神の信実と神の約束

真理

神は捕囚の下にいる預言者、エゼキエルに見せました、「その周り全体にある輝きの外観は、雨の日の雲の中にある虹の外観のようであった。これはエホバの栄光の姿の外観であった」(エゼキエル書第一章二八節)。
聖書において虹は約束を守る神の信実を表徴しています。そして神ご自身が信実です。この虹は必ずエゼキエルを強め、イスラエルの民が堕落し、神が彼らを裁かれたとしても、神は彼の約束を覚え、ノアと立てられた契約と同じように、再び彼らを顧みられることを認識させます。

信実な力ある神
創世記第一章一節、「初めに、神は天と地を創造された」。ここの神という言葉は、ヘブル語のエロヒムです。これは聖書で神を啓示するのに最初に用いられた神聖な称号です。その意味は信実また、大能なる方という意味です。

エロヒムの原文は二つの文字が合成されてできています。最初のものの意味は、力ある者の意味であり、第二には自らに誓いを立てるという意味です。力あるとは、神の大能を言っており、彼の無から有を創造する力に重点が置かれています。誓いを立てるとは、神が信実であることを言っており、信実とは保つことと維持することに重点が置かれています。彼はすべてのことを行ない、彼の言葉を守られます。

神の信実は神の言葉と関係があります。神の義は神の行為と関係があります。神の言葉と神の行為はいずれも人と関係があります。神の言葉のあるものは、神が人に恵みを与えることを言っており、あるものは神が人に責任を持たせることを言っています。また神が絶対に行ないたいときには、神は人と契約を結ばれます。

多くの人は、神が愛であり、恵みであることしか知りません。彼らは神が信実で義でもあることを見たことがありません。愛と恵みは神の「心」と神の「情」について語っています。神の「心」は愛であり、神の「情」とは恵みです。神の人に対する「心情」というのは、愛と恵みです。神の愛と恵みは甘いのですが、わたしたち愛され、恵みを受けた者たちに、これらのことに対して根拠や把握がありません。また神には彼の愛と恵みにおいて、わたしたちに対して何の責任もなく、制限される約束も持たれていません。しかし、神がわたしたちを愛し、わたしたちに恵みを与えたい、わたしたちに得させたいものを与えたいと思われたときには、神はわたしたちと契約を結ばれます。神のわたしたちへの愛と恵みはただ口先で言っているだけのものではありません。神が人と契約を立てられるのは、彼を低くし、約束を守ることで拘束され、制限されることです。そして法理上で、彼はわたしたちを愛し、恵みを与えなければなりません。神は彼の契約の中で、自由を失われます。

わたしたちは知る必要がありますが、契約自体から言えば、義を言っているのであって、恵みを言っているのではありません。神は人と契約を立てたので、神は契約により拘束を受け、神は契約に明文化されていることに従って行なわなければなりません。神の信実は彼に約束を守るようにさせます。神の信実は彼の言葉の信頼を失わせることはしません。神の信実は、彼に彼が言ったことにしたがって行なわせます。わたしたちが彼の信実を知るなら、彼の契約を必ず信じます。

神の信実は神の契約―約束―言葉―の保証である
「約束された方は信実である」(ヘブル人への手紙第十章二三節)。

神は信実です。ですから、神の約束の言葉は信実であり、信頼に足ります。神の信実は神の約束の保証です。

「神は信実です.……どれほど多くの神の約束があるとしても、『しかり』は彼の中にあるからです.それゆえにまた、彼を通して神への『アーメン』があり」(コリント人への第二の手紙第一章十八節二〇節)。

神の約束はすべてキリストの中で「しかり」であり、また「アーメン」です。なぜなら、約束される神は信実であるからです。神の信実は、神の約束がどれもむなしくないことを保証します。

「主よ、あなたが信実の中でダビデに誓われた、あなたが先に行なわれた慈愛はどこにあるのでしょうか?」(詩篇第八九篇四九節)。

人が誓うのは、重要な言葉を話すときに、人に信用してもらうためです。ですから、すべてにはその根拠となるものがあります。神が人に語られるとき、重要な話をされるときも、やはり誓われます。彼は人に誓われます。誓いは彼の信実に基づいており、彼の信実を保証とすることを指しています。神の信実は彼ご自身の上で建て上げられます。ですから、彼が誓われたことの根拠は、彼の永遠に変わることのない、永遠に信頼できるご自身を保証とされているということです。

「信実な神であって、彼を愛し、彼の戒めを守る者には契約を守り、慈愛を施して千代にまで及ぼされる」(申命記第七章九節)。

神は信実です。ですから、神はご自身の契約を守られます。神の信実はご自身に契約を守らせ、ご自身の言葉によって制限されるようにします。神の信実はご自身の契約の保証です。それは神が人と結んだ契約の言葉を決して放棄しないことを保証します。

契約は通常の言葉ではありません。それは約束よりもさらに一歩進んだ言葉です。保証がある言葉であってこそ契約とすることができます。聖書の中で神がわたしたちに語られた言葉はこのような言葉であって、通常のものではなく、保証されたものです。それが契約です。ですから、聖書は旧契約、新契約と呼ばれているのです。この契約での神の保証というのは、取り消されたり、変えられたりすることがない信実のことです。彼の信実は、彼を聖書の中の約束の言葉によって規制し、その言葉がみな信頼に値するものであることを保証します。

神は契約を通して人に彼のみこころを示される
神はなぜ、人と契約されるのでしょうか? 神がノアと立てられた契約は、わたしたちに次のことを告げます。それは神が最も行なうことが難しいことは、人に彼の心を理解させることです。ですから神は人と契約され、それによって人に彼の心を示されました。

ノアの時代、人類はひどい罪を犯しました。それは罪悪が満ちたので、神は洪水で彼らを滅ぼしたと言うことができます。しかし、神が人を絶滅させたとき、神はただノアの家族を顧みただけでなく、多くの生き物のことも顧みられました。ですからノアと契約を立てて言われました、「しかし、わたしはあなたと、わたしの契約を立てよう.あなたは、あなたの子たち、あなたの妻、あなたの子たちの妻と共に、箱船に入りなさい。また、すべての生き物……鳥……家畜……地のすべての這うものをその種類にしたがって、それぞれ二つずつをあなたの所に連れて来て、生き残るようにしなさい。あなたは、食べることのできるすべての食物を取って、自分の所に集めなさい.それはあなたとそれらの動物の食物となる」(創世記第六章十八節―二一節)。この契約は、わたしたちに、神の人に対する心が愛に満ちていて、また非常に細やかなことを見せています。

洪水が地に氾濫した後に、ただノアの家族とノアが家畜や、鳥などを伴って箱船に入り残されました。神は彼の契約を実行されました。しかし、ノアの家族の八人は、箱船の中に一年間、閉じ込められ、彼らが見て、聞いたものは果てしない水と、押し寄せる大波の音だけでした。洪水が引いた後に、家族八人は、箱船からは出ましたが、恐れや、心配は消え去ることはありませんでした。神が再び、洪水で人類を滅ぼされるのかどうかわからず、彼らがまたこのような恐ろしい災害に見舞われるのかどうかもわかりませんでした。彼らは救われたのですが、彼らの心にはまだ恐れがありました。神は人のこの印象を変えるため、彼のみこころは人を喜んで滅ぼすことはないことを人に見せようとされました。神は彼らを慰め、彼の意図を明らかにされようと、特別に、彼らに一つの証拠となるものとして、彼らと契約を立てられたのです。

「それから、神はノアと彼と共にいる息子たちに語って言われた、わたしは、あなたがたとわたしの契約を立てる.すべての肉なるものは、洪水の水によって断たれることはもはや決してなく、洪水が地を滅ぼすことはもはや決してない。……わたしは雲の中に、わたしの虹を置いた.それは、わたしと地との間の契約のしるしとなる。わたしが地の上に雲をもたらすとき、虹が雲の中に見られる.水は、……すべての肉なるものを滅ぼす洪水とは、もはや決してならない。虹が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て、……これが、わたしと地上にいるすべての肉なるものとの間に立てた契約のしるしである」(創世記第九章八節、十一節、十三節―十七節)。

この契約の中で、神は、洪水は再びないこと、虹が雲の中にあることを繰り返して言われます。これは、ノアの家族を恐れさせることなく、彼らがこの契約の中の言葉を取り、この契約において安息するためです。これから見ることができるように、契約の使われ方というのはここにあります。神は人に対して好意をもたれますが、人にはそれが理解できません。ですから神は人に契約を与えて、それを把握できるようにさせます。神は人に契約を与えられ、神の意図がどのようなものかを明らかにされます。神が彼の心の内側を人に開いて見せられるかのようです。そうして人は彼の心を知ることができます。

神は根拠として契約を人に与える
サムエル記下第七章十二節から十六節の中で、神は預言者ナタンを通してダビデに対して言われました、「……わたしはあなたの身から出るあなたの子孫をあなたの後に起こし、彼の王国を堅く立てる。……わたしは彼の王国の座を永遠に堅く立てる。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。もし彼が罪科を犯すなら、わたしは人の杖をもって、また人の子のむちをもって彼を討つ.しかし、わたしの慈愛は彼から離れることはない.……あなたの家とあなたの王国はあなたの前で永遠に堅くされ、あなたの座は永遠に堅く立てられる」。神はここで、彼の言葉をダビデとダビデの子孫に契約を立てる根拠とされます。

しかしユダヤは国を失いました。民がバビロンへと捕らえられたとき、神はダビデと立てられた契約を忘れられたかのようでした。詩篇の作者は、この国の滅亡の状況を見て、神がかつて言われたことを持ち出して言いました、

「もし、彼の子たちがわたしの律法を捨て、……わたしの戒めを守らないなら、わたしは杖をもって彼らの違反を罰し、むちをもって彼らの罪科を罰する。しかし、わたしの慈愛を、彼から完全に取り去ることはなく、わたしの信実を偽らない。……かつて、わたしはわたしの聖によって誓った.わたしはダビデに偽りを言わない。彼の子孫は永遠に続き……」(詩篇第八九篇三〇節―三三節、三五節―三六節)。

詩篇の作者は、この契約を取り出して神に尋ねて言いました、「主よ、あなたが信実の中でダビデに誓われた、あなたが先に行なわれた慈愛はどこにあるのでしょうか?」(四九節)。聖霊が、詩篇の作者にこのように神に尋ねさせ、神への質問の祈りを書き出すまでに至ったようです。すなわち、神は人が、神が人に与えた証拠である契約を用いて祈ることを喜ばれることを表しています。彼は契約を証拠として人に与えられました。すなわち、人が彼に行なうことを要求することを望んでおられます。作者は神の信実を認識していました。ですから、この契約を取り出して祈りました。このように行なうことは、神に罪を得ることではなく、かえって神に栄光を得させます。神は、人が契約にしたがって、彼に近づき、彼に祈り、彼に尋ねるまでになることを喜ばれます。契約の中で約束したすべてのことを神が行なうように人が要求することを神は喜ばれます。

神の信実を堅く立てる
「わたしは言いました、慈愛は永遠に建てられ、天であなたはご自身の信実を堅く立てられます。
……彼の座はわたしの前に太陽のようになる.それは月のように、永遠に堅く立てられる.大空の証しは確実である」(詩篇第八九篇二節、三六節―三七節)。

詩篇第八九篇は、神とダビデが契約を立てたとき、神の慈愛と神の信実を一緒にして語りました。神はダビデに対して慈愛を持っておられました。この慈愛は神からダビデに恵みを与えさせました。そして神の信実が彼の慈愛の保証であり、ダビデと彼の子孫にその証拠と、把握を与え、神の慈愛は頼ることのできる、変わることのないものであるということを認識させ、信じさせました。神のこの信実は天に堅く立てられ、太陽と月が永遠に堅く立てられているように、地上のいかなるものもそれに触れ、変えることができません。ですからそれは非常に堅く、その堅さは超越したものです。

神は信実を偽らない
「しかし……わたしの信実を偽らない。わたしは、
わたしの契約を犯さず、わたしの唇から出たことを変えない」(詩篇第八九篇三三節―三四節)。

神の信実は天において堅く立てられていて、神は彼の信実を偽りません。ですから神は約束を破ることはなく、彼が人と立てた契約を破棄することもありません。彼は人に対して語ったことを変えることはできません。

「それでは、もしある者が信じなかったとしたら、どうなのですか? 彼らの不信仰は、神の信実を無効にするのでしょうか? 絶対にそうではありません!」(ローマ人への手紙第三章三節―四節)。

神の信実は、わたしたちの影響を受けるものではありません。わたしたちが信じなくても、神の信実は破棄されず、また神が不信実になることもありません。わたしたちがどうであっても、神は永遠に信実です。

「わたしたちが不信実であっても、彼はなおも信実である.彼はご自身を否むことができないからである」(テモテへの第二の手紙第二章十三節)。

神の信実は、神ご自身にあって建て上げられます。神ご自身は、神の信実の後ろ盾です。神の信実は、このゆえに堅く立ち、不変です。なぜなら神ご自身が変わることがないからです。すなわち、わたしたちの信実は、わたしたち自身に託されています。わたしたちが失われれば、わたしたちの信実も失われます。しかし神ご自身は永遠に失われることはなく、永遠に変わることはありません。ですから彼の信実は永遠に信頼できます。わたしたちが信実を失うことは何でもありません。彼はそれでも信実です。なぜなら神はご自身を否むことはしないからです。彼は変わることはなく、彼の信実はまた堅く立ち、変わることはありません。

神の信実は信者たちの食物である
「エホバに信頼して、善を行ないなさい。地に住んで、彼の信実を糧としなさい」(詩篇第三七篇三節)。

食物は人々を満たし、満足させ、強めます。神の信実は、神の信実に基づいている神の言葉を信じる者たちに対して食物として機能します。もしわたしたちが神の信実のゆえに神を信じ、神の言葉を把握するなら、わたしたちは満たされ、満足し、強められるでしょう。

神の言葉を信じないことは神の信実に背くことである
「神を信じない者は、神を偽り者としています。なぜなら、彼は、神が彼の御子について証ししておられる証しを、信じなかったからです」(ヨハネへの第一の手紙第五章十節)。

わたしたちは神を信じ、また神の言葉を信じます。もしわたしたちが聖書の中で神が語られた言葉を信じないなら、わたしたちは神を偽り者とし、神の信実に背くことになります。これは神に対する最も大きな違犯です。わたしたちがだれかに語った言葉が真実であっても、その人が信じないなら、これはわたしたちに対する侮辱であり、わたしたちの気分を害します。同じように、もしわたしたちが神の言葉を信じないなら、これは神に対する侮辱であり、神に対する違犯です。ですから、わたしたちは神の言葉を信じないことによって、神の信実に背くことがないように気をつけなければなりません。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第1期第4巻より引用

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