青銅の蛇と罪の肉(肉体)の様

真理

蛇と罪と肉(肉体)は聖書の中でどれも肯定的な用語ではありません。
しかし、主イエスはご自身を「青銅の蛇」にたとえられ(ヨハネ三・十四)、
使徒パウロもまたキリストが「罪の肉(肉体)の様」で神に遣わされたと言っています(ローマ八・三)。
この二つの用語はキリストの贖いととても大きな関係があります。
わたしたちはこれに対して正確な認識を持つとき、真理を間違いなく理解できます。
(注)日本語では「flesh」という言葉を「肉」または「肉体」と訳していますが、本編では中国語のミニストリー・ダイジェストの表現に近い表記「肉(肉体)」と訳しました。

ヨハネによる福音書第一章二九節で、バプテスマのヨハネはイエスが自分の所に来られるのを見て言いました、「見よ、世の人の罪を取り除く神の小羊!」。ここで、キリストは小羊の予表の成就であり、真に世の人の罪を取り除く、罪のためのささげ物と違犯のためのささげ物でした。しかし、第三章十四節で主イエスは言われました、「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければならない」。この節で、キリストはご自身を、モーセが荒野で上げた蛇にたとえておられます。

ですから、小羊がキリストの予表であるだけでなく、青銅の蛇もキリストの予表です。この予表はどのような意義があるのでしょうか? 実際的には、この予表はキリストが、「罪の肉(肉体)の様」で成し遂げられた贖いと、大きな関係があります。

青銅の蛇
民数記第二一章で、わたしたちはモーセが荒野で上げたのは、毒を持つ実際の蛇ではなく、青銅の蛇であったことを見ます(四―九節)。当時モーセはイスラエル人たちをエジプトから連れ出し、荒野へともたらしました。神の民は、その道に心の中で耐えられなくなって、神とモーセに言い逆らいました。そこで、神は火の蛇を民の間に送られたので、多くの人がかまれて死にました。イスラエルの民はモーセに、自分たちのために祈って、これらの蛇を去らせてもらうよう求めました。モーセは彼らのために祈り、神はモーセに言われました、「一つの火の蛇を作り、それを竿の上にかけなさい.かまれたすべての者は、それを見れば生きる」(八節)。そこでモーセは一つの青銅の蛇を作り、それを竿の上にかけました。もし蛇にかまれたとしても、その者が青銅の蛇を見ると、生きました(九節)。この青銅の蛇はキリストを予表します。また予表では、青銅は裁きを表徴します。

イスラエルの子たちが火の蛇によってかまれたとき、彼らは神の目に蛇となりました。彼らは蛇であり、蛇の性質を持っていました。しかしながら、青銅の蛇は蛇の形を持っているだけで、蛇の性質は持っていませんでした。ですから、青銅の蛇は、キリストの予表となり得ます。青銅の蛇は竿にかけられましたが、この竿は十字架を表徴します。荒野には竿にかけられた青銅の蛇があり、これはキリストが十字架上で神の民の身代わりとなられたことの予表です。蛇にかまれて蛇の性質を持つようになったイスラエル人は、本来神の裁きを受けて死へと至るべきでした。しかしながら、神の救う方法にしたがって、その蛇の形だけを持ち、蛇の毒を持たない青銅の蛇が竿の上にかけられたとき、彼らの身代わりとなって、神の裁きを受けました。

実際、人類の先祖であるアダムが蛇に誘惑され、蛇の提案を受け入れた時、アダムはすでに蛇にかまれ、蛇の毒素はアダムの内側に入り、全人類の中にも入ってきました。ですから、わたしたちはみなすでに蛇になっており、内側にみな蛇の毒の性質を持っています。これゆえに、キリストは上げられた青銅の蛇となり、わたしたち、すなわち蛇の性質を持つ人の身代わりとして、神の裁きを受け、わたしたちの内側のサタンのあの古い蛇の性質を対処しました。このように、竿の上にかけられた青銅の蛇は罪のためのささげ物を予表しており、わたしたちの外側で犯した罪の行為を担うためではなく、わたしたちの内側の堕落した性質における罪を対処しました。

キリストは罪の肉(肉体)の様にある

言は肉体と成った
ヨハネによる福音書第一章十四節は、言は肉体と成ったと言います。ここで言は「人」と成ったとは言わず、言は「肉体」と成ったと言います。この言は神の御子であり、彼が世に来て人と成られた時、人はすでに古くなっており、また肉(肉体)と成っていました。聖書において、特に新約聖書において、肉(肉体)は堕落した人を示します。聖書は、神は人を創造されたと告げていますが、肉(肉体)を創造されたとは告げていません。創世記第一章は、神は人を創造された後、「神は造ったすべてのものを見られた.すると見よ、それは非常に良かった」(三一節)と告げています。これは、神が造られた人は、非常に良かったことを示しています。しかしながら、創世記第三章において、神の造られた人は古い蛇に誘惑され堕落し、さらに進んで堕落した肉(肉体)となりました(六・三)。ローマ人への手紙第三章二○節は、「律法の行ないによっては、いかなる肉(肉体)も、神の御前に義とされないからです」と言います。ノアの時代に神が洪水を送られた理由は、人が肉(肉体)と成ってしまったので、神は人を滅ぼそうとしたのです(創六・七)。しかしながら、神の御子は肉体と成られました。神の創造された人と、肉体にはとても大きな違いがあります。肉体はすでに堕落した罪のある人を指しています。それでは、神の御子は一人の堕落した人になったのでしょうか?

罪の肉(肉体)の様
肉(肉体)は堕落した人を指します。では人とイエス、肉体と成った神の御子との間には、何の違いがあるのでしょうか? ローマ人への手紙第八章三節は言います、「律法が肉(肉体)のゆえに弱くて、なし得なかったので、神は、ご自身の御子を罪の肉(肉体)の様で、罪のために遣わし、肉(肉体)において罪を罪定めされました」。神は彼の御子を罪の肉(肉体)の様で遣わされました。ここでパウロは「罪の肉(肉体)の様」という用語を用いています。この用語には、三つの重点――罪、肉(肉体)、様――があります。もしパウロが、神は彼の御子を人の様で遣わされたと言ったなら、これは理解するのは難しくなかったでしょう。しかしパウロはあえて特別に、神は彼の御子を罪の肉(肉体)の様で遣わされた、と言いました。

これは前述の青銅の蛇の予表と関係があります。あの古い蛇はわたしたちの肉体の中にいます。キリストは肉体と成られました。しかもサタン、あの蛇は肉体と関係があります。ですから神の目には、キリストの肉体が十字架に釘づけられた時、一匹の蛇のようでした。しかし、彼はただ蛇の形と様を持つだけで、蛇の毒、罪深い性質は持っていませんでした。キリストが蛇の形の中にあったことは、言い換えると、肉(肉体)の様の中にあったということです。

もしわたしたちが、キリストは肉(肉体)と成った、そして彼の肉(肉体)の中にはサタンがいたと言うなら異端です。しかしながら、キリストは肉体と成った、そして肉体の中には(キリストの肉体ではない)サタンがいたと言うのは正しいです。真理を明らかにするために、わたしたちは弁護士に学ばなければなりません。彼らはその話において多くの修飾語を用います。そして彼らは非常に注意深く、細心で、詳細です。例えば、聖書は、言は肉体と成ったと言いますが、これは言が何か罪深いものになったという意味ではありません。聖書はまた、キリストを蛇にたとえますが、それはキリストを何か毒の性質を持っているという意味ではありません。パウロは、神は罪の肉(肉体)の様で彼の御子を遣わされたと言います。またヨハネによる福音書第三章十四節の蛇は、民数記第二一章の予表によると、青銅の蛇でした。それはただ蛇の形、様を持っているだけで、毒の性質はありませんでした。肉体は堕落した人を指し、それは罪のあるものです。しかし神の御子としてのキリストは、罪の肉(肉体)の様で人と成り、罪を持っていませんでした(参照‥Ⅱコリント五・二一)。彼は堕落した人の様の中にありましたが、堕落した人の堕落した性質は持っていませんでした。彼は肉体と成った時、旧創造の一部となりました。肉(肉体)は旧創造の一部であるからです。

わたしたちはまた、神の敵、サタンが、堕落を通して人の堕落した肉(肉体)の中に入り込んだことも認識しなければなりません。人の堕落した肉(肉体)の中にはサタンがいます。そしてサタンと共にサタンの体系、この世があります。キリストが人として十字架上で死なれたのは、この堕落した肉(肉体)の様においてでした。ですから、肉体における彼の死を通して、彼は悪魔、サタンを滅ぼし(ヘブル二・十四)、この世を裁きました(ヨハネ十二・三一―三三)。

サタンは罪であり、肉(肉体)の中にいる
ローマ人への手紙第七章はわたしたちに、サタンと罪がどのように堕落した人の肉(肉体)の中にいるかを見せています。この章は、罪は人の肉(肉体)の中にいると告げ、罪は人格化されています。罪は人を欺き、殺すことができ(十一節)、それは人の中に住み、彼らの意志に反して事を行なわせることができることを示します(十七二〇節)。罪は非常に活発で(九節)、とても主導的です。ですから、罪は堕落した人類の中に住み、行動し、働いているあの邪悪な者、サタンの邪悪な性質に違いありません。ローマ人への手紙第七章の罪はパースンです。このパースンは罪の源、起源です。サタンであるこの罪は依然として、わたしたちが救われた後も、わたしたちの肉(肉体)の中に残っており、生き、働き、動いています。わたしたちの肉(肉体)の中にある罪はパースンであり、それはわたしたちの霊の中の神聖な命がパースンであるのと同じです。わたしたちの命なるこのパースンはキリストであり、わたしたちの霊の中にいます。そして、罪としてのサタンはわたしたちの肉(肉体)の中にいます。もしわたしたち救われた者が、注意して目を覚まして祈っていないと、この邪悪な者はわたしたちをそそのかして、罪深い事を行なわせます。わたしたちの肉(肉体)の中には欲があり(ガラテヤ五・十六)、この欲はわたしたちの肉(肉体)の中にありサタンと関係があります。

キリストはご自身を罪深い肉(肉体)に結合させた、
しかし罪はない
すでに述べたように、キリストは肉体と成りました(ヨハネ一・十四)。堕落した人の肉体(キリストの肉体ではない)の中には、人格化された罪であるサタンがいます。しかしキリストには罪がなく、ある人たちはそれを理解できません。わたしたちははっきりしていなければなりません。神の言である主イエスが肉体と成った時、彼は人の父から生まれたのではありません。聖霊によって、人の母から生まれたのです(マタイ一・十八)。わたしたちの肉(肉体)は罪深い肉(肉体)です。それは女を伴う男からのものだからです。しかしイエスの肉(肉体)はただ女からのものであり、男からのものではありません。こういうわけで、彼の肉(肉体)は罪深くはないのです。わたしたちの肉(肉体)は肉(肉体)であるだけでなく、罪深い肉(肉体)です。しかしキリストの肉(肉体)は罪深い肉(肉体)ではありません。イエスの肉(肉体)は確かに罪深い肉(肉体)に結合されました。しかしながら、下の図のように、罪の要素は点線の下の肉(肉体)の領域にあり、点線の上の場所にはありません。点線の下の肉(肉体)の領域にはサタンがいます。しかし点線の上の肉(肉体)の領域には神がおられます。


上の図が示しているのは、イエスの肉(肉体)と堕落した人の肉(肉体)という二つの領域が一緒に結合されていても、点線で分離されているということです。神が点線の上の肉(肉体)の領域におられたので、罪はこの線を通り抜けて侵入することはできませんでした。神は彼の敵(サタン)にとってあまりにも強すぎるからです。サタンは点線の下の肉(肉体)の領域に制限されました。福音書で、わたしたちは、その霊はイエスを悪魔に試みられるために荒野へと導きさえしたことを見ます。彼は四十日四十夜断食した後、三度、悪魔に試みられました(マタイ四・一―十一)。サタンはイエスの肉(肉体)の中へ入ろうと一度、二度と試みましたが、成し遂げることができませんでした。

このように、肉(肉体)には二つの部分があります。主要部分は罪深く、小さい部分は罪深くありません。主要部分にはサタンがいて、小さい部分には神がおられます。イエスの三十三年半の生涯の間、サタンは境界線を通り抜けて、イエスの肉(肉体)の中に入ろうとしてずっと戦っていました。しかしながら、彼は通り抜けることはできませんでした。神は彼より強いので、常に彼に抵抗しておられたからです。言は肉体と成った時、神はご自身を肉体に結合させました。その後、キリストが十字架に行かれた時、彼は肉体に死を注入することによって、サタンと罪を含む肉(肉体)の全領域を死に渡しました。イエスは彼の肉体を十字架にもたらされた時、肉体の中のサタンと罪をも十字架にもたらされました。そして彼はサタンと罪を含む肉(肉体)、すなわち彼が結合されていた肉(肉体)の中へ死を注入しました。キリストはすでに十字架上で古い蛇サタンを釘づけられたので、サタンはこの死を拒むすべがありませんでした。ヘブル人への手紙第二章十四節は、十字架上のイエスの死は、死の権能を持つ者、すなわち悪魔を滅ぼしたことを告げます。この驚くべき、すばらしい、すべてを含む、勝利の死はサタンと罪の居住していた肉(肉体)を殺してしまいました。

キリストが青銅の蛇として完成した贖いの効果

キリストはわたしたちに代わって罪とされた
キリストは青銅の蛇として、罪の肉(肉体)の様の中で来られました。すなわちキリストは、わたしたち堕落した罪深い人に代わって罪とされたことを予表します。しかし彼には罪はありませんでした。コリント人への第二の手紙第五章二一節が言っているように、「神は罪を知らなかった方(キリスト)を、わたしたちに代わって罪とされました」。主イエスが十字架に釘づけられていた最後の三時間、正午の十二時から午後三時に至り(マタイ二七・四五)、わたしたち肉(肉体)の中の罪人のために死なれました。その時、神は彼をわたしたちに代わって罪とされ、神の裁きを受けさせ、わたしたちを死から命へと救ったのです。それは当時のイスラエル人が火の蛇にかまれた時、神はモーセに青銅の蛇を作って竿に上げるように命じられ、青銅の蛇が蛇に毒されたイスラエル人に代わって、神の裁きを受けたようにです。

キリストは
罪の肉(肉体)の様を持っているだけで
罪の毒素は持っていない
青銅の蛇は、蛇の形を持っているだけで、蛇の毒素は持っていませんでした。これはキリストが罪の肉(肉体)の形、様で来て(ローマ八・三)、わたしたちの身代わりとなることの完全な予表です。肉(肉体)は罪からですが、キリストは肉体と成りました。しかしながら、彼は肉(肉体)の様であるにすぎず、肉(肉体)の罪を持っていませんでした(へブル四・十五)。彼は外側の形においては罪深い人と同じでしたが、内側に罪の性質は持っていませんでした。これは青銅の蛇が蛇の形、様を持っていましたが、蛇の毒は持っていなかったようにです。罪を知らなかったそのようなキリストだけが、罪によって毒されているわたしたち罪人に代わって神の裁きを担い、また人を毒したサタンを対処することができました。

キリストは肉体において十字架の死を通して、
罪を罪定めされた

キリストはわたしたちのために肉体と成り、肉体において、罪深い性質を持つわたしたちに代わって神に裁かれました。彼が十字架で死なれた時、神は罪を知らなかった方をわたしたちに代わって罪とされました(Ⅱコリント五・二一)。これを通して、神は肉(肉体)において罪を罪定めし、わたしたちのために罪を裁き、わたしたちの性質における罪と、それに属する罪深い性質を対処されました(ローマ八・三)。その結果、わたしたちは彼を信じることによって、永遠の命を持ちます(ヨハネ三・十五)。これは蛇に毒されたイスラエル人が、竿の上の青銅の蛇を見ることによって生きたのと同じです。わたしたちの罪は取り去られ、わたしたちの蛇の性質は対処され、サタンはわたしたちの中で滅ぼされました。このようにして、わたしたちは神の命を持ちます。

キリストは肉体において十字架で釘づけられ、
永遠の贖いを完成された
イエスは肉体と成り、十字架上で死んで、贖いにおけるわたしたちの赦しのために必要な人の血を提供しました。しかしもし彼が単に人として死んだだけだとしたら、彼の死の効力は永遠ではなかったでしょう。イエスの死の効力は永遠です。なぜなら彼はまた神であり、空間における制限も、時間における制限もありません。彼の人性はわたしたちのために死ぬ資格を彼に与えます。また彼の神性は彼の死の永遠の効力を保証します。この死において、罪は罪定めされ、サタンは滅ぼされ、この世は裁かれ、罪の肉(肉体)を持つ人も同時に十字架につけられました。これは奥義的な、卓越した、驚くべき、勝利の死です。キリストの肉体における死は、わたしたちに対する非常に大きな嗣業であり、新約の偉大な遺贈です。

どうか主がわたしたちに、青銅の蛇としてのキリスト、そして彼が罪の肉(肉体)の様において完成された贖いに対して、はっきりした正確な認識を持たせてくださいますように。また、キリストがわたしたちの罪のためのささげ物の実際であり、彼がわたしたちの身代わりに死なれ、彼の死を通してサタンは滅ぼされ、今わたしたちは、彼がわたしたちのために完成された永遠の贖いを享受することができることを見せてくださいますように。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第2期第4巻より引用

タイトルとURLをコピーしました