時代の終わりと王国

真理

キリストの来臨の時、この時代は終結し、王国の時代がもたらされます。わたしは、今、すでにわたしたちの時代の終わりに来ていると深く信じています。神の目はすでに王国へと向いており、王国に集中しています。神が、彼の永遠の御旨において、すぐにもたらしたいと願っておられるもの、それが王国です。召会が召されたのも、王国のためです。

信者が、神の永遠の定められた御旨において、王国が占めている地位を見たなら、どれほど王国が速やかにもたらされることを願うでしょう。またどれほど神の子供たちが、どのようにして神と共に働き、この王国を速やかにもたらすのかを知ることを願うでしょう!

「この時代の終わり」とは何か
マタイによる福音書第二四章十四節は言います、「そしてこの王国の福音は、すべての民に対する証しのために、人の住む全地に宣べ伝えられる.それから終わりが来る」。ここでわたしたちは、王国の福音の宣べ伝えと終わりが来ることの間の関係を見ます。その「終わりが来る」時期とは、この時代、すなわち召会時代の終わりを指しています。預言の研究にしたがって厳格に言うならば、それが指しているのは、わたしたちの現在の時代を終わらせる「大患難」の短い期間です。聖霊の時代、召会の時代、恵みの時代、福音の時代は、わたしたちのこの時代に与えられたさまざまな名称です。これらの名称で呼ばれる時代は、「終わり」、すなわち「大患難」で終結されるでしょう。

王国の来臨の条件
召会は、神と共に働いて彼の王国をもたらす責任があります。同時に、神の王国は終わりの時(大患難)の後になって、形をもってやってきます。こういうわけで、召会は終わりの時に注意を払わなければなりません。終わりは、王国がやってくる前に来なければなりません。ですから、王国がやってくるためには、まず終わりがやってこなければなりません。大患難とわたしたちの時代とは関係がありますが、大患難と召会には直接の関係はありません。また、信者の携え上げも「終わり」の支配を受けません。「終わり」そのものは召会と関係ありませんが、それは召会の働きとは大いに関係があります。ですから、召会はこの終わりに関して注意する必要があります。

主イエスが十四節で言われた意味は、王国の福音が宣べ伝えられた後にのみ、この時代の終わりがやってくるということです。言い換えれば、王国の福音が広く伝えられてはじめて、王国がやってくるということです。主イエスは、この時代が速やかに終わり、王国がやってくるために必要な条件について語っておられます。彼はまた、この時代の終わりと王国が到来する時の状態についても預言しておられます。この時代をもし終わらせるのであれば、神の子供たちは王国の福音のために、新たに証しをしなければなりません。この時代の終わりの時に、わたしたちは王国の福音の復興を見なければなりません。

神の王国と王国の福音

王国とは悪鬼どもを追い出すことである
わたしたちは、王国とは、キリストと召会が支配する時代であることを知っています。しかし、王国は、これよりも深い意義があります。ですから、わたしたちは、主イエスが王国に関して何と言われたのかを見てみましょう。主はマタイによる福音書第十二章二八節で言われました、「しかし、わたしが神の霊によって悪鬼どもを追い出しているのであれば、神の王国はあなたがたに臨んでいるのである」。王国は多くのことを意味しますが、主がここで言っておられることには、最も重要な意味があります。

ここで、わたしたちに示されている重要なことは、王国がハデスと大いに関係があるということです。主イエスは、王国とは悪鬼を追い出すこと、すなわち神の霊が働くことによって悪鬼を追い出すことであると言われました。これが、王国の正確な意味です。現在の聖書解釈における大きな欠陥は、ハデス、すなわちサタンの暗やみの力を忘れてしまっていることです。召会は、その地位、働き、思想、言論における唯一の敵、すなわちサタンを往々にして忘れてしまっています。神が召会を選ばれたのは、召会がサタンに対抗し、暗やみの権威を対処し、神の王国をもたらすためであったということを認識していないのです。こういうわけで、新約で召会が最初に言及される時、それはハデスに結び付けられています、「そこでわたしもあなたに言う.あなたはペテロである.わたしはこの岩の上に、わたしの召会を建てる.ハデス[陰府]の門も、それに勝つことはない」(マタイ十六・十八)。建造された召会は、ハデスの門に打ち勝ちます。

王国とはサタンに対する裁きを
執行することである
王国は千年間であること、このことをわたしたちは知っています。では、この千年間とサタンとはどのような関係があるのでしょうか? 啓示録第二〇章一節から三節は言います、「またわたしは、一人の御使いがアビスのかぎと大きな鎖を手に持って、天から下って来るのを見た。彼はあの龍、すなわち悪魔でありサタンである太古の蛇を捕まえ、千年の間縛って、彼をアビスの中へと投げ込み、彼の上でそれを閉ざし、封印して、その千年が終わるまで、彼がもはや諸国民を欺くことがないようにした.これらの事の後、彼はしばらくの間、解き放たれることになっている」。これはサタン自身が縛られて、アビスに投げ込まれる時であると告げています。これは、サタンの最も辱められる時です。

コリント人への第一の手紙第六章三節は言います、「あなたがたは、わたしたちが天使をも裁くようになることを、知らないのですか?」。この節は、召会が将来、罪を犯した天使を裁くようになることをわたしたちに見せています。罪を犯したこれらの天使たちは、サタンと共に神に反逆しました。彼らは、今日の支配たち、権威たちであり(エペソ三・十)、またダニエル書における王国の君です。神は、わたしたちが彼らを裁くと言われました。いつわたしたちは彼らを裁くのでしょうか? わたしたちが彼らを裁くのは、キリストが再来し、彼の王国を設立される時です。

王国とは、サタンがアビスにいる時であることを、わたしたちは見る必要があります。王国とは、支配たちと権威たちが裁かれる時です。ハデスの力は、王国の時に滅ぼされるでしょう。王国の時には、サタンの手下の獣(反キリスト)と偽預言者たちは、火の池の中へと投げ込まれるでしょう(啓十九・二〇)。その他すべての無数の悪霊はこの世から追放され、獄に入れられるでしょう。サタン自身は公に辱められ、アビスで千年間の暗やみの生活を過ごします。これは、サタンの家が崩壊する時でしょう。これが王国の時です。それはまた、神の子供たちが解放され、神の十字架が完全な勝利を得る時でもあるでしょう。それは、永遠の過去に立てられたサタンに対する神の意図が成就される時でしょう。それは、イザヤ書第十四章が成就される時でしょう。それが王国の時でしょう。この王国においては、サタンはもはや力を持たないでしょう。

王国の福音は
特に暗やみの力を対処するためである
もし王国の福音と恵みの福音とを区別しようとするなら、わたしたちに言うことができるのは、恵みの福音は特に罪人と関係があり、一方、王国の福音は特に悪鬼を対処することと関係があるということです。恵みの福音は罪と祝福に対するものであり、王国の福音は暗やみの力に対するものであり、サタンの圧迫に対するものです。

使徒ヨハネは、わたしたちに告げています、「このために、神の御子が現れました.それは、彼が悪魔のわざを破壊するためです」(Ⅰヨハネ三・八)。わたしたちが、福音書を注意深く学ぶなら、主イエスはその生涯を通じて、悪魔の働きを滅ぼしておられたことがわかるでしょう。主イエスが最初に王国の福音を宣べ伝えた時、彼が病人をいやし、悪鬼を追い出すというような彼のすべての働きは、暗やみの力を対処するためでした。悪鬼を追い出すことは、確かに暗やみの力を滅ぼすことですが、病人をいやすことについてはどうでしょうか? 使徒はわたしたちに説明しています、「(イエスは)悪魔にしいたげられている人たちをすべていやし」(使徒十・三八)。こういうわけで、この世における主の働きは、人に対するよりも悪鬼に対してより大きな効果を生み出しました。

このように、王国の福音とは何か他のものではなく、それは神(今日、天で支配しておられる)がこの地上を支配し、今日のこの世の支配者をその使いや悪霊たちと共に完全に追い出し、人(すなわち、キリストと召会)が神のために支配することができるようになることです。主イエスは、この終わりの時代に、彼の子供たちのある者たちが立ち上がって、この証しを担うであろうと言われました。多くの神の子供たちが立ち上がって、サタンに対して戦い、霊的戦いが多くの信者たちにおいて、確かな事実となり、単なる一つの名詞ではなくなるとき、わたしたちは真にこの時代の終わりにいるのです。

王国の福音は召会時代を終結させる
神の王国がやってきて、神の統治がこの世に現れ、悪魔とその支配が追い払われるのを見たいのであれば、わたしたちは立ち上がり、天の王国の福音のために証ししなければなりません。言い換えれば、わたしたちは、キリストの十字架の勝利に対する証しを担わなければなりません。「キリストはすでにこの世の君を裁き、彼は完全に勝利を得られた。王国と栄光と力はすべて彼のものである。サタンはこの時代においてもはや何の地位もなく、不法に占拠しているのにすぎない」と、わたしたちは宣言すべきです。すべて主イエスを受け入れた者は、暗やみの力から救い出されており、彼の愛する御子の王国へと入ったのです。わたしたちは、王国の福音を、悪鬼を追い出す福音を、サタンの敗北の福音を、ハデスの滅びの福音を宣べ伝えるべきです。このような証しが、この時代を終結へともたらします。

この時代は召会の時代です。なぜなら、召会はただこの時代にだけ現れるからです。しかし、同時に聖書はこの時代を、「邪悪で姦淫の世代」(マタイ十二・三九)、「不信仰でよこしまな世代」(十七・十七)、「曲がったよこしまな世代」(ピリピ二・十五)と呼びます。神の目的は、この時代を終わりへともたらすことです。神の願いは、この時代の終わりが速やかにやってきて、彼の王国がそれに続いてやってくることです。しかしながら、神の子供たちには果たすべき義務があります。神の子供たちは神と共に働いて、この時代を終結へともたらすべきです。わたしたちは主イエス・キリストの「王」たることのゆえに、前例のない新しい方法で立ち上がり、彼の「統治」のために前例のない新しい方法で証しすべきです。反キリストの王国が、キリストの王国の前にやってきます。わたしたちは、反キリストの王国がやってくる前に、キリストの王国のために証しすべきです。わたしたちはこの時代を、終わりへともたらすべきです。

王国の福音は、新しい福音ではありません。なぜなら、主イエスが死んで復活された後に、「ご自分が生きておられることを、多くの確かな証拠によって彼らに示し、四十日にわたって現れ、神の王国についての事柄を語られ」たからです(使徒一・三)。また使徒たちも、「神の王国について厳かに証しした.……大胆に、妨げられることなく、神の王国を宣べ伝え、主イエス・キリストについての事柄を教え続け」ました(二八・二三、三一)。もしわたしたちが使徒たちの真の後継者となりたいのであれば、使徒たちの証しを担わなければなりません。この王国の福音は、召会によって軽んじられてきた福音です。召会は、キリストの勝利、威厳、王権を忘れてしまいました。「キリストのみが王であり」、「サタンは王ではない」ことを証しする者たちが、真に王国の福音を宣べ伝える者たちです。

時代に適合した福音
今日、ただキリストの王国の福音だけがこの時代に適合します。わたしたちは「この時代の落後者」となるべきではありません! わたしたちは、他のことを何も宣べ伝えるべきでないと言っているのではありません。わたしたちはただ、神はわたしたちがこのことに特別な注意を払うのを望んでおられると言っているのです。わたしたちは、神がこの時代のために定められたすべてのことに追いつかなければなりません。もしわたしたちがこの事柄において神と一つでなく、神が注意を払われることに注意を払わなければ、たとえどれだけ多くの働きを行なったとしても、わたしたちは神の永遠の定めを達成することはないでしょう。今日わたしたちが必要とするのは、この時代に適合するクリスチャンです。神は、彼に同意し、彼と共に働き、この時代を終結させ、神の王国をもたらす一群れの人々を得る必要があります。

クリスチャンが福音を宣べ伝えて人を救うことは、当然ですがどんな働きにも比べることのできない栄光に満ちた働きです。しかし、人のために人を救っているなら、神の最高の目的を達成しているのではありません。クリスチャンにはこの世において魂を救うことよりもさらに大きな責任があることを知らなければなりません。それはこの時代を終わりへと導き、神の王国をもたらすことです。クリスチャンの最大の責任は、神の敵サタンと、すべての暗やみの権威とを共に滅ぼすことにあります。クリスチャンのすべての働きは、これを最終の目的とすべきであることを、彼らは見なければなりません。祈りは、ただ祈りのためだけにあるのではなく、サタンに損失を被らせるためです。わたしたちは何を行なおうとも、サタンに損失を被らせるという目的で行ないます。わたしたちは、人を救う働きを軽視しませんが、人を救う時に王国の面を見失うべきではありません。神のみこころと神の敵に関係のある神の王国を常に自分の前に置いている者は、神の御手の中で最も有用な働き人です。

神は、終わりがやってくることを願われます。しかし、もし神の子供たちが彼と共に働いて、この時代に対抗し、神の時代(王国)をもたらそうとするのでなければ、神はそれを遅らせるでしょう。神の子供たちが立ち上がって王国の福音のために証しする時、神の子供たちは、真にこの時代の状況を憎み、神にこの時代を終わらせてくださり、王国が彼らに与えられるように求めるでしょう。彼らは神が望まれるものを望み、神が憎まれるものを憎み、彼らの意志と神の思いが結合され一になり、そして神は立ち上がって働かれるでしょう。わたしたちは、終わりがそれ自身、自然にやってくると決して考えるべきではありません。もしわたしたちが神のみこころを拒絶するなら、彼のみこころは妨げられます。神は、神と一となり、神と共に働く者たちを待っておられます。それは、神がこの時代の終わりをもたらすためです。わたしたちがみな、主と一つ心となって、このような働きをする人となることができますように!

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第5期第3巻より引用