御座に座す方は人である

真理

エゼキエル書第一章二六節は言います、「また、彼らの頭の上にある大空の上に御座のようなものがあり、サファイア石の外観のようであった.そして御座のようなものの上に、人のような外観の方がその上におられた」。エゼキエルは澄み渡った空の上に御座があるビジョンを見ました。その御座に座っている方は人のような外観を持っておられました。わたしたちのほとんどの人は、御座におられる方は神であるべきだと思っていますが、エゼキエルが見たのは一人の人でした!

人は神のエコノミーを成就して、神の心の願いを完成する
人は神の創造における中心的な目標であり、神のエコノミーを成就して、神の心の願いを完成します。聖書の中で三箇所の御言が、人に関して同じ事を語っています。それは創世記第一章、詩篇第八篇、ヘブル人への手紙第二章です。創世記第一章は、人は創造されたすべてのものを支配する権威を託されたと言います(二六節、二八節)。詩篇第八篇はこれを繰り返しています。そしてヘブル人への手紙第二章六節から八節で、パウロは詩篇第八篇を引用しています。この三箇所の御言は、人が三つの段階にあったことを見せています。すなわち、人は創世記第一章で創造され、詩篇第八篇で堕落し、ヘブル人への手紙第二章で贖われました。人はアダムにあって、堕落した状態にあってあわれですが、今日、人はキリストにあってあわれではありません。人はキリストにあってすばらしいのです。

創造において、神は人が神のかたちをもって彼を表現するように定められました。人は神のかたちに造られました。それは、彼が神を表現することができるためでした(創世記第一章二六節―二八節)。神は人を創造した後、彼の権威を人に託され、こうして彼に権威を与えて、神を代行する者とされました。ですから、創造の時、人は二つのこと、すなわち、神を表現することと、彼を代行することを定められました。しかしながら、創造における人は、神に対して失敗しました。人はサタンに毒され、堕落しました。ですから、創造における人は破壊を受け、神の目的に到達できなくなりました。これは何とあわれな状況でしょうか。しかし、詩篇第八篇を見るなら、それはとても望みに満ちたものとなります。詩篇の作者は神に感動させられて、アダムの中で失われたものの回復を予言しました。彼は創世記第一章の言葉を繰り返して、人が失った定めは回復されると予言しました。ですから、詩篇第八篇は、創世記第一章で失った定めの回復です。詩篇第八篇で予言されている人は、主イエスです。

詩篇第八篇の予言は、神は御使いよりも低い人に、栄光と誉れを冠としてかぶらせられたと言います。これは、人なるイエスが天に昇られるまで、どの人によっても成就されませんでした。ですから、この予言は人としての主に関するものであり、彼において成就されています。ヘブル人への手紙第二章六節から九節は、詩篇第八篇の予言の成就です。それは、この成就における人はイエスであると告げています。イエスは第二の人です(コリント人への第一の手紙第十五章四七節)。第一の人は神の目的に到達することができず失敗しましたが、第二の人は成功しました。創世記第一章で、神の創造における人は、神の永遠の定められた御旨のためにありました。しかしその人は神の目標には到達できませんでした。そして詩篇第八篇は、人が失った定めを、もう一人の人が回復することを予言しました。この第二の人がいなければ、わたしたちも、人に与えられた定めも、失われたままです。しかしわたしたちには、人が失った定めを回復し、また神の本来の目的を成就された第二の人がいます。

この第二の人は、ヘブル人への手紙第二章でわたしたちに提示されています。キリストが昇天において栄光と誉れを冠として与えられた後、神は彼を高く上げて、万物に対する統治権を与えられました(七節)。これは、神がアダムになされたことに似ています。アダムは、神が彼に与えられた統治権を失いました。しかし、詩篇第八篇の予言によれば、キリストはアダムが失ったものを回復されました。今や、同じ統治権が第二の人に与えられました。あなたがいるのは第一の人の中でしょうか、それとも第二の人の中でしょうか? わたしたちはみな、「わたしたちは第一の人の中に生まれましたが、第二の人の中で再び生まれました」と答えなければなりません。わたしたちは第一の人の中に生まれ、彼と共にすべてのものを失いました。しかし、第二の人の中で再び生まれた以上、わたしたちはすべてのものを再び得ました。第二の人は栄光化され、栄光と誉れを冠として与えられ、第一の人が失った神聖な統治権を委託されました。

死んで復活された人なるイエスが御座に着く
人なるイエスは、詩篇第八篇の予言の成就では、死の苦しみのゆえに、御使いたちより少し劣ったものとされました(ヘブル人への手紙第二章九節)。死の苦しみ受けて贖いを完成した後、イエスは彼の復活において栄光を得(ルカによる福音書第二四章二六節)、彼の昇天において栄光と誉れを冠として与えられました(ヘブル人への手紙第二章九節)。主イエスは神の子と人の子の両方ですが、彼が栄光と誉れを冠として与えられたという事柄に来る時、わたしたちは彼の人性に、彼が人の子であることに、特別な注意を払わなければなりません。ヘブル人への手紙第一章で、彼は神です。第二章で、彼は人です。第二章に来るとき、彼の人性に全き注意を払わなければなりません。彼は人性において、栄光と誉れを冠として与えられています。彼はまた人として彼の昇天において、冠を与えられました。これはとても大いなる事です。一面において、彼は神ですから、最初から主でした。もう一面で、彼の人性の中で、彼は万物の主として冠を与えられました。

ですから主ご自身も、「復興において、人の子が彼の栄光の座に着く時……」(マタイによる福音書第十九章二八節)と言われました。主はご自身を人であると言われたのには、二つの意味があります。第一は、人はもともと主のような外観を持っていたということです。なぜなら人は彼のかたちにしたがって造られたからです。ですから御座の上の方は人の外観を持っていました。第二に、彼はあるとき人となり、人を着られ、死んで復活されて、人を天へともたらされました。彼は今も天においても人であり(ヨハネによる福音書第六章六二節使徒行伝第七章五六節)、やはり人性を持っておられます。これは聖書の中にある非常に奥義的な思想です。

使徒行伝第二章三六節は、人なるイエスが主とされたと言っています。キリストに主として二つの面があります。一つの面は、キリストは神であり、創造される方でした。ですから、彼は人と成る前に主でした。もう一つの面は、彼が人としてこの地に生まれ、イエスと呼ばれたことです。このナザレ人が復活し昇天したとき、神によって立てられ主とされました。神として、キリストはすでに主でしたが、人として彼は主とされる必要がありました。ですから、イエスが昇天した後に、神は彼を主として立てられました。今や主は、神であるだけでなく、また人、人なるイエスです。これらの言葉は、反対していたユダヤ人に対して語られたものです。彼らはイエスを十字架につけた人たちです。彼らはイエスを十字架につけて殺しましたが、神はイエスを死人の中から復活させ、御座に着かせ、全宇宙に向かって彼(その人なるイエス)が主であることを告げ知らせました。今日、一人の人が御座に着かれていますが、彼は主です。

ピリピ人への手紙第二章六節から十一節でパウロは、主イエスが十字架上で従順を現された後、神は彼を高く引き上げ、御座に着かせたと言っています。彼は御座において、権威の代表です。ですから主は復活された後で弟子たちに言われました、「天においても地においても、いっさいの権威がわたしに与えられている。だから、行って、すべての諸国民を弟子とし、父と子と聖霊の名の中へと彼らをバプテスマして」(マタイによる福音書第二八章十八節―十九節)。主イエスは現在、御座におられます。彼は十字架で最も卑しき者の代表であり、御座では最も高き者の代表です。彼は御座において、いっさいの権威を与えられました。またこのいっさいの権威は彼の御名の中にありました。

主が復活されたとき、神は彼に万物の名を超越した名、「イエスの名」、すべてにまさる名を与えられました。マタイによる福音書第一章では、「イエス」という名であり、ピリピ人への手紙第二章では、「イエスの御名」と言われています(十節)。この二つは異なる領域のものです。主が復活された後、彼の名は高く上げられ、すべての名を超越しました。天にあるもの、地上にあるもの、地下にあるものが、イエスの御名の中で、すべてひざをかがめるためであり、そしてあらゆる舌がイエス・キリストは主であると公に言い表します。

神の目的はただ一人の人が御座に着いている
のではなく、
多くの人と共に御座に着くことである
今日、神の目的は一人が御座にいるだけではなく、多くの人と共に御座に着くことです。啓示録第十二章では女が男の子を生みます。その男の子は召会の中の勝利者を指しています。その男の子は召会の中の一部の人であり、彼らは勝利者です。五節は言います、「彼女の子供は、神に、神の御座に携え上げられた」。彼らは御座に携え上げられました。そこにはすでに一人の人がおられました。召会の頭がすでに御座におられました。神の目的は一人の人が御座にいるだけでなく、多くの人が共に御座に座し、多くの人が権威を持つことです。神はキリストと召会とが共に神の目的を成し遂げることを願われますが、召会の多くの人たちは、そのとき御座へ行くことができません。ただ一群れの少数の人たち、勝利者と呼ばれる人たちだけが神の御座へと行くことができます。

第十一章十五節は、「第七の御使いがラッパを吹いた.すると、天に大声があって言った、「世の王国は、わたしたちの主と彼のキリストの王国となった.彼は永遠にわたって王として支配される」。第十一章十五節の実現は第十二章十節です。この節は言います、「またわたしは、天で大きな声がこう言うのを聞いた、『今、わたしたちの神の救いと力と王国と、彼のキリストの権威とが来た』」。成し遂げられる際にかぎとなるのは、男の子の携え上げです。第十二章五節で、男の子が携え上げられ、天で戦いがあり、サタンが投げ落とされました。サタンが投げ落とされた結果、わたしたちの主と彼のキリストの王国が来ました。勝利者の携え上げは、サタンを投げ落とし、神の王国をもたらします。勝利者の働きとは、神の王国をもたらすためのものです。主の働きはすでに成し遂げられ、主は御座に着かれました。勝利者たちもまた神の御座へと携え上げられ、このことを成し遂げました。

勝利者は王国の時代に主と共に御座に着く
第三章二一節での、主のラオデキヤに在る召会の勝利者たちに対する約束は、「勝利を得る者を、わたしと共にわたしの座に着かせよう.それは、わたしが勝利を得て、わたしの父と共に彼の御座に着いたのと同じである」でした。わたしたちが、もし勝利を得るなら、主と共に栄光と王国を得ます。ここでわたしたちは御座には二つあることを見ます。今、主イエスのおられる御座は、御父の御座であり、天にあって、人には見ることができません。主は、人がこの御座に共に着くということを約束されたのではありません。主の将来の御座というのは、人が見ることができる、ダビデの座、メシアとしての主の御座です。この御座は、千年王国においては、エルサレムにあります(エゼキエル書第四三章七節、ルカによる福音書第一章三二節)。勝利者は主と共にこの御座に着きます。新エルサレムにおいては、御子と御父の御座はもはや分けられていません。それが、「神と小羊の御座」です(啓示録第二二章一節三節)。

啓示録の最初で、ヨハネは主イエスが人のような外観を持っておられることを見ました。彼は人の子の資格で御座を得ました。この御座は彼と、彼に贖われた人々が共にその上に座ることができるものです。これは将来のことです。この日が来る前に、彼らは主のために戦い、戦場では力を出して勝利を得る必要があります。それは主が勝利を得られたのと同じようにです。

今はまだ、キリストの王国の時代ではありません。主イエスが栄光の中で来られ、王国を設立されるとき、勝利者はキリストと共に王となります。現在は聖徒たちが勝利を得る時です。神は今、御子と共に王となる者たちを準備しておられます。主は、主と共に王となる信者を召し出されています。今は、ただ勝利し、栄光に入る必要があるだけです。栄光の御座は、主がラオデキヤに在る召会において、救われてはいますが後退している聖徒たちに与えた、最も良い励ましです。

第二〇章四節は言います、「わたしはまた、いくつかの座を見た.そして人々がそれらに座しており、裁く権威が彼らに与えられた」。ここでの「彼らに」とは、勝利者を指しています。このとき、彼らはすでに御座に座しており、裁く権利が彼らに与えられていました。裁く権利が与えられていたということは、王国を得ていたということを意味しています(参考 ダニエル書第七章十節、十八節、二二節)。啓示録第二〇章六節はまた言います、勝利者は「神とキリストの祭司であり、千年の間、彼と共に王として支配する」。千年王国の中で、勝利者は一面では祭司となり、神とキリストに近づき、また一面では王となり、キリストと共に王として諸国を支配しなければなりません(二章二六節―二七節第十二章五節)。彼らが祭司なることは、神とキリストに彼らの奉仕を享受させ、満足させることです。彼らが王となることは、神の主権のため、神を代行し人を牧養し、人に享受させ、満足させることです。これが彼らに与えられる褒賞です。現在の時代で失敗する信者は、この褒賞を失います。しかし彼らは千年王国の中で、主の対処を受けた後、新天新地の中でこの褒賞の祝福にあずかります(第二二章三節―五節)。

神が救われた人が永遠の世において王となる
最後の第二二章五節は言います、「彼らは永遠にわたって王として支配する」。永遠にわたって王として支配するとは、神が贖われた人の永遠においての最終的な祝福、すなわちわたしたちが新天新地の中で永遠に享受する祝福の一つです。

神の子供たちは、「御座のようなものの上に、人のような外観の方がその上におられた」(エゼキエル書第一章二六節)ことを知っているべきです。一面において神は、ご自身を人の中へとミングリングし、神を人のような外観を持つ方とします。もう一面において、神は人を神と同じようにされます。詩篇九〇篇ではモーセは神の人と呼ばれています。神はすべての人が彼に属し、地上のすべての人が神・人であることを好まれます。しかし同時にわたしたちは、わたしたちが礼拝する神もまた「人・神」であると言うことができます。エゼキエル書は、御座におられる方は全能の神のようであるとは言わず、人のような外観の方が御座におられたと言います。天におられる神、御座におられる方は人のような方でした。極めて栄光なる方ですが、しかし人のようでした。これは甘く麗しい思想であり、また神の永遠の心の意図を言い現しています。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第1期第4巻より引用

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