昇天のキリスト

真理

四福音書の記載によれば、主が肉体と成られた時、
人はイエスという名の一人の小さなナザレ人を見ただけでした。
しかし、今日彼は第三の天へと高く引き上げられ、栄光に満ちています!
わたしたちは、ただ肉体と成って贖いの大きな働きを完成された
キリストを認識するだけでなく、昇天において、
復活したキリストと彼の天の務めを認識しなければなりません。

地上のキリストと昇天のキリスト
主が地上におられた三十三年半の間に完成された働きの中で、大部分は最後の三年半の期間に完成されました。今日クリスチャンの間で伝えられ教えられていることは、大部分が彼のこの期間の地上での務めに関してです。彼らは、キリストの働きはすでに完成したと教えていました。彼らはヨハネによる福音書第十九章三〇節を引用して証明していました。主は十字架上で「完了した!」と言われたので、彼が死んで復活した後に天に昇られたのは、働きのためではなく、そこで安らかに座すためであり、「座した」とは、働きが完成したことを指しているとしています。彼は今やそこで、神が敵を彼の足の足台とされるのを待っているだけであるとしています(使徒行伝第二章三四節―三五節)。

キリストの務めはすでに完成れたのでしょうか? 彼の地上の務めはすでに完成されました。しかし、彼の天上での務めは依然として継続しています。キリストの身分と彼の務めにも同じように二方面あります。彼が地上におられた時は人となられたイエスでした。しかし彼が昇天された後は、栄光を得られたキリストです。彼の地上での務めは、ある一定の期間続いただけであり、せいぜい三十三年半でした。それに反して、彼の天上での務めは永遠であり、無限です。

惜しいことに、多くのクリスチャンは、ただキリストの務めの最初の部分に注意するだけで、彼の天の務めの部分がさらに重要であることに注意しません。神のみこころは一つの召会を得ることであり、最終的には新エルサレムを得ることです。キリストの地上での務めの期間には、召会は生み出されておらず、新エルサレムは言うまでもありません。四福音書の中には召会と新エルサレムを見ません。使徒行伝になってはじめて召会が生み出され、その後、最後の書である啓示録になってはじめて新エルサレムが出現します。

使徒行伝において、弟子たちは広く福音を宣べ伝えるよう、昇天のキリストの委託を受けました。しかしながら、福音は召会を生み出すためです。啓示録において、最初の二章はすべての召会を述べており、最後の二章は新エルサレム、すなわち諸召会の究極的な完成を語っています。もしわたしたちが使徒行伝から啓示録までをちょうかんてきに見るなら、召会と新エルサレムが完成されるのは、キリストの地上での務めを通してではなく、彼の天の務めを通してであることを見いだします。彼の地上での務めは贖いを完成し、召会を生み出すためでした。しかし、召会と新エルサレムの永遠の目的を実現するためには、さらに高く超越し、さらに豊富で、さらに広がりのある務めが必要です。彼の地上での務めについて言うなら、すべてが完成しました。贖いは十字架を通してすでに成し遂げられました。この完成は彼を天の務めへと導き入れました。今や彼はまさに、彼が地上におられた時よりもさらに深遠な務めに従事しておられます。

今日、主イエスは天に座して何もしておられないと思ってはいけません。事実上、彼は宇宙におけるありとあらゆる事柄を管理しておられます。地上での生活では、彼は苦難を受け、迫害に遭い、最後には十字架につけられて贖いを成し遂げられました。しかし今、すべてが変わりました。彼は完全な責任を担い、わたしたちのために、すべての召会のために絶えず働いておられます!

キリストという名称は、油塗られた方という意味です(詩篇第二篇二節、使徒行伝第四章二六節)。キリストはバプテスマされた後、神の霊が彼の上に下った時に油塗られました。彼はヨルダン川でバプテスマされた後、神は天的な油、すなわち聖霊をもって彼に油塗られました。それは神が立てられたということを表徴しています。しかしながら、このとき、キリストはまだ務めに就いてはおられませんでした。彼が務めに就かれることについて、アメリカの大統領を例にとって説明してみましょう。アメリカの大統領が当選した(キリストが立てられたことに相当する)後、務めに就いたことを宣誓する必要があります。選挙の二、三ヶ月後に務めについたことの式典があり、大統領に選ばれた人はその時に就任し、正式に彼の職務を開始します。キリストが務めに就いたことの式典は、彼が昇天した時です。キリストが第三の天にまで引き上げられた時、この高く上げられたことが、務めに就かれたことであり、彼を正式に務めに入らせたのです。

四福音書の記載によれば、主が肉体と成られた時、人はイエスという名の一人の小さなナザレ人を見ただけでした。しかし今日、彼はすでに第三の天へと高く引き上げられて、栄光に満ちています! 長い間わたしたちは、ただ肉体と成られたキリストを認識していただけかもしれませんが、今や昇天のキリストを必ず認識しなければなりません。

今日、人はキリストの誕生や、キリストがわたしたちのために命を捨てて血を流されたことを記念することをとても強調します。しかしわたしたちは、かいおけ、十字架を通り越して、わたしたちの眼を転じて、もろもろの天で御座に座しておられるキリストを見なければなりません! お尋ねしますが、あなたは地上で飼葉桶におられるイエスをすばらしいと思うのでしょうか、それとも天の御座におられるキリストをすばらしいと思うのでしょうか? ある人は、キリストは自分の内におられますと言うかもしれません。これは正しいです。なぜなら、パウロは「それはあなたがたの内にいますキリストであり、栄光の望みです」(コロサイ人への手紙第一章二七節)と言っているからです。わたしたちはどのようにこの内にいますキリストを経験するのでしょうか? もしわたしたちがただ飼葉桶と十字架をすばらしいと思うだけなら、わたしたちの経験は、ただ飼葉桶と十字架に限られてしまいます。しかしわたしたちがキリストを称賛することが御座に結び付けられるなら、わたしたちの霊の中での彼に対する経験は引き上げられます。

ヘブル人への手紙における転換
キリストの働きと務めに関する転換は、ヘブル人への手紙から見ることができますが、それは地から天への転換です。第一章から第六章で主要なことは、アロンの祭司職で予表されたキリストの地上での働きを啓示していることです。しかし第七章からは、メルキゼデクの位によるキリストの天の務めが啓示されています。アロンの働きが予表するのは、キリストの地上での十字架上の働きであり、わたしたちの罪を赦します。キリストの天の御座での務めは、わたしたちに供給を与え、罪に打ち勝たせます。信者としてわたしたちは、彼の十字架の働きにすでにあずかっていますが、今わたしたちは力を尽くして前進し、彼の御座での務めを享受しなければなりません。

地上の外庭から天の至聖所への転換
旧約の幕屋の構造は、まず外庭があり、その後に幕屋があります。幕屋には二つの部分、すなわち聖所と神のおられる至聖所があります。予表によれば、外庭と聖所はみな人が至聖所に入るためです。わたしたちが外庭に入るだけで至聖所に入らないなら、目標に到達しません。ですから、ヘブル人への手紙はまず外庭の事を告げ、その後に第七章から、天の至聖所へとわたしたちを転換させます。

外庭の罪のための祭壇から至聖所にある
恵みのための罪を覆う蓋(恵みの御座)への転換
この転換も外庭の罪を贖うための祭壇から、至聖所にある恵みの罪を覆う蓋(恵みの御座)への転換です(第九章五節)。祭壇は外庭にあり、罪を覆う蓋は至聖所にあります。祭壇は十字架を象徴し、尊く大切なものです。なぜなら十字架はわたしたちの罪を対処するからです。しかし十字架はやはり外庭にあり、地上にあるもので、罪を覆う蓋(なだめの場所)は恵みの御座であって、神とわたしたちが相まみえて、語り、交わる場所であり、わたしたちと神が一になる場所でもあります。多くのクリスチャンは終始外庭の十字架にとどまっています。十字架は良いのですが、わたしたちの目標や目的地ではありません。わたしたちがずっと、とどまるべき場所は罪を覆う蓋(なだめの場所)、つまり恵みの御座です。ここではもはや罪の問題はなく、完全に恵みです。これは、わたしたちが十字架を捨て去るべきだと言っているのではなく、十字架の周りをはいかいするべきではないと言っているのです。それは恵みの御座の前にとどまらなければならないということを言っています。

地上のキリストから天上のキリストへの転換
ヘブル人への手紙はまたわたしたちを導いて、地上のキリストから天上のキリストへと転換させます(第七章二六節)。多くのクリスチャンは天上に行くことを望みますが、実はわたしたちは、今、ここで、天上のキリストを享受することができるのです。

十字架の道で苦しみを受けたイエスから、
神の御座で栄光を得たキリストへの転換
この転換はまた十字架の道で苦しみを受けたイエスから、御座で栄光を得たキリストへと転換することでもあります(第十二章二節)。依然として十字架の道を歩み続けている人は、ヘブル人への手紙によって神の御座で栄光を得たキリストへと転換させられる必要があります。なぜならキリストは今、御座におられるからです。

キリストの務めの二つの部分
キリストの務めは、地上の務めと天上の務めを含んでいます。今わたしたちは、簡単にこの二つの部分の務めを見てみましょう。

地上の部分
(一)キリストが地上の務めにおいてなされた第一の事は、わたしたちの罪のために、一度で永遠にご自身を神にささげられたことです(第七章二七節第九章十四節)。この事はすでに一度で永遠に成し遂げられました。わたしたちはみな、わたしたちの罪の問題はすでに解決されたというこの良きおとずれを宣言し、告げ知らせなければなりません。弱くなって失敗したとしても、必ず神の言葉を信じ、サタンに対して言いましょう、「サタンよ、わたしはお前を信じない。わたしは、罪がすでに除き去られたと言っている神の言葉を信じる」。

(二)キリストはわたしたちのために罪を除き去ってくださったのですが、罪はある悪い結果を造り出しており、わたしたちと神との間の問題となりました。ですから、キリストが罪を除き去った時、わたしたちのために神の御前でなだめともなってくださいました(第二章十七節)。わたしたちと神との間には、もはや問題がなくなりました。あなたは依然として神との間に問題があると感じる時もあるかもしれません。しかしそれは偽りであり、感覚を信じないで神の言葉を信じなければなりません。

(三)キリストがもしわたしたちの罪のためにご自分をささげて、わたしたちのためになだめとなられただけで、罪を洗うことを成し遂げられなかったとしたら、彼の働きは徹底的なものとはなりません。しかし彼の働きは最も良いきよめの働きです。なぜなら、彼はすでにきよめを成し遂げられたからです(第一章三節)。神から見て、わたしたちは赦しを得ただけでなくきよめをも得たのです。わたしたちは今、清い良心を持っています。

(四)キリストはまたご自分が血を流してささげることを通して、わたしたちを神へと聖別してくださいました(第十章十節)。ある人たちは、自分の経験はこのようではないと思うかもしれません。しかし、わたしたちはすでに神へと聖別されていることを見なければなりません。新エルサレムにおいては、わたしたちはみな神へと聖別されています。自分の目の前の状況を信じるのではなく、神の言葉を信じる必要があります。わたしたちはすでに神へと聖別されていることを今日、享受しましょう!

(五)キリストは彼というささげ物によって、わたしたちを完成されました(十四節)。原文では、「完成された」は「成就された」という意味でもあります。わたしたちがどんなに弱くても、キリストは彼というささげ物によって、すでにわたしたちを成就し完成してくださいました。

(六)キリストはご自分を罪の贖いのためのささげ物としてささげて、なだめと罪のきよめを成し遂げてから、わたしたちのために新しい契約を制定されました(第八章六節第九章十四節―十五節)。この契約はこれまでの各項目を含んでいて、キリストの血をもって保証されており、だれも変更することができません。

(七)キリストは新しい契約を制定した後に昇天して、この契約をわたしたちに残してくださいました(十六節―十七節)。この契約は遺言、遺言書となりました。「遺言」(Testament)という用語は、現在使われている「遺言書」(will)に等しいです。キリストが立てられた契約は、わたしたちに遺言書として与えられ、わたしたちはこれを必ず得ることができます。

(八)キリストは十字架上で、あらゆるもののために死を味わわれました(第二章九節)。アダムが堕落したために、旧創造の中の万事万物もすべて秩序が乱れました。それゆえキリストの死の苦しみはわたしたちのためだけでなく、あらゆるもののためでもあるのです。コロサイ人への手紙第一章二〇節は、キリストは彼の死を通して、万物を神に和解させられたと言っています。キリストの死があらゆるもののために死を味わわれるためであったので、万物は正しい秩序へと戻ることができたのです。

(九)悪魔は宇宙において先頭に立って混乱を引き起こす者ですが、キリストはすでに彼の十字架上での死を通して、悪魔を滅ぼされました(ヘブル人への手紙第二章十四節)。わたしたちは必ずこの事実を信じて宣言しなければなりません。そうすればサタンの欺きと撹乱を受けることはありません。

(十)キリストはまたわたしたちを死の恐怖という奴隷から解放されました(十五節)。わたしたちはもはや死を恐れることはありません。なぜなら死の毒針はすでにキリストが十字架上で取り除いてしまわれたからです。

(十一)キリストは十字架上でこれらすべてを成し遂げて、一つの十字架の道を開かれました。今わたしたちには、地上の十字架から天上の御座へと至る一本の大路があります。この大路は苦しみを受けたイエスと栄光を得たキリストが敷かれたものです。今日わたしたちが見るキリストは御座におられる栄光を得たお方です。

天上の部分
(一)今わたしたちはキリストの務めの天上の部分を見てみます。地上で、キリストは一つの十字架の道を開かれました。天上で、彼は至聖所へ入る一つの新しい生きた道を開いてくださいました(第十章十九節―二〇節)

(二)キリストは、彼というさらにまさったいけにえの血によって、天と天の事柄をきよめました(第九章二三節)。わたしたちはまだこのことを見ていませんが、これは神の言葉が言っていることです。わたしたちがキリストの血できよめられる必要があるだけでなく、天と天の事柄も血できよめられる必要があります。それは、幕屋とそれにかかわるすべての物が、いけにえの血が注がれることによって、はじめてきよめられたのと同様です。

(三)キリストは天に昇られて、彼が地上で制定された新しい契約を堅固なものとされました。またわたしたちに永遠の贖いを得させられました(十二節)

(四)キリストはすでに、さらに卓越した務めを得られました(第八章六節)。彼が今日御座で得ておられる務めは、旧約の幕屋での祭司の務めより、さらに卓越しています。これは、彼の天の至聖所における務めです。

(五)キリストは新しい契約の保証と仲保者になって、この契約が執行できるようにされました(第七章二二節第八章六節第九章十五節)。原文では、保証の意味は、保証を担っている者、契約により束縛されている者、保証人です。キリストは新しい契約の保証であり、この契約が執行されるようにされました。

(六)キリストはまた新しい契約の執行者であり、彼の遺言を執行されます(十六節―十七節節)。遺書は、それを執行するために、執行する人が必要です。キリストは彼の昇天において、わたしたちに遺贈された遺言を執行する方となられました。

(七)キリストは大祭司としてわたしたちのためにとりなし、わたしたちを極みまで救われます(第七章二五節―二六節)。この働きは決して地上のアロンの位によるのではなく、天上のメルキゼデクの位によります。

(八)キリストは天の奉仕者であり、天の命と力をわたしたちの内側に供給してくださいます(第八章二節)。それは、わたしたちが地上で天の命を生きるためです。これは、わたしたちを地上の消極的なことから救うだけでなく、神聖な命の天の供給をもって、絶え間なくわたしたちを支えてくださることです。

(九)キリストはまた、聖別する方であり、彼の聖なる性質と命をもって、わたしたちを聖別してくださいます(第二章十一節)。彼は十字架上でご自身をささげて、彼の血をもってわたしたちを聖別してくださいます。それは客観的で地位上の聖別であり、彼が十字架上ですでにわたしたちのために完成されたことです。今や彼は、彼の聖なる性質と命をもってわたしたちを聖別しておられます。これは主観的であり、性質上の聖別であり、彼が今まさにわたしたちのために完成されつつあることです。

(十)キリストは信仰の完成者です(第十二章二節)。このような信仰の完成者として、彼はわたしたちの日常生活のために、信仰の中でわたしたちを成就しておられます。わたしたちの信仰の創始者、創設者として、彼は地上に信仰を創設されました。彼は今や、わたしたちが彼の信仰によって生活行動するようにと、天でひたすらわたしたちのために信仰を成就しておられます。

(十一)キリストはまたわたしたちの救いの創始者であり、わたしたちを栄光へ導き入れます(第二章十節)。彼が今日、天で行なっておられることはすべて、神の完全な表現のために、わたしたちを彼の栄光へ導き入れることです。これは神の永遠のご計画の究極の目標です。

これらから見ることができるように、キリストの今日の天にある務めは、彼の地上での務めよりさらに卓越しています。どうか聖霊がキリストのこの務めの転換を、わたしたちの霊の中に深く刻み込んでくださいますように! わたしたちが単なる教理の上で転換するだけでなく、わたしたちがキリストを経験する上で積極的に転換して、さらに主観的に、さらに卓越した方法でキリストを認識し経験することができますように!



記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第1期第5巻より引用

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