神の定められた御旨を完成することは、人が協力して神の定めを補うことを必要とします。これはサムエルの事例によって例証されます。サムエルはナジル人であり、神によって定められた不完全な祭司であるエリを補い、祭司の務めを行ないました。サムエルはアロンの家の者ではなく、彼はささげることで、分離され聖別され、神に貸されることによって、祭司になりました。ですから、サムエルが祭司となったのは、横の扉を通ってであり、正門から入ったのではありませんでした。祭司となったことは、民数記第6章の補充に従ったものであり、選ばれて任命されることに従ったのではありませんでした。
神の祭司職に対する補充
聖書から見て、祭司とは自分自身を神に開き、神を彼にミングリングさせる人です。神が彼の内容であり、彼が神の表現である、これが祭司です。アダムにある受造の種族が堕落した後、神はアブラハムを選び、彼からイスラエルの部族が生み出されました。神の願いはイスラエルという国全体が祭司の王国となることでした。しかし、イスラエルが失敗したため、神は全イスラエルの代わりにレビの部族を神に仕えるように任命し、レビの部族の中でアロンの家だけが祭司として選ばれました。
神はレビの部族のアロンの家だけを祭司として選び、任命されたのであって、幕屋に仕える他のレビの部族の者はだれも祭司ではありませんでした。もし、アロンの家が神に忠実でなかったなら、あるいは、神を捨ててしまったとしたら、神はどうすればよいのでしょうか? 予見通り、エリの息子たちの時代になって、アロンの家は徹底的に堕落してしまいました(サムエル上二・十二―十七)。そこで神は民数記において、万が一の備えとして補充の規定、すなわち「ナジル人の原則」をあらかじめ用意されました。それは、もしアロンの家が失敗したとしても、神は不測の事態に備えて「横の扉」を開いておられるということです。
自ら願って献身する
民数記第六章二節から三節で、神はモーセに言われました、「(あなたは)イスラエルの子たちに語って言いなさい、『男でも女でも特別な誓願、ナジル人となる誓願をして、自分をエホバへと分離するときは、ぶどう酒や強い酒から自分を分離しなければならない.ぶどう酒の酢や強い酒の酢を飲まず、どのようなぶどう液も飲まず、もぎたてのぶどうも干しぶどうも食べてはならない』」。ヘブル語の「ナツァル(nazar)」は、ナジル人という名詞の語根であり、「分離する」という意味です。ナジル人は、特別な誓願によって、自らを神へと分離し、聖別します。祭司として生まれた者は、神が発起し、神が定められた者ですが、誓願によってナジル人となった者は、自分自身が発起し、自分自身によって神へと分離した者です。神が一つの家族(アロンの家)を祭司として定めたことは、他のすべての者をこの機会から排除しました。しかし、ナジル人の誓願は、門を開き、神のすべての民に同等の機会を与え、戦士として(士十三・五)、あるいは祭司として(サムエル上一・十一、二・十一)神のために絶対的にならせます。ですから、すべての人がナジル人になることができるのです。願いのある者はだれでも、自らこの機会をつかむことができます。
ナジル人の四重の献身
世俗的な快楽と切り離される
「ぶどう酒や強い酒から自分を分離しなければならない.ぶどう酒の酢や強い酒の酢を飲まず、どのようなぶどう液も飲まず、もぎたてのぶどうも干しぶどうも食べてはならない。自分を分離している間中、ぶどうの木から生じるものは、種や皮でさえ何も食べてはならない」(民六・三―四)。予表の面から言えば、酒とぶどうに関係するすべてのものは、この世の快楽、世俗的な享受を象徴しています。わたしたちが真の祭司職を持つためには、地上のあらゆる快楽から分離されなければなりません。この世の享受から分離されることはとても難しいことです。なぜなら、全地は世俗的な享受の雰囲気で満ちているからです。多くの地的な享受や世俗的な娯楽の誘惑によって、わたしたちは真の祭司職を知ることが難しいのです。わたしたちがぶどうから作られたものを飲むだけで、わたしたちの祭司職は破壊されてしまいます。今日の堕落した状況の中で、主はこの絶対的にささげるという道における先駆者を必要としておられます。そのような献身において、いかなる保留もあるべきではありません。
自己の栄光から分離される
「その分離の誓願の間中、かみそりを頭に当ててはならない。彼は自分をエホバへと分離した日が満ちるまで、聖でなければならない.彼は頭の髪の毛を伸びるままにしておかなければならない」(五節)。頭をそらないことは、主の頭首権を拒絶しないで、絶対的に服従し(参照、Ⅰコリント十一・三、六、十、十五)、神が立てたすべての代理権威にも服従することを表徴します。コリント人への第一の手紙第十一章十四節は言います、「すなわち、もし男が長い髪をしているなら、それは彼にとって恥です」。長い髪は女にとっては栄光ですが、男にとっては恥です。ナジル人とは、主のために願って恥を耐え忍ぶ人です。長い髪を持つということは、自分の栄光から分離されることを意味します。自分自身はすでに死に置かれていますから、もはや自らの感覚もなく、自分の義も、自分の栄光もありません。わたしたちが少しでも自分の栄光を持とうとするなら、祭司職の中にいることはできません。わたしたちは主のための証しと彼の御旨のために恥を耐え忍ばなければなりません。栄光を求める者となるのではなく、恥を耐え忍ぶ者となる必要があります。もしわたしたちが祭司となることを願うのなら、恥を耐え忍び、あらゆる自分の栄光を拒否することを学ばなければなりません。
天然の感情から分離される
「彼は自分をエホバへと分離している間中、死人に近づいてはならない。父や母、兄弟や姉妹が死んだときにも、彼らのために自分を汚れたものとしてはならない.その頭には神への分離があるからである」(民六・六―七)。ナジル人の献身の第三の項目は、いかなる死のもので汚されてはならないということです。特に近親者の死によって汚されてはなりません。神の目から見て最も憎むべきものは死です。ナジル人は、汚されないように、いかなる死んだものにも触れてはならず、聖別の中で自分を清く保たなければなりません。わたしたちの最も近い親族とは、わたしたちの天然の感情を代表しており、わたしたちを殺すための道具となり得るのです。親や兄弟姉妹、あるいは配偶者の影響を受けず、天然の感情に打ち勝たなければなりません。わたしたちと神との間のことで、天然的な感情に縛られることがあってはなりません。そうでなければ、わたしたちはすぐに死んでしまいます。
霊的な死から分離される
「もし、だれかが突然、彼(ナジル人)のそばで死んで、その分離した頭を汚したなら」(九節)。親族の死だけでなく、どんな人の死もわたしたちに影響を及ぼします。もし、わたしたちが彼らに殺されたら、わたしたちの分離し聖別した日々はすべて無駄になってしまいます。わたしたちは天然の感情に打ち勝っているかもしれませんが、ある日、召会生活の中である一人の兄弟が突然死んでしまったなら(それは肉体的にではなく、霊的な死を指しています)、その兄弟の影響を受けないように注意する必要があります。彼に死をわたしたちに伝達させないようにする必要があります。
サタンは死の源であり、彼は常に死を人へと伝達しています。わたしたちは消極的なことに多く接触すればするほど、祈ることができなくなります。それらの消極的な話に耳を傾ける理由が百あったとしても、結局は死の中へと落ち込んでしまいます。このような死人から逃れるためには、霊的な死の臭いを感じたらすぐに、わたしたちは逃げなければなりません。
ナジル人になることについてのさらなる事柄
これは、分離の日が満ちた時のナジル人の規則である.彼は集会の天幕の入り口に連れて来られなければならない。そして、彼は自分のささげ物をエホバに献げなければならない」(十三―十四節前半)。古代、ナジル人の分離は七日間、続きました。聖書で七日は完全な行程、全生涯をさえ示します。ナジル人の七日の分離の満了の時、彼は集会の天幕の入り口に連れて来られ、自分のささげ物を神に献げなければなりませんでした。これらのささげ物はそれぞれキリストの予表でした。これらのささげ物としてのキリストを享受することは、天然の愛情、地的な楽しみ、反逆、死に打ち勝つことを示します。
全焼のささげ物としての傷のない一歳の雄の小羊一頭
ここの「傷のない」は欠点のないことを表徴し、「一歳」は新鮮なことを表徴し、「雄」は強いことを表徴し、「小羊」は柔和なことを表徴します。この全焼のささげ物としての小羊は、わたしたちの全焼のささげ物としてのキリストを予表し、それはわたしたちが彼の中で神に受け入れられ、彼によって神に生きるためです。わたしたちがキリストの中にあるとは、わたしたちが彼と一であることを意味します。まずわたしたちは彼の中にあり、次にわたしたちは彼によって神に生きます。ナジル人の分離の日の満了は終わりではなく、始まりを表徴します。この全焼のささげ物の生活の始まりは、神のために絶対的で、完全で、徹底的な生活の始まりです。わたしたちが全焼のささげ物を神にささげて、手をささげ物の上に置き、自分自身をささげ物と一にするとき、その時から、自分がまさしくこのささげ物のようになり、神のために絶対的な生活をすることを神に約束するということです。
罪のためのささげ物としての傷のない一歳の雌の小羊一頭
ここの「雌」は従順であることを表徴します。この雌の小羊はわたしたちの罪のためのささげ物としてのキリストを予表し、それはわたしたちが贖われるためです。わたしたちはナジル人の生活の初めに、贖いを必要とします。わたしたちが、キリストの中で完全にされている神の贖いを必要とするのは、わたしたちがどれほど良いとしても、まだ旧創造にあるからです。わたしたちは自分自身を神にささげて、彼のために絶対的に、徹底的に、完全に生きているとき、自分がまだ罪深いことを認識します。ですから、わたしたちの全焼のささげ物としてのキリストに符合するために、わたしたちの罪のためのささげ物としてのキリストを必要とするのです。
平安のささげ物としての傷のない雄羊一頭
ここの「雄羊」は享受のための強さを表徴します。この雄羊は、わたしたちの平安のささげ物としてのキリストを予表し、わたしたちに神との平安な交わり中でお互いに享受させます。キリストがわたしたちの平安のささげ物となることは、わたしたちと神が相互にキリストを享受し、キリストの中で交わりを持つことを意味します。この交わりはただ一度だけではなく、わたしたちの全生涯のためです。
パン種のないパン一かご、そして穀物のささげ物と注ぎのささげ物
最後に、ナジル人は、「パン種のないパン一かご、油を混ぜ合わせたきめの細かい小麦粉の輪型の平らなパン、油を塗ったパン種のない極薄のパン、これらの穀物のささげ物と注ぎのささげ物を」献げなければなりませんでした(十五節)。「一かご」は豊満を表徴し、「パン種のない」は罪のないことを表徴し、「パン」は形成されたことを表徴し、「きめの細かい」は均一で均衡がとれていることを表徴し、「小麦粉」は人性の中でひかれたキリストを表徴し、「油を混ぜ合わせた」は聖霊(神性)とミングリングされたことを表徴し、「極薄のパン」は食べやすいことを表徴し、「穀物のささげ物」は聖なる食物を表徴し、「注ぎのささげ物」は神のための聖なる飲み物を表徴します。このすべてが予表するのは、神とわたしたち両方への食物として、また神への聖なる飲み物として、わたしたちのために神にささげられた、神性を伴う人性の中のキリストです。
ナジル人は彼の分離の期間の終わりに彼の分離した頭をそる
「ナジル人は集会の天幕の入り口で、彼の分離した頭をそり、彼の分離した頭の髪の毛を取って、平安のささげ物の犠牲の下にある火の上に置かなければならない」(十八節)。すべての人(すべての男子)には神の御前で二つの身分があります。第一の身分は女の身分であり、神に服従し、服従のしるしとして長い髪を持ちます。第二の身分は男の身分であり、神を代行し、神の代行であるというしるしとして自分の頭をそりました。女の地位では、ナジル人は自分の誓願の間、髪を伸ばしたままにしました。次に、誓願の満了の時、彼は通常の男の地位を取り、自分の頭をそりました。ナジル人が彼の分離の期間の終わりに、自分の頭をそらなければならなかったことを見ます。これは、ナジル人が頭首権を捨て、彼の服従を放棄したことを意味するのではありません。ナジル人は全焼のささげ物をささげました。それは、彼が自分の全生涯において継続して彼が分離された日々において生活することを、神に約束することでした。
揺り動かすささげ物として揺り動かす
「祭司は煮えた雄羊の肩と、かごの中のパン種のない輪型の平らなパン一個と、パン種のない極薄のパン一個を取って、ナジル人が彼の分離した髪の毛をそった後、これらを彼の手の上に置かなければならない.そして、祭司はこれらを揺り動かすささげ物として、エホバの御前に揺り動かさなければならない。それは聖なるものであって、揺り動かすささげ物の胸と挙げるささげ物のももと共に、祭司のものとなる」(十九―二〇節前半)。「肩」は担う力を表徴し、「揺り動かす」ことは復活の中でささげることを表徴し、「胸」は抱擁する愛を表徴し、「揺り動かすささげ物」は復活を表徴し、「挙げるささげ物」は昇天を表徴します。ここの予表は、ナジル人となる誓願によって自分自身を分離し、神に仕える者となる信者を、キリストがご自身を命の供給としてさまざまな面で、彼の復活と昇天の中で供給することを意味します。今日、わたしたちが分離されて神に奉仕するには、わたしたちが彼の復活と昇天の中で神にささげるキリストを享受する必要があります。
ナジル人の原則を適用する
サムエルはナジル人の原則を適用したすばらしい模範です。彼は祭司であるだけでなく、士師でもありました。すべての士師は権威の路線にありました。ですから、彼は祭司職と、王職を持つ人でした。それに加えてサムエルは預言者でもありました。彼は王職をもたらすことで、その時代を王国の時代へと転換させました。
新約において、バプテスマのヨハネもまたナジル人でした。彼は旧約エコノミーを新約エコノミーへと転換させ、主イエス・キリストをもたらしました。バプテスマのヨハネは祭司ザカリヤの息子であり、任命された祭司でしたが、彼が機能した時はその出生に従ってではなく、ナジル人の原則に従って、特別な種類の祭司としてでした。
今日、新約の信者の中で、正しく祭司職が遂行されている状況があるでしょうか? 一方で、贖われた真のクリスチャンはみな、祭司と王となるために生まれました(啓一・六)。残念ながらほとんどのクリスチャンが祭司や王としての機能を果たせていません。ですから、わたしたちはナジル人の原則を適用しなければならないのです。わたしたちはナジル人の地位に立ち、自らを神にささげ、神へと聖別する必要があります。今の不正常な状況の中では、定めに従って神に仕えるという「正門」だけでは十分に対応することができません。わたしたちは、この自発的にささげるという「横の扉」を通して、自分自身を神へと分離するというナジル人の原則を適用しなければなりません。
この終わりの時代に、今の時代を別の時代に変える一群れの人たちがいなければなりません。主が望んでおられることは、自分自身を地的な享受、自己の栄光、天然の感情、他の人の突然の霊的な死から分離し、今日のナジル人となり、堕落した時代を王国の時代へと変え、栄光の王であるキリストの来臨をもたらすために、自発的にささげる人たちを得ることです。
記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第6期第5巻より引用