神が人と成ったのは、 人が神と成るためである

真理

エゼキエル書第1章26節は言います、「そして御座のようなものの上に、人のような外観の方がその上におられた」。
神の地上での目的は、人を得ることです。これは彼の願いです。最終的に、彼は自ら人となり、彼ご自身を人の中へと造り込まれました。神が選び贖われた人が、すべて神・人となることを神は喜ばれます。

  おお、何という奇せき、おく義!
    かみとひとが混ざり合う!
  かみがひとと成るは、
    ひとがかみとなるため;
  天使も世びとも知らぬことよ、
    はかり知れないかみのエコノミー、
  さい高のもくてき、
    かみ・ひとの混ざり合い。
    (詩歌、附五番、第一節)

創世記第一章は神の創造を記載しています。その中で、すべての生き物の創造は「その種類にしたがって」でした(十一節、十二節、二一節、二四節、二五節)。各種類の生き物には、それぞれの特性があり、他の種類のものとは違っています。ただ人が創造されたときだけ聖書の記載は、人が人の種類にしたがって造られたと言っていません。そうではなく、聖書は「われわれ(神)のかたちに、われわれの姿にしたがって、人を造ろう」(二六節)と言っています。この言葉を根拠にして、わたしたちは人が神の種類にしたがって造られたことを知ることができます。使徒パウロは、「このように、わたしたちは神の種族ですから」(使徒行伝第十七章二九節)と宣告しています。人はただ内側が神のかたちにしたがったのではなく、外側も神の姿にしたがって創造されました。聖書のこのような啓示によれば、人は神のかたちを持っており、人と神は同じ種類です。

神と人との間の関係は、奥義的です。この奥義は、神の人に対する思いの中に隠されています。創世記において、神は善良な性質を持つ人を造り、喜ばしい園の中へと置かれ、命の木と善悪知識の木の前に置かれました。神はアダムに命じて、善悪知識の木から食べないように言われました(第二章十七節)。なぜなら彼が食べれば必ず死んでしまうからです。これは神が人に命の木から食べて欲しかったのですが、人は失敗して、善悪知識の木から食べたことを示しています。ここで、わたしたちは見る必要がありますが、アダムが堕落しなかったとしても、彼は救われる必要がありました。なぜなら、人は神を命とする必要があるように造られたからであり、また救いが必要な状況の中にいるようにされたからです。神はアダムを創造されたとき、彼は罪がなく完全で、救いがまったく必要でないかのようでした。しかしアダムは堕落する前に、命の木を必要としました。アダムは堕落する前には罪がなく純潔でしたが、彼は命の木で表徴されている神を命とする必要がありました。

アダムの堕落は、人が救いへ向かう必要を増加させました。なぜなら、人が堕落した後、最も良い状況の下でも、ただ弱い良心が悪を捨てて善を取るだけだからです。人と神との関係はただ外側で畏れ、礼拝するだけです。またサタンも常にこの観念を用いて、人が神の救いを受けるのを阻止しようとします。旧約での記載によれば、ヨブは神を畏れ、神を礼拝し、自分の純潔さ、正直さ、完全さを力を尽くして建て上げようとしました。しかし、神はヨブからすべてを剥ぎ取られました。それは彼に、彼が必要なものが純潔さや、完全さではなく、また最高水準の道徳でもないことを見せるためでした。彼の唯一の必要は神ご自身でした。ヨブは神を受け入れ、神を享受するべきであって、自己によって神を喜ばせようとすべきではありませんでした。旧約の時代において、神は直接に人の中へと入ることができませんでした。しかし神がヨブにおいて行なわれたことは、間接的ですが、神が人の中へと入り人の命となるということを啓示しました。これは、神が人を創造するという最初の神の心の願いであり、これこそが神の大いなる喜びです。

エペソ人への手紙第一章九節は言っています、「みこころの奥義をわたしたちに知らせてくださいました.これは、神がご自身の中で計画された彼の大いなる喜びによるもので」。神の大いなる喜びとは、彼ご自身をわたしたちの中へと分与することです。これが神の唯一の願望、切望、渇望です。この大いなる喜びのために、神はご自身の中で、ある案配をあらかじめ定められました。すなわち彼のエコノミーです(十節)。神はご自身の中でこの願いをあらかじめ定められました。神は他の人や天使とは、このことを相談しませんでした。神のエコノミーとは、神の大いなる喜びにしたがって計画され、彼ご自身を彼が選ばれた人の中へと分与することです。

  受にくしたかみ・ひとは、
    わたしをかみとならせる;
  いのち、性しつおなじ、
    唯いつしんかくはなし;
  しんせいなとくしつはいまや、
    わたしのとくとしてあらわれる;
  えい光のみかたち、
    かみは表げんされる。
    (詩歌、附五番、第二節)

ヨハネによる福音書第一章一節十四節は言います、「初めに言があった.言は神と共にあった.言は神であった。……そして言は肉体と成って」。キリストは永遠の神です。彼は肉体と成り、地上で生活し、死に、復活し、昇天してまた下って来られました。神がキリストをこのような方とされた目的は何でしょうか? ヨハネは言います、「すべて彼を受け入れた者、すなわち、御名の中へと信じる者に、彼は神の子供たちとなる権威を与えられた.これらの人は……神から生まれたのである」(十二節―十三節)。また言います、「御子を持つ者は命を持っています.神の御子を持たない者は命を持っていません」(ヨハネの第一の手紙第五章十二節)。ペテロもまた言っています、「彼は……尊く、際立って偉大な約束を、わたしたちにすでに与えてくださっています.それは……あなたがたが……神聖な性質にあずかる者となるためです」(ペテロの第二の手紙第一章四節)。これらから見て、神が永遠から出て来られ、自ら人と成られたのは、人を命と性質において神とするためです。

神は過去の永遠において神であるだけでしたが、肉体と成ることにおいて人と成られました。人類歴史の中で、人の創造の後の四千年まで、神は決して人の中へと入って来ませんでした。彼は人の中へと生まれて、神を人の中へともたらしました。彼ご自身が人と成られたのは、人が神格においてではなく、命と性質において神となるためです。わたしたちは命と性質において「神に似た者になる」と言いますが、わたしたちは命と性質において「神になる」、と言えるほどの大胆さを持っているでしょうか? わたしたちは以上の聖書の箇所から、わたしたちは神から生まれたこと、神の子供たちであることを見ます。わたしたちは人から生まれました。ですからわたしたちは人です。同じように、わたしたちは神から生まれたなら、神の子供たちなのです。わたしたちは命と性質において(しかし神格においてではなく)、神ですと言うことができるだけでなく、そう言うべきです。

教父たちは、紀元一世紀から四世紀まで、「かみ」(defication)という真理を教えていました。彼らは、この神化とはキリストにある信者たちが、神格においてではなく、命と性質とにおいて神となることであると、はっきりと指摘しました。神化の意味は、キリストの中にある信者が神の命と神の性質において、それは神格においてではなく、神と成ったということです。彼は神格において民が礼拝すべき唯一の神ですが、わたしたちは神格においてではなく、命と性質とにおいて神なのです。今日、わたしたちは神・人です。わたしたちは人プラス何かの存在であるということを、他の人たちが感じることができなければなりません。彼らは具体的にわたしたちが何であるかを言い出すことはできないかもしれませんが、わたしたちが人以外の何かを持っていることを感じることができるでしょう。そしてわたしたちがキリストに関して何かを語る時、わたしたちが持っている何かとは、キリストご自身、すなわち神であることを、彼らはみな気づくでしょう。これが神・人であることの証しです。

イエスが地上におられたとき、神は神の属性の中で事を行なわれ、彼の美徳を現されました。彼の美徳の表現は、神が肉体において現されたことです(テモテへの第一の手紙第三章十五節―十六節)。この意味は、地上においてのある種の人の生活というのは人によるだけでなく、人の中の神によるということです。これは神の人の中での生活です。これはわたしたちクリスチャンの美徳を示すことです。クリスチャンの美徳は、神聖な属性の現れであり、また神が肉体において現されたものです。神がわたしたちの生活の中で生きておられ、わたしたちは、わたしたちの美徳としての彼の属性の中で彼となり、彼に表現を得させます。

  わたしは単どくでなく、
    いま、かみとともに生きる;
  かみときょうりょくして、
    宇宙のいえを建造する;
  キリストの有機てきなからだ、
    団たいのおおきなうつわとなり、
  さんいちのかみを、
    宇ちゅうにひょう現する。
    (詩歌、附五番、第三節)

キリストの人の生活は神の人の生活です。キリストの人の生活の中で、神聖な命と人に属する命がミングリングされました。彼が地上におられたときは、彼は人でした。しかし彼は神を生きられました。わたしたちクリスチャンは人ですが、同時にキリストを生き、神を生きる人でなければなりません。パウロはピリピ人への手紙第一章二一節で「なぜなら、わたしにとって生きることはキリストであり」と言っています。今日、わたしたちクリスチャンは、キリストをパースンとしている人たちです。わたしたちは、「キリストがわたしのパースンです」と言うべきです。わたしたちのクリスチャン生活の中で、わたしたち自身をパースンとするべきではありません。わたしたちが神聖な生活をするのではなく、キリストが人の生活をされるのです。わたしたちがキリストをパースンとして受け入れるとき、わたしたちは次のように言うことができます、「生きているのはもはやわたしではありません.キリストがわたしの中に生きておられるのです」(ガラテヤ人への手紙第二章二〇節前半)。これは、わたしたちが生きるのではなく、キリストが生きると言っているのです。キリストは神ですから、わたしたちは、人の生活をしている神であると言うことができます。

召会はキリストが団体的な人の生活をするということです。それはアメリカ人、中国人、日本人が神聖な生活をすることではありません。アメリカ人、中国人、日本人はみな十字架の上です。すべては十字架につけられてしまいました。ただ一人の人、キリストが生きているだけです。キリスト、まさに神が、ここにおいて人の生活を生きておられるのです。エペソ人への手紙第四章四節から六節ではっきりと示されています。それは全召会、キリストのからだは人がその枠組みであり、三一の神を源、要素、本質としてミングリングされたものです。三一の神は彼ご自身をわたしたちの中へと造り込み、わたしたちを彼の家(キリストと召会)とならせます。このキリストは神の家であり、わたしたちの家です。ですから、わたしたちと神は一つの相互の住まいを持ちます。キリストがわたしたちの中に住まわれます。わたしたちもまたキリストの中に住みます。彼とわたしたち、わたしたちと彼は、ミングリングされ、一つの実体となります。全宇宙は、三一の神と三部分から成る人がミングリングされ表現されるのを熱心に待ち望んでいます。これは彼の建造を通してですが、この建造は彼ご自身によって、彼ご自身を用いて、彼ご自身の中で、彼ご自身のためにあるものです。これはわたしたちみなが必要としているだけでなく、宇宙が必要としているものでもあります。

  最しゅうの新エルサレム、
    けい示、ビジョンのしゅうたい成、
  さんいちのーかみと
    三部分から成るひとは、
  混ざり合い、ともに住み合って、
    ふう婦としてえいえんにいたる;
  かみのえいこうは、
    ひとにてあらわれる。
    (詩歌、附五番、第四節)

啓示録は聖書の最後の一巻であり、全聖書のすべての啓示の終結であり、完成と総まとめです。わたしたちに一組の宇宙的な夫婦愛のストーリーを見せます。父、子、霊なる三一の神、すなわちその宇宙と万物を創造された主権者が、手順を経て肉体と成られ、人の生活を経験し、十字架に釘づけられ、死から復活し、昇天という種々の手順を経られて、最終的には命を与える霊と成られました。そして創造され、贖われ、再生され、造り変えられ、栄光化された霊、魂、体の三部分から成る人と結婚します。この一組の夫婦は団体的な人であり、それは聖なる都、新エルサレムです。

新エルサレム、この団体的な人は、その人性によれば、小羊(すなわち贖う神)の人性の妻(神聖な命と性質を持っている)です。この人性の妻は神聖なパースンと結婚することができます。なぜなら、彼女は神聖な命と性質を持っているからです。このことは彼女を資格づけて、彼女を贖う神にふさわしい者とします。

その神性によれば、新エルサレムは神の贖われた選びの民の神聖な夫であり、この贖う神がキリストの中で、人の命と性質を持ちます。妻は人であり、夫は神聖です。新エルサレムは、夫であり、また妻です。その人性によれば妻であり、その神聖によれば夫です。新エルサレムは一組の夫婦、すなわち妻と夫です。人としての妻は神聖なパースンと結婚することができます。なぜなら彼女は神聖なパースンの性質と命を持っているからです。しかし、神聖な夫として、新エルサレムもまた人の命と性質を持っています。これは宇宙的夫婦がその無限な永遠の世において、神聖で、永遠で、栄光なる命と、神・人がミングリングされ一つ霊となり、卓越した、祝福に満ちた生活を送ります。

新エルサレムはまた一つの建造です。この建造は神性と人性のミングリングです。啓示録第二一章三節は、新エルサレムは「神の幕屋」であると言います。二二節はまた、「主なる神、全能者と小羊が、その宮だからである」と言います。幕屋とはおもに神の民の人性での建造のことです。新エルサレムは神の幕屋です。それは神の住まいのためであり、それは神がわたしたちを彼の住まいとされることを言っています。また宮とはおもに、神性での建造のことです。神と小羊は宮であり、神が贖われた人の住まいとなります。それは神が彼ご自身をわたしたちに住まいとして与えられたことを言っています。神は人の幕屋の中に住まわれ、人は神聖な住まいの中で生きます。これは神性と人性のミングリングであり、人と神の相互の住まいとなります。

それだけではなく、新エルサレムの門は真珠で、門にはイスラエルの十二部族の名があり、十二の土台には、小羊の十二使徒の十二の名があります(十二節十四節)。これは、新エルサレムが三一の神と、彼が贖われた人から構成されていることをはっきりと示しています。新エルサレムは、人性と神性がミングリングされ、一つの実体となったものです。そのすべての構成要素は、同じ命、性質と構成を持つ、団体の人です。これは、神が人となったのは、人が命と性質において(しかし神格においてではなく)神と成るということです。この二者、神と人、人と神はミングリングされ、建造されます。これが神の建造の完成と総まとめです。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第1期第4巻より引用

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