召会は神の真のイスラエルである

真理

「イスラエル」の原文の意味は、神と格闘する者、あるいは神と共に王となる者、神の王子です。この言葉はまず聖書の創世記の中で見ることができます。神は、こうかつで奪い取る者であったヤコブを、イスラエル、神の王子へと造り変えられました。その後、神は彼の子孫を得てイスラエル王国とし、地上で神の権威を代行させました。これらはみな、新約における召会を予表します。今の時代の召会は神の真のイスラエルであり、この地上で神の権威を代行し、神の王国をもたらします。

旧約のイスラエル

神は、奪い取る者であったヤコブを
イスラエル、神の王子へと造り変えられた

ヤコブの天然の性質
ヤコブと兄のエサウは双子の兄弟でした。彼は母の胎内にいるときにすでに争っていました。ヤコブは生まれる時に、兄のかかとをつかんで生まれました。そして彼の父母のイサクとリベカは彼をヤコブと名付けました(創二五・二一―二六)。ヤコブという名の意味は、つかみ取る者、あるいはこうかつに押しのける者という意味です。彼の名は彼の本性と符合しました。彼は賢く、もくろみがあり、手腕があり、才覚があり、策略を多くめぐらす者でした。

ある時、ヤコブは兄が猟から帰って喉が渇いているのにつけ込んで、赤い煮物と兄の長子の権を取り替えさせました(二七―三四節)。その後にも、兄に扮装して父親の長子への祝福を奪い取りました。ですから兄エサウは彼を恨み、彼を殺そうと考えました。リベカはヤコブを彼女の兄ラバンの所へと逃がしました(第二七章)。ヤコブは伯父の家に行った後も、こうかつな手段で、ラバンのほとんどの財産を自分のものにしました(第三〇章)。

パダン・アラムでラバンの対処を受ける
ヤコブは、欺くという手段で父親の祝福を得ましたが、その結果は孤独に父親の家から離れ去り、荒野で野宿することになりました。彼がパダン・アラムの伯父、ラバンの家にいる時、彼の娘のラケルを好きになったので、彼女をめとるためにラバンに七年間仕えました。しかし七年が経過した時に、ラバンは長女のレアをヤコブに嫁がせました。そして次女の娘を彼に嫁がせるには、さらにヤコブに七年間仕えるように要求しました。このようにして、やり手だったヤコブは、更にやり手であるラバンに出会いました。ヤコブは二人の妻のために十四年間ラバンに仕えました。また羊の群れのために六年間ラバンに仕えました。昼は厳しい暑さに、夜は凍り付く寒さに悩まされて、眠りが彼の目から逃げ去りました。またラバンは報酬を十度も変えました(三一・四〇―四一)。ヤコブはラバンの手の下で二十年間、毎日苦しみを受け、日々対処されました。ヤコブは生まれつきこうかつな者でしたが、ラバンも十分にひどい者でした。

ヤボクの渡しで神と格闘した
これらの後に、ヤコブは父親の家に戻るようにと神に示されました(三一・十三)。家に戻る途中、四百人を率いてやって来る兄エサウと出会うことを心の中で恐れていました。彼は牛や羊の群れを一群れごとに兄エサウへと送り、エサウの怒りが打ち消されることを期待しました。彼はあらゆる方法を用いましたが、それでも安心できませんでした。ヤコブは夜中に起きて、妻や子たちを連れ、ヤボクの渡しを渡らせ、彼が持っているものすべてを渡らせ、彼一人だけ残りました(三二・二二―二四前半)。二十数年間で、神は各種の環境を用いてヤコブを対処されましたが、彼の天然の性質は依然として変わっていませんでした。

この時に、神は彼と格闘されました。夜が明けても、神は彼に打ち勝つことができず、神が彼のもものつがいに触れられると、ヤコブのもものつがいがはずれ、倒されました。しかしヤコブはそれでも神をつかんで去らせず、神に祝福を求めました(二四―二六節)。神は彼に言われました、「あなたの名は何というのか?」。ヤコブは言いました、「ヤコブです」。神は言われました、「あなたの名はもはやヤコブと呼ばれるのではなく、イスラエルとしなさい.あなたが神と人とに組み討ちして、勝ったからだ」(二七―二八節)。イスラエルの意味は神と共に支配するということです。神がヤコブの名を変えられたことが表徴するのは、これから後は、彼の天然の人、天然の能力と略奪が完全に停止され、彼の名は神の王子となり、神の権威が彼と共にあるということです。この対処を経て、ヤコブというこの人は完全に変えられました。彼の最も力のあったももは、神に触れられ、そして足を引きずるようになりました(三一節)。後に、ヤコブとエサウが再会した時、エサウは彼に何の恨みも持っていませんでした。エサウは彼を喜んで迎え入れました(三三・四)。これはすべて、神の御手が彼を守られたからであり、ヤコブのすべての計画は必要のないものでした。

ヤコブは対処を受け、
命の円熟へと到達し、神の権威を代行する
ヤコブが戻る行程の中で、彼の愛する妻ラケルは難産で死にました。彼が故郷の地に戻った後に、彼が心から愛していた息子ヨセフは、その他の息子たちの嫉妬により売られ、ヤコブはヨセフが死んだと思わせられました。ヤコブはしばらく悲しみに打ちひしがれていました。またその後に大飢饉に遭いました。ただエジプトには食糧があったので、ヤコブは子供たちにエジプトに食糧を買いに行かせました。

この時、ヨセフは神の保護と支配の下でエジプトの権力者となっていました。そしてヤコブをエジプトに迎え入れようとしました。ヤコブはこれを聞いても、喜びで神を忘れて行動するようなことはありませんでした。彼は先にベエル・シバに行って、神に犠牲をささげました(四六・一)。これが示していることは、ヤコブが徹底して神に対処されており、自己に頼らず、神に信頼すべきであることを知っていたということです。この時、ヤコブには多くの円熟した現れがありました。彼は難民の身分でエジプトへと下りましたが、何の貪欲さもなく、またパロを礼拝することもありませんでした。なぜなら彼の内側は神で満たされていたからです。彼はエジプトの最高の王の御前に立っても、自分自身を卑しい者とは感じておらず、パロよりも高貴さを表し、手を伸ばしてパロを祝福しました。彼は真のイスラエルであり、神の王子でした。最終的には、ヤコブは十二人の息子たちのために祝福し、それは神の彼らそれぞれに対する予言となりました(四九・一―二八)。このことが証明しているのは、ヤコブがいかに神の中で生き、神とミングリングされて一であったかということです。

表面的に見るなら、エジプトの権威はパロの手の中にあるようでしたが、実際にはヤコブの手の中に権威がありました。なぜならヨセフがエジプトにおいて権威を持ったことは、ヤコブが権威を持ったことだからです。ヨセフはヤコブに属するものでした。ヤコブは神のかたちを表現し、ヨセフは神の権威を表現しました。そうして、神の人における二つの目的が完全に達成されました。なぜなら、神はその人を得たことで、一方で神が表現され、もう一方で神の権威が代行されたからです。

イスラエルの家は、神の地上での
証しとしてのイスラエル王国となった
神の彼の選びの民における目的はイスラエルを生み出すことです。神が切望されたことは、一人のイスラエルを作り出すだけでなく、一つの家を得ること、すなわち神の地上での団体的な証しとして、また表現としてのイスラエルの民を得ることでした。創世記の終わりで、わたしたちはヤコブが造り変えられて神の王子となったことを見ます。彼は絶対的に神と一であり、神の御名を持ち、神を表現し、神と共に、また神のために王として支配しました。

ヤコブが家を離れ、荒野で野宿している時に夢を見ました。夢から目覚めた後に、ヤコブはその場所の名をベテル(その意味は神の家)と呼びました。そして枕としていた石を取り、柱として立てました(二八・十―二二)。しばらくしてから、神は信実に彼を無事に家へと戻しましたが、ヤコブは生涯において神の家を見ることはありませんでした。モーセが、ヤコブの子孫たちをエジプトから導き出し、幕屋を建てたとき、ベテルはイスラエルの民の間に実際に現れました。後に、ダビデが準備し、ソロモンが幕屋に替えて宮を建造したとき、ベテルが地上に建てられました。創世記の終わりで、神はご自身を表現する一人の人を得ました。しかし、出エジプト記の終わりでは、神は神を表現する幕屋(団体の人を表している)を得ました。この幕屋はベテル、すなわち神の家です。なぜならその時に、神はすでにご自身を神の民の中へと注入し、彼らを彼の住まいとされたからです。

幕屋が建造される以前に、神の家とほぼ等しいイスラエルの家は存在しました。なぜなら「イスラエル」というこの名の中には神の御名が表されているからです。「イスラエル」の最後の二つの文字は、「el」であり、ヘブル語の「神」という語です。イスラエルが増し加わり、イスラエルの家となることは、この家が神の家であるということを暗示しています。最終的には、イスラエルの家の中に幕屋を持ち、続いて聖なる宮を持ちました。この二つはどちらも、神の住まいとしてのイスラエルの家を表徴します。そして、イスラエルの民は、地における神の証しとしてのイスラエルの王国となりました。しかし、イスラエルの民は神を離れてしまい、国を失い捕囚となりました。そして、旧約におけるイスラエル王国は神の証しとしての立場を完全に失いました。

新約の召会は神の真のイスラエルである
ガラテヤ人への手紙第六章十五節から十六節でパウロは信者に言いました、「割礼も無割礼も重要ではありません.重要なのはただ新創造です。そして、この規範によって歩くすべての人、すなわち、神のイスラエルの上に、どうか平安とあわれみがありますように」。パウロはこの書簡の最後で、召会は新創造であり、神のイスラエルであると言いました。十六節で、「すなわち、神のイスラエルの上に」と言いました。「すなわち」が指しているのは、新創造の規範によって歩む者は、神のイスラエルであるということです。使徒はキリストにある多くの個人の信者たちは、団体的な面においては、神のイスラエルであると認識していました(ローマ九・六後半二・二八―二九ピリピ三・三)。それは、キリストにあるすべての異邦人信者とユダヤ人信者を含みます。彼らはアブラハムの真の子孫たち(ガラテヤ三・七二九)、信仰の家族の人たち(六・十)、新創造の人たちです。彼らは「新創造の規範」によって歩き、神のかたちを表現し、神の権威を執行します。これは、ヤコブが、イスラエル、神の王子、勝利者へと造り変えられたことで予表されています(創三二・二七―二八)。

肉のイスラエルと新約のイスラエル
現在のイスラエルの民は一九四八年に復興されましたが、彼らは肉におけるイスラエルの民です。しかし、神の目から見れば、イスラエルの国は真のイスラエルの民ではありません。なぜなら、彼らはこの世俗的で、この世界、あるいは宗教世界と何らの区別もないからです。彼らの状況はとてもこの世的であり、罪に満ちていて、少しも神を表現していません。わたしたち、これらの神の子供たち、すなわち新約の召会こそが真のイスラエルの民です。わたしたちが神の家の人であり、神が今日選ばれた民です。外側においては、わたしたちはイスラエルの民ではないかもしれませんが、内側では、わたしたちは真のイスラエルの民です。今日地上には二つのイスラエルの群れがあります。肉体におけるイスラエルの民、彼らはパキスタンの地に住んでいます。そして霊の中のイスラエルの民、すなわち召会、新創造の規範に従って歩む者たちがいます。外側のイスラエルの国は、神にあまり関心を持っていません、わたしたち召会の中の人たちには神に対して真に関心を持っています。

神の子たちと神のイスラエル
ガラテヤ人の手紙第三章二六節でパウロは言います、「あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰を通して、神の子たちであるのです」。神の子たちとして、わたしたちは彼の民、彼の家族の者たちです。しかし神の新約エコノミーは、わたしたちを神の子たちとするだけでなく、神のイスラエルとします。今、召会は神の家です。わたしたち信者は王なる神の家庭に生まれた者です(Ⅰペテロ二・九啓五・十)。

しかしながら、王なる神の家庭に生まれただけでは、神の子となるだけで、わたしたちを資格づけて王とならせることはできません。例えば、王の家に生まれた男の子は、成長して、正しく訓練されて、円熟してはじめて、王となることができます。英国で生まれた王子は、王の命を持っているかもしれませんが、英国の王となるには、王の命が彼の生活となるように少なくとも二十一年、鍛えられ、訓練される必要があります。彼は王位継承者として、王の方法で生き、振る舞い、語り、考え、行動し、人々と接触することを学ぶ必要があります。この王職の訓練が満ちたとき、彼は資格づけられ、王として冠をかぶることができます。

今日、キリストは、王となるように資格づけられた十分な数の信者を持つまでは、再来して、地を引き継ぐことができません。彼の願いは、彼ご自身だけでこの世を支配するのではなく、王の家族の人々と共に王としてこの世を支配することです。今、父なる神が、これらの王の命を持った神の子たちであるわたしたちを、王の生活をするようにと訓練しておられます。わたしたちはみな、王の命の中で訓練され、会話において、他の人と接触することにおいて、さらには買い物をするなどあらゆることにおいて、王の生活を持つことができるようになる必要があります。そうしてこそわたしたちは神の子であるだけでなく、神のイスラエルでもあります。

新創造となることと神のイスラエル
パウロは、召会は新創造であり、また神のイスラエルであると言います。新創造は召会の性質、内側の内在的で有機的な構成要素を指しています。旧創造は、わたしたちアダムの中にある、生まれつきの天然の古い人(エペソ四・二二)であって、神の命と性質を持っていません。新創造はキリストにある新しい人が(エペソ四・二四)、キリストの贖い、その霊の再生(ヨハネ三・六)、また神がご自身をわたしたちの中へと分与し、わたしたちが団体的に三一の神の有機的な結合の中へと入ることを通して生みだされるものです。この新しい人は神の命と性質を持ち(Ⅱペテロ一・四)、キリストを構成要素とし(コロサイ三・十―十一)、新しい構成となります。このように、新創造は、神の子供たちで構成された神聖な子たる身分の団体です(ガラテヤ三・二六)。この新創造は神の永遠の定められた御旨を成就し、神の子たる身分において神を表現します。

パウロは、わたしたちが新創造であるなら、真のイスラエルであると言います。新創造の規範とは、手順を経た三一の神がわたしたちの命また生活となり、また霊によって歩くことです(五・二五)。かかとをつかむ者、押しのける者であるヤコブは、神の王子また勝利者であるイスラエルへと造り変えられ、すべての消極的な事に打ち勝つことができました。旧約のイスラエルは、カナンの七部族を打ち破り、良き地を得、宮を建造しました。そして神の王国を地上へともたらしました。これらはすべて新約の召会の予表です。今日、神はわたしたち(召会)においても同じ事を行なわれます。今の時代の召会は、実際に地上で神の統治を執行し、神の王国をもたらすイスラエルとなる必要があります。ですからわたしたちは今、新創造の実際の中を歩み、王の生活をし、時々刻々と霊の中で生きることを訓練する必要があります。そして神がわたしたちの中へと造り込まれ、わたしたちに浸透し、わたしたちを神と一とし、新創造と真のイスラエルとなって、神を代行し、神の権威を執行し、神の統治を地上で遂行して、主の来臨をもたらし、彼の王国を建てます。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第4期第6巻より引用

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