イスラエル人の過去の出来事から見た、 良き地を受け継ぐ資格

真理

申命記の中で、モーセはイスラエルの子たちに、彼が教えたおきてと規定をくれぐれも遵守して、エホバ・神が彼らに与えた地に入り、嗣業を受けるよう言われました(四・一)。そして、神が命じられた道をすべて行ない、神を畏れて歩むなら、彼らは生きることができ、かつ幸いを得て、彼らの日を嗣業の受ける地において、長く保つことができると言われました(五・三三)。申命記は、どのような人が神の嗣業を受けることができるか、すなわち、この嗣業を与える神に符合するには、神の民がどのような状態であるべきかを語っています。これは、旧約のイスラエルの子たちが注意しなければならないことだけでなく、新約の信者たちと召会も注意すべきことです。わたしたちが神の栄光ある嗣業へともたらされるために、わたしたちの状態は神に符合し、神にふさわしいものでなければなりません。

どのような人が神の約束された
良き地を相続することができるか
申命記は民数記のすぐ後に続き、民数記の補足と考えられます。民数記が見せているのは、神の民が編成されてさまざまな過程を経過した後、神の約束された良き地に入るよう備えられたということです。彼らが良き地に入った後、神が彼らに命じられたのは、どのようにその地を分配して庇護の町を設けるかに注意し、またどのように良き地で生活し、奉仕するかに関するおきてに注意する必要があったということです。しかしながら、良き地を享受することができるような人は、さらに詳しい多くのことと関係があります。なぜなら、おきては一つのことであり、おきての適用はまた別のことだからです。民数記には最上のおきてと規定がありますが、もし人の状態が欠けているなら、これらのおきてと規定は無用になります。ですから、申命記はイスラエルの子たちに、どのように振る舞って良き地で彼らの日を長くするかを告げたのです。そして、神が約束された嗣業を享受する人は、神を愛し、神を畏れ、神に服従し、神によって支配され、神の言葉に聞き従い、神の心を顧慮し、神の御前に生きる人でなければならないということを見せています。

もしイスラエルの子たちが、神の約束された嗣業を受けるなら、彼の統治上の行政にしたがって行動しなければなりません。これが意味するのは、神の民の歩みは、神の聖で義なる統治上の行政の原則にしたがっていなければならないということです。ですから、申命記は繰り返し、神の民が神のように聖で、義で、親切で、寛大である必要があると言っているのです。神は、相続を受けるべき彼の民に、彼らの生活の仕方が彼に符合し、一致する必要があることを教え続けられました。そのような生活だけが、神の民が彼の御前で、神が与えられた嗣業を長く享受することができます。このように嗣業を受ける人たちは、神が彼らの間に住まわれることができる生活を持たなければなりません。彼らが家にいる平常の時であっても、特別なことが発生しても、戦いの時でさえ、彼らの状態は、神が彼らと共におられるようにしなければなりません。そうでないと、彼らは受けた嗣業を享受し続けることはできません。

過去を回想して、
神の民に神ご自身と自己の状態を認識させる
申命記の記録は、過去に基づいて語ることで始まっています。モーセが過去を回想するとき、彼は歴史全体のすべてを語っておらず、ある重要な点だけを指摘しています。彼は、神の導きについて語り、イスラエルの子たちが神の愛する心と統治上の御手を知ることによって、神に信頼し、神を畏れるように言われました。またイスラエルの子たちの失敗について語り、彼ら自身の状態を知り、自分自身を裁き、へりくだって、もはや自己に信頼せず、信実な神に信頼するように言われました。

神はイスラエル人に良き地に入るよう命じた
申命記第一章は、モーセがヨルダンの東の荒野で、イスラエルの子たちに過去の出来事を回想して語っています、「ホレブからセイル山への道を経て、カデシ・バルネアに至るのは、十一日の行程である。第四十年の第十一の月、その月の第一日に、モーセは、エホバがイスラエルの子たちのために彼に命じられたように、すべてのことを彼らに語った」(二―三節)。ホレブ山は、イスラエルの子たちがエジプトを出てから、紅海を過ぎて、約二か月の間に到着したところです(出十九・一)。カデシ・バルネアは、カナンの良き地の国境に位置し、神の栄光への嗣業の入り口です。正常な状態の下では、ホレブ山からカデシ・バルネアまではわずか十一日かかるだけで、良き地に入ることができます。その当時、イスラエルの子たちはただヨルダン川を渡るだけで、神の約束されたカナンの良き地に入り、そこに長く住み、享受することができました(申一・五―八)。

イスラエル人の状態
神はモーセを通してはっきりと語って言われました、「見よ、わたしはその地をあなたがたの前に置いた.入って行って、その地を所有しなさい.そこは、エホバがあなたがたの父祖、アブラハム、イサク、ヤコブに誓って、彼らとその後の子孫に与えられた地である」(八節)。神が彼らの父祖たちに与えると約束された良き地は、彼らが起き上がり、入って行ってその地を嗣業として所有するために、栄光の目標として、イスラエル人の前に置かれました。しかし、栄光の目標について語った後、モーセは転じて、イスラエル人が彼ら自身の間で争って、管理するのが難しいことについて語りました(九、十五節)。これが、彼ら嗣業を受けようとする者たちの真の状態です。神は、イスラエル人が栄光の良き地に入って、彼の栄光の民とすることを定められましたが、彼らの状態はふさわしくありませんでした。

カデシ・バルネアでの失敗
イスラエル人がカデシ・バルネアに着いたとき、モーセは言いました、「見よ、エホバ・あなたの神は、その地をあなたの前に置かれた.エホバ・あなたの父祖の神が、あなたに語られたように上って行き、それを所有しなさい。恐れてはならない.おののいてはならない」(二一節)。神はイスラエル人に何も考慮せず、ためらわず、調査もせずに、直接良き地に入ることを願われました。しかしながら、イスラエル人は神の約束を重んじませんでした。そして、提案して言いました、「わたしたちの前に人を遣わして、わたしたちのためにその地を探らせ……ましょう」(二二節)。これは、彼らが十分に神を愛さず、神に従っていなかったことを示しています。彼らはその地を探った後、エホバ・彼らの神の言葉に背いて、上って行こうとしませんでした(二六節)。これは、彼らの不信仰の邪悪な心を現しました(二七―二八、三二節)。

イスラエル人の不信仰の邪悪な心のゆえに、神は彼らを良き地に入らせないために、彼らに向きを変えさせ、荒野の中に入って行かせました(四〇節)。これは、神の統治上の御手が彼らに臨んだからです。しかしながら、イスラエル人は神の統治に従わず、むしろ、彼らはエホバの言葉に背き、かたくなになって山地に登って行って戦いました(四一―四五節)。最終的に、イスラエル人は打ち破られ、荒野をさまようことになりました。それは「三十八年であって、その世代のすべての戦士は、それまでに営所の中から滅ぼされてしまった」(二・十四)。イスラエル人は神を信じず、それにもまして、神の統治に従いませんでした。彼らの不信仰に加えて不従順は、彼らが神の厳密な統治上の取り扱いを被るようにしました。

カデシ・バルネアからゼレデ川を渡るまで
イスラエル人はカデシ・バルネアに来た後、三十八年間、荒野でさまよい、そしてゼレデ川を渡りました(二・十三―十四)。神が彼らをさまよわせられたのは、彼らの肉と不信仰の邪悪な心を完全に対処するためでした。時は神の道具であり、それによって神は彼の民を徹底的に対処されます。イスラエル人が荒野をさまよった日々は、わたしたちに明確な対照を示しました。ホレブ山からカデシ・バルネアまで、常識ではわずか十一日間の短い道のりですが、イスラエルの子たちは三十八年間、荒野をさまよった後に、神の約束された良き地に入りました(十四節)。十一日間の道のりは、神の目標が近く、到達しやすいことを示しています。三十八年間の漂流は、イスラエルの子たちの実際の状態が、長い時間の試練と対処が必要であることを示しています。神の見地からすれば、わたしたちが良き地に入ることは非常に簡単ですが、わたしたちの実際の状態からすれば、まだ荒野をさまよい回る必要があり、多くの試練と対処を経過した後に、神の嗣業を受けることができるということです。

ヨルダンの東の地を奪い取る
三十八年間のさまよいを経過した後、年老いた戦士や肉的な戦士、不信仰の戦士はすべて滅ぼされました(申二・十四―十六)。イスラエルの子たちの内にあるすべての不信仰と不従順の要素は、神の長い時間の裁きを通して、排除されました。そして神はイスラエルの子たちに、立ち上がって、ゼレデ川とアルノンを渡り、アモリ人の王シホンまたバシャンの王オグと戦うようにと命じられました。それは神がこの二人の王と彼らの民を、イスラエル人の手に渡されたからです(申二・二四上、三・一―二)。神はイスラエル人が彼らを滅ぼし、彼らの地を所有することを願われました(申二・二四下、三・八―十)。

その後、イスラエルの子たちは勝利を得て、その地を所有し始めました。彼らは以前カナン人、アラデの王を打ち破りましたが、彼らの地を所有していませんでした。なぜならその当時、彼らはそこにとどまらずに、前進する必要があったからです(民二一・一―三)。しかしながら、ヨルダンの東での彼らの勝利は、彼らがカナンの地に入ることの勝利の保証でした。彼らがカナンに入った後、神は彼らが以前にシホンとオグを絶滅させたように、すべての敵を絶滅させることを願われました(申二・二四―二五、三・二―三)。

モーセはヨルダン川を渡ることを禁じられる
モーセは四十年の間、神に忠信に仕えましたが、間違って岩を二度打って、神を正しく代行しなかったので(民二〇・七―十二)、良き地に入る権利を失いました。彼はイスラエルの子たちに、ヨルダンを渡って良き地を見させてくださるよう神に懇願しましたが、神は彼に対して激怒し、それを許されなかったと告げました。モーセはまた、神はヨシュアを選んで彼を継承させ、イスラエル人をカナンの地へと導かせられると言いました(申三・二五―二八)。

モーセは円熟した霊の人でした。彼は、神が良き地に入ることを禁じられたことについて、とても深い感覚を持っていたに違いありません。モーセは神の統治の御手に服従し、イスラエル人に、たとえ神が彼に入らせないとしても、前に置かれている麗しい地に、彼らが入ることを神は願っておられると告げました。このことからわたしたちは、神の統治がいい加減ではないことを見ます。神ご自身が証しされた忠信なしもべに対してさえ(民十二・七)、彼の統治上の御手はゆるみませんでした。申命記第三章におけるモーセの言葉は、神の統治が義で、厳格であることを示しています。彼がこれを語ったのは、イスラエル人が神に対して畏れる心を持つためでした。

将来の出来事を予言して、神の民に神ご自身を認識させ、
かつ自己の状態を警戒させる
モーセは過去を回想しただけでなく、またイスラエルの子たちに関する将来の出来事について明確な言葉を語っています。第四章二六節から三一節でモーセは言いました、「わたしは今日、天と地を呼んで、あなたがたに対して証しするが、あなたがたはヨルダンを渡って行って、所有しようとしている地から速やかに必ず滅び失せる.その所であなたがたの日を長くすることはなく、徹底的に滅ぼされる。エホバはあなたがたを民の間に散らされる.あなたがたのうち、エホバが追いやる諸国民の間に残される者はほとんどいない。あなたがたはそこで、人の手のわざである……神々に仕える。しかしその所から、あなたがたはエホバ・あなたの神を求め、あなたが心を尽くし、魂を尽くしてエホバを尋ね求めるなら、彼を見いだす。後の日に、あなたが苦しみの中にあって、これらすべての事があなたに臨むとき、あなたはエホバ・あなたの神に立ち返り、彼の御声に聞き従う。エホバ・あなたの神はあわれみ深い神だからである.彼はあなたを捨てず、あなたを滅ぼさず、あなたの父祖に誓った契約を忘れない」。これらの節は明らかに将来の事柄について語っています。イスラエルの子たちが神の愛と統治を知り、こうして自己の状態を警戒し、もはやあえて自己に信頼したり、自ら思い上がったりしないようにと言っています。

モーセはイスラエルの子たちに
神のおきてと規定を守るよう勧告する
モーセはイスラエル人に神のおきてと規定を守るよう厳粛に勧告しました。申命記第四章四〇節は言います、「わたしが今日あなたに命じている彼のおきてと戒めを守りなさい.それは、あなたも、あなたの後の子たちも幸いになり、エホバ・あなたの神が永久にあなたに与えようとしておられる地で、あなたが自分の日を長くするためである」。神の統治は畏るべきものです。イスラエルの子たちが神のおきてと規定を守るかどうかは、彼らが良き地に入って、それを相続することができるかどうかを決定しました。これはとても厳粛な事柄です。神はイスラエル人のために良き地を用意されましたが、彼らがそこに入ってそれを長い間、享受することが許されることは、彼らが神の統治にしたがって、神のおきてと規定を守ることにかかっていました。神の以前の行動と表明に基づいて、モーセは民に、自分自身に気をつけて、エホバ・彼らの神が彼らと結ばれた契約を忘れることがなく、自分のために偶像を造らないようにと勧告しました(二三節)。彼らがおきてと規定を守るなら、彼らも、彼らの後の子たちも幸いになり、神が永久に彼らに与えようとしておられる地で、彼らは自分の日を長くします(四〇節)。そうでないと、彼らは滅ぼされ、散らされます(二六―二七節)。

ヨルダンの東に庇護の町三つを取り分ける
次に、モーセは、ヨルダンの向こう側、日の出る方に、すなわち、ルベンの部族、ガドの部族、マナセの部族に属する地で、三つの庇護の町を取り分けました(四一―四三節、参照、十九・三)。これらは、以前から憎んでいなかったのに、誤って自分の隣人を殺した殺人者が逃れるためでした。これらの町の一つに逃れることによって、彼は生きることができました。この三つの町を取り分けることは、殺人者が復讐する者から逃れるためでした。誤って人を殺した者はその地に住む権利を失いましたが、庇護の町で、彼が失った権利を復興し回復することができました。この区分は、神の救いが完全に恵みの事柄であることを見せています。庇護の町が予表において啓示しているのは、もしわたしたちが自分の失敗のゆえに、神が約束された豊富な嗣業の享受を失ったなら、神の贖いを通してなおもそれを挽回することができ、良き地を享受する権利を回復することができるということです。

神の愛は変わらず、彼の信実は
彼の定められた御旨と予知にしたがって、
必ず彼の民を約束された良き地に入らせ、
完全な祝福を享受させる
モーセはどのようにしてイスラエルの子たちがエジプトから出て来て、過去に不従順であったか、そしてどのようにして彼らが再び将来また失敗するかについて語りましたが、モーセは失望しませんでした。申命記はイスラエルの子たちに対するモーセの栄光ある祝福で結んでいます。神の愛は変わりません。彼は信実であり、彼の定められた御旨と予知にしたがって、必ず神の民を約束された良き地に入らせ、完全な祝福を享受するようにされます。同じ原則で、召会がどれほど荒廃し、わたしたちがどれほど失敗しても、神は彼の変わらない愛の中で、召会を通して究極的に彼の栄光ある目標に到達し、わたしたちを彼の約束された豊富の中へともたらして、わたしたちが彼のすべての祝福を享受できるようにしてくださいます。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第4期第4巻より引用

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