉を取り除こうと決意する
旧約聖書で、神は肉に対するご自身の態度を表すために一つの事、すなわち割礼を設定されました。神が最初に割礼を受けるように命じられた人はアブラハムでした(創第十七章)。神はアブラハムに彼の子孫は天の星のように、海辺にある砂のようになると約束されました。しかし、神がご自身の約束の成就を延ばされたとき、アブラハムは、ハガルによってイシマエルを生みました。彼は神の約束を成就するために自分の肉の力を使ったのです。神は彼を喜ばれませんでした。そして十三年間、神はご自身を隠されました。そしてアブラハムが九十九歳の時、神は再び彼に現れました(十六・十五―十七・一)。その時、神はアブラハムと彼に属するすべての人に対して割礼を受けなければならないと命じられました。これは、神が彼らの肉を取り除き、再び肉によって神に仕えることのないようにされたことを意味します。
聖書で二回目に割礼の事を述べているのは、出エジプト記第四章です。そこでモーセの妻チッポラは息子に割礼を施しました(二五―二六節)。モーセがイスラエル人をエジプトから導き出すという神の召しを受けたとき、神はその途中で彼に出会い、彼を殺そうとされました。なぜなら、彼の二人の息子はまだ割礼を受けていなかったからです。この事は、人が神に仕えようとするなら、まず肉を取り除かなければならないことを見ます。そうでなければ、すべてを神のために捨てたとしても、その人は神を喜ばせることはできません。
聖書で三回目に割礼について言っているのは、イスラエル人がヨルダン川を渡った後、ギルガルにおいてです(ヨシュア第四章―第五章)。過越の日に、イスラエル人は小羊の血の下に罪を葬りました。そしてエジプトを出たとき、彼らの敵であるエジプトの軍勢を紅海の水の中に葬りました。またカナンの地に入ったとき、彼らはヨルダン川の水の中に自己、すなわち、肉を葬りました。彼らは自分の罪を過越で、この世を紅海で対処しました。しかしヨルダン川に来るまで、彼らは肉を対処したことがなかったのです。彼らはヨルダン川を渡るまで四十年間荒野をさまよい、ヨルダン川で旧創造のイスラエル人、すなわち、肉が対処されました。彼らはヨルダン川で、川の底から十二の石を集めて、川の向こう岸に持っていき、また他の十二の石をヨルダン川の中に置きました。これは彼らの古い人が川の底に葬られ、カナンに入ったのは新しいイスラエル人であったことを表しています。そこで彼らがヨルダン川を渡ったとき、彼らのすべては正式に割礼を受け、彼らの肉は取り去られました。その結果彼らは神のために戦い、神の王国をもたらすことができたのです。
新約でもクリスチャンのための割礼を述べています。コロサイ人への手紙第二章十一節は言います、「またあなたがたは、彼の中で、手によらない割礼をもって割礼されました。すなわちキリストの割礼の中で、肉の体を脱ぎ捨てました」。ここではさらに明らかに、割礼の霊的な意味は肉を脱ぎ捨てることであると示しています。神と神の民との契約のしるしである割礼は、ご自身の民が肉を脱ぎ捨てて、神の御前に生きることを願っておられることを意味しています。
肉の結末
ガラテヤ人への手紙第五章二四節は言います、「キリスト・イエスのものである人たちは、肉をその情と欲と共に十字架につけてしまったのです」。肉のあるべき場所は十字架の上です。神の御前での肉の結末は、死です。肉に対する神の定めは、肉は死に渡されなければならないということです。肉が死に渡されるときだけ、神は人の中にご自身の地位と出る道を持たれます。この節で言っている肉を十字架につけた者は、「キリスト・イエスのものである人たち」です。すなわちわたしたち救われた人たちです。ですからこの節は、わたしたちが肉を十字架につける主観的な経験についてであり、キリストがわたしたちの古い人を十字架につけるという客観的なものではありません。
ある人々はこの二四節の「共に十字架につけてしまった」とは、キリストと共に十字架につけたという意味だと考えています。しかし注意深く使徒の言葉を読むなら、それは肉を「その情と欲と」共に十字架につけてしまったという意味であることがわかります。ここで使徒は、わたしたちがキリストと共に十字架につけられたという客観的な事実を取り扱っているのではなく、その霊によって肉を十字架につけるという主観的な経験を取り扱っているのです。わたしたちはこの聖書の節の正しい意味を見い出し、肉を対処する事において、わたしたちは自分の責任を負わなければならないことを見る必要があります。わたしたちの古い人がキリストと共に十字架につけられたことを、ただ信じるだけでは不十分です。わたしたちは聖霊によって、率先して肉を十字架につけなければなりません。これは、わたしたちが経験において、その霊を通して、キリストが成就された十字架の死を執行することです。
神がサウルにアマレク人を殺すように命じられたとき、神ご自身が殺すのではなく、サウル自らが行なって殺さなければなりませんでした。しかし、サウルがアマレク人を殺す力はサウル自身のものではなく、神が与えてくださったものです。神の霊がサウルに下ったとき、神はサウルにアマレク人を殺す力を与えられました。しかしサウルは神の命令に対して絶対的でなかったので、神の恵みを失い、王位を失いました。今日、肉を対処するのも同じ原則です。肉を対処するのは神ご自身ではなく、わたしたち自身です。わたしたち自身が肉を対処し、それを死に渡すのです。しかし、もう一方ではわたしたちが肉を対処することができるのは、完全に神の力によってです。わたしたちが肉を対処するのは、異邦の宗教が人の努力によって肉に打ち勝つのとは完全に異なっています。言い換えれば、肉を対処する責任はわたしたちが負いますが、その力は神が与えてくださるということです。このように、わたしたちは聖霊の力によって肉を死に渡す必要があります。
わたしたちは肉を十字架につけなければなりませんが、この十字架はわたしたち自身のものではありません。全宇宙の中で、神は、一つの十字架だけが効力があると認められています。それはキリストの十字架です。ですから、わたしたちの主観的な肉の対処は、客観的な十字架の死に基づいています。わたしたちは自分自身が、すなわちわたしたちという旧創造、古い人がすでにキリストの十字架において神によって解決されたことを見ました。しかし、わたしたちという人はまだ肉の中で生きています。この時に、わたしたちはその霊によって、キリストの十字架を実際の日常生活の中でわたしたちの中に一歩一歩と適用させるべきです。そして、わたしたちはその霊がこの事実をわたしたちの中で有効とならせなくてはいけません。これが、その霊がわたしたちの中で十字架の死を適用する実際的な経験です。このようにして一歩一歩わたしたちはその霊によってわたしたちの肉を死に渡すのです。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第6期第5巻より引用


