サムエル記上第十六章から始まるダビデの歴史から、神の主権と十字架の砕き、ダビデが神の住まいを顧み、また命の学課を学ぶことを見ます。その他、わたしたちはダビデが失敗した後に、神のダビデに対する裁きとあわれみを見ます。これはわたしたちに対する厳粛な警告です。
ダビデの歴史
サムエル記上では、エリの時代からサウルの死までの歴史が記録されています。この書の中の三人の重要な人物にしたがって、三つの大きな段落に分けることができます。それはサムエルの歴史、サウルの歴史、ダビデの歴史です。サムエル記上では、ダビデの幼少期、油塗り、苦難、逃亡などが書かれており、サムエル記下では、ダビデが王として立てられること、神の御前で受けた対処が記載されています。それはダビデの生涯における最も主要な期間です。列王紀上第一章から第二章は、彼の晩年の時期が記載されています。
聖書がこれほどまでにダビデの歴史を詳細に記しているのには理由があるはずです。第一に、彼はキリストの先祖であることです。神が彼と交わした契約は、キリストにおいて成就されました。第二に、彼はキリストの予表です。第三に、彼は神の心にかなう人でした(サムエル上十三・十四、使徒十三・二二)。第四に、彼の生涯は今日の信者にとって重要で貴重な学課、慰め、助けとなっています。第五に、彼は神の出口であったということです(サムエル下二三・二)。詩篇のほぼ半分はダビデによって書かれました。それらはすべて彼の人生の経験に結びついたものです。ですから、初めて聖書を読む人が詩篇をよく読もうとするならば、ダビデの歴史をよく読まなければなりません。ある詩篇は、ダビデがどのような状況の下で書いたのかが明示されていますが、あるものは説明がありません。ですから、わたしたちは彼の歴史と、詳細に比較する必要があります。そうすることで、その深い意味を理解することができます。
選ばれ、十字架を経験する
サムエル記上第十三章十四節において、神はサウルに言われました、「しかし、今あなたの王国は続かない。エホバはすでに彼の心にかなう人をご自身のために捜して……おられる」。サムエル記上には、ダビデが神の心にかなった人であったのですが、まだ経験のない青年であったことが記されています。ダビデは円熟し経験を持つために、神の働きを経過する必要がありました。彼が準備されるための唯一の道は苦難を受けることでした。そこで、神はダビデをサウルの権威の下に置かれました。
ダビデは多くの苦しみを受け、多くの試練、患難、苦難を経験しました。彼は真に苦難の中で学ぶ者となりました。彼は苦難の学課を学び、苦難の中で対処され成就されました。わたしたちが経験するすべての苦難は、わたしたちの性質、自己と肉を対処します。ダビデは徹底的に試されました。彼の肉、自己、そして天然の命が厳しく対処されました。新約の言葉を用いるならば、ダビデは十字架の学課を学びました。アブラハムの生涯は信仰の生涯でしたが、ダビデの生涯は十字架の学課のもとで苦難を受けた生涯でした。
サムエル記上では、多くの節がこの点を強調しています。神の心にかなう者は、十字架の学課を学ぶために大きな圧迫を受ける必要がありました。肉、自己、天然の命が砕かれ、その動機が試されなければなりませんでした。ダビデはサウルに苦しめられ、彼によって砕かれました。今日、青年たちにも彼らを常に対処し、苦しめ、圧搾し、彼らを試練の中へと置き、彼らを砕く「サウル」が必要です。
神のために神の家を建てることを望む
ダビデは苦しみの中で学課を学んだからこそ、王国に入ることができたのです。神はサウルから王国を取り上げ、ダビデに与えられました。ダビデはテストに合格しましたが、それはまだ終わっていませんでした。ダビデはテストを通過し、王の位を得ましたが、彼は神のための地上における働きには不足していました。彼の中にまだ暴露されなければならない隠されたものがありました。彼が王となった後も、自分の権威のもとで、神のために何かを行なうことができると考えていました。それは彼が自分を誇り、自分の功績とするものでした。しかし、神はそのように自分を誇ることを許されません。
ダビデは神のために宮を建てる計画を立てました。契約の箱のために、より永続的な住まいを建てたいと考えました。預言者ナタンもダビデの願いを聞いて、この計画を励ましました。彼は天然の中でダビデに同調しました。しかし、神はすぐに介入されました。その夜に、神はナタンに、ダビデが神のために宮を建てる必要がないことを、ダビデに告げるように命じられました。なぜなら、そのときにダビデが宮を建てていたなら、それはダビデを誇らせていたからです。神はこのことを許されませんでした。神はダビデに、神がダビデのために家を建て、その家から一人の子孫が起こされて神の宮を建造するのを待つようにと言われました(サムエル下七・一―十三)。この意味は、人は自分自身によって誇ってはならず、ただ神だけを誇らなくてはならないということです。わたしたちが神のために何ができるかではなく、神だけがわたしたちのために何かをすることができるのです。
このことは、わたしたちが自分自身や自分に属するいかなるものも神の家を建てる材料としては使えないということをわたしたちに見せています。神の家としての召会、すなわち神と贖われた民の相互の住まいは、キリストを唯一の要素として建造されます。わたしたちは、神がキリストをわたしたちの内在的な構成の中へと建造し込んでくださり、わたしたちの全存在がキリストによって再構成される必要があります。召会の建造は、キリストがわたしたちの心の中にホームを造られることを通して、すなわち彼ご自身をわたしたちの中へと造り込むことを通して、わたしたちの心、わたしたちの内側の構成が、彼の家となるのです(エペソ三・十七)。
大きな失敗
サムエル記上第八章と第十章では、ダビデはイスラエルの周りの国々と戦い、大勝利を得ました。そして、第十一章で、聖書は大きな失敗をしたことを記載しています。ダビデは目の欲と肉の欲を放縦し(サムエル下十一・二―三)、次々と罪を犯しました。彼は王としての権力を乱用し、強奪することで故意の姦淫を犯しました(四―五節)。また装ってその邪悪な行為を覆いました(六―十三節)。そして、しもべたちと陰謀を巡らし、忠信なしもべであったウリヤを殺して、ウリヤの妻を奪い取りました(十四―二五節)。ダビデのような人が、このような恥ずべき罪深いことをしたとは、考えられないことでした。ダビデが犯したこの一つ罪で、実は十戒の後半の五つの戒めをすべて破ったのです(出二〇・十三―十七)。これは神を大いに怒らせ、彼が過去に成し遂げたことのすべてのものをほとんど無効にしてしまいました。
もしこのことが聖書の中の記載でなかったなら、わたしたちには実に信じ難いことです。疑いもなく、神はダビデがこの事をしないように妨げることができたはずですが、神は少しの間ダビデから手を引いて、ダビデの真相を明るみに出し、それを暴露されました。サムエル記上だけを読むなら、ダビデは完全ですばらしいと思うでしょうが、サムエル記下はダビデを暴露しています。
ダビデの失敗は、わたしたちへの警告である
ダビデの失敗は、神の言葉を受け(サムエル下第七章)、また戦いで大勝利を収めた後でした(第八章、第十章)。軍隊が前線で苦戦している間も、彼はエルサレムにとどまっていました。ある日の夕方、ダビデは床から起き上がり、王の家の屋上を歩いていました(十一・一―二)。ダビデはその傲慢さから気が緩み、その気の緩みから姦淫を犯し、その姦淫から欺きを犯し、その欺きから忠信なしもべを殺しました(二―十七節)。これは、罪を犯し続けることがいかに容易に連続し、止めることがいかに不可能であるかを示しています。この力のある戦士、神の心にかなう霊的な人物でも、もし神の保護から離れるなら、直ちに罪の中へと陥ってしまいます。どのような信者でも、自分の頭の良さ、意志の強さ、自分の能力、豊かな財力、また神の保護を頼りにしないなら、その人はこの世で最も愚かな人です。
ダビデが行なったこれらのことは、エホバをはなはだ不愉快にさせました。そしてエホバはナタンを遣わしてダビデの罪を指摘し、ダビデを懲らしめました(十一・二七―十二・十四)。神は、ダビデが自分の心にかなう人であったからこそ、その罪を見逃されなかったのです。ダビデの良心は、常に鋭く訴えて、彼は「終日うめいて……骨は古び衰え」るほどでした(詩三二・三)。
ダビデに対する神の懲らしめる裁きの聖書の記載は、わたしたちに対する警告として書かれています(Ⅰコリント十・十一)。神は愛し、あわれみ深いだけでなく、公正で畏るべき方でもあります。一方で、神はダビデを赦しましたが(サムエル下十二・十三)、もう一方で、彼はご自身の行政上の義によってダビデを取り扱い、懲らしめました(十―十四節)。神がダビデに対して厳しい懲らしめを行なったのは、彼の罪がとても邪悪であったからです。ダビデは罪を認め告白し、神との交わりを回復しましたが(詩第五一篇)、彼は神の行政の下にあって、その対処は決して緩められることはありませんでした。
ダビデの失敗の後、多くの悪事が、近親相姦、謀殺、反逆を含めて、彼の家族に起こりました(サムエル下第十三章、十五・一―十九・八前半)。ダビデの家族における空前の邪悪の源は、ダビデが肉の情欲にふけることでした。これは、神を愛する者に対する神の懲らしめと行政上の対処が、彼らの子たちにまで影響することを見せています。ダビデの子、アブサロムは彼に反逆した後に殺されました。ダビデはアブサロムの死について聞いたとき、激しく泣きました。「王はひどく震えて、城門の上の部屋に上って行って泣いた。彼は上りながらこう言った、『おお、わが子アブサロムよ! わが子、わが子アブサロムよ! わたしがおまえに代わって死ねばよかったのに! おお、アブサロム、わが子、わが子よ!』」(十八・三三)。なぜならダビデは、アブサロムの反逆と死がすべて、自分が罪を犯した結果であることを知っていたからです。
ダビデはその邪悪な者の誘惑の重要な時に、自分の情欲に対して強い抑制を行使しないで、かえってそれにおぼれ、ひどい罪を犯して、神を極みまで怒らせました。神はダビデを愛されましたが、ダビデは彼の罪のゆえに、彼の立場と地位、そして十二部族のうち十一を失いました(二〇・一―二)。ダビデの罪はソロモンの腐敗の種をまき(二四節)、神の与えられた王国の分裂に至りました(列王上十一・九―十三、十二・一―十七)。またソロモンの子孫の王権における腐敗の種をまき、究極的に国と彼らの父祖の聖地を失って、聖なる民の捕囚に至り、地球上にまき散らされて、平安がなく、現在に至っています。
神は裁かれるが、あわれみがある
神は罪のために裁かなければなりませんが、悔い改めた罪人には恵みを与えられ、その罪を赦し取り去ってくださいます(サムエル下十二・十三、詩第五一、三二篇)。この面から見るなら、ダビデの失敗の結果は、神の真のあわれみを示しました。ダビデの失敗の中から、彼の息子ソロモン、神の建造を成し遂げる者が生まれました。ダビデの息子ソロモンはウリヤの妻との間に生まれました。神の宮を建造した人が、そのような結合から生まれたとは想像し難いことです。
マタイによる福音書第一章にある系図には、ダビデが他の男の妻から子供を生んだことが記されています(六節)。これは主の大きなあわれみを示しています。なぜなら、ダビデがウリヤを殺してその妻を奪った罪が赦されたからです。詩篇第五一篇では、ダビデの悔い改めと神の赦しが啓示されています。神はダビデを赦した後、息子ソロモンを与えられ、結局このソロモンが神の宮を建造しました(サムエル下十二・二四―二五、歴代上二二・六―十)。神の宮の建造は、ただ神の人に対するあわれみを証明するものです。
ダビデの最後の罪
ダビデはまずウリヤのことで暴露され、へりくだりの学課を学びました。しかし、ダビデはまだ非常に高ぶっており、ある日、イスラエルの民の数を数えてみたくなりました(サムエル下第二四章)。これは、彼の隠れた高ぶりを明らかにしただけでなく、彼の不信仰も明らかにされました。神はこのことに介入し、ダビデを裁かれました。
サムエル記下第二四章一節は「エホバの怒りが再びイスラエルに向かって燃え上がった」と言っています。もちろん、これは王と民が神の御前で罪を犯したからです。聖書は何の罪なのかを明記していませんが、おそらくイスラエル人が戦いに勝利した後の気持ちの緩み、心の高ぶり、神に栄光を帰さないことなどの罪であったと想像することができます。神は罪を追及し、「サタンがイスラエルに逆らって立ち上がり、ダビデを動かしてイスラエルを数えさせ」ることを許可されました。
ダビデが民を数えることが罪とされた第一の理由は、おそらく彼が神の命令や許可を得ていなかったからでしょう。モーセは民を二度数えましたが、それは罪ではなく、奉仕と見られました(民一・二、二六・二)。なぜなら、神がモーセにそのように行なうように命じられたからです。第二の理由は、おそらくダビデが彼の民が繁栄して多いことで、高ぶり誇っていたからでしょう。第三に、ダビデはまた、多くの戦いの中で民に多くの死傷者が出たことで、強さに影響を与えているのではないかと懸念し、神の約束(申一・十一、創十三・十六、民二三・十)と助けを忘れてしまったからでしょう。第四に、ダビデが民の数を数えるとき、贖いの代価として一人あたり半シケルをささげさせなかったからでしょう。ですから「数えるとき、彼らの間に災いが臨」んだのでしょう(出三〇・十一―十六)。要するに、ダビデが民を数えることは、愚かで、神を怒らせることでした。
ダビデの悔い改めと神の懲罰
ダビデは民を数えた後、心の中で自分を責め、神に悔い改め、民を数えた罪を告白しました。彼はエホバに言いました、「わたしは自分が行なったことで、大いに罪を犯しました.しかし今、エホバよ、あなたのしもべの罪科を取り去ってください.わたしはとても愚かに行動したからです」(サムエル下二四・十)。神はダビデの先見者である預言者ガデを通して、神が行なわれようとしている懲罰について語られました。神はダビデに三つの選択を提示されました。すなわち、七年の飢きんが地に臨むこと、三か月間、敵の前を逃げ、彼らが追うこと、地にある三日の疫病です(十三節)。ダビデは非常に悩み、エホバの御手に陥ることを選びました。なぜなら、彼のあわれみは大きいからであり、人の手に陥ることを願わなかったからです(十四節)。そして、神はイスラエルに疫病を送りました。御使いが手をエルサレムに向かって伸べ、それを滅ぼそうとしたとき、エホバはその災いについて思いを変え、手を引かせられました(十五―十六節)。その後、ダビデはエホバに祭壇を築き、民の間から疫病は止みました(十八―二五節)。
悔い改めて神のあわれみを経験する
サウルの罪は小さく、ダビデの罪は大きいのに、神がサウルを赦さず、ダビデを赦すのは不公平だと考える人がいます。しかし、二人を詳細に比較するなら、サウルは決して自分の罪に対して悔い改めることがありませんでした。サムエルの問いかけに対していつも様々な言い訳をしていました(サムエル上十三・九―十二、十五・十四―十六、二四、二八・十五)。彼は「わたしは罪を犯しました」(十五・二四、三〇)とは言いましたが、それは言い訳が尽きて、もはや言い逃れができなくなった後のことであり、本当に悔い改めたわけではありませんでした。しかし、ダビデは違いました。彼は罪を見いだすと、決して言い訳をして隠そうとはせず(サムエル下二四・十)、徹底的に告白し、罪を本当に憎みました(詩第五一篇)。悲しむ心、悔いる心は、神に軽んじられることはありません。ダビデは悔い改める心があったからこそ、神の裁きを受けながらも、神のあわれみと恵みを経験しました。
ダビデはまずウリヤの事で暴露されました。それは彼がへりくだる学課を学ぶためでした。ある日、イスラエルの総数を数えようとしました。こうして彼の隠れた高ぶりが明らかにされただけでなく、主を信じないことが明らかにされました。神は介入してダビデを裁かれました。しかし、この第二の失敗は、不思議な結果をもたらしました。それは神の宮の建造の地所を得たことです(歴代上二一・十八、歴代下三・一)。ダビデのこの第一回目の失敗の結果は、聖なる宮を建造するために息子が生まれたことであり、第二回目の失敗は、建造のために土地を得たことです。このような否定的な失敗からこのような積極的な結果となるのは、実に人の理解を超えたものです!
サムエル記を読んだ後、わたしたちは主に祈らなければなりません、「主よ、わたしは何も言うことがありません。すべてはあなたのあわれみです!」。わたしたちは神の心にかなう人になること、十字架の学課を学んだ人になる必要があります。そしていかに自分は罪深く、主のために何かを行なうのに絶対にふさわしくない者であるかを知る必要があります。わたしたちはへりくだる学課を学ぶ必要があります。どれほどわたしたちが神の心にかなっていようと、またどれほど十字架の学課を学んでいようと、わたしたちはやはりへりくだっていなければなりません。わたしたちはどれほど注意したとしても、やはり主はわたしたちが失敗することを許され、わたしたちを暴露し、わたしたちをへりくだらせます。そうすれば、わたしたちは自分ではなく主であること、わたしたちの功績ではなく主のあわれみ、主の恵みであることを認識するでしょう。わたしたちの内側のものはすべて暴露されなければなりません。失敗を認識しなければなりません。内側に隠されているものがすべて暴露される時、わたしたちは別人になるでしょう。そうして主はわたしたちを用いられます。最終的に、栄光はわたしたちのものではなく、主のものとなります。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第6期第5巻より引用


